MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE 国産ミステリ・レビュー
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


11/01/31
馳 星周「エウスカディ(上下)」(角川書店'10)

 馳星周氏によるノンシリーズの長編。『野性時代』二〇〇六年十一月号〜二〇一〇年四月号にかけて連載された作品に加筆修正が加えられて単行本化されたもの。

 一九七一年。赤軍派に所属し、世界革命を志す青年・吉岡良輝(ワルテル)は、父親が外交官だったことからスペイン語が堪能だったため、戦闘訓練と他組織連携のため、一人スペインでバスク地方独立のために戦う地下組織・ETAに預けられる。日本人はおろか東洋人すら欧州では珍しい時代、ワルテルはどこに現れても怪しまれることはなく、最初は連絡係として、続いてテロの実行犯として重宝されるようになる。ワルテルは生粋のバスク娘・マリアとの熱烈な恋愛の結果、アイマールという赤ん坊を授かった。
 二〇〇五年。バスク出身の柔道家でアテネオリンピックにも出場したアイトール・ヨシオカ・アランダは、新聞記者を名乗る男の取材を受けた。その男・ヘススは実は調査局の人間であることが判明、アイトールが小さな時分に亡くなった、彼の父親について知りたいという。彼の出現をきっかけにアイトールの母親・マリアは失踪。アイトールは母親の痕跡を辿るため、彼女の旧い友人・イケルの助けを借りつつ彼女の生い立ちを調べてゆくのだが……。

組織や信念のために戦う人間たちの交差点、そして人生の軌跡。冒険小説作家の普通は、馳星周の諸作に比して異色
 イケル……→カシージャス? アイマールはあのアイマールだよね。ワルテルは馳星周氏の犬の名前でもあるけれど、ワルテル・サムエル? チャビはチャビだろうし。基本ドメサカな人間なので欧州は詳しくないけれど、ネーミングについては元ネタが多少分かるくらい。リーガ・エスパニョーラ。

 閑話休題。

 ――退化、という訳ではないのだろうけれど、どちらかというと設定や物語、つまり舞台は作品ごとにがらりと変化させるのは馳星周流。逆にさまざまな世界のなか、一貫して「人間の昏い情念」を描き続けてきた馳星周氏のなかでは、本書が逆に毛色が異なる作品のように感じられた。 ETA、日本赤軍。過激派にしてテロリストではあるのだけれど、彼らの狂気は個人に収斂するものではない。あくまで組織があって、理念があっての「個」である。登場するほとんどの闘士は、皆そういったある意味では自分をきっちり殺した、高潔なる人物。これに違和感を覚えない方が無理だ。
 一九七一年、二〇〇五年、二つのパートが交互に描かれる展開で時代は異なるのだけれども、地域という意味では一貫して主にスペイン、一部フランスに拡がるバスク地方(そのバスクで使う言葉で、バスク地方を指すのが「エウスカディ」という言葉のようだ)。
 スペインからの独立を指向する組織ETAに所属する吉岡(ワルテル、アイマール)親子がその両パートで主人公を務めている。戦闘要員。しかも他人(第三者)にとっては望まれない、赤軍派のコマンダーとしてETAに派遣され、内部での信用を勝ち取って戦いに身を投じているワルテル。自らの出自にETAの影があることに今更ながらに気付くアイマール。(ETAの行為は、平時であろうとなんだろうが、テロリズムでしかないのだが)→この二十五年のあいだに人々(一般人) の間でのテロに対する考え方が大幅に違ってきているところが浮き上がってくるのは、本筋とは大きく関係がないにせよ、表現として正しい。
 ワルテルは、初期段階で誤って別の人間を殺害した禍根を背負いながらETA内部の裏切り者の調査を続け、アイマールは失踪した母親を捜し出すため手段を選ばず対応していく。そのうちに現代にもまだ色濃く残る世界の闇の部分をかいま見るようになる……。こうやって改めて書き出しても、主人公と、その周囲にいる人物があまり個人的変態的欲求を抱えていないことに気付かされる。
 ただ、その結果、馳星周らしさが喪われているかというとそんなこともなく、力ある筆致で、組織としては残酷に人を殺害したり、消し去ったりといった事態が描かれている。誰が誰をどう裏切っているのか。このサスペンスは強烈で、かなり文章量がある内容であるのに最後まで一気に読まされた。

 犬系の著書や、サッカーにまつわる諸作も含めると、決してノワール系統ばかりの作家ではないのが昨今の馳星周氏なのかもしれない。のだが、『不夜城』あたりの強烈なインパクトについては引き続いて味わってゆきたいので、思いっきりノワールをやって欲しいな、とか。


11/01/30
新沢克海「コロージョンの夏」(講談社BOX'10)

 第2回講談社BOX新人賞POWERSを受賞。(初受賞)。従来の「銀箱」とは違う薄いカラーのついた箱入りとなる「Powers BOX」刊行第一弾となった長編作品。新沢氏は1984年生まれ。

 一年前、次々と自らの欲望に殉ずるように人が死んでゆく事件があった。幾人かの探偵が「蜂男」なる怪人物が背景にいることに気付いたが事件は終結せず、世界のシステムを維持する旧家・鴉堂院(あどういん)の令嬢・十夜と、世界を革新する勢力に力を貸す一族・蜂王子(はちおうじ)の娘・セラとがぶつかり合う事態となりながら、蜂男はその姿を一旦消した。偉大なる革命家を父に持ちながら、平凡な日常をこよなく愛する平凡な高校生・真上草太郎。父親のもとからボディガードとして派遣されてきた、片腕にパイルバンカーを仕込んだ戦闘の天才にして金髪美少女・黒姫(くろき)カノンと、公称・恋人同士ということで二人で生活している。草太郎の幼馴染みの釘男と凜の兄妹と仲良く日常を送る彼だが、泥酔して行き倒れていた大学生・七尾春也を助けたことから、運命の歯車が回り出す。七尾が関わるセクトII、その実質的リーダー・鷹津賢一郎、そして蜂男。彼らは奇妙な戦いへと突入してゆく。

