MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE 国産ミステリ・レビュー
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


10/05/10
倉阪鬼一郎「薔薇の家、晩夏の夢」(東京創元社'10)

 倉阪鬼一郎氏のノンシリーズ長編。薔薇と暗号に満ちた「幻想的ミステリ」というのが帯のことば。創元クライム・クラブの一冊としての刊行となる。

 「薔薇の花束抱いて/茉莉が来るぞ/赤い珠獲りに/茉莉が来るぞ」――その地方だけに伝わる作者不詳の不気味な童謡。無数の薔薇が生い茂る丘の上に建つ二軒の家。著名な画家風丘信太郎の二人の息子、翻訳家の冬彦と薔薇作りの名手・夏彦の兄弟が住んでいる。冬彦の娘のミコは、双子の弟のマコと共に、赤いランドセルを背負って夏彦伯父さんの家にしばしば遊びに行っていた。伯父はミコに「宿題」と称する暗号文を出し、ミコもまたその謎を解くことを楽しみにしている。しかしその夏、伯父は体調を崩してしまい、身体が弱りついに死んでしまう。生まれて初めてしる「死」の概念。これを知ってから、パパ(夏彦)やミコの世界は変容してしまう――。変わらないのは、微笑み続け、静かにパパとミコらを見守ってくれるママ・ひとみだけ。伯父の残した最後の「宿題」。これには彼らの罪が最後に告白されていたのだが……。

薔薇づくしにして暗号づくし。暴走しない静謐なままの妄想が静かにイメージを膨らませる
 もしかすると、倉阪氏の幻想系の作品のなかではかなり上位に来る作品になるのではないだろうか。というのも、幻想系の倉阪作品はどこか(大抵は後半に)幻想が走りすぎて読者をおいて暴走気味のところが出てきてしまうことが多い。作者の迸るイマジネーションの発露ゆえ、否定したもんではないのだが。一方、本書に関しては最初から最後まで非常に抑制のきいた静かな筆致で描写されている。 もちろんカタルシスめいたところもあるのだけれども、その部分でも筆を逸らせていないため、むしろ情景として印象に残るようになっている。結果、作品全体のイメージが深く心に残るのだ。
 また、幻想ミステリ、のミステリ部分。これまで倉阪氏の同系統の作品を読まれてきた方ならば、注意するであろう点、このアラートに結構ひっかかるものがある(つまり、ファンにとっては特に難解なものではないということ)。そして、多数登場する暗号については、自ら挑戦するではなく作者の種明かしに任せたが、丁寧に緻密に計算された記述内容からは、勘の良い読者であれば、幾つかの事柄(ミステリ的な種明かしに相当する事柄)を類推することも可能であろう。
 そして、もう一つ。幻想ミステリ、の幻想部分。むしろミステリが解体された後に浮かび上がるこちらの情景が印象深い。 薔薇と暗号。本人も言及する中井英夫みたいな組み合わせの影響もありそうだが、その二つだけでイマジネーションを膨らませつつ、過去の罪であるとか秘密であるとか暗号や絵を使ってをじわりじわりと表出させていく。熟練した手業といった印象。そして、夏の終わりらしい、暑苦しく陰鬱なあの季節特有のイメージもまたうまくこの丘の上での情景と絡まっているようにみえる。倉阪作品で、これほどまでに全体の情景に言及させる作品というのはあまり記憶にない。 狂気であり、妄想の表現方法が一段階ステップアップしているというと褒めすぎだろうか。

 バカミス系統や純粋ホラー系統に比べると、こういった倉阪氏の幻想系の作品は、本来の氏デビューの地点からまっすぐ続く道(?)であるにもかかわらず、カルト的評価しか得られていないようにも思う。マニアックな読者からは常に喝采を浴びているのだが、作者もそれだけというのは本意ではないはず。その意味では幻想を壊さない程度に、うっすらと別要素(一種バカミス?)が加味されている本作などはその入口としても最適だと思うのだが、いかがでしょうか。


10/05/09
赤川次郎「冬の旅人」(角川文庫'86)

 元版は大和書房より'81年に刊行されている。表題作は『なごみ』という雑誌に昭和55年から翌年にかけて連載されていた作品。昭和56年に発表されたノンシリーズの二作品を挟み、最後に収録されている短編は「三毛猫ホームズの水泳教室」という題名通り、三毛猫ホームズものでありながら、ゲストとして永井夕子がサブの探偵役として共演しているところが特徴だ。『ミステリ・マガジン』昭和55年4月号にて発表された。

 シューベルトの発表した有名な歌曲〈冬の旅〉を歌うために日本にやって来たドイツの国際的バリトン歌手、ディートリッヒ・F=D。冬の旅を歌うと死人が出るという謎の電話がホテルに掛かってきたのだが、その言葉通り、翌日のコンサートを終えた彼の前に中年男の死体が待ち構えていた。日本の警察から探偵役を期待された歌手だったが、事件が解決する前に次の殺人事件が……。 『冬の旅人』
 家から家具からが通常の人間の倍のサイズで建造されている通称「倍々ハウス」に住む資産家の老人。彼の親族が集められた夜、老人は殺される。限定的状況なのだが、なかなか犯人は捕まらない……。 『巨人の家』
 失敗ばかりで自宅待機を命ぜられた捜査一課の刑事を夫にもった妻。夫に自信をつけてもらおうと、妻は近所でトラブルを抱えている家に眼を付け、その家で事件が起きるよう画策を始めるが……。 『本末顛倒殺人事件』
 三毛猫ホームズの飼い主の片山刑事のもとへ、旧友から連絡が入る。スイミング・クラブに勤める汐見が、職場に変死体があるという。汐見の恋人で、水泳選手の女子大生に営業時間終了後のプールを使わせていたといい、死体は飛び込みに失敗したかのように見えた。そこに現れたのが同じく女子大生・永井夕子。彼女は死体が他殺であると指摘する。 『三毛猫ホームズの水泳教室』 以上中編四編。

