MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE 国産ミステリ・レビュー
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


10/07/20
恒川光太郎「竜が最後に帰る場所」(講談社'10)

 冒頭の『風を放つ』のみ『群像』2007年5月号、残り四作は『エソラ』(vol.4,5,7,9)号に発表された作品(夜行の冬が一番最初)。それぞれの短編が独立したテーマを扱うノンシリーズの作品集。

 バイト先の先輩の携帯電話を使って僕こと大学生のシゲ君に電話を唐突に掛けてきた女性・マミ。彼女は電話でしつこく僕に絡んできて、自分は願い事の叶う瓶を持っているのだと言い出す。 『風を放つ』
 父親を早くに亡くし女手一つで育てられている小学生・クニミツ。母親が連れてきた男は宗岡といい、アーティスト気取りだったが時折、たがが外れてヒステリックな暴力を振るってくる。別れを決意した母親に対し宗岡はキレまくり、遂に彼女を刺し殺して警察に捕まった。 『迷走のオルネラ』
 冬の夜に遠くから聞こえてくる鈴の音。祖母から決してその音が鳴る夜は外に出てはいけないと諭されていた僕は、ある晩その秘密を探りたくなり、外に出る。そこにはたくさんの影を引き連れた女性がいた。僕は彼女について別の世界への旅に出るようになる。 『夜行の冬』
 電子ピアノを購入した宏は、アサノなる人物から声を掛けられしつこくつきまとわれる。彼によれば、この世には「擬装集合体」なる存在があり、数多くの動物が集団となって他の何かに偽装している場合があるのだという。宏の目の前でアサノは携帯電話を蟻の集合体に変化させた。 『鸚鵡幻想曲』
 池の中で多数の仲間と共に孵化し、すぐに他の生物の餌食になっていくなか生き延びて成長を続けるゴロンド。陸に上り、仲間に導かれ、群れを率いるシンという成体と出会う。 『ゴロンド』 以上五編。

奇想的なモチーフを扱いつつ、どこかに懐かしさと、一抹の寂しさ。ホラー作家は文学者でもあるということ
 いやいや、どれを取っても恒川光太郎作品らしさがある一方で、どれもが異なるテイストを持つ作品という、なんというかその才能の幅が素直に伺えるラインナップである。
 まず、収録作中唯一の普通小説である『風を放つ』が逆に目立ってしまう。女性からちょっかいをかけられた、今ひとつもてるタイプではない学生の揺れる心と、宙ぶらりんで証明されない魔法の言い伝え。このバランスがよく、ラストの宙ぶらりん感で逆に読者を引き付ける。
 『迷走のオルネラ』は、幼児虐待が一つのテーマ、そしてその復讐。こういう中途半端な大人は確かにいるし、一番の被害者が子供という点、しみじみと感じさせられる。ただ、そこからこういうトリックというか仕掛けを施すところに作者のちょっとした余裕を感じる。
 『夜行の冬』。どちらかというと和のテイスト。何かに連れられ旅をするという不可思議さと、逆に彼らが提出することになる命との対比がユニーク。設定だけなら他にもありそうだが、そのディティールが良い。
 『鸚鵡幻想曲』、これの設定上の奇想と、その逆転だけでかなり強烈な右フックを食らうのと同等ダメージ。なのだが、逆転を終えた後の展開で連発のジャブ、そして最後に強烈なアッパーカットを喰らって自分自身お星様になるって何言うてるか分かりませんかそうですか。異種格闘技。とにかく「擬装集合体」という素材から、よくぞまあここまで物語を紡ぎ出したもの、という印象。作品集収録作中、もっとも色彩が鮮やかに浮かぶ作品でもある。
 そして最後が『ゴロンド』。この作品集の題名をも象徴する竜の物語。これもまた草の匂いが沸き立つような作品で、静かに生物が生まれてから成長してゆくまでを、竜の一人称で描く。動的でありながら静謐な雰囲気が漂う、祈りが込められた内容は心に残る。

 デビュー作『夜市』ももちろん良かったが、恒川氏の場合は作品を重ねるにつれて、どんどん更に作風に幅と深みが増してきている印象。今後もクオリティをキープした作品を打ち出していって欲しい。


10/07/19
田中哲弥「サゴケヒ族民謡の主題による変奏曲」(講談社BOX'10)

 『大久保町の決闘』を始めとする「大久保町三部作」『猿駅/初恋』といった著作のあるマルチ・エンタテイナー、田中哲弥氏のノンシリーズ短編集。講談社『パンドラ2009 Spring Vol.3』に発表した表題作や各種の「異形コレクション」に取り上げられた作品、各種雑誌に発表した作品群に書き下ろしと未発表作品が加えられて単行本化されている。

 周囲にも認められる若きトランペッター・佐田雄樹はウィーンのラタキ氏の推薦でインターナショナルユースへの参加を認められた。しかし、ほとんど言葉が通じないうえ、演奏では個性を出すなという指示が出る。徐々に孤立を深める雄樹、しかし脱走の機会もほとんど無い。 『サゴケヒ族民謡の主題による変奏曲』
 同窓会に来ていた筈なのに僕の身体は高校生に。しかも齢八十歳になろうかという隣の山下老人が、級友の女の子と交際したいなどと言い出す。 『夜なのに』
 どんな理由か知らんが、外で寝起きしている女性の独白。 『夕暮れの音楽室』
 自慢しいの友人と長距離サイクリングに出かける。そこにある何の変哲のない山を登ると、その友人の分身が次から次へと現れて……。 『坂の中の坂』
 DV夫だった平吉は病に倒れ、おさとは気が触れそうになりながら必死で看病。周囲の眼も気に掛けず瀕死の夫と同衾する始末。そのおさとが未だ好きな清次は彼らを世話するが、やがて平吉が亡くなってしまう。 『おさと』
 牛夫と呼ばれた男の子と、晩餐会のホストを勤める男との美しく醜い友情。その友情の結果を話し相手は目の当たりにさせられ絶句する。 『はかない願い』
 郊外に購入した念願のマイホームのすぐ隣に、笠玉利家なる隣人が生活を開始する。大量の牧畜を近所で飼ったうえ、糞尿がウチの敷地に流れてくる。しかし、笠玉利家の評判は頗る良い。 『隣人』
 従姉妹の優子姉さんを捜しにいくために大きな家で食事をしている男。彼の考えることは刻一刻と変化してゆく。その変化が図帳に現れている。 『従姉の森』 以上八編。