SFというより村上春樹的ファンタジー、そして微妙なキャラクタとハーレム設定がどこか生暖かい
 第2回講談社BOX新人賞POWERSを同時受賞した2作品、うち『神戯』では『ひぐらしのなく頃に』の影響を強く感じたが、こちらは西尾維新ほか、かなあ。いわゆるハーレムシステムを採用。 前触れも伏線もなく、今作に関すると名前付きで登場して主人公と関わる女性キャラの全てが彼に好意的に行動し、うち一人(知り合った大学生の恋人)を除く全員が恋心といって良いだけのデレた感情表現を主人公に対してぶつけている。主人公の幼馴染み・釘男にカリスマがあるといった記述と設定があるにはあるが、主人公のモテっぷりを抜きにしてカリスマって何?
 その鈍感なのか無神経なのか分からない主人公の女性対応が、物語を分かりやすく親しみやすくしている代わりに、正直安っぽくしている。 このモテ期そのものは、作者が恐らく書きたかったところでもあるだろうので、一概に残念とはいわない。だが、ギャルゲーよろしいこんな陳腐な設定は無い方が、唐突にして現代社会へのアイロニーに満ちた、主張を感じられる物語自体はより訴えを強め、別のかたちで活き活きとしたのではないかと思うのだ。改めてその「親しみやすい」方の要素を差し引いた物語を想像するに、近年のブンガク寄りを思わせる舞城王太郎氏あたりに近しい、独特のシュールさがあるようにも思われた。他にも、例えば特殊な映画という媒体によって、自分のなかの何かが上書きされてしまう云云のくだりなども、なかなかいいアイデアだと感じられた。(ただ、その主張ある物語自体が一般的に受け入れられるかどうか、つまり多数の読者を獲得出来るかどうかというのはまた別の話なんですけどね)。
 作者のあとがきによれば「キャラクター小説」が書きたいということなのだが、その志は微妙、というか唯一無二となる程うまくいっていないように思えた。しっかりした設定あって、きっちりまとまった物語あっての「キャラクター」。 本書で読み終わってから最も印象に残るのは、蜂男だし。でも、その蜂男の性能も考えてみると安っぽいかも。
 物語の方は、語られていない事件やエピソードが背景にまだまだ隠れているように感じられた。そのエピソードが単に省略されているだけなのか、本当に語られていないだけで精緻なディティールをもっているのに、単に物語の都合で端折られているのか、そのあたりにも興味が湧く。既に続編も出ているということなので、もう少し見極めてみたいと思わされたことは事実。でも、ごめん。むしろ惹かれているのはキャラクタ云云じゃなくて、この微妙にシュールで不条理な世界観に、です。


11/01/29
牧野修+田中啓文「郭公の盤」(早川書房'10)

 公式には『ミステリマガジン』誌二〇〇八年十一月号から二〇一〇年二月号にかけて連載された作品。日本を(上方?)を代表するホラー小説作家、牧野修氏と田中啓文氏による合作長編。実は今は無き小説家からの小説直販サイト「e-NOVELS」にて連載をしていたものの、e-NOVELSの休止により中断していたらしい。

 玉音放送を控えた昭和二十年の八月十五日、クーデターを期すべく「盤」を探して軍を動かした男がいた……。そして現代。新興宗教の蓮華教をスポンサーとするアウトサイダーアートの専門美術館の学芸員・稗田律子は伝説のバンド『アムネジア』を展示に取り上げようと関係者に働きかけていた。入手した珍しい音源を耳にした律子はその意識を吹き飛ばしてしまう。また別の場所。音楽に関する萬事を調査の対象とする「音楽探偵」天津金四郎。彼は遙か昔から宮廷を守る「守宮」の一族の末裔。耳なし芳一を先祖に持つという彼の一族は、聴覚が以上に発達しており、頭の両脇以外にも耳を持っているといわれている。ブローカーのいけ好かないオヤジ・越後谷が寄越してきた仕事は、山口県の旧家からの依頼。秘伝の和歌を吟じたところ、妊娠中の女性が皆流産してしまった。そのことを恨みに思う村人に対し潔白を証明したいという女性のために山口に赴く金四郎とその助手・綾乃。神代の古代から伝わるある「音」には、破壊的な力と特殊な能力が込められていることが徐々に明るみに出てゆく。日本を救う切り札とすべく「盤」を求める勢力と、金四郎をはじめとする守宮との戦いの行方は――?

