MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE 国産ミステリ・レビュー
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


10/07/10
高田崇史「鬼神伝 龍の巻」(講談社ノベルス'10)

 『鬼神伝』の映画化もあり、ミステリーランド刊行分で終わっていたと思われていた『鬼神伝』が復活。先の『鬼神伝 鬼の巻』『鬼神伝 神の巻』が合本化され、講談社ノベルスの一冊として刊行。同時に本書が書き下ろしで加わった。なお、本書は「講談社書き下ろし100冊」の一冊でもある。

 平安時代での長い戦いを終え現代に戻ってきた天童純。しかしその当時の戦いに誰も耳を貸そうとせず、純は友人がおらず、ひとりぼっちのまま中学を卒業、現在は高校生となって鎌倉にいた。一年のオリエンテーションで鎌倉・長谷寺を訪れた純は、 水葉そっくりの少女を見かけ、後先考えずに後を追う。お堂の先にある弁天窟内部で純は意識を喪ってしまう。一方、鎌倉時代後期。源氏の血筋が絶えて北条家が実権を握っていた時代。鎌倉は争乱が絶えず、異国の鬼までが日本を窺っているといわれるなか、世間を騒がせていた巨体の鬼・赤目が処刑されるという。刀鍛冶・鬼正のもとで修行中の王仁丸は、処刑で使われる刀が有名な蛇胴丸と知り、処刑場へと赴く。その赤目は王仁丸に意味深な視線を送る。処刑に手間取っているうちに、仲間の鬼が処刑場を襲撃、赤目は救出された。そんななか北条家は、鬼たちの殲滅を計るため、源頼光の霊を鎌倉に呼び寄せようと試み、成功する。封印を解かれた頼光は帝釈天となって鬼の一族に対して猛攻撃を加えはじめた……。

鎌倉時代に時代を移すも、基本状況はあえて変化無し。その事態こそが日本の歴史ということか
 先の『鬼の巻』『神の巻』ともに平安時代の話であり、天童純が三度そちらに出向くかとも思っていたのだが、冒頭でいきなりあっさり年齢を重ねてしまっているうえ、時代は三百年ほど経過した鎌倉時代となっている。その鎌倉時代のパートでは、とりあえず「天童純」のかたちでは、全く登場する気配がなく、果たしてどういうかたちで彼が関わってくるのか、という点が物語の興味のひとつとなる。
 ただ、物語の構造としては基本的に変化はない。 平安時代に「貴族」だったところが「北条得宗家」に入れ替わり、”鬼”と名づけられた、人以外の人々が迫害される理由に、水銀や鉄が必要という北条家なりに真剣な理由があるくらい。そうそう、平安時代は貴族以外は人間扱いされていなかった世界が、三百年を経過することで執政者が「人」と判断する範疇が拡大されているようにも見える。(恐らく平安時代であれば、本書の主人公のひとつである刀鍛冶であっても鬼扱いだったかも)。鬼も、平安時代から当然代替わりしており、ごく一部の神様を除くと天童純と直接の面識は無いようだ。
 といった背景のなか繰り広げられる歴史ファンタジー。若干、日蓮が絡むことで宗教色が出ているところもあるが、基本的には帝釈天vs阿修羅王も継続するなか、鬼ユナイテッド+武士連合の戦い。 ここに封印されている五頭龍と弁財天が絡み、「人」らしい残酷な謀略が入ってくる。本書で描かれているような酷く卑怯な嘘・計略が、恐らくは日本の長い歴史のなかで繰り返し行われてきたのだろう。 そう考えると多少滅入る。(だから神社は霊を祀るんですね)。ただ、この裏切りを露骨に描写することが本書の場合重要であったということだと思うのだ。
 天狗が空を飛び、桃源郷が山奥にあり……といった鬼や神様らの能力については、歴史書云々と関係なく荒唐無稽。そこはそれ、大人としては「ファンタジー」と割り切るところ。ファンタジーに仮託された”何か”を読みとってはじめて本書を読んだといえるような、そんな印象を受けた。

 厳しい言い方をすると、QEDやカンナの新作には必ず新味的解釈やテーマが含まれていることに対し、この『鬼神伝』はそれらで既に登場してきたテーマを集大成しているという作品になる。ノベルスで刊行されているものの、実質はミステリーランドの本来読者(若い世代)向けというミスマッチ、そして中途半端さが感じられ、どこか居心地が悪いようにも思えた。


10/07/09
小雨大豆「フィオナ旅行記」(講談社BOX'10)

 小雨大豆氏は1983年生まれ。漫画家、イラストレーター、ゲーム作家。「good! アフタヌーン」誌初での異例のWEB連載をこの「フィオナ旅行記」で果たして商業デビュー。本書はその2009年5月から、2010年4月までインターネット上で発表された作品を単行本向けに加筆修正した作品。

 フィオナ・ローエングラム。軍事大国ローレシアの元軍人で少尉。ライフルが得意で胃袋が丈夫、そしてガッツと根性のある21歳・女性。ある理由から軍規に違反して故郷を追われ、幼い頃から一緒に育ったカキツバタと名づけられた龍の亜種と共に世界中を旅している。この世界はかつての地球に似た別の世界。(設定上は遙か数千年未来の地球?)龍や鳥、蛙など現代の動植物とは異なる性質を持つ動物があり、荒野には人買いや盗賊、そして猛獣がうろうろしており、一般人はほとんど旅行をしない。生物学も博識のフィオナは、元軍人の戦闘能力で世界を見る旅に出ている。珍しい生物を見つけ、食い、珍しい品物を仕入れて、別の場所で売る。旅をする人々と知り合い、そして様々な別れがある。そういった関係の一人に、襲撃されたキャラバンの生き残り・ヒノクレという女の子がいた。片方の眼に眼帯をしている彼女は、それまで辛い人生を送ってきていた。性格はフィオナと真反対であるにもかかわらず、二人は意気投合する。ある街に訪れた時、ヒノクレの歌唱力が素晴らしくショウビジネスの歌手としての能力が開花したことを見届け、フィオナは街を去ろうとするのだが……。