  めちゃくちゃ「嫌」な感覚が肌にまとわりついて離れない。醜く美しくない珠玉の八作品
 読んでいて、ないし読み終わった後に、なんとなく嫌なイメージが心に引っかかるような作品を読んだ時に「ざらりとした感触が残る」といった形容詞を付けるもの。だが、本書収録作はその「ざらり」を突き抜けたもう一段階上の超絶に嫌な印象が残るものばかり。ざらりとしたものが割れてぬるぬるぐじゅぐじゅぶじゅぶじゅした何かがべっちょーりと手のひらに付着してそこから腐っていくような感じといえばいいか(形容過剰) でもね、そんな感じなのです。
 具体的な描写が嫌というタイプではなく、何よりもいきなりほとんどコミュニケーションの通じない世界に放り込まれる拒絶感が嫌。そのうえで何をされるか判らない、行き着く先を想像するしかない恐怖。そんな状況下で、狂った状況に慣れていく自分の自覚も恐怖。  筋道が通っているのか通っていないのか、通っていないこと自体が狂気ともいえるのでしょうがそれだと物語として読者に提供するに至らない筈なのに、その狂気ぎりぎりで、しかも正気ではなくて狂気側に位置している物語。
 普通の意味で、恐怖の要素を配置して盛り上げてといった意図がほとんど感じられない。その感じられないでこんな気持ち悪い、訳の分からないいろいろが、小説の要素として入っているところが怖い。今まで味わった恐怖と全く異なる恐怖小説集。だということは間違っていない。

 そもそもなぜ田中哲弥さんほどのキャリアある作家が、講談社BOXから刊行なんだ、というところからなんかおかしいし、歪んでいるし。「この作品集が田中哲弥そのもの」という認識が世の中に蔓延するとどうなるのだろう。ま、いいか。


10/07/18
汀こるもの「完全犯罪研究部」(講談社ノベルス'10)

 メフィスト賞を受賞したデビュー作品『パラダイス・クローズド』から始まった「THANATOS」シリーズが人気の汀こるもの氏。本書は同作品と世界観を同じくする別系統クライムノベル。本作構想段階ではシリーズ化の計画はなかったようだが、とりあえず続刊は出ている。書き下ろし。

 醍葉学園にある部活動・推理小説研究部は変人とオタクの巣窟。ミステリを創作したり語り合うこともなく、その正体は「完全犯罪」によって対象となる悪人を始末することを目的とした集団となっている。その正体は「完全犯罪研究部」。校内外で発生する事件に興味本位で首を突っ込み、危険な価値観で断罪し、脅威の実力で相手を叩きのめす。その中心となっているのは謎の転校生、特にオタク的知識がある訳でもないのだが独特の存在感を示す二年生・古賀鷹也。姉妹校からの転校だが、真っ白な状態で転校させられており、実は武闘派でもある。もう一人、紅一点の杉野更紗、通称:杉野二号。地味な性格だった筈が、何者かによって殺害された姉・咲良の死をきっかけに、彼女の立ち居振る舞いや言動を真似、周囲を混乱させている。他、サブカルに深い造詣を持ち更紗が好きな佐竹博士、サバゲーが得意の東條雪丸、見た目は幼いが手先がめちゃくちゃ器用な川崎淳平らがおり、彼らを束ねる役割を押しつけられる不幸な役割を担うのがゆりっぺこと、由利千早。二十六歳の美人化学教師でありながら、別の教師との不倫を研究部に押さえられており、ひどい目に遭い続ける。

性格最悪・センス抜群の”情強”高校生たちによる、最も危険なゲーム
 本書に関していえば、講談社ノベルスはどこか販売戦略をミスしているように思う。この絵師さんがなんら悪い訳ではないのだが、本書こそ「THANATOS」系列の渋い表紙絵が使われるべきで、カワイイ系のキャラを表現している場合じゃない。というのは、本書の物語展開とも関係してくるのだが、本作は「キャラクタ小説」であるようにみえて、実は違うのだ。 いや強いていえばこの作品のみで考えた場合に「チーム」と成り得るのかもしれないが、特殊な生い立ちと設定を持つ古賀と杉野を除く残りについては、佐竹が佐竹である必要はなく、東條が東條である必要はなく、匠が匠である必要はない。名前や見た目が異なっても、インターネット等から必要以上の情報を得られて、倫理観がおかしい人物であれば別に代わりは事足りてしまう。杉野も含め、全体で交わされるやり取りが、基本インターネット上情報や知識におけるやり取り。 もちろんネット上にもないディープな事項もあるのだけれども、殺人や犯罪に関するオタク的知識と、その知識を実際に使用して試してみたいという幼稚な衝動を抑えきれない面々が揃う。この段階で、誰が誰でも関係ないと思うのだ。作者がどこまで考えているのか判らないのだが、こういった情報チルドレン(高校生だが)を正面から描くことで、なかなかこれまでの作家ですら向き合えなかった現実を物語上に記したという点だけでも作者はもっと褒められていい。
 また、情報の鮮度が高い。というのは裏を返すとこの瞬間の流行をきっちり捉えているということ。表現は器物に関して時間が経過するとネット社会だとより恐ろしく古く変化していくのだが、作者自身、時間経過による陳腐化を全く恐れていないところが恐ろしい。

 個々の犯罪計画にしても、それなりに説得性が高く「よい子は真似してはいけません」系の武器にしてもかなり信憑性が高い(実際に使用可能そう)ようにみえる。普通に暴走高校生によるクライムノベルとして読むのもありだが、そこを超えての社会の断面をざっくり表現しているという見方もありだと思う。


10/07/17
小路幸也「さくらの丘で」(祥伝社'10)

 祥伝社が刊行する読み切り雑誌「Feel love vol.4 Summer」から「Feel love vol.9 Spring」に連載されていた『ピースフル』という作品を改題し、加筆修正して単行本としたもの。ノンシリーズ。

 太平洋戦争が終わる頃、祖母・宇賀原ミツが仲良しの二人の友人と共に育った山間の村には、大きくて見事な桜の木と、その桜の木の側に建てられた見事な西洋館があった。ちょっと辺鄙な場所に建っていたこともあり、祖母たち以外はあまり近づかないその館を、祖母は〈私たちの学校〉と呼んでいた。この学校で二年あまりを過ごした祖母が亡くなり、二十六歳でフリーライターをしている私こと・満ちるは大泣きする。その祖母が残してくれた遺言には、その西洋館のある土地の権利を孫である彼女に譲るという手紙と一本の鍵が入っていた。祖母の親友二人もまた、先に亡くなっていて、それぞれの二人の孫娘に同様の遺言を残しており、それぞれがまた鍵を相続していた。紗代の叔父で高等遊民の楓は満ちるを後押しし、残りの二人・紗代と香織とを引き合わせてくれる。その館がまだ残っていることを知り、三人は楓と共に桜の木のある西洋館へと直接乗り込むことにした。

