MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE 国産ミステリ・レビュー
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


10/06/30
古川日出男「ノン+フィクション」(角川書店'10)

 もともとは古川氏が様々な媒体に発表したエッセイをまとめるという趣旨で依頼された仕事が、古川氏自身による解釈により、小説として構想された作品や戯曲なども加えられ、通底するテーマを感じさせる作品集といった体裁となっている。

 お茶を飲むということで、土の味を知り、ブルネイ王国の夜の遊園地を楽しみ、ハワイで爆発的に売れている音楽を聴く。井の頭公園の秘密を覗き、画家の、写真家の芸術を閉じ込めてゆく。古川日出男のエッセイとも物語とも、ノンフィクションともフィクションとも分からない、断片的に情景を映してゆく言葉の数々。(とまあ、こういう表現しか出来ない。個々の区切りの粗筋を説明しても、この感覚は説明できない)。
『土にいたるまでの旅』『ブルネイ、十六時間』『Everything is music. ――なにもかも音楽に変わる島々』『井の頭公園の、ただひとつの』『大竹伸朗のアトリエ』『あらかじめ失われた湾岸』『ブ、ブルー』『究極のエトランゼ。風』『川、川、川、草書で』『キ/吉岡剛三/セ/撮る撮られ/キ』『たった一キロでできること』『サウンドトラック・スケッチ』『戯曲「OK豚ピューター」』>。 最も古い作品が二〇〇四年七月、最も新しい作品が巻末にある戯曲ということになる。

音であり、画であり、写真である。心に響く全てのアートを活字というかたちで閉じ込める才能
 本来、古川日出男にとって「初めてのエッセイ集」になるはずだった企画。それが、未発表・発表済だけれども未収録の古川日出男の断片を集め、小さな物語を取り込んでゆくうちに、寄せ集めた文章の断片が力を持ち、有機的に繋がりあって、まとまりの感じられる作品集へと育ってゆく。 作者のあとがき曰く「これはわたしの、記念すべき二十作目の著作だ。作品(ワーク)としての。」と言わしめている。
 このあたりの、少し不思議な感覚については、作者自身も上記のように「あとがき」で述べている。エッセイ集にして作品集という微妙な立ち位置は作者の狙いのうち。個人的には、その漠然とした括り、テーマに沿って封入されている、古川氏の様々な芸術に対する感性に目がいってしまった。というのも、古川氏が扱うのは基本活字でしかないというのに、登場する写真家や画家、音楽家といったアーチストが発する豊饒なイメージを時に解き放ち、時に封じ込めて読者の前に差し出してくるのだ。浅学非才の身、古川氏が本書で取り上げた、他ジャンルのアーチストたち個人も、ワークも正直存じ上げない。が、一流の書評がそうであるように、中身を直接知らずとも、そのアーチストの業績が間接的に感じられるようになっている。文章による他ビジュアルの転写に成功したのが、例えば作品で一人だけといった場合は、その狙いそのものがフロックということにもなるだろう。しかし本書では複数の、そして異なるジャンルに属するアーチストが登場し、様々な角度、かたちから彼らの姿を古川氏は描き出してゆくのだ。強弱はあれど、そのいずれも巧さに満ちている。感性? センス? そういった直感だけでは説明しきれない。それが才能ということになるか。

 作品集(ワーク)である点、作者の主張を否定するつもりは毛頭無いが、この作品を「物語」として捉えるのはさすがに無理があるように思われた。また、古川作品初心者がこの作品から入るという点もあまり感心しない。主題が拡散しているところも古川作品の主題のうち、という微妙な感覚がすっと得られるようになってから、再度本書を手にとっても遅くはありません。


10/06/29
山口雅也「キッド・ピストルズの醜態 パンク=マザーグースの事件簿」(光文社'10)

 『革服』『だらしない』『三人』の順に、『ジャーロ』誌37号(二〇〇九年九月)、38号(二〇〇九年十二月)、39号(二〇一〇年七月)に掲載された中編がまとめられて単行本化された作品。キッドとはだいぶ長くお付き合いしているような気もするが、本書はそれでもまだシリーズ通算6冊目に過ぎない。

 ある金融業者が密室内部で切断された死体となって発見された。その部屋の内部には、彼の伝記を書くために初めて家を訪れたというライターが閉じこめられていたが、彼も意識が朦朧としていて何が起きたのか分からないという。 『だらしない男の密室−キッド・ピストルズの醜態』
 探偵士によって既に捕らえられ収監されている筈の猟奇連続殺人犯人《革服の男》。その男とそっくりの姿をした人物が、ランニングをしていた女性・ジルによって、彼女の隣人エレンと共にいるところが目撃された。エレンは後で聞いてみても、そんな人物は知らないというのだが……。 『《革服の男》が多すぎる』
 病院のような建物の個室で目覚めた男は、同じように閉じこめられた別の二人の男と出会う。職業や髪型は異なる三人は、実は三つ子のように互いにそっくりな容貌と外観を持っていた。《殺人鵞鳥》(マーダーグース)を名乗る犯人、その建物にて目を覚ますキッドとピンク・ベラドンナ。出口を探しているうちに男たちは個別に襲われ……。『三人の災厄の息子の冒険−キッド・ピストルズの醜態 再び』 以上三編。

