MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE 国産ミステリ・レビュー
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


11/04/10
綾辻行人「深泥丘奇談・続」(メディアファクトリー'11)

 怪談雑誌『幽』二〇〇八年七月から二〇一〇年十二月に発表された四作に加えてアンソロジーや『小説すばる』に発表された、いわゆる「深泥丘シリーズ」をまとめた作品集、『深泥丘奇談』に続く第二弾。

 京都在住、深泥丘病院にしょっちゅう通院している病弱な地元出身のミステリ作家・私。南方出身でこの街は私よりも短いにもかかわらず、街の話に精通している妻。深泥丘病院にいる石倉という何人かの医師、神出鬼没の咲谷という名の看護婦。主に私の出会う説明のつかない奇譚群。
 散歩の途中で偶然発見した廃神社。誰もいないのにお参りの鈴の音が聞こえてきた。 『鈴』
 蟹を擂り潰して作った汁の記憶からエビや蟹が苦手な私。地元のカニ安楽ではこのシーズンしか食べられない特産物のコネコメガニが供され、妻や友人夫妻は生で。 『コネコメガニ』
 久しぶりに同窓会に出席した私。二次会、三次会と進むにつれ、グループはその場からトイレなどで席を外した人間を「死んだこと」にしていることに気付く。 『狂い桜』
 肝臓に心の闇が貯まっているのだという。医師の薦めに従って手術で除去してみたところ身体は思いの外快調。その心の闇を医師は持ち帰る決まりと持ってきて……。 『心の闇』
 刑事の「私」は、監察医の石倉と共に惨殺死体の検分を行っていた。ここのところ何件も続く猟奇殺人。ホラー映画ファンの二人は気付いていた。有名な映画を見立てた殺人事件であることに。 『ホはホラー映画のホ』
 深泥丘には三地蔵がいたらしい。 『深泥丘三地蔵』
 刑事の「私」と、監察医の石倉医師が出会った飛び降り死体。自殺のようにみえたが遺体は不自然に内臓破裂を起こしており、「ソウ」と謎の文字が残されていた。 『ソウ』
 深泥丘神社の境内の丁寧に切断されたバラバラ死体が発見された。五十に遺体を切り刻むのに五十の切断ヶ所。しかし切断した人物ははっきりしているにもかかわらず遺体のDNA鑑定が待たれている。その理由は……。 『切断』
 電灯の笠の中に入り込んだと思われるムカデ。私は意を決して電灯の笠を外してムカデを取り除こうとするが、そもそも妻はそんなムカデなど見えないという。 『夜蠢く』
 深泥丘にある公園内部に残されているラジオ塔。昭和初期にラジオ電波の受信のために建てられた構造物だ。私はそのラジオ塔の周辺で子供たちがくすくす笑いをしているのを目撃、さらに老人たちが集まって泣いているところも……。 『ラジオ塔』 以上十編。

架空の京都のどこかの街に染みこんでいる、様々なかたちの、恐怖の有り様
 怪談が必ずしも怖い訳ではないし、そもそも題名で怪談を謳っているわけでもないか。正直、どの作品からもあまり恐怖はかき立てられない。唐突なサプライズだったり、バカミス系統のオチがついていたり、一方で生理的嫌悪感をかき立て、気持ち悪いまま物語が閉じられてしまって感情の行き場がなくなったりと、普通の意味での恐怖以外のインパクトが強い作品が並ぶ。通常の短編小説よりもひとつひとつのボリュームは小さく、怪談集のような体裁をそれなりにまとまったまま、ネタや結末に縛られず、自由奔放に執筆されているという印象が最も強い。
 また、個々の作品についてはミステリとは違って作者の肩の力が抜けていることもまた感じ取れ、良い感じにのびのびとした内容になっているようにみえる。特に作者の趣味(ホラー映画)を存分に発揮した『ホはホラー映画のホ』『ソウ』といった作品のバカミスっぷりはもう誉めるしかないでしょう。友成先生が似たような作品を書いているというのは言わないお約束。だけど、この結末はすごいよなあ。ミステリだなあ(違う)。
 またクトゥルー(じゃないかな)っぽい雰囲気が伝わってくる冒頭の『鈴』なんかも好み。以前であれば気色悪い枠で『コネコメガニ』とかの気持ち悪さを評価していたようにも思うのだが、年齢を重ねて感覚が磨滅してきたせいかこの味覚にまつわる方向性の作品にあまり高評価を出せなくなってきている。
 ほか、石倉(一)医師であるとか、咲谷看護士であるとか、思わせぶりな登場人物が前作から引き続いての登場となっており、彼らについてはこのシリーズが結末に至るまでにきちんと正体が明かされる(そう考えるとこの深泥丘病院という存在自体かなり怪しい)のだろうか。

 いずれにせよ、ちょっと怖い、ちょっと気持ち悪いくらいの軽い縛りが「原稿より健康」の作者・綾辻行人氏に良い影響を与えているのか、様々な方面への才能というかセンスが迸っているのが面白い。こちらもそう構えて読まなくとも良く、軽めの読み物として楽しむのが吉だと思われます。


11/04/09
水木 揚「謀略海峡」(文藝春秋'11)

 水木氏は1937年中国上海生まれ。日本経済新聞勤務、支局長は論説主幹を歴任後、作家活動に入る。その経歴を活かした政治経済に関する著書も多いが、フィクションにも実績がある。本書は書き下ろし。