田中啓文(伝奇的知識・発想+関連付け能力)+牧野修(人物・事物創造のキレ+破壊的物語)=!!!!
(以下敬称略)
 文章的に「ここは田中」「ここは牧野」という直接の差異は流れのなかからは感じられず。どちらかというと採用されているガジェットであるとか、登場人物造形であるとか、背景(バックグラウンド)であるとか、そういった切り分けられる事象ひとつひとつに「田中っぽさ」「牧野っぽさ」が垣間見え、それらがトータルとしての物語という流れ、うねりのなかで混じり合い、合作ならではの変化球的な味わいになっているという印象だ。
 特に音楽探偵というかなり胡散臭い探偵役から、古事記をはじめとする日本神話、聞く者を破滅させるアウトサイダー音楽、東京スカイツリー、新興宗教、特撮のアレ、という風に気になった/心に残るポイントを羅列してゆくだけで、田中・牧野両作家がお好きで幾つか読んで来ているという方なら、これは主にどちらの作家によるパート(アイデア)ではないかというのは類推出来ようというもの。こういった様々な要素が物語という大まかな流れの中から、はみ出したり、飛び出したりしてバランスを危うくし、時に崩れたり綻んでいたりしてしまっているところは、喉ごしの良い通常の伝奇やホラーでは醸し出せない不協和音を奏でている。
 一方、無理矢理だったのかもしれないが、郭公の盤(の音楽)を聞いただけで女性が妊娠して謎の生物を産んでしまうという鬼畜展開など、音楽という表のテーマと日本神話という裏のテーマが重なり合っており、田中と田中のあいだに牧野が挟まって、主題としてはむしろ落ち着いているような印象もある。
 分かりにくいが二つを重ねると、ガジェットがところどころ飛び出しているのに、物語に至ると不思議と落ち着いているということ。破綻もせず、壊れもせず。物語は一応(ところどころ無理矢理辻褄合わせてはるわ、大変やなあというところはあれど)きちんと、筋道が通ったかたちで結末へと至っている。これはこれで凄いというか、奇蹟なのでは。

 本書をテーマにしたyoutube動画まで、作者サイドは用意している。本書における禍々しさと、ビデオにおける凶凶しさは、異なる「やばさ」だとも思うけれども、本書そのものがココロに残る(読者のハートに小さな棘をいっぱい突き刺す)伝奇長編であることはまず間違いない。


11/01/28
伊与原新「お台場アイランドベイビー」(角川書店'10)

 伊与原氏は1972年大阪生まれ。東京大学大学院博士課程修了、現在は富山県在住の大学教員。'08年より小説執筆を開始し、第55回、56回の江戸川乱歩賞の最終候補となった経歴を持つ。

 政治の無策や経済の弱体化が進んでいた近未来の日本を襲った大地震により、日本は壊滅的なダメージを受けた。東京都は強権的な知事によって治安を強引に回復、一部の地域や都民を切り捨てることによって少しずつではあるが復興の兆しが見えてきていた。息子を病気で亡くし、妻と離婚した元警察官の巽丑寅。彼は街中で、アフリカ系の混血とみえる、丈太という十歳の少年と知り合う。丈太は動物と仲良くすることに特別な才があるようだったがどうやら無国籍。地震直後の東京には、彼のような無国籍の子供が多数確認されていたのだがある時期に姿が消え、そして最近になってまた見かけられるようになっていた。丈太に興味を持った丑寅は、話を聞こうとするがコンビニの二階にある住居に丈太は消えた。その住居には中国系の少年がいるらしい。警察時代の同僚で、少年課に勤務する鴻池みどりを呼び出し、飲みながらここまでのことを丑寅は報告した。同じく無国籍少年に興味があったみどりは、後日、部下と共にコンビニに向かうが、先行した部下がコンビニ内で刃物で殺害されてしまっていた。当然、子供たちは抜け出して姿は見えない。しかも、捜査に際しては上層部から圧力が……。丑寅もまた独自の伝手を辿って独自の捜査を開始した。

緻密で丁寧な考証と研究のうえに丁寧に積み上げられるフィクション。近未来ミステリの一種のお手本
 警察をドロップアウトした中年男が主人公。警察本流を外れた女刑事や、無国籍児ら、どちらかというと社会からスピンアウト(ドロップアウト)した側が、黒いベールで覆い尽くされている「巨悪」に期せずして戦いを挑む――というのが大筋のストーリー。いろいろディティールが凝っている(後述)ものの、物語そのものの展開は、ミステリにしてはシンプル。かなりあからさまにヒントが提示されていることもあるが、むしろ登場人物たちがどういった動きを取り、どういった運命を辿るのか、といったところ物語の根源的な部分により強い興味が感じられた。その意味ではシンプルに徹している分、物語自体が骨太で力強く感じられもする。
 勿論、そのストーリーそのものも魅力的ではあるのだが、正直なところではこの物語の大前提となる設定や、東京の未来など背景に関する詳細なディティールにより魅せられるところが多かった。 大地震が襲って各所がぼろぼろになっているところが、終盤の舞台となるお台場と繋がって強調されるが、それ以前の日本。少子高齢化が進み、外国から来た日系人にひどい仕打ちをし、社会保障制度が破綻し、経済大国の面影は見る影もない……。そういった経済状況の冷静な予測に、個人的には高い説得力を感じた。近未来を語るのに、その部分の視点はリアリティの演出の大前提だと思うので、余計にこのディティールに感激した部分があるかもしれないが。
 また、地震の爪跡が(そして地震発生時も)、お台場ほか人工島にどのように残っているか。そういった地質や建築に関するディティールも非常に丁寧だったところも好感が持てた。一方、(仕方ないのかもしれないが)人身売買や臓器移植不正といったところはチープ、と思ったが、大杉栄が絡めてあるので、必然性はあるのか。だとすると素晴らしい深謀遠慮、なの?

