MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE 国産ミステリ・レビュー
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


11/06/10
丸山天寿「琅邪の虎」(講談社ノベルス'10)

琅邪の鬼』で第44回メフィスト賞を受賞してデビューした丸山天寿氏は1954年生まれ、福岡県北九州市で古書店を営んでいるようだ。

 「琅邪の鬼」事件から少し経過した「琅邪」。相変わらず秦の始皇帝の庇護を受け、徐福が研究に励む(励んでいることになっている)この街に移り住んできたばかりの小さな女の子が行方不明となる事件が発生した。求盗の希仁は、桃ら仲間と共にその女の子を捜して山に入るが、彼らの前に現れたのは、虎に喰われた結果、妖怪になってしまったという顔のない女だった。彼女は子供を返す代わりに、人の姿をして人虎となったその虎を退治して欲しいと希仁らに依頼する。希仁は、脈が早いという人虎となった女性を捜そうとするが、人間関係に端を発したような訴えが多くなかなか捗らない。その一方で、虎が出没したり、神木の下で連続殺人事件が発生したり、人間の足をはやした虎が現れたりと奇妙な事件が続発、果ては始皇帝の肝煎りで造成した観光台が崩壊するなど、考えられない事件が次々と発生する。かつて琅邪で秀才として活躍した人物は恩師を冷たくあしらい、始皇帝に遣わされた風水博士たちの行動もまた怪しい。果たして人虎とはなんなのか。希仁と桃らは隠された真相にたどり着くことができるのか――。

多数の小さな謎を包む大きな謎、さらにその謎たちを包むとてつもなく大きな意志――。
 二作目にしてメフィスト賞受賞の前作というハードルを軽々と飛び越している。非常にレベルの高い作品となっている。ミステリという意味でも、一個のエンターテインメント小説という意味でも、そして中国伝奇物語としても、だ。
 まず、ミステリ。人が虎になる、妖怪の存在といったすべてが信じられている時代。現代では考えられないような錯覚や誤解、迷信など知識の偏りといった条件によって、人の行動がいとも簡単に左右される。現代人の眼(更に先進的琅邪の人々の眼)からして意外に思える現象を生み出す意外な行動は、そのウラ側に彼らなりの必然が備わっているのだ。虎から人間の足が生える、そんなバカなことは普通無い。普通無いのだが、人間にそうするだけの理由があったのだ。他の謎も方法論でいうとこれに近い。
 ただ、その謎が小さな謎解きにとどまらない。中くらいの謎として「虎」の謎がある。なぜこの地で「人虎」の噂が立つのか。果たしてその「虎」とはそもそもいったい何なのか。小さな謎がこの中くらいの謎にいったん包含されるのだ。丸山天寿氏の底知れないところは、この中くらいの謎が発生するだけの理由を持った、大きな企みをその外側に備えていること。 秦の始皇帝という歴史上の人物が統治する世界だけに「あり得る」と思わせるところは、ミステリとして上々かと思う。
 古代中国という舞台を十二分に活用している。つまりは、小生のように中華系本格ミステリを偏愛する向きにはツボですがな。
 更にエンターテインメントとしての面白さがある。その愉悦を支えるのは、(カンタンにいうと)登場人物のキャラ立ちだ。前作引き続き登場する希仁や桃に加え、笠遠先生や徐福、狂生、そして無心ら、個性豊かな面々がそれぞれ役割を果たしている。特にラスト近くのアクションシーンについては様式美ともいえるようなエキサイティングな展開を見せてくれた。(というか、個人的に狂生と桃夫婦の反則的チートな強さに痺れてるだけかもしれないけれど)。
 そして、伝奇。秦の始皇帝といえば、その政治手腕や統治によって、皇帝本人に付随する伝説も多い人物。徐福伝説をはじめ、日本とも関係があるし、始皇帝を倒そうと様々な伝説的行為があったともされている。そういった背景を緻密に絡め、(そもそも徐福塾の人々が伝奇的存在であるのだけれど) 歴史IFに近い感触を物語から際だたせてくれている。もちろんフィクションなのは重々承知のうえで、この時代の混沌を伝奇的に処理しているところは、繰り返しになるが、個人的に好みストレートど真ん中なので困ったことだ。