 航空自衛官でパイロットだった東はわざとスピード違反を起こして懲戒免職となり、四十六歳の現在、秘密裏に運営される日本国家系民間シンクタンクBnfのメンバーとなっている。ジャーナリストとして台湾に居を構える東は、台湾の国家機関に勤務するジャジャという魅力的な女性と恋仲になっていた。彼女がプレゼントだと東に渡してきたメモリには、中国政府と台湾政府の要人による秘密会談のテープ。国共合作、すなわち中国による台湾の併呑がその会議で話し合われているものだった。テープは東によって日本政府、そして米国へと渡るが調べた結果テープは、合成であることが判明するも台湾国家の内部では反中国の気運が高まりつつあった。ことが明らかになった後、中国は秘密裏にテロ組織を台湾内部に浸透させており、台北の巨大ビルが中国人のスパイにより爆破され、スパイは蜂起、同時に中国軍が台湾への侵攻を開始した。米国も判断を下せず、輸入品の海域が閉ざされた日本は更に日和ることしか出来ない。しかし台湾政府も中国のこの動きを事前に察知していた……。

スパイ小説にも軍事スリラーになりきれず、ポリティカルフィクションの重みが強い印象
 いきなりではなく、いろいろと前提条件や前触れを振ったうえで台湾国土に対して中国が侵攻してくるという物語。普通に考えると今回登場した事柄を全て詳しく書こうすると、相当なボリュームが必要な内容であるにもかかわらず、この程度の頁数で収めてしまっている。スマートな作品。良くも悪くもその点が本書の特徴になっている。
 先にもったいないと思うところを述べておくと、特に前半部の人物描写が非常にあっさりとしていて不親切といっても良いくらい。後から考えて重要になる人物、そうでない人物、登場人物が次から次へと出てくる割に名前と所属で認識せざるを得ず、主人公以外、個性がほとんど感じられなかった。拷問シーンにしても残酷な描写は丁寧なのに物語での意味が「?」のまま進められていく。序盤が終わるあたりまでで実は結構疲れちゃってた。
 ただ流石に中盤から後半にかけ、重要な人物が繰り返し登場するようになってようやく状況と物語に慣れてくる。筋書きは判るのだが全体にあっさりとしている。だけど物語は盛り上がる。あっさりといえば、中国軍が台湾本土に押し寄せてくるに際して水際で鮮やかに反撃をする台湾軍の描写も何かあっさりが勿体ない。兵器の型式やその武器の運用形態などの描写も丁寧で良いのだが、この戦いぶりもあっさり系。ここまで読んできた読者が手に汗握り、溜飲下げる場面だけにこのあたりシンプルな点は、本気で実に勿体ないと思った。もっと快哉を叫ばせてくれてもいいじゃないですか。
 しかし、トータルとしてのシミュレーションの充実っぷりは素晴らしい。 中国がちらちら現実にも見せる覇権主義、台湾の反骨、米国の混乱、そして何よりもこれだけの有事でありながら、主体的な判断を放棄してしまう日本政府のだらしなさも強調されている。この日本の姿を一旦折り返した外(台湾)からの視点で直視させられるところもまた 本書の意義だと思う。フィクションだけど、フィクション以上の重みがある。 現実の日本政府はもしかするともっとひどいかもしれない(最近幻想が打ち砕かれているから、余計)。
 また、中盤から後半にかけての東の、そしてその相棒の米国人・キャンベルとの息の合った、それでいてスリリングな戦いっぷりは堪能できた。このあたりでの戦争の中にある緊張感の描写は上手いと感じられる。特に平和ボケしていない彼らの即断即決の精神と行動、切り替わり。非常時に男はこうありたいという姿を体現している。全体として基本、作者のことを書ける人だと思うから、余計に前半や中盤の端折り方が全体的にもったいないと思えるのかもしれない。
 根本的には、台湾という国家の現在のあり方と将来のあり方を秤に掛けて、多少国民に犠牲が出ようとも、ある信念を貫き通すという「国」としての強さが圧倒的に心に残った。日本には、この強さが無いし、日本を舞台にした国家スリラー作品においては、そういった信念を国民が持っていないことが毎回事件の動機や遠因になってしまうことを思い出すと少し悲しくなる。

 大傑作とはいわないまでも、2011年の日本近海の一触即発の緊張感、インターネット時代の戦争(国際世論がネットで醸成される)というものの怖さや、戦争シーンの迫力(ミクロ・マクロ)、あのよく分からない巨大国家が軍事的に本気になったらどういう感じになるのかのシミュレーションも素晴らしい。日本も本書で描かれているような格下の属国扱いのような恫喝を受け、それでもおたおたしているのではないか。面白かったのに、現実を思い出すにつれ、なんか哀しくなってきました。


11/04/08
京極夏彦「オジいサン」(中央公論新社'11)

 京極夏彦&中央公論新社といえば、『嗤う伊右衛門』をはじめとした怪談シリーズの印象だったのだが、本書のような作品がいつの間にか発表されている。『中央公論』誌に三ヶ月おきに発表されていた作品が単行本化されたもの。読者層を意識したのか、フォントの種類やサイズ、組み方まで配慮されているようにみえる。(要はでかい)。