正真正銘のブログ(イラスト+文章)で綴られる、異世界冒険ストーリー

 ここを読みましょう。以上。

 ――というのは嘘(でもないか)。単行本のかたちで手に入れてから、本家がブログとして、現実のインターネット上で発表されていて、削除も何もされていないことに気付いたのだ。わはは。
 SFというよりも多種多様な生態系を持つ動物たちがいて、特殊な統治方法がなされている様々な国家があって、という前提でのファンタジー世界(但し魔法無し、剣のみ)。 ストーリーとしては基本ブログなので細かなエピソードを積み上げてゆく方式で作られていて、一応、主人公・フィオナが何故こういった旅をしているのかという目的や理由は、一部伏線のような描写があるものの本書だけではまだ理解できないようになっている。また、個々のエピソードは「いい話」「泣ける話」「変わった動物/国の話」あたりに収斂されそうで、泣ける系の話は(素直な読者はそれで良いと思うけれども)ちょっと狙い過ぎがみえるので鼻につくところもある。
 この、ブログ形式で物語を形成するという方法がまず斬新。 インターネットを利用したテキストというと井上夢人氏の試みをはじめ、様々な実権があった。しかしブログでファンタジー。誰でも思いつきそうだが、なかなか単行本にまで至るというケースは稀であろう。ここまで徹底してやるという点には素直に敬意を表したい。語弊がある言い方になるが、文章が拙くてもイラスト(写真という設定だが)さえ、一定以上のレベルであれば、十分鑑賞に耐える作品となるのだ。(むしろ、イラストがダメダメな場合は悲惨なことになりそうだ)。この作品の場合は、文章とイラストの両方を小雨氏が一手に引き受けているのでうまくいっている印象だ。
 小生は、単行本で読んでから後からWEBで補完したわけだが、紙媒体よりも遙かにインターネット上で見た方が良い(紙を入手した身としては微妙に残念ながら)。白黒ではイラストの魅力(情報量ともいう)が半減以下になり、その印象もぼやけてしまう。本書の場合は特に文章が拙く(小雨氏自身の文才は不明だが、普通の女の子が日常を書いたという設定であり、女子高生の携帯メールのような文章なのです)、イラストにおける情報補完が絶対必要となるためだ。その意味では、電子書籍とかいろいろ言われている昨今における、ひとつの実験的な意味もあるのかしらん。

 物語云々ということであれば、上にあるリンク先から読んでも、本で読んでも変わらないし、(書籍売上を阻むことになりましょうが)むしろインターネット上で読むのをお勧めします。ただ、ネットで発表された作品と、書籍という形式の親和性をいろいろ考えました。本書を買って比べてみられることも意味があるかも。


10/07/08
高田崇史「鬼神伝」(講談社ノベルス'10)

 『鬼神伝』が映画化されたこともあり、講談社ミステリーランドにて発表された『鬼神伝 鬼の巻』『鬼神伝 神の巻』が改訂されて合本となって講談社ノベルスにて登場したのが本作。同時刊行で新作となる『鬼神伝 龍の巻』が出たため、再読してみた。ちなみに『鬼神伝 鬼の巻』が出た時に、「上下巻を一気に読むと良いかも」といった趣旨のことを読んだ当時に書いており、今回まさに、その上下巻一気、という読み方ができるのが本作『鬼神伝』ということになる。

 胸に勾玉のようなかたちの痣を持つ中学生・天童純。京都の学校に転校して三ヶ月、友人も出来ず鬱屈した毎日を送っていた。その日、問題児から石を投げつけられた純は京都内を逃げ回り、不仁王寺という寺に入り込んだ。源雲と名乗る和尚に介抱された純だったが、その源雲によって純は平安時代にタイムスリップさせられてしまう。気付いた純の前に立つのは源頼光と名乗る武士の少年。この時代、人間は鬼と激しい戦いを繰り広げており、現在もその真っ最中なのだという。頼光によって殿上人の前に連れ出された純は頭の中が疑問でいっぱい。源雲もまた平安時代におり、彼らによれば純は鬼と戦う宿命なのだという。純は鬼に襲われながら「大和の雄龍霊」の封印を解き、オロチを復活させた。しかし同時に「鬼」と呼ばれている存在が人間であることにも気付き、ある場所で傷ついた鬼の少女・水葉を助けたことから自分の立場がおかしいことに気付いてしまう――。