出来に多少のバラツキあれど、ベストセラー作家ならではの仕上がり。
 今でももちろんそうではあるが、この作品が刊行され、続いて文庫が発表された時期の「赤川次郎」といえば、知らぬ人のいないほどの人気ベストセラー作家であった。ただ、どれもが凄いというわけではなく、この当時比類なかった軽妙な作風が人口に膾炙したということではないかと思う。
 その点、本書などは作風は赤川風で揃うものの、ミステリとしての出来はバラバラだった。
 正直、表題作『冬の旅人』についてはそれほど感慨がない。シューベルトの歌曲「冬の旅人」とそれにまつわる殺人事件、という触れ込みながら、事件にしても全体テーマにしても統一感が感じられずバラツキが大きい印象だ。そもそもの脅迫、続いての殺人事件といったところが、特に真相が明らかになってからの関係性が悪く、またバリトン歌手が名探偵という特異な設定もあまり生きているようにみえない。ヒロインは赤川次郎的でそれなりに魅力はあるものの、他作品に比べて抜けて「いい女」というほどの印象もない。全体として赤川次郎らしいノリで最初から最後まで読ませるものの「あ、さすが、うまい」と思わせないところがかえって珍しいか。
 もう一つ本書の目玉になるのが、三毛猫ホームズと永井夕子の共演ということが売りの『三毛猫ホームズの水泳教室』、これも両者共演という設定の華やかさに対して、事件の方はミステリとして今ひとつ。 語り手による作為に多少は”らしさ”があるものの、トリックとシチュエーションが真相としては無理目の印象だ。
 しかし残り二作『巨人の家』『本末転倒殺人事件』は、それぞれ本格、そしてサスペンスとして小品ながらよくできた佳作。 通常より規格の大きい家具や装飾で埋められた家、その当主が殺害されるが犯人が不明……。犯人当てにしても意地が悪く、真相が明らかになった後にまた別の感慨が出てくるのが赤川流。さらに『本末転倒殺人事件』は、別に四字熟語関係のあの刑事が出てくる訳ではないのだが、作中の刑事の妻の企みと心情が非常に赤裸々に描かれており、独特の背徳感で読者を引き込んでくれる。 さらにこういうオチに至るというか、やっちゃうのもまたシニカル赤川次郎として納得。物語展開の巧さが光る作品でした。

 赤川次郎の作品が何となく読みたくなって手元にあった作品集を読んでみただけで、本書を選択したこと自体に深い意味はありません。しかし四作あればきちんと半分は小生のようなひねくれた読者をも楽しませてくれるところ、流石、赤川全盛期といった感。小生評価の低い二作品も、読み方を変えれば(トリックとか気にしない人なら)面白く読める方もいるはずで、小生のみの評価で遠ざけられたりしませんようお願いします。


10/05/08
恒川光太郎「南の子供が夜いくところ」(角川書店'10)

 冒頭の表題作のみ『サントリークォータリー』(サントリーのPR誌、現在休刊)二〇〇八年四月号に発表された。その後発表の場所を『野性時代』に移し、『十字路のピンクの廟』を二〇〇八年九月号に、数ヶ月おきにシリーズが掲載され『夜の果樹園』が二〇一〇年一月号に掲載され、順を入れ替えられて単行本化されている。

 借金が嵩み、一家心中まで追い込まれた親子は最後の楽しみだと海水浴場を訪れていた。そこで知り合ったアイスクリーム販売員・ユナは自分は120歳だといい、事態から逃げ出す手段を提供してくれた。その子供・タカシはある島に送られて現地の子供と混じって生活し、両親もまた別々の島で働くことになった。 『南の子供が夜いくところ』
 紫焔樹という聖域を持つ島。貧しいが平和な暮らしをしていたその島に異国の男が流れ着いた。その男は控えめな性格であったが、知識や技術も持ち込んできた。そして島には疫病が……。 『紫焔樹の島』
 異国から訪れた青年が、十字路に置いてあるピンク色に塗られ、中に木彫りの像がある廟に興味を持った。様々な住人からその廟のいわれを聞くと、どうやら学校に通うタカシやロブの話に行き着いたのだが……。 『十字路のピンクの廟』
シシマデウさんがいた島には屈強な若者が揃い近隣の諸島のなかでは抜きんでた戦士が揃って板。が、祭りの直後、スペイン人が後ろに控える別の島の戦士たちに急襲され、ほぼ全滅の憂き目にあう。生き残ったシシマデウさんは、大海蛇一族の助けを求め、海へと漕ぎ出す。『雲の眠る海』
 岬の崖の下に若い男の死体がある。うさんくさい男は岬の崖のなかにある部屋に暮らす蛸漁師なのだという。彼は、行方不明の自分の息子を捜すうちに前任の蛸漁師と知り合い、仕事と居場所を譲って貰ったのだという。 『蛸漁師』
 首から下が岩に埋まり、身体が半分植物化してしまった男。ほとんどものを考えることの出来なくなった彼のもとにタカシが現れた。彼は、かつて暴虐な海賊だった時代を回想し、タカシたちに話して聞かせる。 『まどろみのティユルさん』
 離ればなれで暮らすうち、妻は自分の道を歩むことにしたらしい。主人公は息子に会うためバスに乗るが、辺鄙な場所で終点だと下ろされ手しまう。町を目指して歩くうちに頭がフルーツの人々と出会い、自分は飼い犬に変身していることに気付く。 『夜の果樹園』 以上七編。ばらばらだけれども繋がっている緩い連作集。