パラレルワールドを、実験という方向に強く延長? 普通の本格ミステリを超えた先が模索されている
 パラレルワールドの英国。人々から支持を受ける探偵士が事件を解決し、パンク刑事たちが更に真犯人を見つけ、捕らえるというこれまでの世界。当初は違和感も覚えたが、段々彼らの活躍を繰り返し眺めるようになってからは、世界に対する違和感は薄れ、むしろ純粋な本格ミステリのヴァリエーションという位置づけで楽しませて貰ってきた。前作『キッド・ピストルズの最低の帰還』では、シリーズ中断前と中断後の作品が合わさっていて、印象としては微妙な部分もあるにはあるが、従来の延長線上に創作姿勢があるように思えた。しかし、近作のみで構成される本作では、その実験性・先進性といったところが突き抜けてきているという印象だ。
 特に強烈なのは『三人の災厄の息子の冒険』であろう。病院を舞台にした、幻想ミステリから、サイコ系不可能犯罪と変化し、本格で纏められると思いきや、ミステリとしてのかなり剛腕を振るった反則級のオチが待ち構えている。二転三転する雰囲気はもちろん、どう考えても「不可能」な状況が印象に残る。が。その真実として採用されている手段は、さらに強引というか無茶でもあってインパクトが強烈。伏線が幾つか、丁寧なものが張られていて反則だけでは割り切れないのだけれども、賛否両論ありそうな大技であるという点は間違いない。
 一方、サイコを効果的に使いながら、その効果を持ちイテミステリとしての質を高めた『《革服の男》が多すぎる』。 シンプルな錯覚トリック等を巧みに使っていて、新しいトリックというより見せ方に強みを感じる。その一方、冒頭の『だらしない男の密室』は、ある程度近年ミステリで実績あるネタとはいえ、改めてオチから物語をみるとスゴイ構成だと逆に感心させられる。

 素直に「すごい!」と思わせられるミステリというよりも、その凝りようがきちんと評価できるマニア向けの作品集。 ミステリ初心者にとって、このひねくれ方は強烈なワクチンにも猛烈な毒にもなりそうな作品集だ。物語・ミステリとしての水準については標準以上なので読んで損することはないが、やはりめちゃくちゃに趣向に凝っているという評価は間違いない。


10/06/28
舞城王太郎「獣の樹」(講談社ノベルス'10)

 講談社ノベルスx舞城王太郎というのは、もともとメフィスト賞出身という舞城氏の出自を考えると当たり前なのだが、なんか久しぶりというより新鮮な気がする。講談社創業100周年記念出版としての書き下ろしであり、2010年「NEO舞城王太郎BEGINS! 真夏のMAIJO祭!!の第二弾目となる作品でもある。これまでの舞城作品のエッセンスが多く振りかけられたノンシリーズ作品。

 ある日。福井県にある西暁町にある河原家の裏庭に現れた馬の腹から「僕」が産まれた。年齢は最初から十四歳くらい。首筋から背筋にかけて鬣が生えていた。記憶も知識もない僕は病院で西暁太郎という名前で、身寄りのない子供が住む湯引野児童園に住むことになりかけるが、僕が産まれるところを目撃していた河原正彦は、河原家に来いという。父親の秋宏や母親の江利子にも賛成され、僕は河原成雄という名前で河原家の一員となった。小学校五年生から学校に通い出すがすぐに履修を終えてしまい、小六も中一も同様。中二で僕はわざと自分にストップをかける。中三の正彦の弟でいいと思ったからだ。力の加減が分からない僕はクラスでちょっかいをかけてきたいじめっ子の背中の肉を摘み取ってしまい問題になる。いいことと悪いことというのがどういうことかよく僕は分からない。そして初めて夢を見る。森の中、悪い木、木に頼まれて木の上に登ると、その木のうろには女の子がいる――。その木が悪いと女の子はいう。次の日、道徳とかを先生から習い、正彦の友人の兄が変死していることを知る。全身の骨が砕かれ目撃者もおらず足跡もなく、被害者の胃からバッタと鮎。僕はこの事件の真相を見抜き、運命の女の子・清野楡と出会う。