何が正義で何が悪なのか。日本国神話・宗教ファンタジーのかたちを取りつつ高田史観が展開される
 一気に読んだことで、何か読後感が変わったかというと、実はそう変わらない。ある意味では、これまで『QED』シリーズにて展開されてきた様々な事柄のおさらい、というか、高田氏が小説という形式を借りて述べてきた、高田史観とでもいうべき日本の歴史の重要なポイントが、さらにメタ化した物語形式で描かれているという印象だ。
 根本にあるのは、公式な歴史書というものは「勝者の歴史」であるという点。時の為政者は、自らを正当化するために手段を選ばなかったはずで、それは歴史書であってもそう。弱者への弾圧、卑怯な戦い、裏切り等々、”自ら行った”権謀術数や不正行為などはその書に記載されることはない。この国の歴史学者たちが、脈々とその残された公文書のみを正統なテキストとしてあがめ奉ってきた結果、この国の「歴史学」においては、記載されなかった悲惨な過去は「無かったこと」になってしまっている。 当然、その教育を受けた人々もまた、同じ立ち位置にある。高田氏は、その考え方に対して一石を投じている……というのが、流れ。本書で「鬼」たちが、節分の習慣を始め、主人公の天童純に対して「考えろ」というのは、記録にすら残らず、鬼として歴史から抹消された「人々」の無念を、せめて覚えておこうということ。
 特に後半に至ると、ファンタジーの度合いが増す。戦艦が空を飛び、怪物が人間をなぎ倒し、天狗は空を飛び、仏教上の王たちは強大な力で世界を蹂躙する。当然、天童純も雄龍霊に乗って大活躍。まあ、これはこういう世界であるということだ。うん。

 暗号つきの「あとがき」も再録。ああ、これ解くの(当時)苦労したんだよなあ。暗号としては非常にオーソドックスなので是非自力で解き明かして欲しい。それもまたミステリの楽しみ。あと、『鬼の巻』『神の巻』の目次の上一字ずつを拾ってゆくと……。新刊の『龍の巻』でも同じ仕掛けがあってニヤリと。


10/07/07
大倉崇裕「小鳥を愛した容疑者」(講談社'10)

 『メフィスト』2009 VOL.1〜3、2010 VOL.1に掲載された作品がまとめられ、単行本化されたもの。本作が最初の一冊となるシリーズ作品(になるのかな)。

 捜査一課を牽引していた鬼警部補・須藤。ある事件に関して銃で撃たれ重傷を負う。名誉の負傷ではあったが退院後、体力の回復が伴わないため捜査一課には戻れず、総務部総務課に異動となった。須藤の肩書きは動植物管理係。その主たる任務は刑事事件に関係して急に飼い主を喪ったペットなど動物たちの面倒をみるというものだった。同僚は、普段は警察博物館に勤務する、獣医師の資格を持つ薄圭子巡査ただ一人。動物への愛情と知識は人一倍、だけどちょっと感覚が常人とずれてる彼女と、手練れの捜査員の感覚を取り戻しつつある須藤のコンビは、偶にしかない依頼を確実に、真相解明に結びつけてゆく。
 事故で意識不明、さらに殺人容疑者とみられる男が大量に飼っている十姉妹。薄巡査はその一羽の特徴から、その人物が犯人だと断定する。 『小鳥を愛した容疑者』
 海岸で投身自殺をした男が残した二匹のヘビを世話にきた二人。しかし男が愛するヘビを残して自殺する筈がない。小さな証拠から殺人事件へと……。 『ヘビを愛した容疑者』
 突如失踪した弁護士が残した巨大な陸ガメ。同じく弁護士の兄が立ち会うが、彼もまたかつては大きなカメを飼っていたらしい。残された手掛かりから薄が導いた結論は。 『カメを愛した容疑者』
 ペットのフクロウの鳴き声で隣家と揉めていた男。隣家の主人が撲殺され、現場にはフクロウの羽が。男は逮捕され、フクロウ保護に二人がやって来たのだが。『フクロウを愛した容疑者』 以上四編。

人間の常識や法律・ルールのしがらみ以上に動物を愛しすぎた男たちの末路
 ↑とか書くと、何か虚しい響きがあるのだけれども、主人公たちの関係による面白さではなく、扱われている動物関連の事件の方に焦点を当ててゆくと、結局のところは「そういうこと」に収斂して落ち着いてしまう気がする。
 とはいいましても、本書本来の楽しみ方は、”現場たたき上げ事件捜査一筋”の堅物刑事である須藤警部補と、警察官のコスプレと間違われるほど制服が似合わず、動物の体調や状態を第一に考える薄巡査との見事なまでの凸凹コンビっぷり、そしてその活躍にあることは間違いない。
 日本語の基準からして異なるのではないかという噛み合わない会話、捜査系の勘と動物系の知識という二人が組むことで初めて焦点が当てられる事件の別側面。当然そこから浮かび上がる真相は、意外な動機や犯人へと繋がってゆく。ペット探偵(とはどこにも書いていないが)犬や猫とはほんのちょっと異なるペットにしたことで、どうしても知識・蘊蓄系の台詞が増えてしまっている点はやむを得ないが、そこはどちらかというとヒント。物語としては、やはりペットを愛するあまりに歪んでしまった容疑者たちの苦悩と衝動が最終的に浮かび上がってゆく構造だ。
 この薄巡査、なんかどこかで……というのは、同じ大倉氏の福家警部補というよりも、他の作家による作品と比べるのは問題あるかもしれないのだが、浮世離れした女性キャラ+常識的な男性刑事、専門分野を活かした事件と解決による、連作――というと、鯨統一郎氏の作品、波田煌子あたりとかとイメージが被るように感じられた。(もちろん作者が違う以上、テイスト的に異なるところの方が多いのだけれど)。
 事件の方は、ミステリ的に若干意外性のある犯人像を狙い過ぎて(例えば『ヘビ』あたり)、推理の流れに若干無理が感じられるところがあるし、あまり知られていない動物の習性をベースに犯人を追い詰めてゆくという展開も、動物ミステリとしては面白いけれども、本格としてはアレですよね。先に書いたけれども、薄と同様に動物至上主義者が絡むことで常識外れ、複雑化しているのが本書の事件。薄巡査みたいな存在でなければ、探偵役は務まらない一方、彼女の動物至上主義+常識はずれっぷりは、ある意味本書登場の犯人側に近い感覚ではないかと思う。シリーズが続くと彼女自身が知らず犯人側にいた、なんてこともありそうだ。