人間の運命なんて神様の前でできることはたかがしれている、だけど、それでも、いつかは。
 呪術師というか妖術師というか魔女というか、不思議な能力を持ち、驚くほどにその身体の成長に時間がかかる美女・ユナをスパイス(時に主人公)とした、南の島を舞台にしたファンタジー奇譚。自分の印象では、このタカシが通う島は南の島というよりも、南欧あたりの離島のイメージなのだけれども、別に場所がどこにあろうと物語の本質とは関係無いか。
 タカシ、ユナという過半に登場するナビゲーター役がいるにしても、回想含めて時間軸は多様で三次元的にも四次元的にも奔放なイマジネーションが込められている。そして、それぞれが、素直に「いい話」ではない。 人間が生きていくうえでの深い悲しみや、不条理な出来事、不屈の信念から諦めの境地等々、人間の強さ弱さがいろいろなかたちで表現されている。本書から感じるのは、神代の時代のおおらかさ、そして残酷さの両立というか、神様は非常に無邪気で気まぐれ、といった小さな人間がいくら頑張ってもできることは限られている、というような感覚。 この考え方自体あくせくしてもなるようにしかなりません、という南の島ライクな思考方法に近いようにも思えるのだ。
 個々の作品を眺めるに、苦みがきつすぎてダークに近い作品もあるのだけれど、総じて「それでも人間が信じられる」というような内容になっている点が素晴らしい。ある意味ではどこにでもあり得る悲劇を描いた『紫焔樹の島』が二番目に、かなりファンキーでポップ(人間はみんなフルーツ頭)でありながら、余計に残酷さが際だつ『夜の果樹園』が最後にきている配置、これもまた絶妙。カカシに瞞される場面で主人公と一緒に絶望しながら、終盤にタカシを配する絶妙の構成に少し泣きそうになりました。

 これまでの心温まる和風ホラーファンタジーという(今考えたのでレッテルであるわけじゃないのだけれど)レッテルから、微妙に外れ、心温まる南の島ホラーファンタジーという新領域に飛び出した恒川氏。(考えてみれば、新領域という程変化があったわけじゃないのだけれど)。完成していない連作によってむしろ世界が完成しているという矛盾が楽しめる。恒川作品をこれまで読んだことがある人にも、もちろん、本書が初めてという人にもお勧めできるレベルの高い作品集だ。


10/05/07
西澤保彦「こぼれおちる刻(とき)の汀(みぎわ)」(講談社'10)

 西澤保彦氏がデビューする前、八十年代後半にSFコンテストに応募するために書かれた小説が「カデンツァ」「オブリガート」の原型にあたる作品。さらに「コーダ」の部分は、一九九一年に鮎川哲也賞に応募するために執筆された作品。双方、予選すら通過できなかったとのことだが、この三編が『メフィスト』2009 VOL.1〜VOL.3にかけて、ABCと三回に分けて掲載され、今回単行本にまとめられている。講談社からすると『マリオネット・エンジン』に続く西澤SFということになる。

 光速を越える移動も可能となっている人類の遙か未来と思しき宇宙空間。二人一組で行動する女性宇宙飛行士たちが、不可解な小さな建造物を発見する。人類と異なる物理法則で動き、現在敵対中のある存在との関連性も疑われたが、二人は好奇心に負けてその建造物の調査を実施する。『カデンツァ』
 宇宙空間で発見された謎めいた新天体を調査するために派遣されている天文学者パジェット博士と助手二名。彼女らが滞在する宇宙ステーションを査察に訪れたのも美女・ミス・クラウス。彼女は素人に分かるようにそのステーションでの研究内容の説明を助手のマリエに要求する。 『オブリガート』
 一人暮らししている老女・川原あいが若い男性に殺害される。どうやら犯人は自分の姪の旦那らしいが。その瞬間から彼女は女性同士で恋をしていた中学生時代にまで遡りながら、自分が心の奥底に封印していた殺人遍歴を見せつけられ続ける。 『コーダ』 以上三編、が絡み合いながら一つの長編を構成する。