 本書の最後は「女か、虎か」のパロディにて締めくくっている。楽しいけれどそこは遊び過ぎか。登場人物たちの魅力はもちろん、彼らが生きているこの「琅邪」という街が前作に続いて生き生きと浮き彫りにされていくところもまた魅力。中国コージーというワケには、始皇帝がいる限りはならないだろうが、群像本格ミステリとして冊数を重ねるにつれ人気が出てくるのではないだろうか。


11/06/09
福澤徹三「アンデッド 憑霊教室」(角川ホラー文庫'09)

 前作『アンデッド』の続編となる長編書き下ろし作品。既に『アンデッド 拷問教室』という三部作完結編が同じく角川ホラー文庫より刊行されており、本作は三部作中第二部に相当する。

 前回の事件からしばらくが経過、アンデッド・玄田道生は伊美山の廃病院地下室に封印され、ある人物は多重人格ということで病院に入れられ、高校へは通ってきていない状態となっていた。前回の事件を不思議な力で乗り切ることができた、文芸部の神坂美咲。彼女は部員と共になんとか部誌をまとめたものの、クラスメイトらの評判は芳しくない。困った彼女らは打開策を求め、前回の事件で知り合った作家の鬼屋敷のもとを訪ねる。オカルト話が欲しいという彼のために、伊美山で最近また大学生が二人立て続けに自殺しているという情報を持ってゆく。しかし、大学生に続いて彼女たちも知る同級生・恵が伊美山の麓の踏切で飛び込み自殺を果たしたことから美咲の気持ちは揺れる。美咲の学校では、同級生で美少年優等生の勇貴が二人の仲間と共に放課後に「いじめパトロール」を実施していたが、彼は自殺を受けて伊美山もそのパトロール範囲に入れると言い出す。いじめから救ってもらうために彼に付き合っていた耕介は、勇貴の容姿がかつての連続殺人を犯した中学生によく烹ていることに気づいてしまう……。

まさに三部作第二部。意味深な前半と恐怖インフレ、怒濤の後半がぷつんと断ち切られ、気持ち持て余す
 文芸部の活動や、帰宅部のだらだらした中身、中途半端な恋愛模様をつづった前半から中盤にかけては、ちょっと展開テンポとしても登場人物の関係という意味でも緩い印象があった。前作でも多少前半部で感じたように思うのだが、学園とその周辺にまで物語が拡がるため、登場人物がそれなりに多く、ある程度、その人物たちの個性が頭のなかで整理されるまでに時間を要するため、すいすい読めているように感じられないのだ。(前作から立て続けに読めば良かったか)。
 ただ、ある程度状況が整理されてからの中盤以降の展開はスバラシイ。 自殺の続く伊美山の呪いを不気味なバックグラウンドミュージックのように響かせて、優等生・勇貴の正体、彼と交際している美咲の友人・彩乃の憔悴など、高校における(当たり前の)人間関係を逆手にとったような意外性が連続、そのサプライズによって恐怖感覚を盛り上げる。特に途中で改心して、首謀者を裏切るハズの耕介が黙々と美咲を害する側に回る描写など、登場人物の行動を信じて良いのか信じてはいけないのか判らないまま物語を転がすバランス感覚が巧い。
 また、ある人物がSAWばりのお仕置きを受け、苦しむ描写の非人間っぽくて残酷なこと。例のごとくのあの予告電話「……ニワメ、……ニワハ」とかかってきたとたんに訪れる、不条理がいきなり舞い降りたような人工的不幸(釣りのリールってさあ)は、マジメに筋書きを追う向きは多少戸惑うかもしれないが、こういう理屈に合わないところも含めてのホラー小説なのだと思う。
 この段階では確かに、神坂美咲の能力も多少開花しつつあるようではあるものの、物語を動かすにはまだ中途半端。(霊能者として登場する樹坂麻宮はまあ明々白々のアナグラムだわなあ)。加えて、終盤、物語がぶち切られるように途切れ「了」の文字と共に、強制終了させられる。

 続きがあることを知っているので落ち着いて読めたものの、これ、続編がまだだと気持ちの宙ぶらりん度合い高そう。いずれにせよ、物語だけではなく、神坂美咲の能力についてもまだ語られていない部分も大きく、前作からの伏線こそ一部回収されているものの、他にもいろいろ本作でまた伏線ぽい記述がなされている。美咲の能力が今後どのように開花し、魔の存在とどう対峙するのか。廃病院の地下の封印は、結局のところどうなってしまったのか。今から『拷問教室』が興味深いところ。でも拷問かぁ。なんかやだなあ。