 「例の編集者殺しは解決したそうじゃないか」
 「解決したのは、あの女警部補殿だ」
 という台詞は明らかに、大倉氏の別シリーズ、福家警部補を意識していると思われるので、同じ警視庁の話のようなので今後双方が絡む展開があり得そうで楽しみ。福家と薄、キャラが少し被っているところなど、本当に有り得るのならどうなってゆくのか期待が膨らむなあ。


10/07/06
太田忠司「星町の物語」(理論社'10)

 理論社WEBサイト内で「ミステリーYA!」のコンテンツとして連載されていたショートショート作品が単行本化されたもの。だが、YA!のコンテンツでありながら、本書そのものはレーベルと同じ四六判とはいえハードカバーの表紙となっており、独立した単行本扱いにて刊行された。本書は装幀・イラストはYOUCHAN。また、太田忠司氏は本書とは別に『まいなす』という作品をミステリーYA!で発表している。

 様々な人々が暮らす星町という街。商店街と住宅街がある普通の町で住所表記も○丁目というオーソドックスなもの。偉大なショートショートの先達から名前を貰ったこの町では猫が人間と会話を交わし、ロボットが現れ、標が立ち、有効期限が訪れ、虹が売られ、特務指令が割り振られ、モニターが募集され、おじさんがやって来て、サラリーマンが襲われる。この不思議な街の様々な場所で起きる、様々な物語。
『距離』『新しい服』『標』『紙飛行機』『幻花』『猫会議 1 一丁目二十二番地飛島宅人』『猫会議 2 一丁目二十二番地飛島弥右衛門』『月夜の散歩』『髪を切る』『モニター』『カレンダー』『本』『一番風呂』『有効期限』『道案内』『ショートケーキ』『地震』『ベス』『配線』『歯磨き』『交換』『虹売り』『花火』『封筒』『創造』『栞』『ダンヴァースさん』『占い』『ロボット』『猫会議 3 三丁目星町公園タシュケント』『写真』『球根』『誰かの靴』『指令』『聞こえない』『桜丼』『煙草』『椿』『空き地』『おじさん』
 以上四十編。しかし『あとがき』も一個の作品のようなものなので正確には四十一編かも。

装幀・挿画・内容と三拍子揃った「本」というかたちの洒落た……、そうこれはもう「本」という名のオブジェ
 いやもちろん、大作家・星新一ショートショートの正統な後継者の一人、太田忠司さんによる、オリジナルショートショート集というのが、当たり前で一義的な本書の説明となりましょう。ただ、手に取って読むことで、なおさら「本」という形式が愛おしくなり、手元に置いておきたいと思わせる、そんな本という側面をより強調したい。ショートショートの内容・水準はもちろん高いのだが、その内容に合わせて造本もまた凝っている。この点を抜きに本書は語れない。
 「星町の物語」という題字はちょっとデザインが微妙ではあるものの、この「星町」をイメージしたカバーの手触り(紙質)がまず良い。表紙、そしてさらに物語が始まる前に織り込まれているYOUCHANさんによる一枚ものの星町マップ。作品の題名の横に小さく内容の紹介挿画として登場しながら、その場面は全体地図の一部でもあるという(うまく表現できません、ごめん)構成。この地図がどうなっているのか、この物語が地図のどこで起きている出来事なのか、作品を読みながら行きつ戻りつする。それがまた楽しい。 ショートショートなので、読んでいる途中でワンクッション挟まっても何も問題がない、という形式が揃うことでもたらされる楽しさといえる。長編では余程でないと、細かく地図を見直したりはしないし。
 そして繰り返すが、デザインだけではなく作品の中身も上質。ショートショートはその短さに比してのインパクト(即ち煌めき、というのは多少牽強付会だが)により、小説のなかでも宝石に喩えられることが多い分野。現代のショートショートの名手の一人である太田さんが創り上げたショートショート群もまた、寂しさ、怖さ、喜び、哀しみ、恐怖、様々なインパ クトを創り出す、宝石たちのよう。
   さらにいうならば、本書は「本」という形式をもってその宝石と、さらにその宝石群を引き立たせる装幀、イラストによって(下手したら、イラストのみでも鑑賞可能な)パッケージを形成しており、四十の宝石が入った螺鈿の小箱といった趣きがあるのだ。ショートショートゆえに中身を紹介すると即ネタバレといったものも多い。また星新一フォロワーらしい作品から、一見従来のショートショートとは異なる筋道を辿るものまで様々な作品がある。逆にこれは読者によって好き嫌いが分かれるということにもなるだろう。全ての作品が凄い! というレベルではないことは事実だが、心に染みいる幾つかの作品のインパクトが強く、全体的なレベルが高いように感じられるのだ。

 別に書籍電子化の反対論者でもなんでもないのだが、こういった作り手側の意志を感じる、凝った構成の紙の本を手に取ると、やっぱり「本」には電子化できない領域というものも存在するのかなあとか感じた。図書館等で借りて中身を読んで返したら終わり、ではなく(それでももちろん良いのでしょうが)、書店で美本を買って手元に置いておきたくなる「本」だと個人的には思う。