 いずれにせよ、徹底した資料調べを背景とする緻密な世界構成や、人捜しと陰謀解明を基本とした登場人物の動かし方など、少し前の江戸川乱歩賞の傾向にむしろ合致しているように感じられた。(そう考えると横溝賞のトレンドというのは今ひとつ見えないな)。いずれにせよ、世に出るべくして出た新人であると強く思った。この水準の作品が続けられるようなら近い将来のブレイク必至かと。先物買い推奨。


11/01/27
西崎 憲「蕃東国年代記」(新潮社'10)

 西崎憲氏は欧米の怪奇・幻想小説の翻訳家としてかねてより知られていたが2002年、『世界の果ての庭』にて第14回日本ファンタジーノベル大賞を受賞して作家としてもデビュー。ただ寡作で本書がオリジナル小説としては二冊目の単行本である。終刊した雑誌『季刊 幻想文学』最終刊67号の特集「東方幻想」に発表された『霧と煙』がベース(?)となり、世界を同じくする書き下ろしが加えられて発表された中編集。(関係ないが、同号には小生の書評も掲載されてます)。

 日本と中国との中間に位置し、どちらからも文化の影響を受ける小さな国家・蕃東。文化も独特であれば、物の怪や龍も生きているというこの国の幾つかの時代、光景を点描のように物語にしている作品集。
 貴族の宇内と、その養い子である藍佐は雨の季節に雨竜を見物するため、都の北にある湖へと向かう。貴族も平民も皆、雨竜を見物すべく湖の周りに集まっており、その人々目的の商売人もいるなど大いに活況を呈していた。しかし、そんななかも貴族同士の争いが静かに進行していたりもする。 『雨竜見物』
 舟遊びという、豪華な舟による競技が流行している時代。その試合中に突如襲われた嵐によって遭難、一つの舟に乗り合わせることになった四人の男女。それぞれ特徴ある職業だったが、日が経つにつれ強烈な渇きが彼らを襲う。 『霧と煙』
 藍佐が仕事で出向いた海林という港町。その料理屋で邂逅した人たちと不思議話を取り交わす。蕃東版百物語。 『海林にて』
 あらゆる人を引きつける、世にも美しい有明中将を巡る二人・角力取りと不思議な力を持った少女の物語。 『有明中将』
 若い頃の宇内が、絶世の美女となって引切なしの求婚を受けている幼馴染みのわがままによって、婚儀をあげるつもりもないまま美しい宝玉を探す旅に出る。その聡明さをもって道を切り拓いた宇内は……。 『気獣と宝玉』 以上六編。

雨月物語にも聊斎志異の雰囲気にもなれる、贅沢に、そして精緻に構築されたオリエンタルファンタジー
。  現代の刺激的なエンターテインメントに慣れた感覚からすると、この静謐でだけど豊かな物語性という面白みにはなかなか気付きにくいかもしれない。ただ、創作として相当に贅沢な手法を用いて、文字通りに作者以外は誰一人として行き着けない境地での新たなファンタジーを世界ごと開拓しているのが本書である。
 風俗的には古代の中国一つと近世の日本二つを足して混ぜて三で割ったような世界か。ただ、普通の歴史書といった文脈ではなかなか目にしないような単語や造語も数多く登場するし、着物、食べ物、遊びといったところ、全てが上記を参考にしつつも新たに「考えられた」世界なのだ。本書に収録されているのは、幾つかの物語でしかないが、この何十倍もの「設定資料」が、西崎氏の頭の中か、机の引き出しにごっそり入っていることが推察されてしまう。 なので空想世界であるのに幅も奥行きもしっかりできていて、まるで古典文学を現在用語に置き換えた作品のように読めてしまうのだ。しかし、この国が「唐と倭」のあいだの洋上にあるという設定だからファンタジーとしてすんなり入ってくるのだが、これが春秋戦国時代の小国で……などと説明されたら、架空ではない歴史小説として捉えてしまう読者がいてもおかしくない。すなわち、それほどまでに精緻な設定をもとに描かれているということだ。
 あくまで蕃東という架空の国でしかないのに。歴史だけではなく、端端に化怪と呼ばれる妖怪のようなものや、龍(こちらはそのまま)が登場して、(この世界の)人間の小ささや運命の皮肉といったところと事象とが巧みに繋げられていて、この世界全体に深みと苦みと皮肉と情熱と諦観とまあなんというか、もろもろの(この世界を踏まえたうえでの)世界観が顕れる。登場する人物の知恵や機転もユニークだし、演出もまた、それぞれに秀逸。
 そして、それぞれの物語は蕃東という国のみが共通している。作品毎には年代を変え、人を変え。「煙」の一文脈など多少予告めいた部分もあるにはあれど、繋がっていない。個々の作品が繋がっていないことで(その深く広い行間すら幻視させるかたちで)蕃東という国と歴史が深まっている。 ああ、上手い。ついでにいうと個々の作品は恬淡とした、どちらかというと枯れた味わいなのだが、全体的に上品に仕上がっている。高級料亭で出てくる、見た目は普通だけれども実は超絶に手が込んでいる和食と読み終わった時の印象は近しい。

 実は感想書くまでに2.5回繰り返し読んだ。ここまで書いても未だ、この作品集に強く惹かれる理由をうまく文章に出来ていない自分が歯がゆい。上質の物語の良さが分かる(と自負される)方には、是非触れていただきたい。そんな作品集です。


11/01/26
有栖川有栖「長い廊下がある家」(光文社'10)

 火村英生を探偵役とした、いわゆるヒムアリシリーズに連なる中編集。光文社からは三冊目となる。表題作は『ジャーロ』37号(2009年9月)に発表された作品。他は前から順に『Anniversary 50』(カッパノベルス50周年記念誌)、『ジャーロ』39号、『オール讀物』2010年1月号に発表されている。媒体は違うがシリーズとしては同じ。

 火村の講義を受ける英都大学の学生・日比野は限界集落のフィールドワーク中に遭難、辿り着いた先ではオカルト雑誌の取材が行われていた。対象の廃屋には別の一軒とを結ぶ長い廊下が地下にあり、その中心にある扉の前に女の幽霊が出るというものだ。しかし翌朝、刺殺死体が発見され……。 『長い廊下がある家』
 金婚式を迎えた夫婦が雪を眺めつつ家で食事を楽しんだ翌朝、離れに住んでいた妻の義弟が死体となって発見された。被害者を恨む二人の容疑者にはアリバイがあり、あることに気付いた夫は警察に出向く直前に事故で記憶を一時的に失ってしまい……。 『雪と金婚式』
 隣人の教師から、教え子の相談を受けるアリス。彼女は旅行先で撮影した自分の写真が心霊写真だと指摘されて落ち込んでいるのだという。その写真をプリントして渡した相手が、謎の転落死事件の関係者ということで繋がったアリスは自ら推理を試みる。『天空の眼』
 自殺希望者を相手に百万円と死を賭けるゲームを挑む自殺志願の男。その男が白羽の矢を立てたのは旧知の大学教授・火村英生。トリカブトの毒入りジュースが入れられた三つの杯、当たりを引くのは果たして犯人か、火村か。 『ロジカル・デスゲーム』 以上四編。