11/06/08
門井慶喜「小説あります」(光文社'11)

 『おさがしの本は』のスピンアウトというか続編というか。同作に登場したN市図書館司書の和久山隆彦がそこそこの役割をもって再登場。彼らの活躍によって図書館が存続した後、同じ市の別施設の物語。『ジャーロ』四十号(二〇一〇年十二月)、四十一号(二〇一一年四月)に掲載された作品に第六章が書き下ろされて単行本化されたもの。

 図書館ですら廃館の危機にあったN市では、市立文学館の廃止が事実上決定していた。この文学館はN市に晩年を過ごしたプロレタリア文学出身作家・徳丸敬生が暮らしてきた旧宅を利用して建てられており、嘱託の職員として働いていた老松郁太。彼はその徳丸敬生が残した『オリオンの三人娘』に大いなる影響を受け、大企業の跡取りの地位を擲って小説の仕事がしたいと、この職に就いていたのだが閉館と共に馘が確定していた。そんな郁太が神保町の古書店で偶然見つけた敬生の遺稿集、それには著者の署名があった。死後に刊行される遺稿集に署名があるハズはなく、古書店主は紛い物扱いするが仕事で敬生の文字を見続けてきている郁太は署名が本物であることを直感する。もしかすると失踪した敬生は密かに生きている? しかし時を同じくして、富士の樹海へ入って失踪した敬生の屍体が発見され、DNA鑑定で本物と断定された。一方、郁太の弟で、兄の代わりに事業を継いだ勇次は郁太に実業への復帰を迫る。勇次は郁太に対して「人はなぜ小説を読むのか」という命題の答えを出す勝負を求める。郁太も承諾。郁太は敬生の謎を解きながら、命題の答えを探し求め始めるのだった。

架空作家の遺稿集へのサインという謎から、人は何故小説を読むのかという命題まで
 ここのところ「本」をテーマに、形而上、形而下、様々な角度からこの存在を考え、そのアプローチを変じつつ、他の作家がそもそも謎というか、物語のテーマにすらしないような事柄を扱っている門井慶喜氏。さらっと考えると自明の事柄のようなことにこだわっているところがユニーク。先に述べた『おさがしの本は』は図書館という本が集まる市民の施設がテーマだったが、続いての『この世に一つの本』では、一冊の”本”という存在そのものについてを突き詰めてゆき、ちょっと変わったミステリへと仕上げていた。
 そして本書。
 半分は、失踪した作家が一冊の本に残したメッセージ性の強い謎がテーマ。そして残り半分は、題名通り本を通り越して「小説とは何なのか」という命題について考えている。
  ミステリ的にいうところの、「死後発行される遺稿集に残された著者直筆の署名」に関する謎、普通に考えたら思慮の浅い一般読者による失敗で終わるところ、これが真筆だった場合……と謎が繋がるところ、また本というハード的構造にまで立ち返って謎解きする展開はなかなかユニーク。ただ、少し残念なのは、一冊の本に関してここまでやり抜く執念と、家族に迷惑を掛けてまで失踪してしまう作者の存在とが、印象としてあまり重ならないところか。
 実は同じことが「人はなぜ小説を読むのか」という、実業家兄弟が交わす論争にもいえる。途中の捨て解答が凡百であり、勝負の割に考えが浅くみえるところから引っかかる。結論については、大きな反論もない代わりに異論もないのではあるのだが、登場人物が納得しまくっているほど、読者万人が納得できる結論ではないよう──に思うのだがどうだろう。小生も、まあそういう側面はあるにせよ、そればかりのために小説を読んでいる訳ではないし。そもそも、読書という純個人的行為を定義するという前提自体に無理があるのかもしれない。

 序盤の発想や展開、そもそもの着想が非常にユニークであるのに、本書に限っていえば、どこか結論を出す段階になって作者自身に迷いが生じているようにみえる(結論を曖昧な方向に誘導しようとしている?)。それこそ小説なんだから、「断言」してしまえるのが作者の特権だと思う。多少強引でも作品である以上、結末はぐっと締めて欲しいのだ。