SFがとんがる進化型西澤保彦、ただ多くの読者の支持が得られにくい方向性ではなかろうか。
 講談社Webサイトによると、担当者のことばとして「西澤保彦氏がデビュー前に書いた三つの物語を、20年の時を経て現代の西澤保彦が一つに結びつける! SFとミステリの融合にこだわり新境地を拓いてきた著者の最終到達点にして最高峰、ここに誕生!!」と書かれている。  ――うーん。この程度の作品を最終到着点とされちゃ、西澤氏も迷惑だろう。
 冒頭に位置する『カデンツァ』がハードSF(実際はとにかくミステリ系読者にとってはかなり難解な用語や概念が多く、とんがった作品にみえる)であり、ここのところSF系統の作品が世に出やすくなっている西澤氏とはいえ、旧来の本格ミステリ系を愛してきた読者は戸惑われるはず。というか、オレが戸惑ったわけですが。
 とはいってもSF+本格ミステリというのは、特に西澤作品の初期の代名詞。 ただ、その時は、その因果(現象の発生する原因)はとにかく、その異常事態が引き起こす出来事は比較的理解しやすかった。何度も同じ毎日を繰り返すとか人間が入れ替わるとか。本作の冒頭は、その物理法則がかなり特殊であり、その初期作品とレッテルとしては同じSFかもしれないが、かなりニュアンスを異にしている印象なのだ。
 本書においては『オブリガート』『コーダ』と徐々に現在に、そして通常のミステリに近づいているとはいえ、「まりえ」「愛」といった時代を超えながら同じ名前(とレズビアン属性)を持つ女性たちがどういった理由で同じ名前を共有しているのか、といったところがポイントか。また『コーダ』における主人公がなぜ無差別に連続殺人を繰り返しているのか、といったところもミステリ的興趣ではある。(この部分の理屈については、ぶっ飛び系であり、前例のないものではあるものの、事実上中編一編を支えるにはちょっと無理感がある。まあ、西澤作品らしいダークなイメージはキライじゃないけれど)。

 時間が○○という設定がSFとしてどうか、というきちんとした評価は小生には荷が重いのだが、ミステリ部分だけ取り出してということになると、三編の物語の繋がりや、ミステリ部分の動機の妙といったあたりのみが読みどころということになる。その点のみであれば、残念ながら完成度の高かった初期作品には及んでいないというのが小生の評価。ミステリ読みからすれば、SF込み評価を検討させられる段階でやはり弱いということになります。(西澤初期SFミステリは、SF側ミステリ側関係なく読者をねじふせていたわけなので)。
 近年の西澤作品らしいフェティシズムや、マニアックな性感なんかも登場。なんか最近はこういった趣味性向が登場することが珍しくなくなってきているような気がするので、特筆すべきことでもなんでもないのかもしれないですが。


10/05/06
石持浅海「攪乱者」(実業之日本社JOY NOVELS'10)

 「月刊ジェイ・ノベル」に冒頭の『檸檬』が「九つのレモン」(後に改題)として発表されたのが二〇〇四年一二月号。その後、半年に一話程度のゆっくりしたペースで連載が続き、最終話にあたる『舞姫』は二〇一〇年一月号に発表された作品にあたる。

 支給された九個のレモンを地方のスーパーマーケットに置いてこいという指令。 『檸檬』
 住宅街の公園にある砂場にアライグマ一匹とプラスチック粉を放置してこいという指令。 『一握の砂』
 首都圏の鉄道に、紙袋に入れた丸めた新聞紙を放置してこいという指令。 『道程』
 久米に下された指令。公園で小学生相手に家庭教師紛いの先生をやっている人物のサポート。 『小僧の神様』
 宮古に下された指令。夜間に適当なコンビニエンスストアでアルバイトを行うこと。 『駆込み訴え』
 輪島に下された指令。無農薬農業を推進するNPO団体に入り込み、情報源と親しくなって情報入手せよ。 『蜘蛛の糸』
 久米と宮古は不倫カップルを演じて中央官僚に見せつけること。輪島はそれを尾行する探偵役となること。 『みだれ髪』
 三人に下された指令、宮古が実行。どこでも良いので自衛隊の衛生隊に所属している人物と仲良くなること。 『破戒』
 「宮古」は先の作戦を大成功と聴かされるが、その実感はなくむしろ別の衝動が湧き上がってきてしまう。この「細胞」を襲う悲劇とは……。 『舞姫』 以上、かたちの上では九編も、実際は一長編の扱いかと。

序盤の「犯罪性・日常の謎の不思議」、そしてテロリストに作者が与える運命……
 テロリストの組織はいろいろあろうが、今回『攪乱者』の作品内でテーマになるのはピラミッド型とは正反対の組織構成・『細胞』型組織。 細胞内部に所属する面々以外は、互いの顔を知らず組織の全貌も知らず、指令のみを淡淡とこなすことでテロを実行するというもの。ここまでは組織論。こうではなかったとしても、ミステリとしては成り立つが、この事実上の長編を成立させるにはこれもまた必要だったということになるか。
 さて、ミステリとしても、そしてそもそも小説としても、最重要ポイントは一点。「テロの指令内容がそう難しくなく、奇妙過ぎるところ」。 もともとテロリストの組織そのものが、「無血テロ」を標榜していることもあろうが、細胞のテロリストたちが実行させられるのは、それほど命の危険はない一方で、日本国民が現在の政府に対して漠然とした不安を抱くようにすることが目的。しかし、その目的と手段に大きな飛躍があるのだ。なぜにレモン、なぜに砂? この教育方法っていいんじゃないの??  ミステリとしてユニークなのはやはりこのアクロバティックな論理の飛躍だろう。
 この細胞に所属するコードネーム(?)演劇女優のような風貌の宮古、エリートサラリーマンのような服装と態度の久米、そして秋葉原系のオタクのような格好(をわざわざしているようにもみえる)の輪島の三名。指令を出すのが、細胞リーダーの入間。だが、その入間も細胞の目的はよく分かっていないようなのだ。もともと能力の高い彼らは首尾良く、その謎めいた課題をこなしてしまう。そこで探偵役「串本」が登場、彼の行動の意味を、状況から推理し、組織が何を狙っているのかについて解説をしてくれるのだ。「ええ?」と思う部分もあれば、蓋然性だけの話もある。だけど、なぜか不思議な説得力がある……といったところにも理由があるとか。巧い。さらに後半にさしかかると推理するのみではなく、組織が目的としていた方向から細胞たちの活動を微妙に逸脱させてしまうなど、ミステリアスな立場を強めてゆく。探偵役の正体は比較的早く判る。が、目的が最後まで判らないところもまたポイント。