様々な試みが静かに仕掛けられた物語。そして確りとした本格へのこだわりも、また当然に。
 安定しているというか、有栖川有栖氏の作品発表ペースは多すぎず少なすぎず、長編や短編集が比較的安定して毎年世に出ているように感じられる。人気作家故か仕事を選ぶ立場にあるが故か。改めて、ここ暫く発表された有栖川作品を眺めるに、作品発表の頻度自体はかなりコンスタントに感じられる。
 それだけ作品が途切れず増え続けている訳ではあるのだが、あまり認識されないうちにその有栖川氏の創作姿勢が、さりげなく、そしていつの間にか円熟期に入ってきているようにみえることに改めて気付いた。
 デビュー当時から連綿と続いている「論理を尊重した本格ミステリ」という骨格はそのままに、小説として、物語として、贅肉をそぎ落とした本格へのこだわりという方向性から、それに様々な趣向や要素をプラスアルファする試みを常に意識されているように感じられるのだ。もちろん初期作品が全て筋肉質ということはない。だが、昨今の有栖川作品からは、どこか初期の作品とは異なるテイストが全体的に加わっているように思う。簡単にいえば、現実の延長線上にあるヒムアリのいる現実世界があって、けれど、そこに思い付いたトリックさえいつも通りにちょいちょいと加えておけば、あとは仕上げてOKではないということ。
 本作でいえば、視点人物による錯誤を荒唐無稽トリックとうまく絡めてみたり、火村自身を思いきり事件の渦中に放り込んでみたり。余裕が出てきたというのか、遊び心がミステリ以外にも発揮されるようになったというのか。ミステリとしてだけではなく、小説として、次はどんな展開に出会えるのだろうというワクワク感を付与してくれているようにみえるのだ。

 まだ、この傾向について自分のなかでまとめきれていないのだが、当初のヒムアリ、また国名シリーズといったところと近年発表されているミステリとのあいだに、実は大きな橋が架かっていたのではなかろうかと。――抽象的な話ばかりになって恐縮。本作も、重ね重ねになってしまうが本格ミステリという一方で、その微妙な遊び心が大いにスパイスとなっている作品集。そうそう、ミステリとしての新たな試みも決して忘れられていないので、本格ミステリファンの方なら「より」楽しめるはずです。


11/01/25
神世希「神戯(じんぎ)―DEBUG PROGRAM― Operation Phantom Proof」(講談社BOX'10)

『神戯(じんぎ)―DEBUG PROGRAM― Operation Phantom Proof』  '09年第2回講談社BOX新人賞“Powers”(大賞に相当)を、新沢克海『コロージョンの夏』と同時に受賞。応募時には原稿用紙換算2170枚ものボリュームがあったというが、この二分冊となった講談社boxも小説としては、これまでの同シリーズで最大級の厚みとなっている。

 全寮制を基本とする、人里離れた地に建つ、ある学園高校。。このところ生徒数名が家出とも失踪ともつかぬかたちでいなくなっており、昔学校で自殺した女生徒が”殺人姫(サツジンキ)”の亡霊となって夜の学校で目撃されるという噂があった。GW中の英語の宿題を学校に忘れたことに気付いた主人公は、取りに行った深夜の学校、その屋上で謎の美少女と邂逅する。 自らをトーマと名乗る謎めいた少女に主人公は興味を持つ。翌日、学校の教室で幼馴染みの剣道美少女・和泉日向に、様子がおかしいと絡まれる主人公。彼らの前に、トーマは神世希と名乗る美少女転校生として登場した。しかし、主人公には彼女らが同一人物なのか、今ひとつ確信が持てない。そんななか、日向と主人公が所属する新聞部(仮)の部長から突然の、そして強制的な招集が掛かる。頭脳明晰天上天下唯我独尊を地で行く部長・武藤天馬が、学園にはびこる亡霊の噂を退治すべく、深夜に集合してその正体を解明するというのだ。天馬の幼馴染みであり、剣道部の憧れの対象・ナツキ先輩を慕う日向もまた新聞部掛け持ちで、彼女らは深夜の学校を確認する羽目に陥るのだが……。