11/06/07
麻耶雄嵩「メルカトルかく語りき」(講談社ノベルス'11)

麻耶雄嵩氏のシリーズ探偵であるメルカトル鮎及び推理小説作家・美袋の登場する短編集。しかし相変わらずめちゃくちゃやりおるなあ。「答えのない絵本」が週刊現代増刊「メフィスト」二〇〇九年一月号、あとは巻頭から『メフィスト』二〇〇九年VOL.3、二〇一〇年VOL.1、二〇一〇年VOL.3号に発表。巻末『密室荘』は書き下ろし。

 高校三年生の夏。不動産会社を経営する友人父親に物件を借り、男女六人で奇妙な和洋折衷の館に泊まる。その館の二階の一室から、友人の一人・生野が転落死亡する事件があった。一年後、メルカトル鮎を招きその事件の白黒をはっきりさせようとするが、また一人が部屋内で殺害され……。 『死人を起こす』
 美袋のPCでウイルス入りロムの実験をし、短編一つをお釈迦にしたメルは、短編のネタをやると宣言。美袋と同フロアのある人物の家に行き、血の匂いがする、と殺人現場を嗅ぎ付けてしまう。 『九州旅行』
 宗教家・小針が幾人かの若い信者と暮らす島。宗教書を巡って複雑な人間関係がみえるなか、メルカトルと美袋も宗教家からある事件解決の依頼を受けて島を訪れていた。 『収束』
 高校の放課後、理科準備室でアニメマニアの先生が不審な遺体となって発見された。生徒たちにアリバイはあるような無いような。学校側からの秘密裏の要請により、メルカトルが学校内で謎解きを開始する。 『答えのない絵本』
 メルカトルの所有する別荘内部。メルと美袋しかいないある朝、内側から施錠された別荘にいきなり他殺死体が発見されてしまう。そこでメルがとった推理と行動とは。 『密室荘』 以上五編。

”メルカトルは不可謬ですので、彼の解決も当然無謬です。”えーー?
 五つの作品がそれぞれ似たようでいて、異なった、通常の感覚でいうと気持ち悪い解決がメルカトル鮎によってもたらされる、へんてこフーダニット作品集。改めて五編を思い起こすに、具体的に犯人の名前がきっちり挙げられている作品が一つもない。それぞれの作品でメルカトル自身が、非常に論理的に謎解きを行っているにもかかわらず! ですよ。
 ほとんどネタバレ無しには感想すら書けない作品群。まず『死人を起こす』では、当初の事故死についてはそれなりに納得ゆく内容。被害者となる人物が、あるものに対して嫌悪感を持っていた。うんうん、解る。しかし、メルカトルを改めて呼び出しての謎解き、殺人事件。ここからが変。犯人候補は当然、その別荘に集まった人々だけど、謎解きが終わってみると被害者が生き返るしか解決ができない状況になっている。あれ?
 続いて『九州旅行』。メルカトルの美袋に対する底意地悪さ爆発、といった内容で、しかも同じマンションで 殺人事件が発生しているという超絶のご都合主義。握りしめられたキャップ付きのペンなど、それっぽい安楽椅子系統の推理が展開されているなか、推理の結末だけでなくラストの扉が開いたあとが秀逸。こいつ、誰やねん。
 『収束』、こちらも、冒頭に複数の同じパターン別被害者別加害者の殺人シーンが出てくるのだが、それが果たして最終的に誰の場面が使われるのかメルカトルは明らかにしない。この作品の美袋のへたれっぷりも大概。
 『答えのない絵本』もまた、変な作品。学校での殺人事件に二〇人もの容疑者。しかし要素を消してゆくと犯人もまた消えてしまう? 普通ならば推理が間違っていた、ないしアリバイにトリックがあったとかになるハズだが、立ちふさがるのがメル不可謬の金文字。そしたら犯人いないやん、というか犯人いないというのが、この作品の答え(大人の解決として)ということになるのかな。
 最後の『密室荘』もかなりキてます。密室。二人。その二人が美袋と鮎。どちらかが犯人のハズが、どちらも違うということになった場合。この強引さが、無謬を前提に現実が動かされるということか。
 ある意味、通常の本格ミステリのような事件と展開をみせながら、メルカトルの超絶常識外れ傲慢さが炸裂したうえに、彼は絶対に間違えないという命題も込み込み、後期クイーン問題どんと来い! となってしまい、結局のところ犯人はある意味どうでも良いとか虚空に消えるとか、そんなことになるという。