 しかーし、本書で特筆すべきなのはやはりラスト数編のダークというより艶消しブラックといった趣きのある、細胞が壊れてゆく状況であろう。無血テロ、しかも直接的に人は怪我などせず、心理的なダメージを与えていくという図式がある時点で変化してしまい、意味合いは違うが細胞によるクーデターが発生してしまう。もちろんその結末は破滅的な暗いラストへと繋がって行く。
 この結末の悲惨さについて、石持氏がダークだから、と作者の作風で片付けてはならないようにも感じられる。そもそも無血だろうがなんだろうが、法に触れるかどうかはとにかく消極的破壊行為で政府に挑戦していた彼らが、素直に幸福になるなんてラストが描かれるはずが無いのだ。 テロはダメ、という教条的な意味合いなどないが、単純に人間の因果応報、無常といった感情でやるせない気持ちで物語を締め括られる。

 とはいえ、考えようによっては通常の意味から一段上のステージにある「日常の謎」ミステリであるともいえ、この作品集は読後感はとにかく、本格ミステリの一分野における新しい試みとして評価することも出来そうだ。そして、ある方向性からの石持浅海のエッセンスもまた詰まった印象深い作品集でもある。


10/05/05
中村 啓「鬼の棲む楽園」(宝島社'10)

 『霊眼』にて、第7回「このミステリーがすごい!!」大賞の優秀賞を獲得、'09年3月に同書が刊行されてデビューした新鋭作家。当初は漫画への進出を目論んでおり、奨励賞など7回の受賞歴があった。本書は2冊目となる単行本である。

 カリスマ占い師・神山生宇(本名:貴来眞人)のゴーストライター仕事を引き受けるために神山の住む奄美大島を訪れていたフリーライターの夏木。ここしばらく東京の編集部は、彼と全く連絡が取れないこともあり、夏木は直接神山の自宅に赴いた。人気がないなか神山は何者かによって殺害されていた。しかも頭蓋骨が切り開かれ、脳味噌が持ち去られるという猟奇死体となっていたのだ。この殺人事件に好奇心をもった夏木は、記事にするなら自らの手でと周辺の取材を開始する。どうやら事件現場には神山が抵抗したこともあって犯人と思しき人物の大量の血液が残されていたらしい。神山の弟子兼愛人だったホステスの松山百合子を取材した夏木は、神山の葬儀が行われるという隣島・喜多住島にも赴いた。百合子の話によれば、神山は出身でもあるその島にしばしば戻っていたらしいのだが、親戚は彼の姿を見ていないという。しかし夏木は、話を聞けそうな人物が、神山の事件の前に不慮の事故にあったりして命を落としていることに気付く……。

猟奇に進むか、サスペンスにゆくか。はたまた本格ミステリなのか。分類不能が先の読ませなさを構成する
 導入は、ある意味では平凡。 主人公が占い師の遺体を発見し、好奇心と自分のライター根性、さらに編集部からの後押しで独自の捜査に着手するという展開はそれほど悪くない。探偵が探偵であるための必然性を満たしているから。一方で、登場する死体は非凡。 なんといっても頭蓋骨が丁寧に、そしてごりごりと頭の外周を一周するように割られ、中の脳味噌が持ち去られている――というもの。さすがに宗教絡みでないと、これはあり得ないよなあ、という感慨はとにかく、むしろこの猟奇的な死体損壊があまりメインに来ないところで少し戸惑い、というか先読みができなくなった。
 というのは、あとがきによると喜界島あたりをモデルにしたと思しき南の島の風土や、人々の生活の様子、さらには土地の特徴といったところが結構丁寧に描かれている。「あれ、南国トラベルミステリ?」と最初に錯覚。しかして徐々に登場人物が増え、主人公が何者かに狙われていることがハッキリしてくると、「ああ、なるほどサスペンスだ」という予定調和に。そこから、新興宗教ではないものの、南国特有の宗教を下敷きにしたようなある一族が登場、彼らの存在とその頭蓋骨破壊の理由あたりに、ほんのりと社会派の臭いが。そして、誰も犯人足りえないという貴来一族のなかに盲点が設けられているという展開には、伝奇ミステリのイメージが湧き上がった。
 結果的には、主人公がかなり強烈なサスペンス展開にぐいぐい引き込まれ、カタルシスめいた恐怖で一旦物語を閉じ、そこからエピローグを紡いでゆく。物語構成に隙は少なく、新人の二作目とは思えない。エンタメとしての完成度はまだ高められようが、物語としてはきっちりまとめてきている。あと、個人的に一連の奇妙な出来事の背景にマイナーな病気がある点は、評価としてマイナス。

 題名になぜかもの凄く惹かれて読んでみたのだが、いろいろな要素があるものの、最終的にはサスペンス小説ということでまとまりそう。伝奇本格ミステリを勝手に期待していましたすみません。さすがに一族の首長の迫力は印象に残るものの、残りのパートは若干まとまりすぎている一方で、実行犯の行動に疑問もあり、トータルのインパクトには少し欠けてしまっている感。南の島とサスペンスがお好きな方向きか。


10/05/04
小路幸也「DOWN TOWN(ダウンタウン)」(河出書房新社'10)