10/07/05
長岡弘樹「線の波紋」(小学館'10)

 長岡氏は1969年生まれ。「真夏の車輪」にて'03年に小説推理新人賞を受賞。'08年に『傍聞き』にて第61回日本推理作家協会賞を受賞している。本書は『文芸ポスト』二〇〇六年春号から二〇〇七年冬号にかけて連載された作品に加筆修正が加えられて単行本化されたもの。

 白石千賀の二歳の一人娘・真由が連れ去られた。林で若い男から話しかけられているのが目撃されているものの、身代金の要求もない代わりに全く続報がないまま一ヶ月が経過、千賀は職場である町役場に復帰し、溜池建設の入札準備に携わっていた。千賀の夫も急な病で倒れ入院中だったが千賀のもとには刑事を名乗りつつ「残念ながら真由ちゃんは……」という悪質な悪戯電話がかかる。その真由ちゃん連れ去り現場によく姿を見せていた男・鈴木航介が、現場付近で刺殺死体となって発見された。鈴木は経理課員で、同期社員の久保の不正経理を一週間前に指摘していた。被害者の顔には柔らかな微笑みが。真由ちゃん事件を追う女性刑事・渡亜矢子。無事に戻ってきた真由から何とか証言を引き出そうと苦労した結果……。そしてそれぞれの事件が絡み合う、その中心にあった事件は。第一話「談合」第二話「追悼」第三話「波紋」第四話「再現」「エピローグ」 オムニバス短編による長編形式の作品。

事件が疑心暗鬼を呼び、事件が事件を引き起こす。その大きな塊が解きほぐされてゆく
 作者のなかではこの「大きな塊」のような事件の全体像がかっちりと先に設計されていたのだろう。第一話目を読んでいる時の感覚と、読了してからの感覚に大きな差異があるように感じられた。
 最初、一話目を読み始めた段階では作者の意図どころか、事件そのものに対しても微妙に焦点がぼやけているなど、よく判らない作品という印象が強かった。特に、二歳女児誘拐事件という耳目を集めるはずの大事件が前提になっており、これはきっと読み進めるうちに何かイヤーな場面が見せつけられるかも、と思っていたら意外な肩すかし。一話目の事件の焦点は、誘拐事件の最悪の結果を騙る超悪質な悪戯電話の正体にあった。ナゼそんな酷いことを被害者一家に出来るのか。真相は――。 極限状況ゆえのという但し書き付きならばある程度は理解する。が、ミステリとして魅力的な解決ではない。この一話目のラストが「こう」来ていなければ、読むのを止めていたかもしれない。(あ、その意味では展開としての意外性はあったということになるか)
 二話目、三話目、と事件の周辺が描かれ、同時に事件の中心にも迫ってゆく。全体的な試みや、細かな点のアイデアは悪くないのだけれども、第一話の犯人の心理にせよ、真犯人の行動にせよどこか腑に落ちない、引っかかるところがある。 こういう波紋が波紋を呼ぶというテーマで長編を構成するのであれば(以下ネタバレ反転) 、歪んだ理屈までは許されても狂気は使うべきではないと思うのです。この中心犯人からは、大人しい性格と一方で歪んだ精神部分がどうにもワタクシは理解し難い。また、彼のなかに一種のサイコを感じるがゆえに、その彼に惹かれているという女刑事にも違和感が出てくる。繊細好きといっても、引き籠もりで愛想の悪い男性に惚れるというのはなぜなのか。このあたりの違和感は拭えないというか、ごまかされているような気持ちになってしまった。とにかく、全体の構想と事件を描く角度が良いだけに、なんか中心部のヒビが目立つような感触が少し残念に感じられた。
 また、著者にそこまで描く意図があったかどうかは不明だが、地方都市の寒々とした日常・現状であるとか、その地に住まう人々の都会人とは微妙に異なる感覚であるとか、描写以上に人々の生活のなかに込められた様々な要件がダイレクトに伝わってくる。前作の『傍聞き』にしても、本作にしても高い実力とアイデア、そして意欲が感じられるので、いずれどこかでブレイクするはず、と思いながら読んでいる。


10/07/04
戸梶圭太「見当たり捜査官」(双葉社'10)

『小説推理』'09年4月号から'09年12月号にかけて連載されていた同名作品に加筆訂正が加えられて単行本化されたもの。ノンシリーズ……というか、トカジの場合シリーズ作品の方が限られている訳ですが。『誘拐の誤差』だとかと出版元が同じなのですが、双葉社+トカジはなぜか非常にシリアスな警察小説の雰囲気を湛えた表紙が共通しているといえばいえる。ちなみに装画は西口司郎画伯。

 警視庁共助課に所属する中年刑事・久米山は「見当たり捜査官」。地道な捜査も聞き込みもせず、その代わり指名手配された犯人たちの膨大な量の顔写真を頭にたたき込んで、東京の人混みなどをひたすら監視、対象者を見つけ出すという特殊能力を伴う警察官だ。久米山はかつては警視総監賞を受賞する程の優秀な捜査官だったのだが、最近はスランプに落ち込んでおり、(第一話の段階で六十六日)もう何日も逮捕者を出していない。不名誉な記録に終止符を打つべく今日も歩道橋の上に立っていた。が、じっと動かないその状態が不審だったようで誰かに通報され、職務質問を受ける羽目に陥る。不機嫌に警察官であることを所轄に明かすうちに、久米山の前を一人の指名手配犯人が通り過ぎた。陳遠楊。平成十八年に千葉県市川市で雑貨屋夫婦を強殺した犯人だ。なんとか捕まえることに成功するのだが……。