連れ合いもおらず、孫もおらず、友人も多くなく、趣味らしい趣味もない。  公団住宅に住み、朝から晩まで自分にとっての規則に則り、たった一人で生真面目に生活している七十二歳・益子徳一。結婚経験のないまま定年を迎えて現在に至っている。健康でもあり、日常生活自体は全く支障はないものの、微妙に物忘れが多くなってきて、ゴミの分別方法がよく分からなくなって、若者の味覚についてゆけなくなって、曜日や時間の感覚が曖昧で、いわゆる老年症状真っ盛りだ。自分に理解できないことは最初から理解しようとせず、最新式家電やインターネットにも縁のない暮らしを送る。偶に訪れてくれたり会話を交わしたりするのは、近所に住んでいる同じ様なご隠居であったり、回覧板を持ってきた主婦であったり、先代の時代から贔屓にしていた電気屋の息子だったり、どちらかというと偶発的な出会いが多く、それでも他人と会話できたことをオジいサンは喜んでいる。(作中でもオジいサンという発音で呼ばれることに何故かこだわっている)。たかだか、電気屋が家を訪れる予定があるというだけのことでその日の生活が浮き足立ってしまうくらいに。そんな彼の一週間を描く。

人気作家が想像で描いた「老人小説」であることで、逆にリアリティが引き立つ
 紛う事なき「老人小説」である。さすがにおっさんとはいえ、この年齢になるにはまだ先のことで、なので本書で表現されている種々の事柄がリアルだとは実体験のなかから断言できるわけではないのだけれど、だけど現実以上にリアルに感じられるのが大きな第一印象になる。
 これまでの文芸界における老人をあえて主人公に据えた、一般的エンターテインメント系小説(そう数があるものでもないだろうが)であれば、老人が妙に元気で探偵しちゃうとか、冒険しちゃうとか、戦闘しちゃうとかだったり、老人が妙に若いお姉ちゃんからモテちゃったりとか、いずれにせよ「年寄りの冷や水」を格好良く描くというのがこれまでの主流であったと思う。
 しかし現実は、年を重ねる毎に人間の体力は、様々なかたちで劣化してゆく。さらに六十歳が七十歳になったからといって、人間として大した経験値が蓄積されているわけではないという、老人には認めがたい事実もある。ついでにいうと、老人の持つ豊かな経験、蓄積された知識がそのまま凄まじい勢いで進化しつつある現代社会でどこまで生きるものなのか。

 少し話がそれた。この「老人小説」は、その価値観のズレを真っ正面から捉え、老人の立場から冷静に自分を見つめること、それ自体をペーソスとユーモア混じりに描いている。 24時間営業のコンビニを説明され「夜中に醤油を切らした人が買いに行くかも」「うっかり者だけを相手にするとは大変だ」「醤油を切らさないよう学習するのではないか」といった論理展開、常識が入らない分ユニークだ。世の中に対する押しの弱さから起因する微妙な消極性や、一日が経過するスピードを新幹線に喩えるところなど、比喩の上手さや事柄への説得性は、他の京極作品並みかそれ以上の上手さが感じられる。

 最後の最後に少し(訳の分からないかたちでの)盛り上がりはあるものの基本的には徳一の思考を、徳一なりに辿ることになる。作品としては穏やかな流れのなかにあり、大きな頂きは存在していない。それでも「老人とは」「老境とは」といった事柄、特にこの先、年を取っていく以上、死なない限りは訪れる「老後」についてユーモアを通じてではあるものの考えさせられるのは事実だ。かといって、さりとて何か説教性があるかというと全く無く、不思議な小説であるという感触だけが手の中に残る作品だった。


11/04/07
門井慶喜「この世にひとつの本」(東京創元社'11)

 『天才たちの値段』『おさがしの本は』など、美術や図書に関連した世界でミステリを描いてきた門井氏だが、本書もまた別の角度から近い世界を描き出した長編作品。ノンシリーズで『ミステリーズ!』誌にvol.29(二〇〇八年六月)からvol.37まで隔月で連載されていた作品が単行本化されたもの。

 日本を代表する高名な女流書家・坂部幽嶺が突然京都の山科にある自宅から失踪した。彼女を全面的に後援していたのは、業績が向上中で勢いのある大きな印刷会社・大塔印刷、さらにそのワンマン社長・大塔巌の意志があった。巌は、彼女の失踪を対外的に隠し、三男でで同社で働いている三郎に彼女の捜索を命じた。三郎は”坊っちゃん”ではあるが決して愚鈍ではなく、同社史上最速の窓際族といわれる男・柴建彦と共に京都へと向かった。一方、社長である巌の愛人でもある秘書の品本南知子(なちこ)は、社長室にある秘密の戸棚で社長の命により、交わされる会話の盗聴を行っていた。大塔印刷が数年前に、代表的な印刷術であり、職人技術が必要な活版印刷を業界に先駆けて一切止め、無版印刷にシフトして以来、無版印刷の工場で三人もの人間が立て続けに白血病死しているのだという。工場側の釈明とその後の雑談を聞き取った南知子だったが、社長のうっかりにより週末に入ろうという社長室に取り残されてしまう……。三郎により救われた南友子。そして彼らは三人で双方の謎を追いかけることとなった。