 「KAWADE WEB MAGAZINE」に2008年9月から2009年7月にかけて掲載された長編作品の単行本化。北海道出身の小路氏が、自身の実経験をかなり反映したということもあるのか、どうやら地元北海道では「北海道限定帯」が装着されて発売されていた模様。

 一九七九年三月二十八日、あと一週間で十九になる水曜日。高校を卒業した僕・森省吾は故郷であるこの町・旭川を出て、東京で一人で暮らすことを決めていた。その旅立ちの日。親友の孝生、彼女というか微妙な関係にあるやよい、そして孝生の彼女である奈々美ちゃんに見送られて僕は旅立つ。心に残るのは、その少し前に別れを告げてきたばかりの喫茶店〈ぶろっく〉の面々だ。経営者でもあるカオリさんから受け取った白い封筒。そして、僕が初めて〈ぶろっく〉を訪れたのは、一九七七年四月のことだった――。中学の二年先輩で生徒会長だったユーミさんに偶然再会した僕は、彼女が働いているという喫茶店〈ぶろっく〉に誘われたのだった。行ってみれば、女性の常連客の多い小さな喫茶店。僕はというと軽音楽部でのバンドメンバーと別れ、新たに孝生という友人と音楽活動をすることを決めたところだった。〈ぶろっく〉はそんな僕には居心地が良かった。入り口に書かれた一日ごとに増えてゆく数字。女性オーナーのカオリさんの秘密。僕は少しずつ〈ぶろっく〉の人たちに惹かれてゆく。そして僕がそうなることにも実は必然があったのだった……。

青臭さを圧倒的に凌駕し、背中で語る「格好良さ」。いい男、いい女はこうでなくっちゃ
 北海道、旭川で高校時代を過ごした小路氏による、喫茶店x青春小説。
 ――とはいっても、あまり北海道らしさは(九州出身の小生としては)読んでいて感じられず、むしろ大都会ではない、かといって田舎でもないという微妙なサイズの、「どこにでもある地方都市」というどこでも当てはまりそうな(実際はそんなことないにせよ)機能を有していて、物語舞台としての普遍性がいい感じに作用しているように感じられた。
 このなんとなく交際を開始して、別に仲違いするでなくずるずると続く主人公とその彼女との距離感が微妙。なんというか、男女交際に慣れていない二人らしい不器用さが、じわりと滲み出ている。(とはいってもこの部分はあまり重要視されていないのも別の意味でポイントだ)。
 そして、親友との関係、彼女との関係等々がある一方で、喫茶店〈ぶろっく〉で新たに主人公が創り上げてゆくコミュニティがなんとも魅力的なのだ。 ただ、理由はハッキリしていて、この〈ブロック〉に集っている年齢層が様々な女性たち(の方が圧倒的に多い)男性たちが、皆、精神的に「大人」であるため。公私のけじめがきっちりしているというか、人間同士の距離感の取り方が絶妙というか、とにかく「オトナ」としての態度・気配りが総じて素晴らしい。見た目が格好いい、カワイイなど関係なく、芯が一本通っていて、人間としてのコミュニケーション能力が高く、周囲に常に目配りし、そして実践的な意味で頭の良いという(現実的には反則のような)人々。彼らには彼らの喜怒哀楽があるのだけれども、行動パターンから言動から、全てを引っくるめて「格好いいとはこういうことさ」状態なのだ。
 ちなみに小路氏がこれまで発表してきた作品でも、未成年が主人公の場合は必ずといっていいほど「格好いいオトナ」が登場してくる。後半にある、想像していないかたちで引き起こされるカーアクションは映画のような緊張感に満ちあふれていて、思わぬ物語上のアクセントというか、プレゼントになっている(なんとなく小路さんがこのシーンを書きたかったからのような気もする……)。

 読み終わってしまうと、本書はいわゆる「大人への階段を昇る」だの「青春のいちぺいじ」といった類の書に分類されてしまうように思うし、それはそれで間違いじゃないのだけれども、個人的には、読んでいるあいだに感じた、「”大人”という越えられない壁を目の前にした少年の心理」といった部分にも強い興味があった。なんたって店名だって〈ぶろっく〉なんですよね。考えてみれば。


10/05/03
島田荘司「Classical Fantasy Within 第八話 ハロゥウイン・ダンサー」(講談社BOX'10)

 講談社BOXの「大河ノベル」、島田荘司&士郎政宗氏による全十二冊予定の”超弩級”本格ファンタジー&ミステリ。第二部は再スタートとして08年10月から四ヶ月連続の刊行となった。さらに一年以上の時を経て再開された第三部となる本書は単刊。第四部は2010年秋再開と巻末にあるが、果たして。

 近代ヨーロッパ、特にロンドンをモデルとしたと思しき中世風の町並みを持つハロゥウイン・ダンサー。空は屋根が覆っているため太陽も月もなく、機械塔の発電による電気によって照明がコントロールされた小さな町だ。町はその中心部に、巨大で、そして酸素や街の全てのエネルギーを生み出す機械塔を抱いており、この塔の高さ方向にいくつかの階層構成を形成していた。当然、雨も風もなく四季もなく、人々は指導者から割り当てられた配偶者と恋をし、子孫を残してゆくことが大事なことであると教育されている。なぜなら、この街に住む人々は神の末裔としてゼウスが人間を審判した際にテッサリアの山頂に逃れた人々を先祖とする、この世界のごく僅かな生き残りであるからだ――。この街で生まれ育ったエリートで、機械塔に勤務しているエドは、割り当てられた婚約者が犯罪を犯してしまった直後、反社会的行動で矯正施設に入れられていたというキュートな女性・メラニーと運命的な出会いをする。街の成り立ちに数々の疑問を持っているメラニーに対し、エドは丁寧にその答えを探してゆくのだが、どうしても解決できない矛盾に幾つも突き当たるのだった……。

