MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE 国産ミステリ・レビュー
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


11/03/10
井上雅彦「夜の欧羅巴」(講談社ミステリーランド'11)

 最初に刊行されたのが2003年でもう第17回配本となった講談社ミステリーランド。発起人となった宇山日出臣氏が2006年に逝去されているがシリーズは続く。同時配本は我孫子武丸『眠り姫とバンパイア』)。第一期としてリストに名前のある作家のほとんどが網羅され、残すは恩田陸さんだけとなった。次回が最終配本ということになるのだろうか。

 西洋の妖怪や吸血鬼などを専門で描く画家・ミラルカは十二歳の僕、宮島レイの母親だ。絵を描いている時のミラルカは他人に対しては少々気むずかしいところがあったものの、僕たちは二人で幸福に暮らしていた。そんなミラルカが急に姿を消し、三人の刑事たちが僕のもとを訪れる。僕はたまたま来ていた乙羽出版の青山と共に応対した。工場で外国人が殺害され、その手の中にミラルカ──未里亞ルカが描いた絵の一部が残されていたのだという。結局、刑事たちは何も手がかりがないまま帰った。そのままミラルカ宛に到着した荷物から二人は『夜の欧羅巴』と題されたミラルカの画集を発見する。青山宛の手紙には失踪を詫び、レイを頼むとの手紙が出てきた。青山は、ミラルカの画集を頼りにレイを置いてヨーロッパに飛び、レイは世話になる親戚と性が合わないため街へ飛び出す。彼が向かったのはかつてミラルカとよく通ったヨーロッパ風の店の集まった街角。レイは四年ぶりに街を訪れてとびきりの料理店を再訪、年下の友人・ココとも再会を果たした。

妖怪は欧州に在り。ヨーロピアンテイストを随所にみせる工夫が美しさと迫力を醸す
 井上雅彦風の洗練が加えられてはいるものの、その物語展開は児童向け冒険小説の保守本流ど真ん中を突っ走るオーソドックスな内容である。 ただ、本書の場合は周囲を彩る化け物や怪異が絢爛なだけに、ストーリーが真っ直ぐ進むのは大きなストロングポイントになっている。
 基本は、少年と少女、さらに彼の味方をしてくれる大人たちとで、少年の母親を救うために様々な苦難を乗り越えてゆくというシンプルな物語。世界はソード&マジックの世界に変質、敵は西洋の夜に棲む様々な化け物であり、兇悪な手段を弄してくる。もちろん主人公側も、正当に戦ったり、いろいろな手段を用いたりして敵を撃退してゆく。その戦闘方法が一様ではなく、知恵と工夫が加わるところにジュヴナイルらしい(冒険小説としても)わくわく感、躍動感がある。
 あくまで欧州に絞った妖怪たちに関する世界設定もよく、スペインやドイツ、パリといった諸国を一冊で表現する特殊なテクニックも使われているため、思い切りフィクションであるのに異国情緒が発揮されている。一方で、国際警察の人間が策略によって殺害され、奇妙なかたちで罠を形成するところなど、残酷は残酷としてきっちり場面を作っているところなどジュヴナイルだからといって子供たちに対して容赦していない(むしろ、ジュヴナイルだからしっかり書いているのか)ところも個人的には好感。

 ほか、相棒の女の子・ココの正体であるとか、街の秘密、追っ手の事情等々、前述した通りのしっかりしたメインストーリーとは別に、細かな秘密やサプライズが明らかになってゆくところも興味の持続という点で良いように感じられた。最終的な(つまりは物語進行中は隠されていた)世界観や設定にも余裕が感じられるのだ。登場する妖怪・魑魅魍魎については井上伯爵自身の趣味が色濃く反映されているのだろう、魔物といってもそれはそれで魅力がある。(ついでにいうとイラストを担当されている小島文美さんの功績も大きい)。

 少年少女向けの実に正統派のジュヴナイルストーリー。 ゼロ〜十年代の今でも、恐らくは昭和三十年代(時代に他意はないです)であっても、等しく子供を夢中にさせることができるだけの、永遠の作品といったところか。強いて難をいうと物語のど真ん中過ぎるため再生産が可能なパターンに属するところか。(つまりは、この作品単独で何十年も生き残るのは少し難しいかも、ということだ)。良い作品なんですよ、ホント。


11/03/09
多岐川恭「乳色の暦」(桃源社ポピュラー・ブックス'63)

 多岐川恭による長編小説。桃源社ポピュラー・ブックス版が二種類あるだけで文庫化もされず、現在のところ復刻されていない。まあこの内容であれば復刻するニーズはないですが。

 大学で問題を起こして中退し書店で働く狩野悠介は、店を訪れた小日向英代という三十になるかならないかの美しい人妻と徐々に親しくなってゆく。英代の夫・小日向坦は、先日没した小日向産業総帥の長男で現在はI製紙の社長。莫大な財産を持つが、学究肌で真面目な人物だった。英代と情事を重ねる関係となる一方で悠介は坦の信頼を獲得、しかし結婚の約束をした英代と共謀して旅行に出た先のボート上で泳げない坦を殴って海から突き落とした。そのまま死体すら発見されないまま完全犯罪を成し遂げた二人だったが、英代はI製紙専務で小日向坦のもと番頭役を長く務めていた八木と、悠介はホステスでまだ若いカオリという女性と関係があり、それぞれがまた別々の思惑を抱いていた。英代はI製紙に取締役として入社し、悠介もまた英代の年若い愛人としてI製紙に入社、部長格で遇され坦の一周忌を待たずに英代と悠介は結婚した。とはいうものの、彼ら同士思惑と思惑とが絡みあい、さらに完全犯罪だったはずの坦の事件まで地元の刑事によってが蒸し返され……。