うーむ、(あくまでもトカジにしては)抑制の効いた(トカジにしては)普通の警察小説。
 「あくまでトカジにしては」という点に注意。 普通作家がこれを書いたら、かなりぶっ飛んでいるという内容ではあるのだが(例えば、第二話では殺人で指名手配されている女性と久米山はさんざんに関係を持ってしまう。この表現もかなり穏便に端折っているんだけどね)、それでも、これまでに戸梶圭太が表現してきた世界に比べると、久米山含め関係者がある程度まともな感覚を保っている。ひたすら安い人間の死体を量産することの多いこれまでの戸梶圭太の作品群のなかでは、比較的というか抜けて本書は大人しい部類の作品であるかのように感じられる。
 とはいっても、誇れるものは何もない見た目も今ひとつ冴えない安い中年刑事が主人公。 彼が心を寄せるのは同僚の天然ちゃん女性で、見当たり捜査の腕と運が抜けて良い園江莉代子巡査部長。ただ、とにかく回を追うごとに久米山のスランプが強烈さを増しており、指名手配犯を見つけることができても、所轄との相性が悪かったり、犯人の強烈な悪あがきに翻弄されたりと、なかなか逮捕に結びつかない悪循環。笑えば良いのか泣けば良いのか(いや、こいつと一緒に泣くのは嫌だ)、おかしくも暗い気持ちにさせられる。
 その意味では、これも良くも悪くもすかっとする、という感覚がこの作品には薄い(無い)かもしれない。極端に振れることでトカジ作品が発していた、ぎとぎとした熱気は、少なくとも本書からは感じられない。それが昨今のトカジの方向性なのかどうか。

 この「見当たり捜査官」、トカジ得意の想像職種ではなく現実の警察に存在する職種で、実際に逮捕者が出るなど成果も上がっているそうだ。そして再三述べている通り、トカジ作品においては、ほとんどぶっ飛んでいない内容である。いるのかどうか不明だが、トカジは好きだがもっと大人しくなってくれれば、という読者向けのような印象。かつての烈しさを求める読者には少し物足りない。


10/07/03
篠田真由美「緑金書房午睡譚」(講談社'10)

 『メフィスト』誌'08年5月号、9月号、'09年vol.1、vol.2、vol.3が初出となる、ノンシリーズ作品。篠田真由美さんの現代舞台作品は、桜井京介のいる世界と陸続きであることが多いのだが、本書はそうなっていない。題名は(りょくきんしょぼうごすいたん)と読む。念のため。

 木守比奈子はある理由から入学した都立高校を自分から休学し、毎日読書ばかりをして過ごしている十六歳の少女。母親とは十年前に死別しており、初さんというお手伝いさんに来てもらいながら、大学で英文学教授をしている無口な父親との二人暮らしをしている。その父が英国に一年間研究留学に行くことになる。比奈子には父についてゆく、小石川にいる口うるさい伯母のところに行く、といった選択肢があったがどれも拒否。最後は父は母親の親戚を紹介してくれる。金子緑朗。中央区の月島で古本屋を経営しているのだという。訪ねていった比奈子の前に現れた緑朗は、ぼさぼさの頭に度の強そうな眼鏡、センスのない服装に貧相な身体つき。暗くて取っつきにくそうで冴えない男性だった。比奈子は何となく乗り気ではない緑朗を押し切り、その古書店・緑金書房の屋根裏部屋に入れてもらい、一緒に生活することになる。だが、何かこの古書店には落ち着かず、不思議な現象が起きるような気がし始めた。

篠田流スパイスがピリリと効いた、物語世界&現実世界とのスキマに宿るファンタジー・アドベンチャー
 作者もあとがきで述べているが、古本屋という存在は本書を語る時に外せない要素の一つである。巷の古本屋が持つ独特の文化的背景、例えば人々が読み終わった本を買い取り、整理して店に出して販売するといった一連の行為であるとか、店主の一存で消費期限(販売期間)を決められるとか、一般読者が知らないような特殊分野の知識も古本屋は持っているとか、古本屋がどこか神秘的な存在であることが本書におけるひとつのポイントとなっている。要は古本屋という「場」が、人々が味わった様々な「物語」が集中する場所であり、一種の文化的交差点であるという部分に焦点が当てられた物語なのだ。
 その「場」に読書人は仄かな憧憬や郷愁をみる、ないし夢想する、というところまで本書は踏み込む。作品内でもしばしば引用されている『ナルニア国物語』の冒頭にあるような、扉一枚隔てた先にある魔法と剣の異世界――というような夢が実在しても不思議のない場として、古本屋が選ばれている。 その発想はユニークでもあり、そして必然でもあると感じられる。
 主人公の比奈子の立ち位置もまたユニーク。休学中の十六歳。少女と大人との狭間(個人によってこの時期はズレようが、本書の比奈子はまさにその位置に立つ)にあり、悪くいうと、本ばかり読んでいる頭でっかち。その一方、もともとが夢見がちであり、本書で味わう不思議な体験を、フラットに受け止められる素養がある。若き頃の作者の分身というのは想像し過ぎかもしれないが、常に現実の世の中に一定数、文系知識過剰知ったかぶり夢見る少女(これもあえて悪く書いたが)がいて、比奈子はその最大公約数的存在をではないかと感じられた。一例として、彼女の独白のなかから象徴的な部分を引用してみる。