めちゃくちゃな事象が正ならば、その真実にもまためちゃくちゃが許される。やはり舞城、という展開。
 舞城王太郎作品で「成雄」といえばスピードスター。その脚力の限界は事実上存在せず、人類の動物としての物理的限界を遙かに凌駕することがお約束で、本書でもそれは同様。もう一つのお約束、鬣(たてがみ)を首筋から背中にかけて生やした成雄は、物語後半の局地的戦争に近い状況のなか、その超人間的な能力を駆使することによって愛する人々を守ることに成功するのだ。その部分のアクションシーンは本書の読みどころのひとつ。
 もう一つは、謎めいた探偵小説としての要素が魅力。といっても、普通の意味での謎と解決とはなっていない。密室や変死体、不思議な構造を持つ地下室といった謎が本書に幾つか登場する。その部分部分のガジェットに探偵小説、しかも本格探偵小説特有の要素を使ってきている。……が、それらガジェットの使用方法は、いわゆるミステリの流れからわざと外していて、ま、はっきりいってしまうとめちゃくちゃなのだ。ただ、そのめちゃくちゃは、当然作者が意図して使っているもので、そこからまた物語を拡げているから性質(たち)が悪い。例えば、上記梗概に記した全身の骨が砕かれて死んでいる変死体が発生した理由が大蛇の口のなかに居たからであるとか。むしろ、常軌を逸した謎に常軌を逸した解答を唯一無二のものとして提供することで、その推理を行う者(例えば成雄)の持つ、また常軌を逸した頭の回転の早さといったところがアピールされているとも考えられる。まあ、その唯一無二の解答を真実とすることで、物語世界のファンタジー性を現実に固着させる補助作用もあるかな。

 最終的には訳の分からないまま、地球規模のクライシスに突入し、そこに至る過程のなかで十四歳の赤ん坊状態だった成雄は、この物語特有の成長をする。まさに世間でいうところのビルドゥングスロマンそのもの。物語によってさまざまな成雄がさまざまな成長を遂げるなかの、これが『獣の樹』バージョンてな印象。その観点からは、これら一連の成雄小説は、舞城王太郎の少年成長シミュレーション小説っていう見方もできるような気がするなぁ。


10/06/27
竜騎士07「うみねこのく頃に Episode3 Banquet of the golden witch (下)」(講談社BOX'10)

 同人ゲーム・『うみねこのなく頃に』三つ目となるエピソード、その下巻(上巻は↓を参照)。魔女と人間という対立軸以外にも魔女同士の戦いや覇権争いといった要素が加わり、多少関係性が複雑化している。その意味ではミステリとファンタジーの融合というか、どう解釈いいんでしょ、これ。

 碑文の謎を解き明かした右代宮絵羽。彼女がその通りに進んだ先に、実際に黄金の山があった。その隠し場所に少し後に現れたのは楼座。楼座は絵羽に分け前を要求する。絵羽は一旦それを承服するが、心の底では全てを自分が継承するものと決めていた。そして絵羽の前にベアトリーチェが現れ、絵羽に対して全ての魔力と財産を譲ると宣言する。そして絵羽は、自らが黄金の魔女を名乗れるようになったのだ。途中まで進んでいた惨劇の晩は、当然のように新たなベアトリーチェが引き継いで完遂されようとしていた。以前のベアトリーチェよりも、肉親への憎しみ度合いが高い分、絵羽ベアトリーチェは残酷な手段で身内の殺害を計る。以前のベアトリーチェ(ベアト)は、戦人に対し大喜びでその残酷な見世物を見物するよう勧めるが、戦人もワルギリアもロノウェもベアトとのコミュニケーションを拒否、闇に消えてしまう。その状況に、自分の何が悪いか分からないベアトは大慌て。ある意味では大切な対戦相手でもある戦人の心と信頼を再び獲得しようと一計を案ずる。

虚実さまざま。彼女らの振る舞いはまさに最悪の、だけど魔女ならではの所業
 魔女の代替わりが三度。魔女と名づけられるべき人物がだんだん拡がってきており、オリジナルのベアトリーチェの姿が見えにくくなっている。あるエピソードがあってから、中盤以降の奇妙に性格がかわいくみえるベアトリーチェ、ただ、後半最終部分で衝撃の告白を行ったせいで、特にこの作品(さらに特に下巻)でのベアトの言動や態度というものが、どちらの意味を持つものなのかが分からなくなってしまった。 この真意は巻がさらに進むことで解決されるのだろうか。ただ、おかげで中盤に多少だらけた場面があったものの、ひっくり返された印象によって振り返ると、全てが引き締まっていたことに気付かされる。
 そのひっくり返し、インパクト強烈にして悪魔的。どこからこの「仕掛け」が発動していたのかも、幾つか可能性が感じられて断定できない。あるアドバイスが原因だとすると、そのアドバイスをした人物の立場もまたひっくり返る。どう解釈して良いのやら。
 そして、推理合戦が進めば進むほどに、物語のファンタジー度合いが上昇するという奇妙なアンバランスが魅力となっている。 さらに確かに前巻くらいに少しだけ名前に言及があった「縁寿(えんじぇ)」も主要プレイヤーとして、後半部でお披露目がなされている。彼女も終盤の扱いから考えるに、相当に重要キャラクタのようだ。これも後の巻をまだ未読なので断言はできないのだが、この三つ目のエピソードにてほぼ、解決に際しての重要な関係者が出揃ったのではないか。(というか揃っていて欲しい。これ以上増えると厳しいっす)。

 超能力や魔法といった解を使わずに、現実的手段のみで、果たしてどこまでここまで提示されていたような謎に迫ることができるのか。本作のラストで表現されている未来は、実際にあった未来なのか。(いやいや、そうだとエピソード1と2が否定されてしまうな)。今後に向けた読みどころは多数ありそうだし、そもそもどのような解決が有り得るのか、が想像すらつかない