時系列の異なる三人娘x2の、ちょっとスリリングな、第三者の愛を見つける冒険譚
 冒険譚というと言い過ぎかもしれない。ただ、戦後すぐに大きな秘密を抱えて、それを守らないといけないという使命を帯びてしまった三人娘と、時を経てその三人娘のそれぞれの孫たちが再び結託して、その理由を見つけるために「場」を訪れるという展開は、二重写しの冒険譚といった風に読める。
 大きくて見事な桜の木が立つという山間の西洋館。この魅力的な舞台が、過去と現在の両方に登場し、過去の部は過去の部で、ロンさんとけい子さんの二人が何故、この館を訪れたのか、そしてどうやったら二人を世間から守れるかを、娘たちが悩む。またその過去の部の根本的な状況が明らかにならないまま、その西洋館を相続、謎の鍵を受け取ってしまった現代の三人娘。こちらは過去を知る関係者に当たるなど、ハードボイルド私立探偵小説(?)のような地道な手段を取りつつ真相に迫ってゆく。なぜ代が一つ空くのか(母親ではなく孫への相続なのか)という点に、当時ならではの理由があり、その部分を考えるに強いメッセージが感じられる。ネタバレにもなるまいのでここに書いておく。「戦争は嫌だ」
 物語の構成や登場人物には過不足無いにしても、多少問題に感じるのは作品全体のボリューム不足。登場人物もそうだし、設定にしても伏線にしても百パーセント使い切れていないように(実際はそういうことはなかったとしても)読者として感じさせられるのは弱点だといえるだろう。過去三人、現代三人+αまで登場するに、彼女たちについてもう少し詳しく知りたいように思った。(このあたり、読者が読みたいと思うところが省略されちゃったりするケースが時々小路作品にはあります。作者にとっては分かり切ったことであっても、クライマックスとかは多少くどく書いても良いと思うのだ)。本書もそういう意味で、クライマックスがあっさりしてしまっていて何となく「え、これで終わり」というような印象が残った。特にロンとけい子さんの辿った結末が哀しいのだけれどもあっさり過ぎるような……。

 『東京バンドワゴン』のように毎年春になると新作に会えるというシリーズは良いのだが、本書を含め、単行本一冊でさようなら、という登場人物にも魅力あるキャラクタがおり、どことなく勿体ない気がする(と思うのは今回が最初じゃないし)。ということで、小路さんらしい構成と登場人物が備わった作品であることは確かながら、自分的には少し一連の小路作品平均より評価は下がっちゃうかな。ですので小路マニア向けです。


10/07/16
西澤保彦「幻視時代」(中央公論新社'10)

 連作集っぽい体裁から、雑誌連載を想像していたが、刊行としては完全書き下ろしとなるようだ。

 一九八八年、SFやミステリを読むのが好きで文芸部に所属する高校生・矢渡利悠人。文芸部の同じ学年には、新人文学賞を受賞して一躍女子高生作家として名を上げた風祭飛鳥がおり、悠人は淡い恋心を彼女に対して抱いていた。既に故人となっている悠人の母親は、学生時代に創作活動に取り組んでいた時期があり、それなりに才があったが同人誌向けに幾つか作品を発表した後に筆を折っている。文芸部顧問の白州先生は、悠人の母親とも親交があったらしい。しかしその年に、風祭飛鳥は自宅で不審死を遂げる。隠された人間関係が明らかになり、幾人かの容疑者が挙げられたが、皆にアリバイがあった。それから四年後にあった大地震により白州先生も亡くなり、二〇一〇年現在、悠人は文芸評論家に、そして高校時代の悠人の後輩・オークラは小説家になっていた。彼らの前に一九九二年、地震直後に撮影された写真が現れる。写真には瀕死の白州先生と動揺する悠人、そして高校の制服を着た飛鳥と思しき女生徒の姿が写っていた。心霊写真なのか合理的説明はあるのか。二十二年の時を越えた推理合戦が始まる……。

とっくに死んだ筈の少女が写った写真。読みどころはその真相そのものよりも、その推理合戦にあるか
 幻視時代という題名は、どうやら原始時代とかけているようで、章題も幽の文字が入っているものの、別の意味を持つ言葉が暗示されている(幽出→湧出、幽情→友情といった風に)。ただ、それ自体には大きな意味は無いようだ。
 謎の提示の仕方は、非常に西澤ミステリらしい不可能趣味からスタートする。 一九九二年に撮影した写真のなかに映し出されたのはその四年前に不審な死を遂げたはずの女子高校生。この謎を現在(2010年)、地に足のついたロジックで推理が提示されあって、関係者の手によって解き明かしてゆく。近年発表される西澤作品が多少SF方向に偏っていることを考えると、ちょっと原点に戻ってきてくれたのかもしれないと少し嬉しくなる。
 設定と推理合戦は非常に楽しい。特に主人公と、その後輩、編集者の三名によって繰り広げられる論理と論理によるぶつかり合いは間違いなく本書のひとつの読みどころであるといえるだろう。この作品の登場人物のやり取りから(設定上は重ねられないにせよ)タックやタカチ、ボンちゃんの姿を思い浮かべたのはワタシだけではないだろう。
 ひとつ惜しむらくは、その不可能的興味に対して、その事象に対する解決がかなり弱いところ。その弱いところの謎を含めての推理は複数種なされるとはいっても、そこに至るロジックは無駄弾も含めてかなりのもの。また、なぜ天才美少女作家が命を落とすことに至ったのか、というその動機に迫るやり方も、これまで以上に深みを感じた。特に、本書に登場する、白州先生という善意の人物がキーマンとなり、その感情等まで踏み込んで仮説を進めてゆくところなど、推理以上に格好良さみたいなものを感じた。

 本格ミステリとしてはそう評価を高くできないのだが、西澤保彦氏が持つようになった創作の深みというか、ベテラン的な手堅い仕事ではある。 微妙にざらっとした手触りを読者に残しつつ、ミステリとしてきっちり構成しているという感じ。西澤作品のなかで抜けて素晴らしいというまでには躊躇いを覚えるが、近年の作品でオールドファンを納得させられるという意味ではありかと思う。