芸術家が追い求め、出版業がこだわる「文字」。個性溢れる人びとがそれぞれ勝手に動き回る
 「文字」という存在、その内容ではなく形象としての文字の存在にこだわる芸術家とその周辺を巡る物語。とはいってもどちらかというとテーマ性よりも、様々に特徴付けられたキャラクタたちによるドタバタ喜劇っぽい雰囲気の方が強い。
 入社した大卒秘書を愛人にした挙げ句、幼児向けアニメのコスプレをさせる成金社長。その三男で社員で、頭も良いのだが出世にそう興味なく、人生に達観したかさえみえる坊ちゃん社員。その相棒を仰せつかる史上最速窓際族。さらには その社長に信頼されている愛人本人。追いかけられるのは、どうやら原爆がらみで様々な遺恨を残した奔放な女流老書家。大人の事情が絡み合った話ではあるのです。
 彼らが彼らで「失踪した書家」「一工場での連続白血病死」の謎に挑む、というのが表層テーマ。その過程、登場人物の個性が強いため、どうしても人物と人物が化学反応を起こしていい案配にユーモアが生まれてしまうのは致し方ない。育ちが良いのであろう南知子と、周囲が一切見えない建彦の食事場面など、個人的にはおかしくて仕方なかったし。
 ただ、本質的には、芸術として、印刷物としての「文字の存在そのもの」がテーマとなっている。その存在への執念、考え方、さらには印刷技術の進化、トレンドといった様々な要素が絡み合い、本書の設定や背景、登場人物はそういった要素に応じて作者が物語上に設置していった(当たり前だけど)ものだと感じられる。
 全体的に感じられる、不自然さ、人工性といったところはこういった登場人物の考え方の筋道が微妙に全員常人離れしているところから来るようだ。その結果、展開の拡がり方が常に微妙に(こちらの)予測から外れ、そのミスマッチ感覚が都度生じて、それが面白く感じられた。
 個人的には、幽嶺が最後に至った境地に得心するものの、逆にそのタネが明かされてしまうと、なぜそちらに最初から向かわなかったのかという点には少し引っ掛かるかも。

 3.11前の執筆されていた作品ということもあって作品内に放射性物質が普通に、そして物語上で、重要な役割を担った存在として登場する。恐らくは徹底的にチェックは受けてはいるのだろうけれど、3.11以降、日本人と放射能との関係は 次ステージに突入してしまっているので、本書での物質の扱い方にはどうしても違和感が生じてしまう。こればかりは本書そのものに責任がある問題ではないのだけれど。
 トータルとしては一筋縄ではゆかない門井流を本作も堪能しました、ということになりましょうか。相変わらずユニークな作風かと。


11/04/06
小路幸也「ピースメーカー」(ポプラ社'11)

 ジャイブ社刊行の青春小説アンソロジーに発表されていた冒頭三つの小説に、ポプラ社のWEBマガジン「ブンゲイ・ピュアフル」に2010年4月と8月に発表された二作。バレンタインとボーナストラックは書き下ろしと様々出自を持ちながら続いてきた連作がまとめられた短編集。

六歳年上のみさきと同じ赤星中学校に入学した林田良平は二代目〈ピースメーカー〉となるよう期待されていた。というのも、六年前、赤星中学校に入学、放送部に入部した林田みさきは自らの優れた容姿と頭脳、さらに少し変わった性格を生かして運動部系と文化部系で対立していた学園内の宥和に成功、〈ピースメーカー〉と呼ばれていた。それから六年が経過、またしても学園内では文化部と運動部とのあいだに対立が復活しつつあり、どちらにも与しないことでコウモリとも呼ばれている放送部顧問の中山は、入学してきた彼女の弟・林田良平にも同じ役割を期待、そして良平もそれに応えようと放送部に入部する。 『一九七四年の〈ロミオとジュリエット〉』
 どちらも部を代表するレベルの実力がある剣道部の二大巨頭・折原と河内。個人戦の代表を決めるにあたり八百長があるのではないかという噂が……。 『一九七四年の〈サウンド・オブ・サイレンス〉』
 フォークソングは演奏OKの文化祭。そこに元サッカー部の岩島が参加するロックバンドの参加が試みられるが、文化部を管轄する菅野が良い顔をしない。岩島は別の場所での演奏を計画しているらしいのだが……。 『一九七四年の〈スモーク・オン・ザ・ウォーター〉』
 転校生の三浦さんが放送部に入ってきた。しかし放送部でロックを放送してはならないということが職員室で決められてしまい、ロックを愛する良平とケンちゃんは一計を案じた。 『一九七四年の〈ブートレグ〉』
 良平の姉・十九歳のみさきと、三十五歳教師・中山との婚約が発覚。在学中からの交際扱いされると放送部自体が廃部の危機に? 『一九七四年の<愛の休日>』
 冬休み明け、運動部が招いたバスケットボール実業団による練習と、文化部が招いた人間国宝クラスの書家による書き初めとがバッティング。どちらの顔も潰さずに〈ピースメーカー〉放送部が何とかできるのか……? 『一九七四年の〈マイ・ファニー・バレンタイン〉』
 二月のある日曜日のこと、近く卒業式を迎え赤星高校に進学する沢本先輩に呼び出された良平。 『ボーナストラック』 以上六編。

今と異なる三十六年前の、だけど今と同じような悩みとトラブルと、快刀乱麻に繰り広げられるその解決と
 基本、真っ正面からの青春小説。主人公を中学一年生にした年代設定が絶妙で、自分自身固有の愛だの恋だのいうよりも、まず自分の趣味である音楽、放送部、家族といった「世界」を守る、助ける戦いが中心となっているところが面白い。教師や体制に対する極端な反発もなく、むしろバランサーとしての役割を取ることができる主人公の、頭が良いというよりも大人びた感性がユニークだ。この中学一年生が大人びているとすると、初代〈ピースメーカー〉は一体どんなだったろう、と興味と同時に畏怖すら感じますな)。
 また、単に学園なんでもありもの(そんなジャンルはないけど)とは異なり、放送部という縛りがあるところもポイント。放送部ならではのイベントであるとか、機器であるとか、視点であるとか、解決すべき事件ごとに一種の飛び道具やアイデアが使えるところも面白い。一方で、「放送部らしい」解決に持ち込まなければならないという別の縛りによって、逆に少し突飛なアイデアが出てくるところなどもユニーク。序盤の〈サウンド・オブ・サイレンス〉は、放送部らしい着目点と暖かな結末がいい。後半は放送部らしいのだけれど、多少飛び道具っぽいところが出てくるかな。まあ、それはそれで日常の中に有名人を割り込ませるという小路さんらしいテクニックを使っていて、一種日常のなかで許される限界ファンタジーということで、有りですよ、勿論。
 そして最後に時代、かな。一九七四年に中学入学という世代は本書の読者層においてもかなり年齢が高い部類になりそうだ。ロックという音楽の位置づけ、男女交際の感覚、強権的な教師と生徒の関係など、例えば現在の学生さんからすると違和感があるテイストもあるかと思う。それはそれで、そういう時代だったという認識をすれば良い話であるし、それでもその中心にある「熱い心」(うあああ)は、時代が変わってもそう変わるものではないということを、実はきっちり認識して欲しいのだ。