さまざまな物語ピースがそれぞれ独特にして強引な盛り上がりをみせる。才能のモザイク大長編
 Book.1では、謎の転校生と、学園の幽霊騒ぎを巡っての明るく楽しい学園生活が描かれ、Book.2では、一転して学園の「資料館」=「死霊館」で発生した猟奇大量殺人事件と、その犯人捜しとトーンの異なる物語が展開される。前後半で思いっきり落差を付ける小説作法としては、『ひぐらしのなく頃に』のそれに近しく、斬新さよりも(意地悪い見方をするならば)二番煎じにみえる。
 文章は清涼院流水氏の再来? と思うような表現+ルビによる形容詞がひとつ大きな特徴。 振動音と書いてルビがバイブレーションだとか、軋むトビラとかいてルビがギシギシだとか、このセンスは面白い。(素晴らしいのとは、ちと違うのよ)。一方で、トーマが登場する場面で使用される表現であるとか、ところどころ挿入される独白であるとか、ドラマティックな描写になった途端、文章が急激にめちゃくちゃ凝ったものに変わってしまうところは微妙。つかワタシは苦手。作者の文学センスが噴出してこうなったというではなく、辞書を引き引きなら良いのだが、FEPで変換した結果から一番小難しい漢字を選択しただけのようにみえるのだが。実際どうだろ。ただ、英語だけではなく外国語の使い方はうまいと思う。
 あと、逆に感心したのだけれど21世紀に入ってからのエンターテインメント系の小説・マンガ・ゲームといった文化がデフォルトで形容詞として使用されている。 京極夏彦、麻耶雄嵩、デスノート、名探偵コナン、ひぐらし、ドラクエ等々多数。前世代の作家が普遍的な文化・共通言語としてウルトラマンやガンダムを下敷きにしていたもののと本質的には同じだけれども、ここまであからさま、かつ分からない人は分からなくても構わないというスタイル、これも面白い。
 後半では黒死館もかくやというような凝りまくり暗号や、ヘブライ語やらラテン語など超絶の蘊蓄がある一方で、導かれるオチがこれですか? というギャップあり。無理矢理帳尻を合わせたというか、誤魔化したというか。このあたりは長大な文章にお付き合いした結果としては不満もある。余裕あるやり過ぎるところはやり過ぎて足りないところは足りなくてのアンバランスも含めて、とりあえず面白い作家だと思うけど。

 この、ミニカーからぬいぐるみまで、新品も中古も壊れたものまで全部一緒に片付けた、子供のおもちゃ箱のような、不均質なストーリー展開は、ちょっと第三者には勧めづらい。
 ……が、最大の問題点は、根源的な中身に比しての長さ。このデビュー作では許されるにせよ、商業出版プロ作家を続けたいなら、もっと圧縮して同じ内容を半分で書いてもらわないと。あと、間違いなく原石だと思うのだけれど、これを荒削りのまま世に出すのではなく、編集部で磨きぬくという選択は無かったのかな。


11/01/24
若竹七海「みんなのふこう」(ポプラ社'10)

 性悪な人間を書かせたら天下一品(誉めてます)の若竹七海さんの作品世界にてしばしば舞台となるのが、どうやら海岸沿いにあるベッドタウン葉崎市。『ヴィラマグノリアの殺人』から始まった葉崎シリーズの六冊目(多分)にあたる本書、当然にして、その葉崎が舞台となっている。ポプラ社のWebマガジン「ポプラビーチ」に2010年8月23日から8月27日にかけて十回に分かれて連載された作品が加筆修正されて単行本化されたもの。

 葉崎市をカバーするコミュニティFM局・FM葉崎の毎週土曜日の人気コーナー「みんなの不幸」。リスナーが自分の不幸を自慢し合うという内容を姉御肌のパーソナリティ・瞳子さんが読み上げてゆく。そこに届いたのは、女子高生ぺんぺん草さんから送られてきた一通のメール。「わたしの友だち、こんなに不幸なんです……」取り上げられているのは、彼女のバイト先での友人・ココロちゃん。十七歳にして彼女の境遇は不幸のどん底にもみえるし、彼女自身も天然ボケに加えて、かなりどんくさい。その彼女は絶対に間違えないようのないトラブルのおきっこない状況ですら、見事に大トラブルに変換してしまう天才的天然トラブルメイカー。しかも、性格だけは良い彼女を騙して不幸にしようと画策したり、彼女に悪意をもって関わった人間は、なぜかココロちゃんよりも遙かに強烈な不幸に巻き込まれてゆく……。 リスナーからの投書という形式から交換日記や作家によるエッセイなど記録媒体は変わっても、そこに登場する限りココロちゃんの活躍は続いてゆく……。

久々の葉崎シリーズにして、いつもの葉崎シリーズ。楽しい楽しいドタバタコージー
 と、コピーまで(適当だけど)書いてみて考えてみたのは、これってそもそもミステリなのかな? ということ。まあ、コージーそのものがミステリである必要は定義からして無いのか。どちらかというと、自分自身では全く自覚がない貧乏神つき天然トラブルメイカー・ココロちゃんという存在がめちゃ大きい。今まで様々な個性ある登場人物をのびのびと活躍させてきた「葉崎」という町ですら、彼女の強烈なキャラクタに飲まれてしまっている感。それでもこれまでのキャラクタが 登場するなどして、ココロちゃんを心持ち押し返しているのは、やはりその葉崎の持つパワーのおかげだが。
 読み終わり、振り返って改めて気付く若竹さんの上手さ、それは、ココロちゃんの不幸度合いに全く遠慮がないこと。 天涯孤独の境遇で新興宗教に悪いかたちで巻き込まれ、身体だけでなく命まで狙われるような状況。それでもココロちゃん自体が危ないまでの無自覚さ、脳天気さ(別表現もあるけど書けないわな)と優しい心と感謝の気持ちから、疫病神を敵方に乗り移らせて(比喩だよ比喩)相手を返り討ちにしてしまう展開は、爽快感すら覚えてしまう。その相手方が考える現実的な欲望や、ココロちゃんにした、しようとした仕打ちはビターでブラック。そういったところをポプラ社のポップな書物であっても、かっちり描いているところが逆に良いのです。
 また、リスナーの投稿をパーソナリティが読み上げるだけ、という展開に作者が飽きたのか、ココロちゃんのキャラクタを別メディア(?)を用いて展開してゆく。ただ、こうした結果、脱線や寄り道が増えていることも事実で微妙に好悪は分かれそうだ。特に病院での入院患者向け図書貸し出しを巡る、交換日誌のやり取りとかは、建前と本音がいろいろありそうで奥深かった。(たぶんこういう嗜好の問題に正解はないのだけれど)。
 最終的には読者もいつの間にかリスナーの一人になってしまい、彼女(ココロちゃん)の行く末が気になって気になって、物語が一度盛り上がるや最後まで一気に読まされてしまうという寸法。最後の最後まではらはらどきどき。同じく瞳子さんの「ちょっと!」という言葉で物語を締め括るところが「粋」だよなあ。