 古来から伝統的にある本格ミステリの最大分野・フーダニットのパロディといった様相を持った五つの作品ではあるのだけれど、カミサマが人間の立ち位置で固定されていたら、必然的にカミサマの意に沿うよう現実で本来不可逆の事柄ですら動かす必要が生じたり、矛盾が矛盾でなくなったりするのかなー、とも。ここまでくると濃い本格ミステリマニアがおもしろがる以上の楽しみ方は無いように思います。浅いミステリファンにとってはこれは「なんだこりゃ」に普通なると思うのですが。


11/06/06
乙一「しあわせは子猫のかたち」(角川つばさ文庫'11)

 近年『銃とチョコレート』さらに『なみだめネズミイグナートのぼうけん』など、ジュヴナイルから児童書関係にも著作の幅を広げている乙一氏。この角川つばさ文庫で『しあわせは子猫のかたち』という作品が出ていると知り、新作……と思ってみれば、中身は『失踪HOLIDAY』。つまり角川スニーカー文庫版の『失踪HOLIDAY』に収録されている二作品の表題作を入れ替えたというもの。まあ、ジュヴナイル向けとなれば「失踪HOLIDAY」とうい題名が微妙なので仕方ないっちゃ仕方ないのだが、自分の他にも勘違いして購入した人はいるはずだ。(と、いいつつ考えてみると『失踪HOLIDAY』自体未読だったので良い機会にはなったのだが)。

 人間と付き合うのが苦手な大学生の主人公は、親戚の伯父から紹介された一戸建てで一人暮らしを始めた。その家の前の住民は若い女性だったが、突然襲ってきた通り魔的強盗によって玄関口でいきなり刺され死亡しており、彼女が飼っていた子猫も一匹残されていた。主人公は彼女の遺品をそのまま使わせて貰い生活を開始する。しかし、少しずつ彼が触れた覚えのないものが動くなど、奇妙な事態が発生し始める。 『しあわせは子猫のかたち』
 母親と二人、貧乏な生活をしていたナオは、母の再婚により突然大きな屋敷へと引っ越した。しかし母親は二年後に死亡、血の繋がらない父親と、使用人たちに囲まれ、ナオはいつ放り出されるのか、と不安な毎日を送っていた。そんななか、父親はキョウコという女性と再婚。キョウコとナオは折り合いが悪く、つまらない言い合いをし頻繁に衝突していた。14歳の冬休み、ナオはキョウコとの些細な喧嘩から家を飛び出し、二日間友人宅に泊まった後に自宅敷地内に舞い戻る。自分の部屋が見える離れに住む使用人・楠クニコの部屋に居着いてしまう。『失踪HOLIDAY』 以上二編。

人間関係が多少うまくゆかなくっても。通じる人に通じれば、それでいいってことじゃないか
 元々のスニーカー文庫版の刊行が2001年。十年経過しながらも携帯電話含めてほとんど違和感を覚えない内容はさりげなく素晴らしい。風俗を描いていないわけではないのに、結局のところ実は人間の本質的根源的な部分についての物語であるということになるのだろう。乙一氏が(白系)でよく描く、人間同士のコミュニケーションが他の人のように器用にできない、うまく自分の意志を伝えられない伝わってこない、他者との関わりすら最低限に減らしたい。そういった人々を主人公に据えた物語が二つ。
 表題作に出世した『しあわせは子猫のかたち』。基本的には目に見えない幽霊と心穏やかに生活するハートウォーミングゴーストストーリー。しかし、ここに幽霊となった相方は何故幽霊とならざるを得なかったか、という謎解きを加えることで、現実世界の主人公の孤独を深めることに成功、ただ、その孤独を深めることで主人公が前向きに進めるようになるところが、甘くなくて良い印象。ちょっとジュヴナイルにするには冷たすぎる印象もあるが、ラストはハッピーエンドに近いし、これくらい心に刻み込んでもらうのも悪くない気がする。
 前の表題作『失踪HOLIDAY』。これは、子供らしい大人世界への不信から始まるプチ家出と、そのすれ違いが拡大してゆく様を、暖かすぎず冷たすぎず、絶妙の距離感で物語にしている作品。主人公ナオの自分勝手さはもちろんあるにせよ、こちらが大人だからか、そういう小さな驕慢含め認めてやれるところも計算のうちだろう。狂言誘拐を引き起こしているつもりで、情報をこちらが都合良く得ているつもりで、実は、というギャップが十四歳という微妙な年齢とよく似合う。(中二病の中二の年齢だもんね)。少女に感情移入しているあいだに作者には騙されていた、という逆爽快感が心地よい作品だ。  ただ所詮、人間同士なんて他人はもちろん、肉親であっても100%分かり合えるというのは幻想。ただそれでも自分の気持ちと他人の気持ちが伝わったと思える時に心地よくなるということは事実。ミステリを通じて、二人のコミュニケーション苦手主人公を通じて、まあ何というか落ち着けるようになる。そんな作品かと。こういうかたちの復刊も悪くない。