 ストレートな小説でありながら微妙に変化球が入っているという、小路さんらしい青春小説。ポプラ社というレーベルにも相応しい仕事ですね。現役中学生や高校生に広く読んで欲しいというのが、これを書いているおっさんの希望です。


11/04/05
畠中 恵「ゆんでめて」(新潮社'10)

 デビュー作品『しゃばけ』から続く人気シリーズの九冊目。これまでとは異なる、ある趣向を持った連作集というかたちになっている。『小説新潮』誌二〇一〇年二月号から六月号にかけて冒頭から順に一作ずつ発表されている。

 長崎屋の若だんな一太郎は、最初、弓手(ゆんで)、つまり左の道へ進むつもりであった。なのに、人ならぬ者の姿を見かけた結果、右へと駆けていったのだ。──というプロローグ。その直後、長崎屋の離れが火事の被害に遭う。その火事で、一太郎の大切な友人・屏風のぞきの棲む屏風が激しく傷んでしまっていた。その修理を頼んだ職人が知らぬ間に亡くなってしまい、屏風自体が行方不明に。火事から四年、若だんなは屏風を探し出せる人を探す。 『ゆんでめて』
 火事があってから三年。かつて若だんなが賽の河原を訪れた時に出会った冬吉の兄、唐物屋の七之助の元に近江にいた時分の幼馴染みが嫁入りするという。しかし彼女らは本人と姉妹、さらに女中を連れて江戸に現れ、どの娘が幼馴染みか当てろという。 『こいやこい』
 火事から二年。長崎屋の離れを訪れたのは桜の化身たる童女。そして若だんなは、病弱ゆえに未だに「花見」をしたことがなく、今年は繰り出すことに決める。多数の妖たちも参加して大騒ぎするなか、狐と狸の化かし合いに乱入する何かまでが現れて……。 『花の下にて合戦したる』
 火事から一年。若だんなのために百度参りする鈴音姫が、大きな女性「のね」に助けられる。どうやら彼女も怪異らしい。江戸に大雨が降り続き、長崎屋のある一帯にも浸水の恐れが出てきた。両親の薦めで真っ先に舟で避難したはずの若だんなだったが、ある気がかりから強引に屋敷に引き返す。雨がひどくなるなか、屋敷には様々な招かれざる客が訪れて……。 『雨の日の客』
 生目神は人の往来を眺めている別の神様の姿を見咎める。その神様が一太郎の曲がる方向を変えてしまうきっかけ出会ったのだ。果たして、一太郎の曲がる方向が逆になると……。 『始まりの日』 以上五編。

若だんなの恋、そして悲しい別れ……。時の流れの残酷さを噛みしめ……たと思ったのだが
 (ネタバレ反転多数)本書に関してはネタバレ抜きで感想を書くのが非常に難しい。というのも、本作の中途から終盤にかけて抱くであろう感想が本書の結末ゆえに「完全リセット」させられてしまうからだ。以下はその前提で書いたもの。
 今回の作品は、時系列的に 四年後、三年後、二年後、一年後、スタート地点、という順番、つまり時系列的には逆に一年ごとのエピソードが描かれる。逆に進むということ自体が小説構造としてそう珍しいものではないのだが、このシリーズに関していうと大きな違和感が出てくるだろう。つまりは、時間の進み方が早すぎるのだ。
 とはいえ、それでも納得させようという力業を感じるのは、作品でいうと一話目で大切な友人との別れのエピソードという重いテーマを描いておいて、更に二話目で、若だんなの結婚を前提とした恋という、シリーズでも珍しい浮ついた(若だんなが浮ついているという訳ではなくて真剣ではあるのですよ)エピソードが登場すること。つまりは、若だんなの人生の岐路をいきなりいろいろ描き出すことによって「シリーズの加速」を狙っているのではないかと邪推させられると。というか、おかしいなという違和感を、こういった方向性で納得させようとしてしまった自分がいるからなのですが、はい。
 しかし、三話目については、どちらかというと一太郎の初めて体験、さらに江戸情緒に満ちたお花見大合戦と来る。貧乏花見の貧乏なところを抜きにした(変な喩え)、贅沢なお花見にして楽しそう。あれ、これは先程の重さとは違う。
 といった違和感を幾つか経て、最後にリセットですよリセット。一エピソードではなく一冊まとめてリセット。日常は最終話のみが継続してゆく。若だんなの味わった恋心もお花見も無かった事に。別れだけがリセットするのではなく、その場合は楽しかったこともリセットされるのだということ、といっても大したこっちゃないか。

 まあ、そういう訳で根本的には本作品集で何かが大きな進展があった訳でなく。一般的なシリーズ紹介とは真逆、単体で読むのであれば、それなりに楽しめる作品ですが、シリーズの途中と思って読むと多少力が抜けます。うーむ。悪い訳じゃないんですけどね。ただ、ここで登場した”彼女”は次巻以降、別のかたちで登場して、やはり若だんなの運命に絡むんじゃないかと想像したりします。だって、どういう時系列を辿っても最終的に心惹かれ合うからこそ、運命の女(ひと)ってヤツじゃないですか。ああ、オレ、うまいこといった!