 これまでの『古書店アゼリアの死体』『猫島ハウスの騒動』『プラスマイナスゼロ』といったところを面白く読まれた方なら、本書を気に入ることもまず間違い無し。駒持警部補やハードボイルド作家・角田港大先生など、葉崎のお馴染みの面々とも再会が出来ますよ。


11/01/23
西尾維新「零崎人識の人間関係 匂宮出夢との関係」(講談社ノベルス'10)

 足かけ九年にわたって刊行された「零先一賊」のシリーズだが、2010年3月26日、四冊同時発売され、四冊全てが最終巻(とかいわれても、さ)されている『零崎人識の人間関係』にて幕を下ろすことになった。本書はそのうちの一冊。小説現 代増刊『メフィスト』二〇〇八年九月号が初出。

 澄百合学園中等部一年生にして総代表を務める”策師”萩原子荻が大切にしている実戦部隊の”狂戦士”西条玉藻が、学園を脱走した。玉藻はほとんどの人間とのコミュニケーションがうまく取れず、本能的に戦い続ける危険な存在であり、子荻にしても多いに慌てる。一方、クラスで浮きまくりながらも普通の中学生・汀目俊希として生活している”殺人鬼”零崎一賊の鬼子、零崎人識・十四歳。彼のもとを友達を自称して訪ねてきたのは学生服を着た匂宮出夢・十八歳(精神年齢十三歳)。女性の身体と男性の精神を持つ匂宮雑技団の次期エース。二人はあるきっかけからしょっちゅう殺し合う関係になっていた。その出夢が、上から目を付けられたことで命じられた任務は玖渚機関直系親族の殺害指令を受けてしまう。成功する見込みは限りなく薄く、仮に成功しても厄介なことになること確実の超大物。出夢は、人識にその人物・玖渚直のボディガード「直木三銃士」の一部に対する時間稼ぎを依頼しにきたのだ。即答でOKを出す人識に出夢はちょっと戸惑いを隠せない。しかも、秘密で選んだその場所には既に人識を何故か慕う西条玉藻が入り込んでいた。結局彼らは三人で、秘密の別荘がある玖渚山脈(なんじゃそりゃ)に向かうのだった。

なぜ匂宮出夢と、零崎人識は殺し合うのか。或いは、人類最悪の最悪っぷりについて
 時系列としては前のお話なので当然ったら当然なのだが、こうして萩原小荻や、西条玉藻といった『クビツリハイスクール』のみで、あっという間に退場して二度と戻らない人物たちが魅力的に描かれているのをみると、なんか「クビツリ」は西尾維新氏にしては珍しく、氏の大きな世界観のなかでの構成をミスった作品だったのではないかと、とかも思う。個人的には、あの時点での西尾氏の評価は固まっていなくて、あれだけキャラクタを作っておきながらあっさり退場させてしまうところもまた新たなセンスの登場として評価していた(あくまで当時)。しかし、戯言シリーズが高い人気を誇るようになり、人間シリーズと世界が重なって物語世界全体が壮大化した結果、キャラクタ小説として読む読者が過半となると……やっぱり「策師」の存在とか、これだけ拡がった世界のなかにして光り輝く強烈な個性など惜しいよなと思う。
 いや、むしろ作者が、時折生前の彼女を丁寧に、執拗に描写することでそういう気にさせられているだけかもしれないが。あ、ちくしょ、そういう罠かよ。
 自分でいうのもなんだが、当時の『クビツリハイスクール』評(九年前)を読み返すと、その当時の西尾維新のインパクトがどれだけ強かったかを改めて思い出してしまった。メフィスト賞とミステリという文脈で西尾維新を評価していた時代です。ハイ。

 ということで、本作は出夢と人識、さらに玉藻が加わって、本作にて登場する三銃士なるボディガードと殺し合う話。 ちょこっと二人の関係に言及がある。が、この作品を四冊のうち最後に読むのは余韻的にちょっと微妙な気がする。


11/01/22
折原 一「追悼者」(文藝春秋'10)

 折原一氏の作品でも主流というか、ノンシリーズでありながら一種のシリーズとなっているのがこの「○○者」と題された一連の作品群となる。本書もまたそれに連なる長編作品。

 浅草の繁華街から少し離れた、寂れたアパートの一室で丸の内に勤務するOL・大河内奈美の他殺死体が発見された。目撃者の証言によって彼女は、煙草屋の店先で売春婦まがいの行動を取って見ず知らずの客を取り、その客に対し自分の勤務する大手旅行会社の名前の入った名刺まで渡していたのだという。殺人事件の被害者でありながら、昼はOL、夜は娼婦という二面性から、犯人よりも被害者に対する興味でマスコミが飛びついて大いに話題になる。その事件の舞台となった部屋の持ち主の男は逃走、後に部屋を調べていたノンフィクション作家・笹尾時彦と鉢合わせしてしまって捕まえられるが、彼には推定死亡時刻にはアリバイがあった。加速する被害者報道の一方で、犯人は依然捕まらないまま。そのノンフィクション作家・笹尾時彦は、同じく駆け出しライターの高島百合子と共に、被害者女性の境遇や人となりを幼少の頃から辿ろうとするが、その周辺ではまたもや殺人事件が……。