10/06/26
竜騎士07「うみねこのく頃に Episode3 Banquet of the golden witch (上)」(講談社BOX'10)

 同人ゲーム・『うみねこのなく頃に』は、「ひぐらしのなく頃に」同様のノベルゲーム。本編はその第三エピソード。解決編にあたる『うみねこのなく頃に散』が順次ゲームでは発売開始中(ということで良いのかな)。

 また惨劇の夜は始まる前にリセットされた。右代宮戦人は煉獄七姉妹に壊された肉体から何度目かの目覚めを体験する。しかし彼はまだ惨劇を魔女の仕業だとは認めていない。今回の物語で中心となるのは右代宮の長女・絵羽。幼い頃から彼女は長男の蔵臼を遙かに凌ぐほどに優秀な頭脳を持っていたが、男尊女卑が染みついた金蔵のもと当主逆転の目はなく男女差の運命を嘆く毎日だった。そのことを思い出しつつ、到着した黄金島、そして魔女からの挑戦状。かつてこの六軒島には魔女伝説があり、金蔵がどこかに魔女を匿っているのではという噂があった。楼座は幼い頃にその魔女に会い、そして事故で死なせてしまったという衝撃の告白をする。一方、ベアトと戦人はバトルを再開。島に十九人以上がいるという質問にベアトは窮する……が、過去のエピソードを踏まえたうえで最後は「この島には十九人以上の人間はいない」と赤で宣言する。最初の晩の六人の犠牲者は、金蔵と五人の使用人。さらに絵羽は魔女の碑文の問題の解答に気付く……。

最初の佳境。ルールがある程度決まったなかでの第三の事件、そして語られる過去
 本筋と関係あるのかないのか、本作からベアトリーチェの執事役を務めるロノウェなる男性の悪魔が登場する。戦人に対しても礼儀正しく慇懃無礼である一方、ベアトに対して腹に一物あるやらないやら、主の意図に反しているようなことも平気で口にする。更には、源蔵ら他の「家具」たちとも親しい素振りもある。こういった重要な登場人物が伏せられていたというのは一体。そのこと自体に意味があるのかないのか、物語に対する疑心暗鬼は進んでゆく。
 二度の戦いを終えてなお「事件は人間の仕業として解決できる」とする戦人とベアトリーチェとの戦いが続く、というかそれが軸。 基本的に圧倒的に戦人不利という論戦のなか、あまりに傍若無人・暴虐無粋のベアトを諫める意味か、他の深謀遠慮があるのかどうか、別の魔女たちやロノウェが戦人に対して知恵を付けることによって、劣勢ながらも負けていないという戦いになっているのが実際のところ。その意味では、本作(上巻)では、戦人のヘルパー登場という部分が一つ重要。もうひとつ重要なのは、右代宮楼座が実際に体験したこととして語られる、六軒島内部で金蔵以外には知らされずに一人の女性が生活していて、さらに楼座を巻き込む事故で死亡したという事実。ベアトリーチェなのかそうでないのか。十九人目の候補がこの島にいた――、というだけで十分ビックリなのだが、現在は十八人以上島にいない! とベアトが十九人目以上を否定するところにまたビックリ。
 もう一つ、これは今回エピソードのみの設定なのかもしれないが、十八人のなかに特殊な能力を持った人物が実は潜んでいて、その一人がベアトリーチェといきなり死闘を開始する場面は印象深かった。戦いといっても弩級魔法同士のぶつかり合いは六軒島なんて島一つ吹き飛ばしかねない大迫力。まあ、最終的に説明されるかどうかは不明ながら、これはこれでユニークだった。

 上巻のみでの感想はこんなところが限界。ただ、この上巻のラストでは絵羽が、魔女が出した碑文の問題を解き明かしたとみえるエピソードで締め括られており、そもそもあの謎に「実際の解」があること自体に驚き。たぶん問題編のうちはその内容に読者が触れられることはないとは思うけれども。下巻に続く。


10/06/25
福田和代「ハイ・アラート」(徳間書店'10)

 '07年の『ヴィズ・ゼロ』でのデビュー以来、大型新人として注目を浴び、冒険小説の書き手として着実に作品をものにしつつある福田和代さん。本書は『問題小説』誌に2009年8月号から2010年8月号までに発表された長編が大幅に加筆修正されて単行本化された作品。

 「十二神将」と名乗る一団が実行する愉快犯的爆弾テロが巷間を騒がしている。犯人たちがテロリストとして強い風当たりを受け、警察も威信を賭けた犯人捜しを行っていたが風船やカラスを使ったユニークな方法で爆弾を移動させ、派手な爆発は引き起こしてはいるものの、ほとんど怪我人を出さない「十二神将」のユニークなテロリズムには、ネットを中心に一部に支持する層がいた。一方、神戸でスポーツジムを経営する田代。彼はかつては高石という男と組み、「逃がし屋」という稼業を裏で引き受けていたが、高石が亡くなってからは引退と称し表ビジネスのみに精を出す日々を送っていた。そんな彼のもとにペルーから国家警察に所属するミゲルがやって来た。田代はかつてペルーで彼に世話になったことがあり、事情を聞くと、彼の従兄弟が日本の自動車部品工場に出稼ぎに来たまま行方不明になっているのだという。田代はミゲルと共に、その従兄弟・サンチョと、行動を共にしていると思われたファンを探し出す手伝いをすることになる。