11/06/05
越前魔太郎「魔界探偵 冥王星O ホーマーのH」(講談社ノベルス'10)

 謎の覆面作家・越前魔太郎による(乙一か入間人間か新城カズマか秋田禎信か折口良乃か御影瑛路かのどれか、とこの段階で既に帯にある。舞城王太郎は最後に執筆が決まっているので入らない……と思ったけれど、これは後から購入したので帯は変更されているようだ)、三冊目となる単行本。講談社ノベルスとしては本書が初刊行となる。

 人間の力とは思えないような強烈な握力によって心臓を抉られた死体。あまりにも尋常ではない殺し方、連続殺人鬼ホーマー。【彼ら】のあいだでも不穏な噂が流れ、【冥王星O】が事件の調査に乗り出す。【四本指の男】とも呼ばれ始めたその人物は何者なのか。狭いバーのある酒場に出向いた【冥王星O】はそれが【右手を隠す男】ではないかという噂を耳にとめる。ルポライターにヒントを貰おうと出向いた先にあったのは、ホーマーに殺られたと思しき死体と、【右手を隠す男】。【右手を隠す男】の特殊な能力に苦しみながら戦い、逃げた【冥王星O】は、一旦アジトに戻り【窓をつくる男】や【顔のない女】と善後策を検討し、【傅く女】のもとへと向かう……。

シリーズでも固有登場人物が多く、それぞれがユニークな特長を有する。戦闘シーンの迫力は秀逸
 『マルドゥック・スクランブル』と似ているというと語弊があるかもしれないが、あくまでシリアスなタッチで改造された人間同士が特殊な能力同士をぶつけ合う展開がユニークな一冊。その人間離れした人間たちの様相、クールさ、緻密さでは当然『マルドゥック』に譲るものの、やはり同作と根本的な思想というか考え方に似た部分が、特に本作では顕著に感じられるように思った。
 別にこの「魔界探偵 冥王星Oシリーズ」は複数の作者が近しい設定で書いているだけなので、シリーズ全体で「そうでなければならない」ルールは無いのだが、本書について特筆すべき一つはその戦闘シーンの迫力にある。特に【四本指の男】と【冥王星O】の初戦、そして殺人鬼ホーマーとの戦い等々、迫力に満ちているだけではなく、その能力と智力を最大限に使った戦いは先を読ませない意外性がある。その能力が特殊なだけではなく、その特殊な能力を使用して「何をするか」「どう防ぐのか」といったところに意表を突かれるのだ。そもそも意表を突かなければ勝負結果が変化しない訳ではあるのだが。
 もう一つ、本書でユニークなのは、【彼ら】がらみだととかく冷たく厳しい関係を強いられるはずの登場人物たちが、微妙に共闘関係になったりするところだ。本書では、多少歪んだ主従的性的関係(【傅く女】【ママ】)が絡み、それが【冥王星O】【右手を隠した男】男同士の不思議な友情というか、感情に変化をもたらしているところなど、結果的に表出しただけの関係かもしれないが巧さを感じる展開だった。もちろん、そういった個別の関係を抜きにして、殺人鬼ホーマーの真実という本来の「謎」についても良く出来ていた。