欲をかいた男女の騙し合い化かし合いの連続に辟易。最後の最後で多岐川作品らしい味に変化
 昭和三十年代、高度成長期らしい作品、すなわち「長編推理小説」という冠を被っているとはいうものの、その内実は「サラリーマン小説」であるのだ。サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ♪という方ではなく、シリアスな方。育ちに特徴がなく一流大学を出たわけでもないが野心だけは一人前という若者が、様々な手がかりをもとに上昇してゆくという下克上&成長ストーリーだ。たた、ここまで何十冊から多岐川恭を読んできたなかでは、そういった社会的地位であるとか、美人の妻であるとか、世俗で高いと思われている価値観を重視せず、むしろ趣味であるとか、自由な生き方であるとかを重視している感があったのでむしろ、このサラリーマン小説としてオーソドックスな展開に逆に戸惑った。
 しかし、そこは多岐川恭、段階を踏んで次から次へと新たな人間関係を見せつける。 主人公と妻が結ばれたと思うと、主人公にはホステスの愛人、妻は妻で番頭と将来の結婚を約束していることが判明、互いに私立探偵のようなものを相手に派遣し、その弱みを握ろうと必死のパッチ。強烈な自制心によって誰も表に出さないものの、主人公を破滅させんと管理しているアパートを売春宿化させてみたり、赴任した工場で悪質なトラブルを起こさせたりと陰湿な仕掛けがそこかしこにちりばめられている。主人公にも番頭格にも年若い愛人がいるしみんなセックスが大好きなのはまあ、時代なんでしょうが。お色気絡みの騙し合いで、一種のコン・ゲーム的な味わい(ただしインパクトは弱い)が仄かに感じられる程度。

 なんだ、組織と男女の愛憎を巡ってドタバタしただけで終わるのか……と思っていたら、終盤でキター! そうかそうか、こういう仕掛けか。驚天動地のサプライズというほどではないのだけれど、最後に多岐川恭らしい視点がすっと入ってきて「ほっ」とした。その真相から立ち上る少々投げやりな感覚など、多岐川長編らしい味わいともいえるだろう。が、ここまで引っ張っておいてこのオチというのはやはり弱い。アイデアよりも風俗描写が強い印象もあり、時代を超越してまで読み継がれる作品ではないかな、残念ながら。


11/03/08
小路幸也「ラプソディ・イン・ラブ」(PHP研究所'10)

 小路幸也さんの長編小説。PHP研究所が発行する月刊文庫雑誌『文蔵』二〇〇九年七月号から二〇一〇年七月号にかけて連載された作品を単行本化したもの。

 日本映画界の大御所でもう老齢に差し掛かった大俳優・笠松市焉B戦前から銀幕で活躍を続けてきた彼は様々な女性と浮き名を流した。最初の妻だった園田睦子もまた伝説的な女優であったが市烽ニの結婚後、映画界とは縁を切っている。二人のあいだの一人息子・園田準一は渋い脇役として一流の評価を得ている熟年俳優。年の離れた二番目の妻とのあいだに生まれた子供が岡本裕。彼はほとんど市燒{人との接点はなく、しかしフィルムに映る彼の姿を尊敬をもって見守り、現在はドラマや映画で主役級で活躍する人気俳優となっている。その裕の婚約者が、これまた人気女優の二品真里だ。彼ら五人は、市烽ニ睦子が住み、そして準一が育った山と海に囲まれた古い日本家屋に集合した。五人の家族ともいえない家族が集まり、三週間共同で生活をする。この様子を紺田稔彦という映画監督が撮影し、ドキュメンタリー映画にする。笠松市烽フ恐らく最後の出演作品になると思われるこの作品、題名は「ラプソディ・イン・ラブ」。五人が揃って役者という環境、彼らの言葉は真実なのか、台詞なのか。監督の指示で持ち込まれる彼らの爆弾発言の内容とは。緊張と安らぎが同居する不思議な空間の幕がまさに上がる。