真実と事実は違う。本当は動物はしゃべれるのだ。しゃべれない振りをしているだけだと真顔で主張したら、いくら子供でも笑いものにされるのが関の山だが、心の中でこっそりそう思っているだけならなにも悪いことはない。ポケットの中で握りしめた緑色のビー玉を、ガラスではないエメラルドだと信じて大切にするのは自由だ。事実はガラス、でも自分にとっての真実はエメラルド。

 そして、その古本屋という「場」、比奈子という「人」の両輪が揃って初めて本書がぐいぐい進み出す。 でなければ、緑金書房は単なる古本屋、比奈子は一人の思春期ならではの問題こそ抱えているが一人の少女に過ぎないわけで。
 ただ、そこから先は物語のボリュームと篠田さんの書きたいこととにアンバランスが多少ある印象も。一方で、夢の(?)ファンタジー世界が身近にもあるかも? という中二病にも似た居心地の良さを主人公に提供し、これまた主人公が喜びそうなベタなラブストーリーを天から振りかけ、しかし、現実だろうがファンタジーだろうが、どちらの世界も普通に生きていくこと自体のはそう甘くて簡単なことではない――と逆説的にばっさり切り捨てる残酷な(骨は拾っているとはいえ)側面をきっちり見せている。現実とは遊離した世界がすぐ近くにあるという居心地の良さだけで終わらせず、いずれにせよ前向きに進んでいく必要があるということ。(但し、教条的な意味合いはあまり無い)。比奈子の高校休学の理由にしても、物語で明かされる分には、第三者的に大したことはないかもしれないが、これは彼女の繊細な心持ちと物語バランスを考慮した結果かと感じられた。

 古本屋を舞台としたファンタジーとして印象深い作品。そして篠田真由美さんがみせる、ミステリ作家の側面とファンタジー作家の側面、それらをノンシリーズで融合するとこういった手触りになるというところもまた興味深かった。超絶エンターテインメントというわけではないが、物語を愛する人に読んでもらいたい作品。


10/07/02
乾 ルカ「あの日にかえりたい」(実業之日本社'10)

 初出誌は全て『月刊ジェイ・ノベル』2008年9月号から、2010年2月号にかけて不定期に掲載されたシリーズがまとめられた四冊目となる単行本。ノンシリーズ作品集で、デビュー作『夏光』にも雰囲気が近い。第143回直木賞候補作品。

 いじめられっ子の小学生。家では学業の遅れを親から指摘され塾通いを勧められるが、そもそもいじめっ子たちが塾に通っており、鬱屈した日々を過ごす。そんな彼は夏休みの夜中、部屋から抜け出して深夜の動物園に忍び込む。その先には飼育員を名乗る男がいて、彼は少年を夜の動物園へと連れだしてくれるのだが……。 『真夜中の動物園』
 北海道のある島に住む小学校五年生の西田元。彼は幼い頃に母親を亡くし、父親と暮らしてきたが、父親が再婚して新しい母親を家に迎えることになった。彼は不器用な新米母親に送る作文を書くが、父に書き直しを命ぜられてしまう。その晩、島を地震が襲った。 『翔る少年』
 北海道の特別養護老人ホームにボランティアで訪れた石橋佳代は、ある偏屈な老人に気に入られる。彼もまた石橋という姓で亡くなった妻が佳代子という名だったという。石橋は、かつての自分の山師ぶりと、妻の甲斐甲斐しさについて石橋佳代が訪れるたびに話始めた。 『あの日にかえりたい』
 くたびれた三十代の独身OL。彼女の高校生時代の終わり、光り輝いていたあの頃に仲間がいて、そしてまた集まって高校のグラウンドで花火をしようと約束をしていた。彼女はバスに乗り、卒業した高校へとやって来た。 『へび玉』
 アルペン競技のスキーヤー。世界大会でのちょっとしたミスで彼は転倒事故を起こし、命を喪う。その瞬間から彼の記憶は遡り、自分がなぜ危険を伴うアルペン競技を続けてきたかを回想する。 『did not finish』
 ウォーキングを趣味にしている亜希子はハクモクレンのある中学校に通りかかった時に老婆と出会う。冬のの夜にしか歩かないという老婆になぜか強い親しみを覚える亜希子、そして老人の秘密を亜希子は知る。 『夜、あるく』 以上六編。

”泣かせ”だけではない。確かな構成と拡がる奇想を緻密に裏打ちする物語作りもまた見事
 直木賞候補作として挙げられたことで、初めてこの作者を知ることになった読者も多そうだ。そして、本作に収録の『翔ける少年』『へび玉』といった作品を受けて”泣かせ”系作品の書き手として認知されてしまうとするならば、それは作者にも読者にも、双方にとって不幸なことのように思える。(いきなりこういう仮定の断定で申し訳ないですが)。
 本書においても、乾ルカの特性は現れている。その本質は泣きとか感動とかではなく、むしろ奇想天外な着想にあると感じられる。本書におけるほとんどの作品の本質は、物語における時間軸の不確かさ、ズレによって構成されている。どういうかたちでズレが入れられているかは各作品に実地にあたって頂くとして、その時間軸をずらすことによって、登場人物の人生をあり得ないかたちで振り返らせたり予見させたり、または同じくあり得ないかたちの出会いを実現したり。彼と彼女の時間がずれて、妻と夫の時間を揃えて。人間が人間である限り、絶対に手に入れられない時間の流れのコントロール。これを人生に繰り入れられたらどうなるか。やはり自由に人間が扱えず、神様の悪戯でしかない奇蹟をみた人々の物語。
 結果、登場人物たちの思いに心を寄せて「泣く」のはもちろん良し。だが、読者を「泣かせる」ことはあくまで副次的な事柄に過ぎず、むしろ一本道でしか基本的にはあり得ない人々の人生をユニークなかたちで切り取ってつなぎ合わせること、それ自体に主眼が置いてあるように思えてならない。
 そして当然というか、物語一本一本のクオリティが高い。伏線もあるしストーリーを追わせるだけの吸引力もある。本格ミステリにおける謎とは当然異なるが、「ミステリー」じみた出来事があって、その結末を知りたいと思わせる物語力が素晴らしい。その意味では物語指向の方がその他要素より強いということかと考えられる。