 どちらかというと「冥王星O」のシリーズは、各作品、微妙にその作者ごとの世界観に触れる作品が多いなか、本書は世界をいじること、創ることを敢えて捨てて、あくまで自分の手持ちの登場人物で勝負した! という印象。そしてそれが一流エンターテインメント小説にに繋がっていると思えた。単純にこの一冊で、ミステリとしても面白く読めるし、意外性あるアクションSFとして読むことも可能。様々な要素をうまく取り入れた作品となっている。


11/06/04
高田崇史「カンナ 出雲の顕在」(講談社ノベルス'11)

 早いものでこのカンナシリーズ、一冊目となる『カンナ 飛鳥の光臨』が刊行されてから三年、一段組であるし、内容も多少本家「QEDシリーズ」に比べると薄いとはいうものの、全体のストーリーを回しながら、本作が八作目。このペースは素晴らしい。

 『蘇我大臣馬子傳略』を強奪したまま全国を逃げ回り、現在は出雲の地に潜伏中の早乙女諒司は、未だある計画を抱いていた。鴨志田甲斐の親友にして、歴史出版の会社に勤める忍び・柏木竜之介を出雲に呼び寄せて手を組むこと──。一方、甲斐の婚約者の海棠聡美は、父親の腹心である楯岡が裏切っていることを知る。甲斐は貴湖と共に様々なヒントから出雲について調べるが、素戔嗚尊と出雲大社のあいだに幾つか無視できない疑問が湧いて出る。先日、襲われて入院している貴湖の祖父・丹波の世話がある貴湖を残し、甲斐は出雲の地に向かうことを決意し出発するが、その途中で聡美が合流することになった。竜之介は何故、諒司の指名を受けたのか。諒司の妻・志乃芙と、その妹の企みとは。これまでの闘いを通じて、甲斐の能力は次第に磨かれてゆき、遂に出雲で甲斐は竜之介を発見する──。

重要だと思われていた登場人物の退場。物語は日本の根幹が隠す世界へと斬り込みを開始──。
 題名の最後列からすると次の一冊で完結、ということになるのだが、果たしてこれだけ拡げた風呂敷は畳みきれるものなのだろうか。──とちょっと心配になってきた。ただ、ここに至るまで、例えば詳細は判らなくとも『蘇我大臣馬子傳略』は何について、どういったことが記載された歴史書なのか、という点は既に判明している。その結果、この一冊を巡って様々な勢力が取り合いをしている状況も不思議ではない光景となっている。本書においても、なぜこれほどまでに現代でありながら一冊の、しかも偽書扱いの書物を巡って多くの人間が血を流すのか、その点について説明されている。これまでの高田崇史史観を目にしてきたうえで、この言説を読むにある程度納得させられてしまうのもまた真実。知らず知らずのうちに、シリーズは核心に迫りつつあったのか! (と改めて気付く)。
 また、シリーズ序盤では多少とってつけた感もあった、武闘シーンが自然な形で描かれるようになっている。特に甲斐の肉体的成長の結果、単に襲撃とそこからの逃走を超えた闘いとなってきており、見応えが出てきた。格闘場面が自然に描かれることも、ある意味では歴史アドベンチャーを名乗るための必要事項なのだな、と改めて感じた。
 本書で描かれる歴史の謎は「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」。更に謎の多い出雲大社との関係である。この謎については、QEDや本シリーズを読んで来た方には違和感ない解釈の筈。あれほど巨大な出雲大社がなぜあの出雲の地に祀られているのか、といった部分も含め、一貫した史観を感じ取れる。

 しかしそれより何よりも。確かにかの人物の立ち位置、初登場時から微妙というか何かおかしい気がしていましたよ。細かくは書きませんが、どう考えてもおかしいというか幸せになるルートが見当たらない。その人物の処遇が本書で明らかになる訳ですが、こうなってしまうと仕方ないようにも思えるものの、やはりショック。まあ、シリーズものであるゆえにこういう展開も予想すべきなんでしょうが、世知辛いっすねえ。


11/06/03
西尾維新「少女不十分」(講談社ノベルス'11)