11/04/04
鯨統一郎「隕石誘拐 宮沢賢治の迷宮」(光文社カッパ・ノベルス'99)

 この前年『邪馬台国はどこですか?』を文庫書き下ろしで刊行、同作が年末ランキング入りするなど大物新人として期待を集めていた鯨氏。その鯨統一郎初の長編ということで、'99年にカッパノベルスより書き下ろしで刊行された作品にあたる。同題で'02年には光文社文庫版も刊行されている。ノベルス版でも巻末に千街晶之氏による解説がある。

 生命保険会社で激務に晒され、童話作家になる夢を諦められず、妻子がいる身でありながら脱サラしてしまった主人公・中瀬研二。四歳になる息子・虹野の教育のことで妻の稔美と大げんかし、そのまま現在の勤務先である清掃会社に出勤してしまう。喧嘩はしたものの不安定な収入のなかぎりぎりのやりくりをしている稔美に対する強い負い目も研二にはあり、離婚したばかりという同僚女性の誘いに乗りかかるものの、悪い予感もあってその誘惑を振り切って帰宅した。しかし家はもぬけの殻。慌てた研二は彼女の実家や知り合いに電話を掛けまくるが誰も、行き先は知らないという。警察もこの段階では事件性は認められないというが、研二は二人が何者かに誘拐されたことを確信した。研二は妻の残した言葉からホームページに手がかりがあるのではと、コンピュータに詳しい隣人の児玉に分析を依頼する。既に物故している妻の父親は宮沢賢治の研究者で、彼とその協力者が発見したという、幻の『銀河鉄道の夜』の第五稿にどうやら鍵があるらしい。

宮沢賢治「世界」に対する新解釈と、鯨節サスペンスの相性ギャップ?
 現在から十年以上前、刊行当時は「『邪馬台国はどこですか?』で鮮烈なデビューを飾った鯨統一郎、初の長編作品!!」という鳴り物入りで刊行された本書については、当時黎明期にあったインターネット書評上でも正直悪評が多かったように記憶している。今、改めて本作を読み直してみるにその理由も分かる気がする一方、鯨氏の著作が数十冊以上刊行されたあとの現在だと、(個人的に一部気に入らない点があるにせよ)鯨長編として決して出来の悪い作品だとも思えない。 たぶん、当時の読者が「鯨統一郎はこういう作家だ」と考えていた(決めつけていた)枠が小さかったことが理由なのではないか、と思うのだ。
 宮沢賢治の作品群に対する独自の解釈。かなり深く宮沢賢治を研究したうえでないと書けない内容で、各方面の作品への言及があるなど時間と手間がかかっていることがうかがえる。特に宮沢賢治の「世界観」についての新たな解釈はかなりユニークだと門外漢ながら感じる。この「新解釈」という面では他の鯨作品と比べても水準に遜色はない。ただ、その宮沢賢治に対する新解釈部分が物語を通じて前面に出てきていない。物語との繋がりにかなり無茶があることは間違いなく、その分全体にぎすぎすした印象が出てしまっている。
 そのミステリ部分、メインストーリーとなるのが誘拐サスペンス。そちらの展開が独特にして毒々である。宮沢賢治の新解釈を脇に追いやるのような展開で そのあたりは個人的にも本作の評価を高められないところではある。(基本的に物語上で必然性のないレイプシーンは描写すべきではないと考えているので)。その組み合わせのアンバランス、さらに作者の淡泊な筆さばきとも合わさって読者の勝手な期待から外れてしまっていたのではないか。
 とはいっても、ミステリとしての流れは、現時点での鯨作品の長編ミステリの水準からするとそう低いものではない。新解釈もミステリもそう悪い訳ではないことを考えると、やはり当時の需要と供給のギャップが要因だったと結論付けたくなるところだ。

 これもまた今考えると、ということになるが、本作で登場する幾つかの「固有名詞」が、後の作品にも登場したりしている。実はシリーズ作品として意外な繋がりも多い鯨ワールドが、ワールドとしての自覚を持ち始めた作品ともいえるように思う。今更「必読」とまで持ち上げるつもりはないが、 そう悪くないという点はやはり強調しておきたい。


11/04/03
島田荘司「進々堂世界一周 追憶のカシュガル」(新潮社'11)

 島田荘司氏による御手洗潔シリーズ中編集。謎解きを主眼とした作品ではなく、一種のスピンアウトとも受け取れる。冒頭の作品は書き下ろし、『シェフィールドの奇跡』はカッパノベルス創刊50周年の『アニバーサリー50』、『戻り花と悲願花』は『小説新潮』二〇一〇年九月号、『追憶のカシュガル』は『小説新潮』二〇一一年三月号が初出。一部改題。