CFWシリーズ初の一冊完結。島田荘司にしか許されない超絶奇想を堪能すべし!
 機械塔……。この機械はどこかで……第一部に出てきた例の機械に似ているような……? とか思ったのだが、関係あるのか無いのか。日本と似ているどこかの国の太平洋戦争末期を描いた第一部、ソード&マジックの伝統的ファンタジーを想定させる第二部から、一転、今度はどこか中世欧州風に創作された閉鎖空間が舞台となっている。
 そして、前の二部ではそれなりに物語は展開してゆくにせよ、謎が謎のまま相当量残されたままになっている。その一部はシリーズのなかで解き明かされてはいるため、読んでいて奇想とセンスは相応に味わえるにせよ、どこか嵌め込まれていないピースも同時に多数あるというのが実際のところ。第一部、第二部ではそういった幾つもの点が納得できないというか消化不良となってしまっていたのも事実。(恐らく、完結時には最初から読み直さないと細かいところは思い出せないだろうなあ……)。だが、本書はその点が大幅に改善されている、というか、ある意味では一冊で完結となる点そのものが新しい。
 まず、中盤から終盤に至るまでの雰囲気作り、ノリといった部分はこれまで刊行されたCFW(Classical Fantasy within)の独特の雰囲気をきっちり引き継いでいる。現在の世界と重なるようでいて、価値観や世界観そのものがずれた異世界(ファンタジー)。 士郎政宗画伯による細かな背景に至るまで精緻を極めたイラストがそれぞれの世界を再現していることも同じで、島田氏による大胆な世界設定が士郎氏のイラストにより、巧みに視覚効果も被さるかたちで補強されているように感じられる。
 特に本作で凝っているのは物語背景の、特にディティール。骨折が増えるため殴り合いが禁止され白い色の蛯や蟹、薄い酸素に見えない太陽と月……。物語自体はシンプル――。 そんな世界に生まれついた二人の若者が、世界の秘密を求めて都市では禁じられている冒険をすること。
 さすがに上手いのは、作中での時系列。作品内の現在では、エドとメラニーは年老いた夫婦という関係。彼らの回想で出会った頃の二人が語られる。その現在で二人はどうやら健在だ、ということは世界の秘密を知っても命にかかわるようなことではないだろう……という読者の思いこみを島田荘司は逆手に取る。

 そしてこの世界の真相は……。絶句。 同じパターンを知らないではないのに、読んでいて想像すら至らなかった。超絶のバカミスでありながら、島田荘司+士郎政宗の強力タッグが、ソフィストケートした極上のファンタジーワールドに遊ばしてくれたおかげで、純粋にその落差を味わうのみ。 一発芸なのでどこまで評価頂けるかはわからないが、少なくともシリーズ残りを捨てても、現段階ならこの一冊だけでも読む価値はあるかと思う。


10/05/02
定金伸治「四方世界の王5 荒ぶる20(エーシュラ)の太陽と変異」(講談社BOX'10)

 2009年の大河小説として講談社BOXより毎月全十二冊の予定で刊行が開始されたものの、4冊(4月)に刊行された『四方世界の王4 あらゆるものの半身、月齢の30(シャラーシャ)』にて中断していた。2010年6月に再開、5冊目として刊行されたのが本書。中断期間中に、『月刊少年シリウス』(講談社)にて雨音たかし(画)により、漫画化されている。また、本書あとがきで、2冊増え、全14冊1冊/二ヶ月ペースでの刊行になると作者が表明している。

 バービルムの北に位置する大国・アッシュールを支配する、傭兵出身の王・シャムシ=アダド。アッシュールと王子・イバルピエル率いるエシュヌンナ軍とがぶつかり合い、混乱のなかにあることを見抜いたシャズ=フラシュムは、シャムシ=アダドの首を狙うが罠にかかって囚われの身となってしまっていた。どういう謀なのか、彼女は『四方世界の王』を目指すシャムシ=アダドの妻・シュルギシムティとなることを承諾していた。一方、その事実に対し、シャムシ=アダドの娘という立場でありながら、彼を熱愛するエレールは嫉妬から激怒。シャムシ=アダドが遠征している間に、シャズを破壊しようとする。アダド神を持つ圧倒的なエレールの力は集中的に苦痛を彼女に与え、人間ならぬ形状に変化させてしまう。一方、逃げ延びたナムル=ナーシル は出身地のバービルムには戻らず、彼を慕うエリシュティシュタルと共にシッパルの街を目指す。そこには『四方世界の王』を目指す戦いに与しない、智と水の神エアの40を内包しているリピト=エアがいる。彼はナムルに対し、エシュヌンナのイバルピエル王子に会うことが最善であるとアドバイスをした。