それぞれの立場、それぞれの事情。テロvs正義のみでは括りきれない拡がりが物語をふくらませる
 片方は、東京という都市を騒がせる爆弾テロリスト集団。もう片方は神戸を皮切りに行方不明の日系ペルー人を捜す男二人。強いていえば警察もここに視点としては加わるか。大きな幾つかの流れがラストに集約していくという手法が取られている。その二つの流れには、それぞれに別々(いや、根は同じか)の日本の社会的問題が絡んでおり、福田さんの他作品でもみられる社会派的視点は本作でも健在。テロリズム自体は許せる行為ではないにせよ、その行為に耽るに追い込まれた爆弾犯(という表記にしておく)の事情も同情できないまでも理解はできるという書き方になっている。
 その結果ということでもないだろうが、言葉通りの意味での”脇役”が少ないと思う。というのは、登場人物それぞれがその生い立ちから心情に至るまで、準主人公なみに描写されるという待遇を作者から与えられているようにみえるから。
 例えば、神戸の元「逃がし屋」田代と、ペルー国家警察の刑事であるミゲル、この二人が冒頭から暫くは主人公格として物語に君臨する。実際、誰が主人公かと問われれば、筋道上のど真ん中にいるのは彼らということになるだろう。ただ、序盤終了以降に登場してくる爆弾犯にしても、途中からは主人公を食いかねない勢いで物語を侵食してゆく。主人公が田代たちとするならば(いや、本来はそうなのだが)、テロの実行犯である十二神将の面々や、ミゲルが追っている出稼ぎ日系ペルー人・ファンらはあくまで脇役に過ぎないはず。なのだが、作者の筆は彼らに言及するにあたっても、その外観や行動といった必要最小限のみではなく、彼らが生まれた背景や行動する事情、そして心情に至るまでが書き込まれている。その結果、読者としての感情移入先が多くなり、悪役として登場したはずの「十二神将」メンバーにも一定の支持を与えざるを得なくなる。「正義とは何なのか」という単純でいて難しい問いかけが本書にもあるように感じられるのだ。

 福田和代作品には単純な正義が登場しないし、単純な悪も登場しない。人間、生きている限りは様々な事情もあれば、生い立ちもあるという当たり前のことが当たり前のように扱われている。(その分、作品ボリュームの関係で多少物足りなく感じさせられるところもあるのあけれど。ここまで背景を書き込んでおいて、扱いがこれ? といった)。本作の場合は、一人指名手配となって逃げたままの謎めいた十二神将のメンバーが残されているところや、田代と高石の別れ際などの台詞に続編の匂いが感じられる。物足りない、という気持ちが今後、満たされると嬉しいのだけれど。


10/06/24
越前魔太郎「魔界探偵 冥王星O ジャンクションのJ」(講談社ノベルス'10)

 「越前魔太郎」は、2010年春から複数の覆面作家が共同で使用する筆名。2010年8月公開予定の映画で舞城王太郎原作の「NECK(ネック)」に登場する架空の作家の名前から取られている。このプロジェクトの進行の結果、ある程度関わりのある作家の名前が明らかになってきている。具体的にはwiki参照のこと。

 俺の名前は【冥王星O】。先ほど人間ヴァイオリン少女と、自分ではない【冥王星O】とが登場する物語を読み終えたところだ。ここは井の頭公園の近く。俺はさっきから一枚一枚、落ちている原稿用紙を拾っては読み続けている。見上げると道路の上に破線状に白い紙が落ちている。原稿用紙だ。そして原稿はある家の敷地の中に。俺はベルトに挟んだ玩具のピストルを握りしめながらチャイムを押す。「はい、どなた〜」「【冥王星O】ですけど」。そして新たな物語は、美しい脂肪を得ることでより美しくなれるという世界に生きる香味絵里香の物語。学校に持っていく生クリームを父親に取り上げられ激怒し、絶望し、彼女は家を出ていくことを決意する。続いては、ある男を捉えるために「汗」が必要だからと、冥王星Oに脳内を則られて全裸である特定男性を捜して歩かされるOLの話(少し違う)。女子大生・雪花が交際している男性は容姿も経歴も性格も別人に変わるが、それは皆【冥王星O】で、友人の三日月と「らくがお殺人事件」の秘密を追う。最後は【彼ら】と【冥王星O】、そして他様々な物語が断片エピソードとなって。果たしてこの物語群の意味は一体?