10/07/15
加納朋子「七人の敵がいる」(集英社'10)

 『レイン・レインボウ』にも登場した出版社の火の玉社員・陽子再登場っても熱心なファン以外にはそうそう判らないだろう。ただ、一週間・虹の色と続いた集英社・『小説すばる』に2009年4月号から隔月で連載された「七」シリーズの続きとなり、その三冊目となる本書は、ずばり「七人」。数字がそのまま出ています。

 山田陽子(旧姓・小原)編集者・兼業主婦・六歳の息子の母親。小学校に上がった彼女の前に立ちはだかったのは、これまでの会社勤めではあり得なかった理不尽な壁の数々。物理的にフルタイムの仕事を持つ自分には無理だろう! という次から次へと現れるボランティア仕事の数々に彼女は? まずはPTAの役員決め。陽子はただのひと言で専業主婦を敵に回して しまう。 『女は女の敵である』
 働き続けるには義理の母親の助けが必要。しかし孫のためならという彼女とその周囲の本音は当然優しいばかりではない。 『義母義家族も敵である』
 父母会の会長となった男性はいきなり行事で夢を語り出す。イベントを引き受けて徹底的に現実的に遂行する陽子だったが。 『男もたいがい敵である』
 周囲におだてられ自治会長を気軽に引き受けてきた夫。自分でその仕事をする気はほとんどない。 『当然夫も敵である』
 スポーツ少年団でサッカーをしたいという我が子。しかしその親たちのあいだに大量の仕事が待ち構えているとは……。 『わが子だろうが敵になる』
 ママ友の一人から相談されたのは、文句の付けようのない熱血先生の怪しい行動。まさか小学生にいやしかし。ここは行動で勝負。 『先生だろうが敵である』
 人脈も広く、頭のものすごく切れるPTA会長。学校に刃向かう陽子の姿勢が気に入らないのか様々な難癖がつけられる。 『会長様は敵である』 以上七編。

天下御免・快刀乱麻のPTAエンタにして、現代社会と保育との軋みを描く社会派小説でもある
 広くいわれていることではあるが、鮎川哲也賞出身といえどデビューから年を経るにつれ、加納さんの新作からは徐々にミステリの味は薄れていっている。その一方で、一児の母という立場から得られる情報や経験をその世代ごとに活かした作品を発表しており、そこで描かれる人間関係や登場人物の描写は着実に深みを増している。 特殊な意味ではなくあくまで普遍的な意味で、ではあるが。特殊職業従事家や性格破綻の犯罪者といった全人口からすると低い割合の人々ではなく、あくまでそこいらにいるようなただの主婦、ただの親であっても、実際はそこに様々な別の顔があるという当たり前の事柄をきっちり書くことから得られる深み。円熟と書くと叱られそうだが、それに近い。
 本書もその良さがしっかりと滲み出る良作。巻末にフィクションのお約束「本作品はあくまでフィクションであり、実際の……一切無関係」というコメントがあるけれども、作品個々が発するリアリティは高く、実在のPTA、実在の自治会実在の学童保育、実在のスポーツ少年団の、固有名詞を抜いただけではないか、というくらいに「リアル」が感じられる。そのまま実は平成の教育現場の現実を描き出したようにみえる。 というか、小生の限られた経験、側聞ではこれと同じような話が毎年繰り広げられていると聞く。(ごめんなさい、親としてPTAにほとんど参加してません。本書の誰かさんと同じです)。ただ、各所に存在するエゴ、困ったちゃん、想像力不足、モンスターピアレントといった問題は実際に起きているし、本書でも変に逃げず、真っ正面からそれを受け止め、フィクションならではの切り口で解決してゆく主人公が格好いい。
 さらに、主人公に隠された属性があり、そういったところが中盤以降で浮かび上がるところでサプライズを演出している。ただ、ミステリ的な意味よりも物語を維持するうえでの必要で創られた設定にもみえるな。やはり、主人公・山田陽子の汗と涙の子持ち主婦ビルドゥイングスロマン。これで読むから共感が大きいのかと思う。

 人によって入る入らないのツボは異なることを前提にしたとしても、多くの読者がひと度読み出すとなかなか止められない連作かと思う。特に小学生以上のお子様を持つ女性の読者にはツボに入るという方が多くいるのではないかと考えました。
 加納さん、頑張って。心の底より応援しています。


10/07/14
牧野 修「夢魘祓い ――錆域の少女」(角川ホラー文庫'09)

 牧野修さんによるノンシリーズの学園ホラー作品。確認できていないけれど多分書き下ろし。題名は「むえんばらい、せいいきのしょうじょ」と読む。

 できるだけ目立たないことでトラブルをやり過ごそうとすることが身上の伊那川カタルはごくごく普通の十五歳の高校生。学校ではイジメが横行しており、隣のクラスでは医者の娘でティーンズ雑誌のモデルをしていた高橋観音という女子生徒が激しいイジメの標的となり、結果もう四ヶ月も学校に来ていないらしい。そんなカタルに比嘉言葉(コトノハ)という行動は少し変わっているがクラスでも一、二を争う美少女が声を掛けてくる。目立つのを恐れるカタルは嫌がるのだが、コトノハは散々絡んだあげく、――夢で逢いましょうと言い残して一旦は帰宅する。しかし、眠りに入ったカタルは夢を見た。甲冑を付け、馬に似たウマに乗って現れたコトノハと再会する。観音が夢の中で「神様ショウ」に登場し、醒めない夢の中で絶望の神様に洗脳されつつあった。コトノハはカタルにその夢の中の事情を説明しようとするが、カタルは自分が考えている以上に頑なだった。しかしカタルにも異形の何かが取り憑いていたからで、コトノハはあっさりとその虫を排除する。コトノハとカタルの夢の中での冒険が始まる――。『第一話 バラバラジケン』『第二話 ユガメムシ』『第三話 ネムルセカイ』 以上三編。