緊張感=演技と安心感=自然が混じり合って同居する俳優・女優たちによる不思議な家族空間
 上述している通り、一種のドキュメンタリー映画を撮影するために、血縁・血縁に準じる者たちが一緒に、一つの家で過ごすという背景。家族を演じているのは役者たちであるし、その役者が事情はあれど家族、ないしそれに準ずる者たち。虚構と真実が半分ずつ入り交じるような生活のなか、彼らはどのような「素顔」を演じるのか、それとも晒すのか。
ただ、あくまで本書は小説で行動描写も会話描写もあるけれど、少しずつ語り手/視点を人物の感想であるとか、独白であるとかが挿入されていく。役者として俳優として、また家庭人としてのキャリアや感性の差違によって、微妙にこのシチュエーションへの入り方、感じ方が違うところが面白い。そのギャップのなかから物語が生まれ、そして血が繋がっている/いない様々な人間たちが織りなす「家族模様」が生まれる。本作に出てくる人物たちは皆、既に大人であるため、子供が育つ、育てられるようなシチュエーションはないが(それも引っくるめた家族小説のもう一つのかたちが『東京バンドワゴン』のシリーズということだ)、互いを想い、思い遣る心配りが随所に現れる。 良い家族小説として当然であり、それがこういった瞬間的寄せ集めのなかでも立ち現れるのは、決して家族という存在が「血の繋がり」だけで作られているものではない、ということか。
 そこに放り込まれる「爆弾」(あくまで爆弾発言とかの爆弾であり、物理的意味合いは無い)もあれば、登場人物を巡って不慮のアクシデントもある。本書でいえるのは、それでも皆、振る舞いが大人であること。この手の作品では中途半端な不安感を煽られるよりかは、シチュエーションに対してどれだけ大人の反応で余裕をもって対処されるかという点の方が重要で、本書の場合も老いも若きも見事な切り返しや対応をみせるところに味わいがある。そして、その彼らの余裕によって、安定した一種の理想の家族像を作り上げられる。
 息をするように演技している家族なのか、それとも家族がたまたま役者だったのか。その差違については小説内部で明確にされないし、登場人物も一瞬考えはするものの自覚的ではない。ただ、演じていようとそうでなくとも、理想の家族を築いて生きてゆくことは可能なのだ。

 登場人物それぞれが撮影中に発表するよう要請されている「爆弾」はいったいなんなのか。さらに思いがけないところに仕掛けられた別の「爆弾」といった物語の興味を引くような仕掛けは用意されているとはいえ、物語作法の延長でありミステリ的要素が仕掛けられているものではない。だが、何が起きるか互いに手探りしながら家族を演じているという部分、サスペンスに通じるものは感じた。まあ、普通は素直に読めば良んで良い物語を楽しめばそれで良いと思う。


11/03/07
高田崇史「カンナ 天満の葬列」(講談社ノベルス'11)

 2008年に『飛鳥の光臨』から開始された歴史アドベンチャーであるこのカンナシリーズも遂に七冊目。公式に残り二冊で完結することが明らかにされた。本作ではアドベンチャーの要素が強化される一方、毒草師シリーズからあの人がゲスト出演するなど、高田ファンへのサービスパートが多い印象。

 勤務する出版社の命によって九州の太宰府天満宮を訪れた柏木竜之介。竜之介の祖母が九州におり、彼女に尋ねたいこともあったのだが、そちらは答えが出ずじまい。ただ、話をしているうちに日本三大怨霊として知られる菅原道真が地元九州では全く怨霊扱いされていないことに気付く。同じく巫女のアルバイトから復学して東京大学に通っている中村貴湖もまた、菅原道真を祀る東京の湯島天神を訪れており、竜之介と同じ疑問に気付いた。直角に折れ曲がり、池の上を通る参道の持つ秘密とは。一方、早乙女諒司が所持している「蘇我大臣馬子傳歴」を巡る争いが激化、このところのハードな経験から少しずつ「能力」が開花しつつある鴨志田甲斐。その甲斐の実家である出賀茂神社の社伝を狙って、深夜に忍びの能力を持つ賊が侵入してきた。その気配に気付いた貴湖の祖父・加藤丹波だったが、彼らに返り討ちに遭い海に投げ込まれてしまう。なんとか一命を取り留めた丹波が入院した病院で甲斐は貴湖らと再会するのだが……。

アドベンチャー要素が強調されるも、さりげなく菅原道真怨霊説の裏面の説得性、高い!
 (まあこれまでもそういう傾向があったけど)七冊目にして遂に単独で読むのが不可能な作品となったかな。(シリーズの一冊として読みなさいということです)。 そもそも、「蘇我大臣馬子傳歴」を巡っての争いからシリーズが始まったものの「勢力」が次々登場するうえ、それぞれの派閥の思惑や目的がこの段階(終盤)に至っているにもかかわらず今ひとつ見えてこない。その派閥の出自についても、これまでの登場人物をつかんでいないとかなり辛くなってきた感。そういう「見えない」こともひっくるめて、シリーズ全体で理解する必要があるようだ。
 まだ、この巻の段階ではそれ自体がネタバレの危険があるため簡単には述べられないのだけれど、シリーズ完結時にはこれ、人間関係を図式化すると分かりやすいかもしれない。婚約者の父親から命を狙われるは、その婚約者はヒロインに嫉妬しながら、よく分からないけど主人公好きだわ、甲斐は恋愛関係にどんくさいわで、ああそれぞれのベクトルがどっちに向いているのか、もう訳分かりましぇん。
 さて、それはそれとして本作のテーマは菅原道真。学問の神様、天神さんで知られる道真はなぜ「日本の三大怨霊」の一人として祀られているのか。 彼の残した歌、行動、そういったところからは他の怨霊たちに比べて強烈な怨嗟は残されていないように思われる。それは何故?というところ。天神様の構造であるとか、精神であるとかは怨霊そのものに対する扱い(これまでQED読んでいる人であれば一目瞭然)であり、これはここまでの高田史観の延長ですぐに理解できる。本作で感心を深めたのは、何十年も経過しているにもかかわらず「怨霊」という扱いに子孫たちが甘んじた理由。 ――なるほど。この当時のことを考えると、それならば納得できるし非常に合理的に状況が説明できるではないか! 確かに本書では菅原道真の一件と蘇我大臣馬子の話が繋がる、と。またしても目から鱗、なのでした。ただ、思うのは先人たち、特に「史書」に残されないことに必死で抗う生き様のことばかり。