多数、そして凝ったミスリーディングによってサプライズより不安感を呼び込む
 今の若い世代はご存じないかもしれないが、現実に実際あった、丸ノ内OL殺人事件を大きな意味での下敷きとし、その被害者像を追うというノンフィクション作家の視点で描かれる物語。その、最初に発生した事件そのものと、その後に続く事件 が、かたや追いかけ、かたや同時進行という多数視点により物語全体が描かれている。関係者の登場のさせ方、思惑、嘘、等々物語の序盤から「作者が何か仕掛けてきているぞ」という匂いがぷんぷんに漂う。
 そう、まず作者は注意深く、ある「予断」を読者に与えようとしている。ところどころに浮かび上がるその違和感に気付いて「へっへー、そういうことか、見抜いたよ!」と読者に思わせておいて、一方で新たな解釈を示しては読者の確信をしっかりと裏切ってゆく。思いこみを利用し、そのなかにちょっとした違和感を忍び込ませるという常道のなか、違和感こそが実は読者へのヒントだという罠。技巧が際だっている。 また、そのレッドヘリングにひっかかったことそのもので得られる感覚は、驚くというよりも、「え、じゃ、誰が○○(対象人物)なの?」という不安感の方が先に立つところが折原流のやり方。気付くと主人公たちだけではなく、読者もまた地から足が離れた、宙ぶらりんの状態で物語を眺めるしか無くなっているのだ。
 最初のOL殺しの真犯人、この隠し方はさすがと思える領域に至っている。なかなか見抜けるものではない。この真相に 至る道筋に二人のノンフィクションライターが登場、競い合い、協力しながら事件を追いかけているという状況が有機的に繋がっている。
 一方で、個人的な感覚になるのだが、事件の被害者の周辺人物を追うという行為自体、どんな大義名分があれど出歯亀的な悪趣味を感じるので、ライターたちに全く感情が移入できなかった。彼らが何をどういう風に書くか判らないのに、そこそこ周囲が協力的な点も多少は違和感がある。そんなもんなのか。

 「○○者」シリーズらしい、読んでいるあいだ、どうしようもない不安感が煽られる作品。 それこそが作者の狙いだとするとしっかり成功しているといえるだろう。本作に関していうと、ミステリとしてのサプライズと同時にマスコミやネットをも巻き込んだ「思いこみ」の怖さがひしと感じられた。一旦、こうと決めつけられるとそれを覆すのは容易なことではない。頭で判っていることがこれだけ強調されると結構キツイ。


11/01/21
森 博嗣「喜嶋先生の静かな世界」(講談社'10)

 森博嗣氏の「水柿教授シリーズ」に続く、自伝的小説シリーズ。本書は発売と同時期に電子書籍も販売され話題になっている。講談社の100周年記念書き下ろしの一冊。

 僕こと橋場くんは、高校時代から読書が苦手で計算や数学が得意。国語や英語が苦手で、少し自分の頭脳の構成や得意分野の極端さが他の人たちと異なるのではないかと考えていた。受験に向けてしたたかに戦術を考え、志望校を選んで無事に大学に入学した。しかし入学当初はやる気のない教授による大学の授業のあまりのつまらなさ、刺激の無さに失望、惰性で授業を受けていた。そんな橋場くんが目を覚ますのは、ゼミに所属することになり、中村先輩の指導を受け始めてから。森本教授そして助手の喜嶋先生。橋場くんは、難しくハードルは高いがやりがいのある「研究」の世界に没頭し、その世界の深み、おもしろさに邁進してゆく。彼のことを一方的に慕い、押しかけてくる清水スピカ。そして「研究者」として足場を固めてゆく橋場くんの人生は最後にどうなってゆくのか……。

「研究者という人格」を衒い無く内側から描く。結果出てくるものこそ真実、そして悲痛な叫び
 これは本来真面目に読んだ時に得られる感想ではないのかもしれないけれど、日本的な「気遣い」や「空気を読む」「名誉欲」といった様々な日本人なら多かれ少なかれ持っている社会常識が、本当に本当に頭を働かせ、新規のアイデアが求められる研究分野には、邪魔なことでしかないという点、妙に納得させられた。よく研究の職にある者には一般常識がないとかいわれるが、彼らはむしろ一般常識を知らないのではなく、知っていてもそれより重要なことがあるから敢えて(平気で)無視をしているのではないか、と思えてきた。それほどまでに研究職という仕事は、研究のことだけを考える必要があるのだろう。
 人間同士、顔を合わせて話をする必要がある時、ない時。相手の晴れ舞台であろうと、気付いた時に間違いを指摘するということ。そこで話す言葉に遠慮がないこと。言われる方は気分を害したとしても、言う主体にたってみればそれがもっとも効率が良いということなのだ。また、研究を続けるためにわざと毎日の研究をセーブするという考え。(身体が持たなくなることを防ぐため)日常の些事は本当に些事として全く気にしない極端さ。平凡な文系人からすると、異なる価値観を越えて異なる生き物のような感覚であり(正直なところ)、森博嗣氏の「S&Mシリーズ」を最初に読んだ時の、こいつら血が通っていないとか思った自分(それは間違いだと程なく知ったけど)を思い出し、また新たに反省する次第です。

 研究分野に生きる人、これから生きたい人、勉強の持つ意味を見失いかけている高校生や大学生、そんな人に黙って読んで頂きたい。 全員が全員の共感を得られる作品ではないと思うのだけれども、そのうち数%でも、行き詰まりかけた魂が救われるのではないか、と本気でそう思うのだ。
 こうなるとフィクションに口を挟むのは野暮とはいえ、ただ、喜嶋先生の人生はそれで良いのか。その終盤での「噂」は記すべきではなかったのではないか――とか思わされる。それが「理想」の先にある「現実」である――とわざわざこういう書き方をしなくても、とここもまた個人的にだけれど、考える。