牧野テイストを感じさせつつグロは控え目。訳判らないなりに一本ピンッと筋の通った学園舞台のホラー小説
 目立たないことを身上にしている冴えない少年・カタルと、目が覚めるような美少女でありながらクラスでもその奇矯な言動ゆえに変人扱いされているコトノハとのラブストーリー。嘘です。 ラブストーリーの要素もほんの少しだけありますが、基本はコトノハに一方的に言い寄られ、その挙げ句に夢の中の冒険に駆り立てられている少年のお話。
 ベースになる設定、例えば人間の夢のなかに「錆域」という魔の領域を創りだし、そこに巣くうバケモノの存在を創造し、展開していく。こういった謎めいていながらも次から次へとセカイの仕組みが繋がっている部分などはモロに牧野ワールドっぽい。 苦しみや悩みを抱えている人間が夢のなかでその欲望を野放図に解放、それが現実世界にも影響を与えるという構造。因果応報とも少し異なるものの、本来理不尽なホラーでありながら原因があり結果があるという繋がり方は、牧野ホラーの特徴のひとつなのだ。
 ただ、ホラー文庫書き下ろしという媒体を考えても、少しあれっと思ったのは、グロシーンのおとなしさ。いやいや牧野作品ではあるので、第二話のユガメムシあたりの暴れ方は残酷ではあるのだが、それでも極端にひどいと思われる場面が少ないように感じられた。これは「学園ホラー」指向(というかその肩書き)がなせる技なのかな。
 夢と現実、さらに夢と思っていて現実、現実と思っていて夢というような状況が、場面が進むと次々と出てくる。若干整理の問題か読んでいて判らないというか、何でもありのように感じられる場面もあった。じゃあ、これ以上整理すれば良いのかというと、むしろその世界が入り交じる感覚こそが牧野氏の表現したかったこと(の一つ)ではないかと思われるので、これはこれで、このまま吸い込むのが良いのかも。

 読み始めると一気にラストまで。ただ、表紙イラストのコトノハと作品でのイメージは少々違う印象。この作品こそラノベ系のイラストの方が合うのではないかと思った。(買いやすい買いにくいは別にして)。ノンシリーズ牧野ホラーでみられる尖ったセンスが程良く出ている佳作ではないかと。


10/07/13
湊かなえ「夜行観覧車」(双葉社'10)

 なんか『告白』時点から著者紹介が変わっているようにも思えるので、改めて書いてみる。1973年広島県生まれ。武庫川女子大学家政学部卒。2005年第2回BS-i新人脚本賞で佳作入選、07年第35回創作ラジオドラマ大賞を受賞。同年「聖職者」で第29回小説推理新人賞を受賞、同作含む『告白』で単行本デビュー、以下は同じ。本書は『小説推理』'09年8月号から'10年3月号にかけて連載された作品に加筆修正のうえ単行本化したもの。

 ある都市の坂の上にある超高級住宅地・ひばりヶ丘。この住宅地で土地を取得し、小さな一戸建てを建てた遠藤家の主婦・真弓は中学生の彩香のヒステリーに悩まされていた。この付近にある私立中学の受験に失敗して以来、言動が乱暴になり、ちょっとしたきっかけで癇癪を起こして物に当たり散らす。小心な父親も父親で、その彩香に直接注意は出来ない。真弓は彩香のヒステリーが収まるまで辛抱強く我慢している。その遠藤家の向かいにあるのが高橋家。父親が医者というその一家には、既に医大生となって家を出て一人暮らししている長男、そして彩香が受験して落ちたS女学院に通う長女、そして私立中学に通う次男・慎治が住んでいた。慎治は活躍中の男性アイドルに少し風貌の似た、礼儀正しい少年。いつものように彩香が強烈なヒステリーを起こしたある晩、珍しいことに高橋家からも慎治のものらしき大声が聞こえた。彩香のわがままな要求に従い、夜中にコンビニに行く羽目に陥った遠藤真弓は、立ち読みしていた慎治と出会う。財布を忘れたという慎治に対し、真弓は細かいものがなかったので一万円を貸した。そして、その晩、慎治の母親が父親を殺害したと警察に通報があり、閑静なはずのひばりヶ丘は大騒ぎになった……。

殺人事件という非日常が導き出す残酷な日常。「特殊な日常」の延長線上を描いた心理小説
 殺人事件がなかったとしても、市井の人々の悪意を普段着感覚で描くのに長けた作品であることに変わりない。というか、湊かなえさんの場合、ミステリとしてのサプライズもあるが、読んでいるあいだに登場人物が受けたり、押しつけたりする様々な悪意の表現力の豊かさ、丁寧さ、そして生々しさがそのまま武器になっている。 人間、相手を心の底から憎いと思って殺したい程の悪意を常日頃からずっと持ち続けるといったことは恐らくそう簡単には出来ない。むしろ、本書やその周辺の湊作品で描かれるような、引き金になるような「悪意」が魔物のように通り過ぎる瞬間にコトを引き起こしてしまうのではないか。登場人物が自分だけの力ではコントロール出来ない、衝動的犯罪を、計画的に描いている。
 描かれているのは、悪意といっても一様ではない。そこはかとない悪意、善意に見せかけた悪意、善意だと自己欺瞞している悪意、本人は心の底からの善意であっても、受け取り方によっては悪意、と、なかなかパターン分類を簡単に仕分けさせない。また、昨日までの友だちから身内であるはずの親戚、親切で優しかった近所の人たちまで、あるきっかけを機に変化してしまう姿が赤裸々に描かれている。日本人ならではの醜い根性、溺れる者をさらに鞭打つ様な行為を、淡々と、そして誇張せずに描いている点、怖さすら感じる。
 悪意悪意と書いたが、それは本書のテーマのなかの一つでしかない。発生する殺人事件は一つだけ。しかも、ある程度読者に類推はさせてくれるものの、その動機や真相は本書のメインテーマではない。どちらかというと、偶発的な殺人事件に巻き込まれた家族、一歩間違えればそちら側に踏み込んでいたかもしれない家族の物語。立場がほんの少し変わるだけで物事の見え方が変わるという当たり前のこと、そして必要なのは理性と想像力であること、そういった様々なことが押しつけがましくないかたちで浮かび上がってくるところが良い。

 この舞台となっている高級住宅地・ひばりヶ丘、最初は田園調布くらいのイメージかと思ったが、いい人ぶりっこおばさん・小島さと子の言動や行動からするに、芦屋にある六麓荘クラスの地域がモデルになっているように思われた。実際、彼の地に住まう人々がどうなのかは不明だが、駅から遠く離れているのに超高級住宅街というのは、そもそも、電車に乗るという庶民の生活スタイルを考慮する必要が無いから。(どうでも良いことですけどね)。

 人間心理を丁寧に描き出す一方で、とんでもないどんでん返しははっきり言ってしまうと存在しない作品。ミステリとしてよりも犯罪周辺に配置された人間たちの心理状態を描き出すところに重点が置かれている。それでもぐいぐい読ませるところが日常の悪意系、湊かなえさんの真髄である。