 極端な話をいえば、菅原道真の史実を語るパート(これも高田史観というか、権力者ではない側から事象に視点を当てる方法)のみであっても、個人的には満足が得られた。だが、さすがにストーリーの細かな部分は繰り返すが先に刊行された作品を読んでいることが前提。ここに至るに仕方ないです。最初から読むべし。


11/03/06
関田 涙「怪盗パピヨン steal1 雨小ミステリークラブ、誕生!」(講談社青い鳥文庫'11)

 メフィスト賞出身作家・関田涙氏が青い鳥文庫に活躍の場を移した(そちらでも刊行するようになった?)結果、マジカルストーンや宵宮月乃など小学校高学年児童を探偵役とする一連のシリーズが人気を博するようになった。本書は同じ青い鳥文庫で開始された新シリーズ。

 テレビや新聞で話題になっているのが怪盗ラ・レーヴ・デ・パピヨン。白い仮面で顔を隠してはいるが純白のショートドレスを着こなす女性の怪盗だ。美術館や博物館など、予告状が出してきたうえに神出鬼没で警戒エリアに侵入、防犯カメラにその姿をわざと残してゆく。しかし高価なお宝を盗むのではなく倉庫で何か調べ物をしているらしい。その怪盗パピヨンに対抗すべく現れたのが探偵マスクド・ドラグーン。真っ黒なフード付きのローブを身にまとい、仮面でやはり顔を隠している。彼らの初対面はパピヨンの使う夢鱗粉という眠り薬でドラグーンは完敗した。そんな頃、雨弓小学校五年生の桃園奈那は将来名探偵になりたいという夢を学校で披露していた。アイドル志望で幼なじみの翠川玲香は奈那の発言をバカにするが担任の白石胡蝶先生はしっかり応援してくれる。そんな奈那に将来ジャーナリスト志望の赤池功太が声をかける。意気投合した二人は雨小ミステリークラブを設立することにした。目的は怪盗パピヨンの正体を暴くこと。玲香も加わった三人の活躍はいかに?

この先展開するのが大前提。丸わかりの狭い世界の人間関係は何かの布石?
 ちょっとアイデアをまだ出し惜しみをしているかな、というのが第一印象。第一巻目にしてsteal1と副題についている通り、二作目以降の創作が約束されたシリーズ作品ということになる。とりあえず本作をみるに、あまり謎解きは重要な位置を占めておらず、むしろ登場人物のイントロダクション的ニュアンスが強い印象だ。どうやら転校生・赤池功太が元々いた学校には、本物の名探偵がいた、ということは宵宮月乃のいた小学校からの転校ということになるのだろうか。(となると世界を同じくしている訳で、いずれ共演もあるのかもしれない)。そもそも怪盗と探偵、そこに少年探偵団が絡むという図式を作るまでが重要かつ大変な作業となる。怪盗ラ・レーヴ・デ・パピヨンと白石胡蝶先生、名探偵マスクド・ドラグーンと黒坂龍之進先生、そして桃園奈那、赤池功太、翠川玲香の三人、どうしても彼らをまず紹介してゆくニュアンスが強くなるのは仕方のないところだろう。
 とはいえ関田涙氏のことミステリの骨格はしっかり。まずは学校で拾った紙に書かれている暗号、そしてメインとなる怪盗パピヨンとの対決とおおよそ二つが本作のテーマだ。ミステリ小説で使う暗号は(作者が作って登場人物が解くがために)マッチポンプ的なところがあるし、また怪盗対探偵団の対決も、既に数多くの先行作品において、同じく数多くの手が尽くされているわけで、本作における対決でも、そのいくつか存在する有名なパターンを焼き直し、組み合わせて使っている。そのためあまり謎解きという部分に大きな魅力は感じにくかった。ただ、それは当然こちらがすれっからしの大人だからであって、本来読者の子供たちであれば夢中で読める内容なのだろうけれど。

 あとがきによると2巻目以降、またこのミステリークラブには新たな仲間が加わるらしい。ただ、個人的にそんなことよりどんなことより、関田涙&青い鳥文庫の組み合わせにおけるお約束、あとがきにこれまであった作者のめちゃくちゃな難易度のクイズが本作に無いことがかえずがえすも残念。(強調はここなのか?) あの無茶っぷり、好きだったんだけどなあ。


11/03/04
皆川博子「少女外道」(文藝春秋'10)

 皆川博子さんの短編集。全て『オール讀物』に掲載されたノンシリーズ作品が一冊にまとめられたもの。「巻鶴…」が2007年2月号と収録中では最も古く「標本箱」が最も新しく2010年2月号。その他作品はこの間に発表されたものだ。