 京大を目指して浪人中のサトルが請うままに、京大北門前に実在する喫茶店「若かりし御手洗潔が世界中を放浪していた経験について語って聞かせる、というのが全体の大枠。チンザノ・コークハイの味が蘇らせる、北海道でのサトルの恋愛と失恋が語れる 『進々堂ブレンド1974』
 知的障害者の息子に何とか生き甲斐を見つけさせようと奮闘する父親と重量挙げで街一番の選手になる息子。それでも何かと世間の風が息子に対して冷たいなか、奇跡が起きる。 『シェフィールドの奇跡』
 LAで御手洗が知り合った韓国人。戦時中の日本人による朝鮮人に対する酷い差別、犠牲になった姉の復讐すら考えた彼が経験した朝鮮から日本へ、そしてアメリカへと渡っていく数奇な花の運命……。 『戻り橋と悲願花』
サトルとの会話で現れる日本の桜・ソメイヨシノのある意味異常性。アジアとヨーロッパの文化が混じり合うカシュガルと、その地域性ゆえに辿ってきた哀しい歴史。御手洗がこの地で知り合い、案内をしてくれた老人との心の交流……。 『追憶のカシュガル』 以上四編。

カジュアルで不思議でマイナーな世界地図が描かれる。然して島田荘司のメッセージ性が色濃く発露する
 記憶では「進々堂世界一周」は講談社BOXの企画だったと思うのだが(違ったっけ)、島田氏の事情だろうか『小説新潮』で発表されるようになり、現在に至っているようだ。(続き物といえば講談社BOXのClassical Fantasy Withinも続きをかなり真剣に待っているのだけれど。)

 さて。
 島田荘司氏による世界紀行。 また御手洗潔という特定の人物を語り手(聞き手)に当てはめることで、昭和期の一時代がピックアップされる。第二次世界大戦が過去のことになりながら、この当時に生きていた人の多くが、直接的な記憶として持っているという時代。他の戦争や後に戦争に繋がる紛争も世界中で発生しており、世界の様々な地域での貧困や飢餓といった問題が、少しずつ日本に伝わってきはじめたという時代にも重なる。従って土地土地や人を巡る謎もありながら、その時代性が個々の作品で社会派的主張と共に伝わってくる印象だ。
 これまでの島田作品における長短編のミステリ群に比べると、語り口が軽妙で確かに軽く執筆されているように読める。けれども、これはもう島田氏の骨がらみというか、先述の理由でどうしても込められてしまう、その社会性・メッセージ性が強くてずっしり重い。冒頭のサトルの経験はまだしも、御手洗が他人に語るという行為は、そもそも彼の心のなかに残ったものを伝えようという行為である訳で、それだけでもう胸が熱く(いっぱいに)なる何かが必ずあるのだから。
 その結果ということもなかろうが、一つ一つのエピソードにおいては異国の話であるにもかかわらず(良くも悪くも)”日本人であること”が強く意識させられ、内容は比較的軽い部類であるのにm、読後感が結構重い。 実際、作者自身の発言として「気軽に読ませることを意識したといった」趣旨をtwitterかどこかで読んだ気がするのだけれど、必ずしも受け手としてそう簡単に済まないところが、結局島田作品の島田作品たる所以だろう。

 個々の物語自体は中編であるし、それほど多くの「謎」が込められている訳ではない。島田荘司氏の提唱するところの「ミステリー」はほとんど無いといっても差し支えない。だけれども、本作はやはり島田ミステリーであり、その枠のなかでしか比較出来ないな、と。そんな印象を受けた。


11/04/02
小路幸也「東京バンドワゴン オブ・ラ・ディ・オブ・ラ・ダ」(集英社'11)

 ――書名にこれだけナカグロ「・」打つのは初めてかもしれない。毎年一冊、春の風物詩ともいえる小路幸也氏を代表する書き下ろしシリーズ「東京バンドワゴン」。今年もやって参りました。テーマはLife goes onだそうです。一冊番外編を含むものの、作品内でも一冊が一年分。登場人物も年を取ります。

 研人は中学に入学、花陽は中学三年生になり将来は医者になりたいという夢を持つようになった。そんななか、ワゴンに青い林檎がぽつんと置かれる事件が。『春 林檎可愛やすっぱいか』
 青に突然映画出演の話が舞い込み、子供たちの今後の学費をはじめとする経済的理由からも引き受けようか悩む。さらに映画の舞台に古書店を使いたいということで東京バンドワゴンが撮影現場に変身? 『夏 歌は世につれどうにかなるさ』
 近所をうろうろする怪しい奴ら。近所で開館する絵本や童話の美術館「おかはし玲記念館」に奇妙なマニアが集まるらしい。岩手のインターフェイス開発と名乗るその男、古本を持って店に来たが……。 『秋 振り向けば男心に秋の空』
 藤島ハウスに藤島社長が自ら住みだしたところ、彼の後をつけている女性が。すずみによれば小説家の女性なのだという。更にその後をつける男性。そして勘一の妹・淑子さんが……。 『冬 オブ・ラ・ディ オブ・ラ・ダ』 以上四編。

いつも通りにみえても日々生活は常に更新され、少しずつでも前に必ず進んでいる。日常こそが大事。そういうこと。
 改めて前作を見直してから本作を読んで気付いたこと。四季がそれぞれに一エピソードが毎回割り当てられているのだけれど、前作の最終話の季節と同じ季節の後半から次の作品の冒頭作が始まっている。前作で確か研人が小学校卒業だったよなあ、と中学に入学したばかりの研人がある意味、冒頭作の『春 林檎可愛やすっぱいか』で重要な役割を果たしていたりする。単行本で一年に一度読むとなかなか逆に気づけなかった。もしかすると文庫を一気に読んだらすぐ気付くのかな、こういうとこ。