10/07/12
北野勇作「どろんころんど」(福音館書店'10)

 児童書で有名な福音館書店が「名づけがたき」物語たち、として十代向けに送る新レーベルが「ボクラノSF」。ジョン・ウインダム、筒井康隆、フレドリック・ブラウン、小松左京と四冊刊行され、その「05」として書き下ろし刊行された作品。本書は受賞は逃したものの第31回日本SF大賞の候補作にもなった。

 美少女のセルロイド・アリスは長い眠りから目覚めた。テレビや舞台で商品の説明をするのが彼女の本来の仕事。今回はカメ型の警護ロボット・万年一号を人々の前でプロモートすることが仕事であると起きた瞬間から理解している。アリスは万年一号を起動させるが、彼女に命令をするはずのヒトの姿が周囲はおろか建物内のどこにも見えない。どうやら目覚めた場所は、彼女の製造元のワンダーランド社の社屋であるようなのだが。そんな時、いきなり壁が崩れるような衝撃が発生、咄嗟に万年一号がアリスを庇う。クレーンの先についた鉄球で建物が壊されようとしていたらしい。気付くと建物は一面の泥の中に沈んでいたようだ。アリスと万年一号は建物を脱出、世界がどうなっているのか知るために、その作業を行っていたヒトデナシという種類の泥人形と共に、街に向かうことにする。電車で行くとヒトデナシはいうのだが、駅や線路らしきものは何もない……。が、しかし。

北野勇作ワールドの集大成にして初心者向けという二律背反を満たしたどろんこSFワンダーランド
 これまでの北野作品に登場してきた、亀型ロボットであるレプリカメや、泥人形でありながら、人間の営為をひたすらに、可能な範囲で真似をする生物・ヒトデナシなどが再登場。美少女アンドロイドながら、人間とほぼ変わらない思考方法をすアリスと絡んで冒険を進めてゆく。未来の人間の知識を持つアリスが、視点人物として人のいなくなった後の世界を観察してゆく。彼女がアンドロイドであり、その固有の落ち着いて冷静な精神状態はあるにせよ、この世界のナビゲーター役として適任であり、まるで読者が彼女たちと共にこの世界を探検しているかのような一体感を覚えるのだ。もうひとつ、鈴木志保さんによる「画」がイマジネーションを多いに補助してくれる。これまでも北野作品にイラストがあった作品もあったが、本書におけるイラストのイメージが、見てきたなかではもっとも世界観にすっきりフィットするように思われた。
 この泥で出来た世界そのものは、北野ワールドとして初出(たぶん。近い世界はあったと思うけど)。ただ、この泥んこ世界が読者に対して発する世界観というか、虚無感は共通している。 人間がいない世界なのに、せっせと動くヒトデナシたち。この世界の謎と共に、人類は果たしてどこに行ってしまったのかという謎。そしてその謎を孕んだままに無目的に一生懸命に運営される世界の、虚しくも滑稽な描写が不思議と心に響く。
 なんかのメタファーとしてのカメロボットや泥人形なのかとも思っていたのだが、むしろこの作品においてその起源が理屈と共に描写されていて驚くと共にすっきりした。分かりやすい描写で難解な世界を解き明かそうという北野ワールド。その入門編としても、こういった点から適しているように思えた。
  最後にアリスが万年一号に与えた一行目の言葉に泣いたね、オレは。 ある意味、これがまた別の北野ワールドへの始まりでもあるのだから。

 記憶とはなんなのか、という問いかけは、北野作品の永遠のテーマだと思うのだが、その結果、必ず郷愁を伴うというのは気持ちよいというか何というか。真っ白な状態から思い出すということをする時に最初に思い出すことは嫌なことでも良いことでもなく、ひたすら「懐かしい」という気持ちになるものなのだろうか。


10/07/11
石持浅海「見えない復讐」(角川書店'10)

 『野性時代』二〇〇七年十一月号から、おおよそ半年に一回の割合で連載され、二〇一〇年五月号に最終回を迎えた連作短編を単行本化したもの。他の作品との共通点は無いノンシリーズ作品。

 東京産業大学、略称は倒産大ながら実業・就職に強いという触れ込みの大学院に通う院生・田島は、ある事件の結果、東京産業大学という法人そのものを強く憎むようになった。同じ気持ちを持つ中西、坂元と三人で復讐の資金稼ぎのためのベンチャー企業を立ち上げようとする。東京産業大学出身のエンジェル投資家の小池もまた過去の出来事から東京産業大学に対して恨みがあった。田島に対して自分と同じ何かを感じ取った小池は、田島たちに対して出資、さらに経営指導までをも行った。一方の田島たちは、大学の自殺名所となっている非常階段に蝉の抜け殻をばらまいたり、ベビー服を二着購入したりと謎めいた行動を取る。果たして彼らの行き着く先はどこになるのか――。

繊細な天才たちの頭脳戦。戦うべき敵が漠然としているなかで発揮される推理と能力
 短編毎に不可思議な行動が提示され、それを推定してゆく場面があり(梗概に記した蝉の抜け殻のエピソードなど)、連作短編集の体裁を取ってはいるものの、事実上の長編に近い作品。同じ目的を持ちながら、そのことを隠している小池と田島の二人の、微妙なつばぜり合いが読みどころであり、嫌々な読後感を醸し出す要因になっている。小池の方が大人の立場であり、推理する立場に立つことが多いのだが、学生ベンチャーの中心人物である田島により、クールでダークな魅力がある。その二面性が恐ろしくもあり、ダーティヒーローとしての魅力でもある。
 そして、正直なところを述べると一つ一つの短編のなかで提示されている「謎」は、かなり苦しい――というか論理的に結びついていて一本筋は通ってはいるものの、読者が共感を覚えるものではない。 ただ恐らく、作者もこの点は自覚的で、この共感が覚えられないという感覚を逆手に取って、天才たちの孤独を演出しているようにもみえる。どんな大義名分があったとしても、自分たちが悪人であり、更に常に冷静な頭脳は裏を返すと冷酷な感情にも裏打ちされている部分を最大限に活かしているという風に読めた。
 石持作品の場合、往々にして動機が凄まじく単純だったり特殊だったりで読者の共感が得られにくいところがある。本書の場合は動機そのものは憧れていた女性の死を復讐にて当事者に返すというもので、比較的分かりやすい。ただ、その一方で特に前半部の「法人格に対する復讐」という不透明さが際だっている。おかげで奇妙な出来事の「先」が読めない分、その意外性を十二分に楽しめたが。