ちなみに作者には悪いが、本作が乾ルカの最高傑作ではない以上、直木賞の受賞を逃したことは仕方ないと考える。もっと素晴らしい作品or作品集が乾ルカさんから生まれてくると確信しているから。


10/07/01
朱川湊人「鏡の偽乙女 薄紅雪華紋様」(集英社'10)

 『小説すばる』に不定期掲載されていた「薄紅雪華紋様」のシリーズが五話まとめられたもの。最初の掲載が2008年1月号、本作収録の最後の作品が2009年1月号となっている。

貿易会社経営の父の実務至上主義に反発して、絵描きを目指すひとり暮らしのために家を飛び出した槇島。彼は偶然、穂村江雪華なる謎めいた人物と邂逅する。謎めいて様々な知識を持つ彼もまた画家だという。 『墓場の傘』
 下宿に口うるさいのがいたことを口実に、槇島は雪華の住む下宿に越してくる算段をした。入居してみると蟋蟀荘なるその下宿には、人知を越えた奇怪な存在があるのだという。 『鏡の偽乙女』
 雪華の紹介で平河惣多という絵描きと出会う槇島。惣多の下宿にいる小さな女の子・おフウ。彼女の母親は目が不自由で、父親は屈強な体格でおフウのことを強く気に掛けている。 『畸談みれいじゃ』
 槇島の遠縁の親戚が失踪。銀行員であったその親戚を捜し出すため浅草を訪れた槇島は、親戚自体は見つけたものの、彼が夢中になっている存在が美少年だと知って驚く。さらにその少年が年齢を取らないということも。 『壺中の稲妻』
 美人手品師・天勝の名前をパクって手品をする女手品師・月子。彼女の夢は自分に声を掛けてくれた早稲田大学生・平井との再会を待つことがが心の支えだった。そして月子はその一世一代の舞台を後にして……。 『夜の夢こそまこと』 以上五編。

大正三年の遊民たちが迎える謎+実際の芸術家の姿が歴史ifとばかりに散見される贅沢な奇譚集
 歴史ファンタジー、といってしまえばそういうジャンルなのだが。
 ファンタジーというか、フィクションぽい設定には大きく二つあって、一つは題名にも登場する「みれいじゃ」なる存在。妄執を現世に強く残したまま亡くなった人間の魂が、ある存在によって引き戻され、あたかも生きているかのように暮らしを再開している、というテーマだ。ゾンビとも微妙に違い、死んだ存在が蘇って普通に生きているフリをしている。その死体が発見されて生きていることがおかしいと指摘される、ないしそのみれいじゃの妄執となっている元の願いが叶った時に成仏(?)し、みれいじゃは解放される。多数が出てくるとギャグにもホラーにもなる得るゾンビ(みたいな存在)だが、果たして彼(彼女)の願いは叶うのか!? となると感動譚になるから不思議だ。
 もうひとつ微妙なのは、その「みれいじゃ」の存在を槇島に教える立場にある穂村江雪華なる画家の存在だ。これまた、みれいじゃの存在をただ知っているということだけではなく、彼自身に謎めいた部分が残されている。食事をほとんど摂らない、午前中は活動しない……ってアレですかねえ。そして雪華の正体を知らないまま、普通に付き合ってゆける槇島は風波という雅号同様、おっとりした印象があり、よけいに雪華との人物対比が際だっている。貧乏画家である彼が、雪華と共に当たる奇譚集というのが一面的な本書の在り方。
 また、そういったファンタジー部分を除くと、この大正初期の時代風俗を活写したり、乱歩や村山槐多といった当時に実際に存在した有名人の若かりし頃を、物語に登場人物として反映させたりといった遊び心のある歴史小説の側面が出てくる。架空の登場人物と、歴史上人物がいてもおかしくない舞台で絡むのは歴史小説表現の特権でもあり、この手法がうまくいった作品は必ず傑作になっていると個人的には思う。そういった意味では、歴史上の人物を明らかに○○とせず、読む人が読んだら分かるといった書き方にしているところは自信がないというより、奥ゆかしいからか。

 結果として様々なタイプの作品が集まっており、どちらかというと妖怪譚というよりかは人情が勝った物語構造になっている。つまりファンタジーとして現実とは更に遊離しているわけなのだが、うまくどの話も現実風俗の引っ張り込み方が巧く、ゾンビ(?)要素が多い割りにきっちりとまとめられている点は好印象。本作がシリーズ第一作ということもあり、まだ全ての謎が解けていないところもあるように思える。とりあえず今回読んだ分は相応に満足できた。