 さて。
 人気コミック『ONE PIECE』では長らく主人公ら海賊同士がどんなに激しい戦闘をしても、その戦闘の結果として相手が死ぬといった事態が描かれてこなかった。(病死など死そのものはいくつかのかたちで描かれていたにせよ)。この戦い激しすぎ、いくらなんでもダメ、死んだ! という場合でも重傷だけど実は命は助かっていたというのが基本。しかし、主人公・ルフィの兄・エースの海軍本部における戦いでそのルールは破られる。……もちろん本稿で『ONE PIECE』を語るのが本意ではない。東京バンドワゴンである。
 ここまで六冊、都合六年(五年?)が作中で経過して、登場人物は増える一方。これだけ年寄りがいる大家族で、旅立ちはあったが今生の別れという直接の描写がこれまで無かった。が、今回ある人物が大往生を遂げる。 ある意味、その事実が本作では最も重く、シリーズにおいても重要なメッセージを内包しているといえるかもしれない。
 新たな生命が生まれ、一方では旅立つ命もある、という当たり前の事実。 お迎えの時期を自分で選ぶことは出来ず、残された人は営みを続けなければならない。まらにLife goes on。本書でも炸裂する「LOVEだねぇ」は、こういった人生のあり方が分かったうえで成り立っている。だからこそ人は人に優しくなければならない。

 本作もいくつもの謎があり、解決もある。人間同士の繋がりが再発見されて、新たな絆が生まれる。そのこと自体が直接読者に作用するものではない。(フィクションだし)だけど、直接的ではないのに、このシリーズを読むと自分のなかから元気や優しさが生まれてくるような気がする。そのこと自体が「LOVEだねぇ」ってことだ。人は自分だけではなく他の誰かのために生きている。

 妙に分析的に読む(オレですごめん)のではなく、堀田家の人々の行動や気持ちをストレートに感じながら、読むのが吉。全ての日本の人々がこのシリーズにいつか触れられる日を夢見てます。(サザエさんみたいにね!) 


11/04/01
一田和樹「檻の中の少女」(原書房'11)

島田荘司選 第3回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞受賞作品。一田氏は1958年生まれ。サイバーセキュリティ関係の業務に携わっていたが2006年に退任し2009年より小説の執筆を開始、2010年初頭には第144回Cobalt短編小説新人賞を『午睡の森』という作品で受賞している。

 巷を賑わす自殺補助サイト・ミトラス。自殺希望者が、自殺幇助者とマッチングし、幇助者は希望者の話を聞いたりアドバイスをする一方で何らかのかたちで背中を押し、相手が自殺を決行したら自殺者が提供する多額の手数料が、ミトラスの手数料を差し引いて支払われるというシステム。ネット上の一種の出会いサイトであり、幇助者も実際に手を下すわけではなく違法性はないというが、女子高生など若い女性を中心に幇助者として気軽に登録、金儲けのタネにしている。ある女子高生に振り込まれた手数料を取り上げる仕事を成功させた、自称・腕利きサイバーセキュリティのコンサルタントである主人公・君島。彼のもとに知り合いの紹介で、「ミトラス」に息子を殺されたと主張する老夫婦が現れる。断るつもりでいた君島だったが、三百万円の手付け金に加え、数千万円準備があるという高額の報酬に惹かれ、その息子の死の真相を明らかにする仕事を引き受けてしまい、捜査を開始することになる。そんな君島のもとに先の女子高生の紹介で、別の美少女・みのんがやってきた。いわゆる常識が通用しないうえ、高飛車な態度を持った彼女は、ミトラス関係者からストーキングされているので君島に助けて欲しいという(助けて当然という態度だが)。君島は仕方なく、そちらも引き受けることになってしまう。

手熟れというか周到というか、構成が計算尽くしの印象。意外性よりも敢えてリーダビリティを重視?
 サイバーとかハッカーとかネットセキュリティとかいう言葉が一昔前に比べると難解ではなくなってきている現在、ネット関連を舞台にしても珍しいという感覚は薄れ、むしろ日常のなかの一部として捉えられるようになってきているように思う。ネットを使うことで何が出来て、一方何が不向きなのか、読者も皆知っていることはもう前提である。
 女性関係にだらしない(ように演出されている)主人公・君島による私立探偵小説。 物語展開としては捜査を重ねるごとに手がかりが少しずつ出てきて積み重なるところなど、ハードボイルドの手法を援用しているとは思うし、この作品そのものをハードボイルドに分類する人もいるようだ。しかし主人公に社会に抗う気持ちなどさらさら無く、思想もないし、本書はハードボイルドとはいわないと思う。むしろ謎の配置、手がかりの出し方に本格スピリッツの方を個人的には強く感じたくらいだ。
 さすがにいかなるシステムがハッカーに対して堅牢か、といったところは技術的な解説に任せるしかないのだけれど素人にも分かるようにヒントが提示されている。また、後半部、違和感ありまくりなのに周囲が納得してしまう「真相」が一旦提示され「?」と思っているとその違和感を消し去る大どんでん返しが待ち構えていた。レッドヘリングがピリッと効いていた結末と嫌さは心に残る。これで最後が独白でなければ、個人的な評価はもっと上がっているところ。ただ、最後に明かされる題名の意味であるとか、ラスト数行に凝縮された恨み辛みであるとか、サプライズを求めるミステリというよりもサスペンスの極みとしてのインパクトが強烈だった。

 新人賞受賞作品として相応しいインパクトを感じた。一部露悪的な文章でわざと作品に下品な場面を持ち込んでいるようにみえるところは少し引っ掛かる。(全体に無駄が少ないのに、風俗の場面とか無駄っぽくみえる)。とはいえ、しっかりした実力を持った作家が誕生してくれたことを素直に喜びたい。島田荘司氏が選者でなくとも本書は受賞したとは思うのだが、この作品が同賞に投じられるところが人徳というかオーラというか。そういうことです。