 ただでさえダーティヒーローを描くことが多い最近の石持氏にして、ボーダー状態にある二人の主人公の揺らぎが読みどころと思った。決して運命的には対決する立場にない二人がラストに立っている位置もまた興味深かった。そして当事者以外にその深い意図が読まれていないところ、悪が悪のまま栄えるところも、また。


10/07/10
高田崇史「鬼神伝 龍の巻」(講談社ノベルス'10)

 『鬼神伝』の映画化もあり、ミステリーランド刊行分で終わっていたと思われていた『鬼神伝』が復活。先の『鬼神伝 鬼の巻』『鬼神伝 神の巻』が合本化され、講談社ノベルスの一冊として刊行。同時に本書が書き下ろしで加わった。なお、本書は「講談社書き下ろし100冊」の一冊でもある。

 平安時代での長い戦いを終え現代に戻ってきた天童純。しかしその当時の戦いに誰も耳を貸そうとせず、純は友人がおらず、ひとりぼっちのまま中学を卒業、現在は高校生となって鎌倉にいた。一年のオリエンテーションで鎌倉・長谷寺を訪れた純は、 水葉そっくりの少女を見かけ、後先考えずに後を追う。お堂の先にある弁天窟内部で純は意識を喪ってしまう。一方、鎌倉時代後期。源氏の血筋が絶えて北条家が実権を握っていた時代。鎌倉は争乱が絶えず、異国の鬼までが日本を窺っているといわれるなか、世間を騒がせていた巨体の鬼・赤目が処刑されるという。刀鍛冶・鬼正のもとで修行中の王仁丸は、処刑で使われる刀が有名な蛇胴丸と知り、処刑場へと赴く。その赤目は王仁丸に意味深な視線を送る。処刑に手間取っているうちに、仲間の鬼が処刑場を襲撃、赤目は救出された。そんななか北条家は、鬼たちの殲滅を計るため、源頼光の霊を鎌倉に呼び寄せようと試み、成功する。封印を解かれた頼光は帝釈天となって鬼の一族に対して猛攻撃を加えはじめた……。

鎌倉時代に時代を移すも、基本状況はあえて変化無し。その事態こそが日本の歴史ということか
 先の『鬼の巻』『神の巻』ともに平安時代の話であり、天童純が三度そちらに出向くかとも思っていたのだが、冒頭でいきなりあっさり年齢を重ねてしまっているうえ、時代は三百年ほど経過した鎌倉時代となっている。その鎌倉時代のパートでは、とりあえず「天童純」のかたちでは、全く登場する気配がなく、果たしてどういうかたちで彼が関わってくるのか、という点が物語の興味のひとつとなる。
 ただ、物語の構造としては基本的に変化はない。 平安時代に「貴族」だったところが「北条得宗家」に入れ替わり、”鬼”と名づけられた、人以外の人々が迫害される理由に、水銀や鉄が必要という北条家なりに真剣な理由があるくらい。そうそう、平安時代は貴族以外は人間扱いされていなかった世界が、三百年を経過することで執政者が「人」と判断する範疇が拡大されているようにも見える。(恐らく平安時代であれば、本書の主人公のひとつである刀鍛冶であっても鬼扱いだったかも)。鬼も、平安時代から当然代替わりしており、ごく一部の神様を除くと天童純と直接の面識は無いようだ。
 といった背景のなか繰り広げられる歴史ファンタジー。若干、日蓮が絡むことで宗教色が出ているところもあるが、基本的には帝釈天vs阿修羅王も継続するなか、鬼ユナイテッド+武士連合の戦い。 ここに封印されている五頭龍と弁財天が絡み、「人」らしい残酷な謀略が入ってくる。本書で描かれているような酷く卑怯な嘘・計略が、恐らくは日本の長い歴史のなかで繰り返し行われてきたのだろう。 そう考えると多少滅入る。(だから神社は霊を祀るんですね)。ただ、この裏切りを露骨に描写することが本書の場合重要であったということだと思うのだ。
 天狗が空を飛び、桃源郷が山奥にあり……といった鬼や神様らの能力については、歴史書云々と関係なく荒唐無稽。そこはそれ、大人としては「ファンタジー」と割り切るところ。ファンタジーに仮託された”何か”を読みとってはじめて本書を読んだといえるような、そんな印象を受けた。

 厳しい言い方をすると、QEDやカンナの新作には必ず新味的解釈やテーマが含まれていることに対し、この『鬼神伝』はそれらで既に登場してきたテーマを集大成しているという作品になる。ノベルスで刊行されているものの、実質はミステリーランドの本来読者(若い世代)向けというミスマッチ、そして中途半端さが感じられ、どこか居心地が悪いようにも思えた。


10/07/09
小雨大豆「フィオナ旅行記」(講談社BOX'10)

 小雨大豆氏は1983年生まれ。漫画家、イラストレーター、ゲーム作家。「good! アフタヌーン」誌初での異例のWEB連載をこの「フィオナ旅行記」で果たして商業デビュー。本書はその2009年5月から、2010年4月までインターネット上で発表された作品を単行本向けに加筆修正した作品。

 フィオナ・ローエングラム。軍事大国ローレシアの元軍人で少尉。ライフルが得意で胃袋が丈夫、そしてガッツと根性のある21歳・女性。ある理由から軍規に違反して故郷を追われ、幼い頃から一緒に育ったカキツバタと名づけられた龍の亜種と共に世界中を旅している。この世界はかつての地球に似た別の世界。(設定上は遙か数千年未来の地球?)龍や鳥、蛙など現代の動植物とは異なる性質を持つ動物があり、荒野には人買いや盗賊、そして猛獣がうろうろしており、一般人はほとんど旅行をしない。生物学も博識のフィオナは、元軍人の戦闘能力で世界を見る旅に出ている。珍しい生物を見つけ、食い、珍しい品物を仕入れて、別の場所で売る。旅をする人々と知り合い、そして様々な別れがある。そういった関係の一人に、襲撃されたキャラバンの生き残り・ヒノクレという女の子がいた。片方の眼に眼帯をしている彼女は、それまで辛い人生を送ってきていた。性格はフィオナと真反対であるにもかかわらず、二人は意気投合する。ある街に訪れた時、ヒノクレの歌唱力が素晴らしくショウビジネスの歌手としての能力が開花したことを見届け、フィオナは街を去ろうとするのだが……。