単純エンタから意味深エピソードまで。ある角度、ある解釈から【冥王星O】を捉るとこうなるのか
 基本的には【冥王星O】が内側にも外側にも登場するメタ構造を利用した中編集。後半に行くに従って、文章も短く、物語の設定や筋書き自体もめちゃくちゃにぶっ飛んでゆく(破綻しているという意味ではないので注意)ので厳密な意味での作品集ではない。わざと「完結する物語」を大きな流れのなかの断片として利用して、冥王星Oの世界自体を再構成しようとしている、といったそんな印象を全体からは感じた。
 ただ、そういった意図を考えずに物語に触れると、もうなんというか、すごく変態的。 若い女性の汗が敵に対する武器になるから裸で突撃、だとか、脂肪が最高の栄誉という世界での豚の話だとか、日本ホラー小説短編賞に出したら審査員が激賞しそうな、奇妙で綺形に歪んだ物語なのだ。いや楽しんだけどさ。何も冥王星Oで……という感想は浅はかか。むしろ、ラノベなのか他の作家か分からないが、表の名前ではイメージもあって発表できなかった作品が、匿名作家になったことで世に問うことができた――のかもしれないしね。
 とはいっても、そういった変態的物語を蕩尽することによってメタの外側世界の解釈はそれなりに一定の意図を徐々に満たした形になっているところは、繰り返しになるが興味深い。 この変態的(もういいって)中編たちだけではなく、先行して刊行されている、別の越前魔太郎(他の作者)によって生み出された「冥王星O」の物語群をも、この「ジャンクションのJ」が包含し、それらの物語がなぜ幾つも違ったかたち、レーベルにて刊行されているのかという、この越前魔太郎という企画そのものも飲み込んで、更にそこに回答を与えようとしている。実際、そこまでする必要は微妙なのだが、やろうとしたことの意気は買える。

 越前魔太郎シリーズは既に、舞城本人の作という作品も含めて刊行済み。ということで選べる状態であるならば、本書はむしろ最後とはいわないまでも後半に読むべき作品だと思う。三冊目として本書を手にとってしまった小生は少し失敗。ただ、何冊か越前魔太郎を読んだ後なら、かなり楽しめるように思う。


10/06/23
京極夏彦「西巷説百物語」(角川書店'10)

 第三弾にあたる『後巷説百物語』が第130回直木賞受賞作となった『巷説百物語』からシリーズ五冊目となる作品集。位置づけとしては続と後との中間、場所は大坂。従来シリーズの主要登場人物も顔を出すものの、主役を張るのは御行の又市の義兄弟・靄船の林蔵である。

 大坂商人で順風満帆、頂点にいることを自覚し引退も視野に入れはじめた杵乃字屋剛右衛門。その娘・お峰を見初めたという尾張の廻船問屋の次男坊から縁談が舞い込んでいるのだ。剛右衛門はコンサルタント役の帳屋の林蔵にアドバイスを求める。一方で大番頭は、その廻船問屋・城島屋の悪評を主人の耳にいれるのだが。 『桂男』
 小津屋貫兵衛の次男坊・貫蔵が気付くと知らぬ人間が周囲を囲っていた。貫蔵は強く頭を打って長いあいだ意識が無かったのだという。見覚えない番頭は、貫蔵の兄がある事件で変死して以降、父親が貫蔵に謝って身代を渡し、その父親も今は亡いという。 『遺言幽霊 水乞幽霊』
 土佐で刀鍛冶をしている助四郎はある噂を聞き一文字屋仁蔵の元を訪ね、裏の商売を依頼する。彼の目に入れても痛くないほどに可愛がっていた妻の様子がおかしくなってしまったのだという。彼曰く、地元四国の伝承で彼女は狼と入れ替わってしまったのではというのだが。 『鍛冶が嬶』
 人形浄瑠璃の若手名人の人形が、夜中の楽屋で破壊されてしまう。彼はこの人形でなければダメだといい、公演自体が中止になりかかるが、人形作りの名人がその人形をそっくりそのまま蘇らせるのだという。 『夜楽屋』
 疫病で一度は滅びかけた村を救った実力者・寛三郎。死んだ村人たちを葬った地域・荼毘ヶ原に幽霊が出るのだという。葬式を出したいという村人の意見に彼は反対するが、和尚の説得で葬儀が実現する。本来の庄屋・又右衛門は怯えっぱなしだったが……。 『溝出』
 主人の息子と自分の息子、双方を川の流れに取られて喪って激しく悔やむ与兵衛。酒蔵の跡を継いでも今ひとつ気分がしっくりこなかった。そこに酒の小売りの勘定が合わないという話が。豆狸が酒を買いに来ている仕業か。 『豆狸』
 今や野干のお栄とまで呼ばれるようになったお栄。靄船の林蔵と彼女の妹が恋仲でその妹は殺された。お栄は一文字屋に、大坂のもう一方の元締め、放亀の辰造の暗殺を依頼する。 『野狐』 以上七編。