 戦前に父親が造園を任せていた植政の息子・葉次。少女だった久緒は彼の使う刃物に手を出し血が流れその血が彼と交わることに悦びを見いだす。美術学校時代に知り合った阿星、様々な愛のかたちをもつ彼らも年を経てゆく。 『少女外道』
 母親の代わりに出席した大叔母の葬儀。トサカとあだ名された大叔母はかなりエキセントリックな人物だったらしい。血縁同士の愚にも付かない世間話に付き合っていた弘樹は遅れてきた親戚の一人が憧れの画家・笹尾苓であることに気付く。 『巻鶴トサカの一週間』
 父母が帰依していた新興宗教の集まりに鳰子は行くのが苦痛だった。教義に全く共感できないのだ。そんな鳰子の兄・一衛が乙矢という女性と結婚する。浮き世離れした乙矢と義兄の関係は良くなかったが鳰子には親しくしてくれた。 『隠り沼の』
異国の地でフレスコ画を描いている青年。戦前、」彼の小学校時代の友人だったガキ大将は大工であった彼の兄から有翼日輪をメンコに描いてもらっていた。ギイと呼ばれたその兄に少年は仄かに懸想をしていた。 『有翼日輪』
 実家では死んだといわれていた千江叔母が残していった鉱石標本。元気な子供に育つためのまじないで赤ん坊を一度捨てるというその土地の風習の結果、梛木という若者と知り合った千江。千江はその梛木に惹かれてゆく。 『標本箱』
 東京から家庭の事情で地方に来て暮らしている梓。戦争で焼き出され、東京から篠井江美子が疎開してくる。地元の子供が冷たい態度を取るなか、彼女の読書や趣味に共感を覚える梓は密やかに彼女と交誼を結ぶ。 『アンティゴネ』
 幼い頃に意味も分からないまま両親がいないまま網元に預けられた沙子。幼い頃に庇ってくれた駿吉は戦争に行ってしまい、駿吉に密かに思いを寄せていた澪の思いも届かない。戦後に環境は激変。その頃の事情を理解し大人になった沙子は改めてその小屋を訪れた。 『祝祭』 以上七編。

精神的な官能・肌感覚のエロス。読んでいるだけで感じる背徳感。なにこの色気
 一般的な意味でのセックスであるとか、男と女がどうしたとか、通俗的・肉体的な意味でエロ本などになるような、つまり大多数の共感が得られるような(○辺○一センセあたりが好みそうな)一般的な官能表現は存在しない。 もちろん、女性や男性のパーツに欲情するといった、全体とはいわないまでも一部の人が強く共感するような(一般的)エロ系フェティシズムなどが含まれている作品すらひとつとしてない。

 その一方で、本書は強烈にエロ小説である。(あ、書いちゃった)。

 あ、やばい、読んでるだけでどっか連れて行かれちゃうよ! というのがその第一印象。そして、極端な話、肉体には何の変調をもたらさないものの、精神的に、この官能世界からのさまざまな誘いが込められている。たゆたゆと、読み進めるうちに、やはりこれが、どっぷり囚われてしまうのですよ。ハァ。
 表題作というか、短編集の題名に「外道」を真っ正面から使うというインパクトも凄まじいけれど、真の外道は作者である皆川博子さんです。 キッパリ。で、その作家外道にどうしようもなく心惹かれててしまう、こちらも読者外道ですか、そうですか。外道上等です。……といった繰り言はおいておいて。外道小説でありながら、ここのところの作品で多くみられる(実際はデビュー直後の作品から一貫してその傾向はみられる)、皆川さんの半自伝的側面が強く現れている。また取り上げられている舞台も現在ではなく、戦時中など、どこかこれまた皆川さんの生きてきた時代を思わせる。
 例えば、血と血が混じり合う、年上の同性に惹かれるといった官能以前の朧気な感覚が、時代を遡っているだけにより強く禁忌としての感覚を増しているようにも思える。表面的には時代に家庭に従順、家を飛び出したとしてもその世界に従順にみえるなか、燃え立つような欲望がちろちろと。垣間見えるその赤さの鮮烈さよ。美しくそしてエロっちい。下半身とかではなく背筋ダイレクトで来るよ。

 この作品群を書いたのが、もう(一見人の良さそうなおばあちゃんにしかみえない、でも美人)皆川博子さん(1930年生まれ)。 戦時中、戦後すぐの描写は想像ではなく皆川さんにとってのリアル。そして、そこで枝分かれした様々な背徳の欲情がエロスが枝分かれして、あったかもしれない物語世界で結晶化していると。何をいっているか分からないかもしれないが、いいのだ。オレはオレの言いたいことを理解している。


11/03/04
望月諒子「大絵画展」(光文社'11)

 望月諒子さんは本書で第14回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞。しかしデビューは電子出版→一般書として刊行されてスマッシュヒットとなった『神の手』。ほかに同様の経緯で刊行された『呪い人形』『殺人者』があり、本書は四冊目の著書となる。『神の手』読んだ時にほかの作品も読みたいとかいいながら、今の今まで読んでいませんでした。申し訳ありません。

 父親から貰った金を元手に東京でデザイナー業を営んでいた大浦荘介。プライドと見栄だけは一人前、事業に対する見通しが甘く経営センスや資金管理能力が皆無であり、準備していた運転資金が底をつくとあっという間に窮地に立ち、母親に金を無心、母親も家に所蔵していた美術品をこっそり画廊で売ることで息子の資金を用立てしていた。一方、元銀座のホステスだった茜は、客の作った一千万円の借金から身一つで逃れ場末のスナックでママをしている。今でこそ表情に出さないが、内心は借金の取り立てに怯えていた。そんな二人に別々に持ちかけられたのが株式を使っての儲け話。確実な儲け話とみた二人は借金をして資金を用立てするが、当然それらは詐欺。相手は資金を受け取るとさっさと雲隠れしてしまう。その詐欺の舞台に使われた空の事務所で二人は鉢合わせしなじり合うが双方被害者でありどうしようもない。さらにもう一人、茜の店の客でもあった城田が現れ、絵画を使っての借金帳消し計画を二人に提案してきた。元・銀行員だという彼は、不良債権の担保としてゴッホの絵が銀行倉庫に眠っているのをその他保管されている絵のコンテナごと持ち出してしまおうというのだ。事情を知る城田は実行に加われないとのことで、荘介と茜はおっかなびっくり城田の描いた計画通りに行動するのだが、現場の様子が聞いていたのとかなり違うことにも気付く……。