正真正銘のブログ(イラスト+文章)で綴られる、異世界冒険ストーリー

 ここを読みましょう。以上。

 ――というのは嘘(でもないか)。単行本のかたちで手に入れてから、本家がブログとして、現実のインターネット上で発表されていて、削除も何もされていないことに気付いたのだ。わはは。
 SFというよりも多種多様な生態系を持つ動物たちがいて、特殊な統治方法がなされている様々な国家があって、という前提でのファンタジー世界(但し魔法無し、剣のみ)。 ストーリーとしては基本ブログなので細かなエピソードを積み上げてゆく方式で作られていて、一応、主人公・フィオナが何故こういった旅をしているのかという目的や理由は、一部伏線のような描写があるものの本書だけではまだ理解できないようになっている。また、個々のエピソードは「いい話」「泣ける話」「変わった動物/国の話」あたりに収斂されそうで、泣ける系の話は(素直な読者はそれで良いと思うけれども)ちょっと狙い過ぎがみえるので鼻につくところもある。
 この、ブログ形式で物語を形成するという方法がまず斬新。 インターネットを利用したテキストというと井上夢人氏の試みをはじめ、様々な実権があった。しかしブログでファンタジー。誰でも思いつきそうだが、なかなか単行本にまで至るというケースは稀であろう。ここまで徹底してやるという点には素直に敬意を表したい。語弊がある言い方になるが、文章が拙くてもイラスト(写真という設定だが)さえ、一定以上のレベルであれば、十分鑑賞に耐える作品となるのだ。(むしろ、イラストがダメダメな場合は悲惨なことになりそうだ)。この作品の場合は、文章とイラストの両方を小雨氏が一手に引き受けているのでうまくいっている印象だ。
 小生は、単行本で読んでから後からWEBで補完したわけだが、紙媒体よりも遙かにインターネット上で見た方が良い(紙を入手した身としては微妙に残念ながら)。白黒ではイラストの魅力(情報量ともいう)が半減以下になり、その印象もぼやけてしまう。本書の場合は特に文章が拙く(小雨氏自身の文才は不明だが、普通の女の子が日常を書いたという設定であり、女子高生の携帯メールのような文章なのです)、イラストにおける情報補完が絶対必要となるためだ。その意味では、電子書籍とかいろいろ言われている昨今における、ひとつの実験的な意味もあるのかしらん。

 物語云々ということであれば、上にあるリンク先から読んでも、本で読んでも変わらないし、(書籍売上を阻むことになりましょうが)むしろインターネット上で読むのをお勧めします。ただ、ネットで発表された作品と、書籍という形式の親和性をいろいろ考えました。本書を買って比べてみられることも意味があるかも。


10/07/08
高田崇史「鬼神伝」(講談社ノベルス'10)

 『鬼神伝』が映画化されたこともあり、講談社ミステリーランドにて発表された『鬼神伝 鬼の巻』『鬼神伝 神の巻』が改訂されて合本となって講談社ノベルスにて登場したのが本作。同時刊行で新作となる『鬼神伝 龍の巻』が出たため、再読してみた。ちなみに『鬼神伝 鬼の巻』が出た時に、「上下巻を一気に読むと良いかも」といった趣旨のことを読んだ当時に書いており、今回まさに、その上下巻一気、という読み方ができるのが本作『鬼神伝』ということになる。

 胸に勾玉のようなかたちの痣を持つ中学生・天童純。京都の学校に転校して三ヶ月、友人も出来ず鬱屈した毎日を送っていた。その日、問題児から石を投げつけられた純は京都内を逃げ回り、不仁王寺という寺に入り込んだ。源雲と名乗る和尚に介抱された純だったが、その源雲によって純は平安時代にタイムスリップさせられてしまう。気付いた純の前に立つのは源頼光と名乗る武士の少年。この時代、人間は鬼と激しい戦いを繰り広げており、現在もその真っ最中なのだという。頼光によって殿上人の前に連れ出された純は頭の中が疑問でいっぱい。源雲もまた平安時代におり、彼らによれば純は鬼と戦う宿命なのだという。純は鬼に襲われながら「大和の雄龍霊」の封印を解き、オロチを復活させた。しかし同時に「鬼」と呼ばれている存在が人間であることにも気付き、ある場所で傷ついた鬼の少女・水葉を助けたことから自分の立場がおかしいことに気付いてしまう――。

何が正義で何が悪なのか。日本国神話・宗教ファンタジーのかたちを取りつつ高田史観が展開される
 一気に読んだことで、何か読後感が変わったかというと、実はそう変わらない。ある意味では、これまで『QED』シリーズにて展開されてきた様々な事柄のおさらい、というか、高田氏が小説という形式を借りて述べてきた、高田史観とでもいうべき日本の歴史の重要なポイントが、さらにメタ化した物語形式で描かれているという印象だ。
 根本にあるのは、公式な歴史書というものは「勝者の歴史」であるという点。時の為政者は、自らを正当化するために手段を選ばなかったはずで、それは歴史書であってもそう。弱者への弾圧、卑怯な戦い、裏切り等々、”自ら行った”権謀術数や不正行為などはその書に記載されることはない。この国の歴史学者たちが、脈々とその残された公文書のみを正統なテキストとしてあがめ奉ってきた結果、この国の「歴史学」においては、記載されなかった悲惨な過去は「無かったこと」になってしまっている。 当然、その教育を受けた人々もまた、同じ立ち位置にある。高田氏は、その考え方に対して一石を投じている……というのが、流れ。本書で「鬼」たちが、節分の習慣を始め、主人公の天童純に対して「考えろ」というのは、記録にすら残らず、鬼として歴史から抹消された「人々」の無念を、せめて覚えておこうということ。
 特に後半に至ると、ファンタジーの度合いが増す。戦艦が空を飛び、怪物が人間をなぎ倒し、天狗は空を飛び、仏教上の王たちは強大な力で世界を蹂躙する。当然、天童純も雄龍霊に乗って大活躍。まあ、これはこういう世界であるということだ。うん。

 暗号つきの「あとがき」も再録。ああ、これ解くの(当時)苦労したんだよなあ。暗号としては非常にオーソドックスなので是非自力で解き明かして欲しい。それもまたミステリの楽しみ。あと、『鬼の巻』『神の巻』の目次の上一字ずつを拾ってゆくと……。新刊の『龍の巻』でも同じ仕掛けがあってニヤリと。