高すぎる完成度。「必殺」に類する独自世界が工芸品の緻密さと輝きをもって演出される
 大坂随一の版元にして上方の裏仕事の元締めが一文字屋仁蔵、そして持ち込まれた因縁話を仕掛けで通すのが、又市の悪友にして腐れ縁・靄船の林蔵。百介に相当する記述担当の人物が決められていないこともあって(一度は百介自身が登場はするけれども)、仕掛け≠殺しという点を除くと、困った事情を抱えた人が裏仕事集団に仕事を依頼するというシチュエーションが繰り返されるため、「必殺」シリーズにシチュエーションというかベーシックな部分でより近くなっている印象がある。
 一方で「仕掛け」については、なんというか例外エピソードもあるものの、基本的には偶然を廃するためか長期間、そして大掛かりになっているようにみえる。(その証拠に、林蔵が様々なかたちで仕掛けた先で味方のようなフリをしている場面が多い)。ではその分、仕掛けがされた理由、その仕掛けの目的が読者にみえるかというとそんなこともなく、仕掛けそのものは想像外の結末を迎えてしまうことの方が多い。ただ、その想像外が、軌道修正をしながらの結末となっている点がユニークだ。また、必ず依頼に対して、靄船の林蔵なりが精緻で狡猾な「仕掛け」を設計しており、その仕掛けをどのように見せれば、読者にとって物語構造にとって効果的なのかが常に計算されていることが感じられる。その意味では、文体から構成から筋書きから隙がない。全体として、完成度が高すぎる。 もちろん欠点などではなく、あくまで褒め言葉なのだが、ここまでスゴイのやられてしまうとこの分野のフォロワーは現れられないようにも思ってしまう。つーか、京極夏彦の時代小説(エンタメ系)だけで、オンリージャンルなのかもしれませんが。

 ただ、妖怪に搦めて人間の歪んだ欲望や捩れた過去を暴き出すという物語という点が大前提であり、それを京極氏が書きたいから書いているという、どこか突き放された冷たいイメージも全体に漂っている。他の作品でもそうだが、京極氏自身がキャラクタに愛情を注いでおらず、あくまでコマとして使っているところも合わせて見え隠れするからだろうか。主人公格の靄船の林蔵にしても、取り替えが簡単に効いてしまう。キャラクタに過度の感情移入をさせないで物語自体の面白みに集中させるという意味ならば勿論成功している。しかし、そこまで計算されているとするならば、もう舌を巻くしかない。

 シリーズを読み続けている読者にとっては、何か障害がない限り読むべき作品。逆説的ではあるが、本書では「シリーズの根幹にまつわる重要なエピソードが無い」がゆえに、本作を取り敢えずのシリーズ味見として楽しむこともできよう。


10/06/22
恩田 陸「土曜日は灰色の馬」(晶文社'10)

 晶文社のホームページに超不定期連載されたエッセイを中心に、各種の雑誌媒体等に発表された小文や、文庫解説などをまとめた恩田陸さんプロデュースの「本」に関する本。その連載エッセイの題名が本書のタイトルとなっている。巻末に初出が一覧となっているのだけれど、一部の出版社の名前がなかったりするのでまだ他にもこういった企画があるのかなとか小さな推理をする。

 恩田さんの日常をベースに幾つかの映画や文芸作品に触れるかたちで一人称で語られるのが冒頭にある「硝子越しに囁く」
 そこから「面白い本はすべてエンタメ」と題され、しばらくは恩田さんが古今東西様々な作品に寄せた解説が並ぶ。一発目はデュ・モーリア『レベッカ』。ブラッドベリ、フィニィ、キングといったところは成る程と思う一方、三島由紀夫や松本清張といった大作家の解説も書いていたとは恐れ入る。この項後半の「伝奇小説が書きたい」は、恩田流の”伝奇”解釈にいい味があって面白く読んだ。続く第二章は「少女漫画と成長してきた」。 小生は寡聞にして知らなかったが恩田さんはかなり少女漫画に関しても一家言あるようだ。萩尾望都や内田善美。わたなべまさこの『聖ロザリンド』という作品に多く言及しているのが目立つ。そして美内すずえ「うう、美内先生、私はあなたの『ガラスの仮面』を読んでこんなに立派な「引き」命の女になりましたあ」なんか凄くウケました。最後は「暗がりにいる神様は見えない」。文芸、漫画ときたら最後は映画ということで。ドラマ「24」「ドリームガールズ」「フォース・カインド」……と、晶文社のホームページや映画パンフへの発表なので本当の意味での好き勝手な映画論ではないようなのだが。

恩田陸の作り方、のごくごく一部でもあり、今の恩田陸のごくごく一部でもある
 以前に『小説以外』というエッセイ集を読んでいるし、他にも紀行文であるとか、小説以外の恩田陸さんに触れる機会もそれなりにあったはず。そのはずなのだけれども、どこか凄く新鮮な気持ちで読めた。というのも、文芸・漫画・映画と三つのジャンルに分け、複数の作品を通じて/取り上げてその思い出や感想を書いてあるという、その愚直というか素直な構成がむしろ好ましかったから。もともと、恩田さんは自著が○○のオマージュであるといったことを明らかにする方ではあるので、何となくではあるがこんな系統の本を読まれているのだろうなあ、と感じるところはあった。本書はそれを再確認する部分がある一方、実はあんな本もこんなジャンルも実用書もグラフ誌も片っ端、といった雑読家の恩田陸という姿が浮かび上がる点も興味深い。その本なら本、映画なら映画に対する興味の向き方と思考の推移、読書時、鑑賞時の分析の仕方や連想の仕方が「作家脳」的で、やはり普通の読者脳と異なっていることも間違いなさそうだ。(たまに凄くミーハーな読み方だったりするところも面白いし)。
 特に文芸については児童書も含めて「私はこういう本を読んできた」という描写になっている一方、読んだ本に対する鋭い分析などもあり、解釈自体に存在する独特の感覚も楽しめる。ブラッドベリを語るのに「SFは青春小説だ」と大胆な定義をしたうえでブラッドベリは「青春小説であるSFの、青春たる象徴である気がする」という。SF全体がというのはとにかく、ブラッドベリ論としては「成る程なあ」と深く感心させられた。また、さすがというか本職というのか粗筋の作り方、そして印象的な文の抜き出し方なども参考になる。上記した漫画の『聖ロザリンド』とか、全く縁のない系統であるにもかかわらず、探してみようかなという気になりますものね。