全体的な「過剰」感覚がよくも悪くもコンゲームらしさを演出、もう少し緻密さがあれば。
 日本のバブル期を象徴するゴッホの「医師ガシェの肖像」を巡る顛末が、大きなくくりでいえばベースということになろうか。「絵」の価格が本来的な需給や芸術的価値といった視点で(これも適当といえば適当だが)はなく、意地やプライドを賭けた入手バトルともいえるオークションの結果、価格が釣り上がること、現物を無視したマネーゲーム自体を作品全体で諷刺している印象だ。
 本当にその絵にそんな価値があるんですか? というか、そもそも芸術品をお金に換算してビジネスにしている美術業界に対する強烈な皮肉か。まあ、美術とミステリは相性も良いし絵画泥棒(いってしまうと)も、日本でも怪人二十面相の昔から居てましたね、考えてみれば。そういった背景を前提としつつ、嵌められて騙されたことが原因といえど借金は借金、お金のために美術品泥棒をせざるを得ない二人組が一応の主人公。ただ、計画通りに進むはずの強盗計画がなんかおかしい、というところから始まり、その意表を突いた処分方法、盗まれた側の葛藤等々をうまく散らしてコン・ゲームに仕上げているもの。
 ただ、正直にいっていきなり爆発が起きたり、展開がいきなりアクション映画風になったりと全体として描かれている構図とは似わないような場面が散見され、そこはちょっと読んでいて引く分マイナス。また、以前の作品を読んだ時よりも文章が粗くなっているように感じられたのだが、これは前作読んでから時間が経過しているので印象だけかもしれない。

 デビュー後の作家にもかかわらず新人賞を受賞するということは、非常に難しいのだけれどやはりそういった背景を抜きにしてもスケールの大きな「ホラ話」が審査員にウケたということだと思う。最初の詐欺の話自体のありきたりのところから、(挿話としてゴッホの話などはあったにしても)、だんだん話が膨らんで当事者が一番戸惑っているというような微妙なユーモア感覚も良かった。
 また、ラストに向けてのハッピーエンド、これはこれで良いのだけれどむしろこの結末に向けざるを得なくなったことで終盤にもまた展開が窮屈にみえるところがあるようにも感じた。いずれにせよ、モノに対する価値観というか、大きなテーマは伝わってくるので良しとすべきなのでしょう。


11/03/03
我孫子武丸「眠り姫とバンパイア」(講談社ミステリーランド'11)

 最初に刊行されたのが2003年でもう第17回配本となった講談社ミステリーランド。発起人となった宇山秀雄氏が2006年に逝去されているがシリーズは続く。同時配本は井上雅彦『夜の欧羅巴』)。第一期としてリストに名前のある作家のほとんどが網羅され、残すは恩田陸さんだけとなった。次回が最終配本ということになるのだろうか。

 小学校五年生の相原優希(ゆうき)は母親と二人暮らし。睡眠不足でもないのに学校や家でうたた寝をしてしまう癖があり、一部から「眠り姫」と呼ばれていた。頭の良い優希は同級生があまりに子供っぽいのと自身の居眠り癖もあって学校に馴染めず、心配した母親から家庭教師を付けられていた。その美沙先生とは馬が合ったが、彼女は急に米国への留学が決定。優希に合う家庭教師を推薦していった。そうして現れたのは巨体でおっとりしてみえる荻野歩実(おぎの・あゆみ)。名前は女性っぽいがれっきとした男性だった。年頃にさしかかる優希のことを心配する母親だったが、他ならぬ美沙先生の推薦ということもあり、徐々に優希は歩実に対しても心を開いてゆく。優希の抱えている秘密、それは三年前に亡くなったはずの父親がバンパイアとなって最近自分に会いに来てくれているというものだった。荒唐無稽な話に歩実は最初面食らうが、徐々にその父親が本当にいるのか、優希の妄想なのかが分からなくなってくる――。