よく考え抜かれたゲームの譜面を、登場人物と共にトレースしているかのよう。戦略要素が増大してきた印象。
 巻を五冊重ねたことによって、四方世界という世界観がじんわりと頭のなかに浸透してきたことが大きいか。
 今回は特に意識されたのかされないのか、主要登場人物が増加していないのだ。アッシュールやエシュヌンナといった国家群、それらを率いるシャムシ=アダドや、リム=スイーンといった「四方世界の王」を目指す個性的な人物たち。そういった物語の背景であり、巨木である登場人物がすっきり頭の中に入っているおかげで、ようやく純粋に物語が、ストーリー展開が楽しめた。そしたら、やっぱりめちゃくちゃおもろいんですわ。 勿論、巻頭にある登場人物紹介や、四方世界勢力図なども非常に役に立っている。この二点はシリーズずっと続けていって欲しい。
 今回は絶体絶命の窮地に陥った、究極のツンデレ(?)・シャズを、これまでずっと彼女に頼りっぱなしであったナムルが助けにゆく話。 ナムル自身、多少の能力はあるものの力が足りないことを自覚しつつ、知恵を絞るところが読みどころ。対する敵側(正義か悪かの別はとにかく)も、強大な力やカリスマを持つだけではなくこの世を治めるためには知恵も重要であるという認識を持つ人々。つまりは、力同士のぶつかり合いだけではなく、知略を尽くしての戦いとなる。ある程度、この胞体を用いての戦い方が(読者にとっても)みえてきたなか、果たしてどういうアイデアが出てきて、そしてどうぶつかり合うのか。
 特に、ナムルとエリシュティシュタルのコンビが、近親相姦願望丸出しのラブ父親の娘・エレールの持つ盲目的ながら計算高い愛を背景にした戦いにおける終盤の迫力が今回素晴らしかった。先まで知略が、とか述べてきたものの、執念という別の要素をさらりと織り交ぜて恐ろしい情念を生み出す作者の手腕に戦慄する。そして、それが伏線だと気づけなかった伏線によって、片側の命運が断たれるところなどにも巧さを感じた。

 確かに一冊分のボリュームは増したが、満足度としては相当高い。群雄割拠、呉越同舟、合従連衡。比較するのはおかしいかもしれないが、三國志と初めて出会った時のようなわくわく感を改めて味わっているような気がする。今後も目が離せない。


10/05/01
池上永一「バカージマヌパナス わが島のはなし」(文春文庫'98)

 池上永一氏は'94年、早稲田大学在学中に『バガージマヌパナス』が第6回日本ファンタジーノベル大賞を受賞してデビューする。'98年には『風車祭(カジマヤー)』が直木賞候補になっている。デビュー後から一貫して沖縄出身らしい文芸世界を創り上げている。本書は文庫化の際に、本来の題名のうしろの「わが島のはなし」が付け加えられ、改題されている。

 沖縄にあるバスも走っていないような小さな島。根っからの島人(シマンチュ)で南の島らしいルーズさや楽天性といった気質の塊である十九歳の仲宗根綾乃。昼と夜との時間感覚しか持たず、大好きな友人で八十六歳のオージャーガンマーとガジュマルの樹の下で煙草を吸ったり、ビールを飲んだり、アイスを食べたりしながら、昨日も一週間前もその前からずっとおしゃべり(ユンタク)していた。島を出てゆく若者たちと決定的に波長が合わない綾乃。美しく気高いのだが、徹底した怠惰が彼女を高校時代も他の誰とも違う存在にしていた。そんな彼女は昔から奇妙な体験があった。霊が見えてしまうのだ。彼女の曾祖母にあたる人物が、沖縄の先祖崇拝に携わる巫女・ユタだったのでその影響かもしれない。そんな生活をしている綾乃のもとに神様が現れ、ユタになるよう指名をしてきたのだ。しかも断ると神罰が下されるのだという。慌ててオージャーガンマーと相談する綾乃だったが、いつの間にか神様のことも忘れてしまって……。

緩やかに流れる時間と、都会・現代人が忘れてしまった価値観。立ち止まる、振り返る。そして思い出す。
 その本質的なあらすじをまとめてしまうとシンプルに過ぎる物語。若く美しいが怠惰だった娘が、神のお告げによって一念発起してユタになる――以上。  ……以上なのだが、沖縄の言語表現、多少幾つかのテレビやドラマや小説やなんやかやのメディアである程度は知られるようになっているとはいえ、やはり大和の国の人間からすれば、註釈抜きには理解できない言葉が多用され、これが単に(日本の他の地方の)方言を多用する物語テクニックとは少し異なる異世界感覚を醸し出している。
 沖縄や石垣島の地元の人々からすれば当然の現実なのだろうが、都会で俗世にまみれて生きる自分からすると、こういった少し変わった言葉遣い、のんびりした気質と時間の過ごし方、根本的に異なる人生に対するスタンスといったもろもろの生活習慣や文化はもちろん、青い空、青い海という記号が既にファンタジーなのですよ。 汗水垂らして普通に生きる現実とは乖離してしまっているという意味では異世界と同意かと。
 ただ、本書の場合はその南方文化をのびのびと描いているだけではなく、そこに一定の本土的視点を入れることによって主人公の綾乃とオージャーガンマーとの二人、そして二人のやり取りや生き方に絶妙の間合いと掛け合いを作りだしている。恐らくは、本来的な意味の彼女たちの会話だけではこのユニークさは醸し出せないのではないかと思う。ヴィトンのバッグなんかもそうだが、あえてずらして本土的感覚をぶち込むことで、日本語を解する全ての読者に受け入れられる文学として成立しているように思うのだ。

 などと偉そうなことを書いてみたのだけれど、恥ずかしながら池上永一をきちんと読むのはこれが初めてなのです。上から目線だと思われたらごめんなさい。ただ、時間があればもう少しこの世界に浸ってみたいと、少なくともそう感じました。