 反面、この本だけを「本読み巧者によるガイドブック」として取り出して読むには多少偏りがあることも事実で、やはり恩田陸という作家の作品を幾つも読んできて、その作風に惹かれる方、そして勿論生粋の恩田陸のファン向けのエッセイ集成。しかし、恩田陸、文化的に奥が深い方だ。


10/06/21
舞城王太郎「イキルキス」(講談社'10)

 2010年、NEO舞城王太郎BEGINSと銘打たれ、「真夏のMAIJO祭」なる仕掛けが実行された。6月22日「You Ain't No Better Than Me.」という作品が『小説新潮』7月号に発表されることを皮切りに、9月6日の『魔界探偵 冥王星O デッドドールのダブルD』に至るまで本書を含む単行本や雑誌への作品発表を連続・凝縮して行うというもの。↑の日付はとにかく、既にその祭は終了しているものの、全て無事に刊行されている模様。本書は『群像』に発表された三中編をまとめた作品集。

 西暁中学校二年生の僕こと福島。五月十九日になって同じ2Aクラスの岡田美紀が原因不明で死んでしまう。その二日後に原因不明のまま野村幸江が死に、四日後にもまたクラスメイトが亡くなった。原因は不明。クラスの女子は全員死んでしまうのか。その事件を背景に福島はクラスメイトの八木智佳子といい関係になり、菱川京子に殺されそうになる。 『イキルキス』
 九歳の弟を変態男にレイプされ殺害されて喪った俺は自分の精液が許せなくなってしまう。ホモと噂される男をぶちのめし、ホモの集まるクラブを焼き討ちして捕まり、実刑判決を受ける。そして俺は刑務所のなかで絵を描きながらいろいろと考える。 『鼻クソご飯』
 家族四人で高速道路をドライブ中に事故に巻き込まれたが、家族全員無傷。三十七歳で普通の会社員だった父親は車を飛び出して八面六臂の活躍で巻き込まれた人々を助け出していった。その結果、僕の家の家族は微妙に変化してしまう。 『パッキャラ魔道』 以上三編。

とんでもないシチュエーションにとんでもない展開。尖った設定ゆえに人間の本質が滲み出す
 相変わらずの変幻自在。 文章も暴力的だし、表現も暴力的。一行先に何が書かれているか先読みも感情移入すらも拒絶する、エッジの効いた物語が三つ。そういう意味では、このとらえ所の無さ、まとまりの無さといった部分が逆説的に舞城王太郎の典型と捉えることもできそうだ。福井県や調布といった地名のキーワード、幾人かの人名のキーワード。他にも特定の登場人物が持つ能力、そういったところを幾つかの作品で同じように登場させておきながら、描かれる物語は全く方向性が異なっている。結果的に、舞城王太郎作品は常に刺激的ということになっている、と。
 ただ、本書における三つの物語は、それぞれ極端なシチュエーションを演出することで様々な人間感情、特に喜怒哀楽で簡単に割り切れない深い思いが描かれている。持て余すようなその感情を抱えた主人公を描き出すところまでの巧みさは素晴らしい。ただ(小生の読みが浅い可能性は否定しないが)、その感情を紙の上に描き出したところで作者も一緒になって戸惑うというか、登場人物と一緒に考え考えしているようにみえる。大抵は結論はなく、その結論がないところが結論になっているようにみえるのもその傍証。
 とはいっても、哲学的ではあるけれども、流れるような物語に身を任せるのもまた良し。スピード感は当然として、言葉の暴力に振り回されるも良し。また、普通のブンガクではなかなか赤裸々に表現されにくい、奇妙なルサンチマン(使ってみたかったの)の籠もった変態的表現に赤面するも良し。まあ、そんなこんなでいろんな楽しみ方がありそうです。

 いずれ芥川賞とか獲るんだろうなあ、と本作あたりを読むと強く感じる。あと、正直スゴイと思うのはひねりすぎるきらいはあるとはいえ、きちんと普通の平たいエンターテインメントも書いちゃうところか。舞城王太郎の場合、手にとって読み出すまでどんな話が来るか分からない割りに、読み始めると「ああ、舞城だ」となるところが不思議です。