リアル展開か、幻想ミステリか。その境界の使い方の巧さで読者を引き込む正統派ジュヴナイル
 読み終わってみるに小味な作品(うまく他に表現できないけれど悪い意味ではない)だったけれども、ある一点に関する引っ張り具合がミステリ的として非常に良かった。すなわち、主人公・優希の父親は本当にバンパイアなの? それとも生身の人間のトリック? というところだ。小味という言い方は失礼かもしれないが、この点について読み終わってすっきりした結果としての安心感があまりにも大きく、どうしても物語の印象としてはまとまったものを感じてしまう。しかし、逆にこの点がすっきりするまでのあいだ、リアルと幻想の境界で物語が進んでいるかのようなもどかしい思いを抱くことになるはずで、それは読書好きには堪らない味わいのはずだ。
 父親はバンパイアなのか? 具体的には、マスクとマフラーでそもそも顔を隠すような姿で娘の優希の前に姿を現すところ、同時に決して母親とは会ってゆこうとしないという態度、クレセント錠をかけて閉じきっている部屋からの脱出、どう考えても母親から目撃されている状態からの消失(しかも2パターンあり)どうしてこの人物は見えない人なのか、それとも本当にバンパイアなのか(バンパイアは鏡に映らないとか、そういうことですね)。更に半端なネタバレなので伏せると、三年前の新聞から間違いなく優希の父親に該当する死亡記事が発見されるなど。この右にゆけば、現実的なトリックや解決が付けられるリアル世界、左に行けば、お父さんはバンパイア、以上証明終わり。この分岐点でふらふらさせられる感覚が堪りません。本書がどうだったか――は、勿論読んでのお楽しみ。
 ただ、その構造性をずっと意識して読んでいたおかげでラスト2行で「ええっ」と、ちょっとのけぞり「いやまさかそんな」と慌てて最初から読み直したものの、どうやらそういう伏線も記述もないようで、ここは単純に感想を述べているだけと今は割り切っている。ここは願望を述べているのみで新たな事実を提示したものではない、はず。

 最後に本筋とは関係ない部分、やってきたばかりの心優しい家庭教師荻野が主人公に伝える言葉が非常に暖かく、深みがあった。「友達がたくさんいた方がいいなんてのは、ありゃ嘘だ」このコメントから始まる人付き合いに関する一連の言葉は、主人公ならずともこの世代で友達とうまくやっていけないであろう子供たちの救いになると思う。正直、このエピソードのためだけでも、本書を一人でも多くの子供に手にとって貰いたいと感じた。ミステリとしてもまとまっており、ジュヴナイルとしてもきっちり意義のある作品かと。


11/03/02
森 雅裕「高砂コンビニ奮闘記 悪衣悪食を恥じず」(成甲書房'10)

 森雅裕氏の作品そのものは近年は同人誌で『トスカのキス』と『雙』を新作として見ているものの、本書の著者紹介の欄を引き写すに『化粧槍とんぼ切り』『鐵のある風景』が2000年に刊行されて以来、商業出版としては十年ぶりなのだという。

 一九八五年に『画狂人ラプソディ』で第5回横溝正史賞の佳作を、『モーツァルトは子守唄を歌わない』にて第31回江戸川乱歩賞を受賞、華々しく文壇に登場した森雅裕氏。音楽や歴史に題材を取ったミステリ、さらに登場人物の魅力(特に実在アイドル等を活字にしたようなヒロイン像に顕著)からコアなファンを多くつかんでいたが、その創作に対する頑なな姿勢など(理由については諸説あるようなので一概に決めつけられないと思う)から徐々に出版社との関係が悪化、商業出版ができず2000年頃を最後に休筆状態となっていた。その後、細々と小説以外の仕事をしながら、日本刀関連の金具作りや彫金をしていた森氏は、本書の記述によると「半ばホームレス」状態になっていたといい、その結果たどり着いたのは、葛飾区高砂にあるMニSトップという業界五位のコンビニアルバイト。しかも、この店の客層も店員のレベルもあまり高いといえなかった。森氏は二〇〇八年三月から一年と一ヶ月のあいだそのコンビニで働き、店の閉店と共にアルバイトを終える。この荒れたコンビニの内側を作家ならではの視点で綴った奮闘記……というか、エッセイ。

森雅裕という作家を知っているところが大前提。境遇に涙も、取り上げるべきテーマだったかは「?}
 最初に読んでから、うーんとなって最近もう一度読み直してみた。
 内容を単純にとらえると、基本はまじめな中年男が荒れていて緩いコンビニで働いての感想が綴られた歳時記のようなもの。融通の利かない本部や幹部、働く者の気持ちが考えられていない環境、不快なクレーマーから客であれば何をしても良いと勘違いしたバカ人間たち。一生懸命やればやるほどやる気のない社員やアルバイトなど周囲との軋轢も高まる一方、森氏の真摯な仕事に向けた姿勢をきっちり認めてくれる人もいる。
 もともと文章はうまい人であるので、エッセイでありながら物語調の表現がよくはまり、裏面からのコンビニというものがよく描けている。嫌みな人間、高慢な人間に対する皮肉であるとか、常識外れのクレーマーに対する対処方法であるとか、大組織と現実の差違、立場の弱い者の哀しみ、こういったテーマが様々な具体的エピソードと共にぽんぽんと描写されているので、引き込まれるし興味を持って読み進めることになる。(小生は体験がないが)コンビニアルバイトの経験者の気持ちを代弁したエッセイになっているのではないか。

 暴露ものとして面白い。面白い――のだが、取り上げた人たちへの配慮が十分だったのかは疑問が残る。N田とかO川とか仮名扱いではあるものの、店名と店の場所は(これも匿名とはいえ)実在が明らかな場所であり、関係者であればすぐ分かるレベル。これで作者の視点からみて「いい人」はまだ良いが悪し様に描かれている「悪い人」「癖のある人」には堪らないと思う。ひどい形で縁を切られたという知人にしても、作者が厚遇を得ていた時期もあったはず。そちらのエピソードにはほとんど触れられずに別れ方が悪かったことで人間性を紙の上で徹底攻撃されることになるのなら、なかなか新たに交誼を結ぼうという人は現れないのではないか。作家同士ならばまだしも出版という武器を持たない関係者が、こういうかたちで意趣返しされて、作者のことを良く思う人はまずいないはず。その遠慮会釈ない斬り込み方が作者のエッセイの持ち味であり面白さに繋がっているのだが、人間関係についてはやっぱり不器用なのだと思う。

 このエッセイがコンビニ体験記として一定以上の面白さがあることは事実。そして作者の境遇が苦境にあることも理解はする。理解はするけれどやっぱりこの本は、乱歩賞作家としては出しちゃいけなかったのではないか。一定以上の販売を見込むだけなら、それこそ同人誌のみで刊行している幾つかの作品の方が発行部数が望めると思うのだが。(作者の手元に原稿が無くとも、形になっている以上探せばなんとかなるはずだし)。


11/03/01
牧野 修「死んだ女は歩かない 地獄で乙女」(幻狼ファンタジアノベルス'10)

 幻狼ファンタジアノベルスは株式会社幻冬舎コミックスが版元。何か大人の事情があって設立されたレーベルなのでしょうか。「地獄で乙女」は表紙めくったところに書いてあったので副題として転載しましたが、奥付にはありません。

 この世界。人類を救う究極の治療薬として遺伝子改良で開発された”医療虫”人間の悪化した臓器に成り代わり、免疫反応もないままその機能を代替してくれるという究極、そして無害な臓器移植のはずが、突然の暴走が発生し人類はパニックへと至った。感染した男性は強いストレスを受けると怪物化し、そうでなければ死んでゾンビとなって人を襲う存在となる。女性感染者はゾンビにはならないが、異能、様々なかたちの超能力を獲得、「チェンジリング」なる存在になる。医療虫感染者は発見され次第、隔離区である「千屍区」に送り込まれる。この地区の警備隊の隊長として、一人の美女が志願してやって来た。雛乾月(ひいな・ふつき)という彼女は腹の中に地獄を持ち、そこから様々な武器を取り出して戦う戦士。彼女の部下には射撃の天才少女で傷を他人に移動できる女子高生・無苦(むく)と、常に身体を鍛えているマッチョで音を利用できる輝十字(きじゅうじ)がいた。更に、乾月の元相棒の種車子(たね・くらこ)が加わって、千屍区や、この地区にある医療虫の研究所にまつわる事件やテロを(強引に)解決してゆく中編集。
 水没民の兄弟が怪物化するオープニング。 『悪魔のすすだらけな兄弟ぶん』
 いくつもの能力を身につけ、顔を変化させられ再生もするというチェンジリング、C・K登場。 『人くい鬼』
 千屍区の研究所を狙ったテロ。無苦が散歩中捕まってしまう。 『神さまのけだものと悪魔のけだもの』
 千屍区の怪しい洋館で行われている人体実験。 『ラプンツェル』 以上四編。

(強い女+特殊能力+ゾンビ)x非情な戦い/牧野さん=おもしろ小説
 いやいやいやいやいや、面白い。
 めちゃくちゃ面白い。

 個人的にゾンビ属性は無いけど、どうやら自分にも強い女属性があるらしい。というか、超能力とか超変態(文字通り)など異形の能力を武器に戦う女性たちって山田風太郎の忍法帖や、それ以前の伝奇的小説とかへと繋がっていくよね、うんうん、と独り合点して納得。そうか、ジョジョとかもそうかもね。
 つまりはこの牧野さんの書きたかった世界がそのまま個人的にツボってしまいました。 以下、冷静を欠いていたらごめんなさい。

 ある意味ご都合主義。特殊なウイルス(?)が治療薬として世界中で使用された結果、その変異体による感染症が人類に蔓延して、男はゾンビ、女の一部は超能力者になるという世界(てきとーな要約)。しかも、危険区域は「千屍区」といういい加減な名前のうえ、厳重に管理されているという、リミテッド状態。つまりは強い女が、女同士戦ったり、男のゾンビを蹂躙するために世界が出来ているというこの潔さ。牧野さん、カッ怖エェ(あれ、変換が……)。
 バイオハザード、マッドマックスの世界観で人間離れした様々なタイプの美しく強い女たちが、火花を散らし血肉をまき散らす。 しかも、その世界を演出するのが牧野修と来た。ある程度SF的整合をとりつつも、やりたいことはこれかい! というハードでエッジの効いた殺戮劇が繰り返される。
 単なる殺し合い以上に、その能力同士がせめぎ合う場面のインパクトが強い。例えば、いきなり最終回みたいな、複数の能力を取り込んだ悪魔のような女と対決する『人くい鬼』のスピーディな展開。倒した、やった、と思うと5秒で復活、嫌あんな気持ちにしてしまうSっぷり。(これをフランス語ではエスプリの効いたと形容するって知ってた? ←うそ)いきなり絶望感まんまんにしておいて、と終盤のどんでん返しの意表の突き方もいい感じ。ほか、女の争いが力強く美しくそこかしこで展開するという寸法だ。

 映像的にも、このまま映画で観たいと思わせる鮮烈なインパクト(これは全体を通じて)。グログロでねちゃねちゃな場面も多い、というかそっちばっかで、綺麗汚いでいうと間違いなく汚い世界ではあるのだけれど、どろどろのなかに一瞬の赤色、みたいな。キレのある美しさが物語中にあると思うのだ。「洗濯屋」「出納係」というあだ名のネーミングも素敵。あー、なんだ。そうそう、とりあえず続きもすぐ読む。