 西尾維新氏の新シリーズ、というか単発異形の長編作品

 作家で小説家である西尾維新氏が遂に三十路突入。三十路まで作家としてやってきたのは小説が、物語を紡ぐ行為が好きだというより、得意、それ以外に得意なものが無かったから、なのだという。その西尾氏が大学生の時代、まだ小説家ではなく小説家志望の若者であった時代。本作によると実際に体験した出来事を綴ったのが本書、ということになる。そのことが実際にあったことなのか、作者は実際にあったことだと主張しながら物語は進む。大学生で自転車通学をしていた僕(以下、西尾氏=僕)は、ある交差点で交通事故の現場と遭遇する。何故かそれまでも、それからも僕は交通事故などの酷い現場に居合わせることが多く、小学生の女の子の五体がバラバラになったその現場にしても大きな驚きは無かった。ただ一つ、被害者の小学生と一緒に歩いていた別の女の子が、事故を確認してから友の亡骸に縋って泣き叫ぶ迄に、ある行為をしたことをただ一人目撃するまでは。その少女と、西尾維新/僕との痛くて不思議な関係、その展開は……?

この物語の真偽は問わない。ただ、実際に心は壊れるケースもあるし、それでも人は生きてゆく
 西尾維新(以下敬称略)の物語における文体は、整理された過剰、で描写されることが多い。読み方を中心に変化をつけたテンポ重視の文章、とでも表現すると分かりやすいだろうか。会話と会話のテンポが、それが敵味方、味方味方、敵敵であっても弾むように交わされ、物語の推進力に一役買っている。それが。
 それが、本作での文章、過剰なのは過剰なのだ。その過剰分が言い訳や弁解となっていて、完全に物語を停滞させている。 なかなか進まない。過剰な言葉が、物語の足を止め、またテンポも崩す。その結果、特に前半部は読んでいて、まだ何も始まってすらいないのに暗い気持ちになるという希有な物語構造となっている。(あまり褒めていない)。
 ただ、一旦物語が始まってしまうと、その暗い文体が、主人公の不可解な行動と奇妙にマッチするのだ。小学生の女の子といっぱしの大学生と。その力関係がおかしいことに、作者はただいな言い訳を費やす。その時どう思っていたか、ということを思い出すのではなく、現在の自分が当時の自分を庇っているようにみえる。その痛々しさもまた、この小説の必要要素といえば、そうかもしれない。西尾氏特有の嗜虐的文体が自分方向に向いている。とにかく痛々しい。
 中盤以降、少女の正体が徐々に明らかになってゆくにしても、痛々しいという形容詞は(結局最後まで)抜けない。それは少女にも主人公にもいえることで、真相に到達して尚、痛々しいのだ。ラストについてはとってつけた感があり、それはそうなればいいなって思うけれど、この流れのなかからどうこういうハッピーエンドを信じろと。ここはむしろ徹底した方が印象強かったと思うのだけれど。最後の最後に紙の上でだけでも前向きな存在にしてあげた、ということなのだろうか。ある程度想像のつく少女の正体ではあるけれど、想像していて尚、直接的に語られると目を背けたくなる──が、これが現実なのだ。

 本書に関してはネタばらし、伏せ字といったかたちで中途半端に真相について触れて語りたくない。完全にどっぷりと語るか、全くその中核については触れないか。この二択しかなく、後者を選んだ。こんなことがあり得るのかというとあり得るように思うし、あり得ないと考えればやっぱりあり得そうにない。実際のところ、このエピソードの真偽を吟味すること自体にはあまり意味がなく、むしろ個人的には物語を作り続ける作者のモチベーションといったところに目が行った。ここまで多少メタ的に作品に顔を出すことはあれど、あまりあからさまに自分や自分の創作について語ってこなかった西尾維新の真の姿が数%浮かび上がる、そんな作品のように思えた。ミステリとしてはあまりに趣味が悪い。だから真実だと思いたい。


11/06/02
鳥飼否宇「物の怪」(講談社ノベルス'11)

 第21回横溝正史賞を『中空』で優秀賞を獲得した鳥飼氏。本格ミステリの分野にて意欲的な境界作品を発表してきたが近年そちらは一服中? 本書は『メフィスト』2009Vol.1と2010Vol.2に発表された二作品に一作品を書き下ろしてまとめられたノンシリーズ(ないしは鳶山シリーズの一冊目)作品集。

 常連度の高い、西荻窪にあるスコッチバー《ネオフォビア》に突然訪れ、拉致関係の報道を食い入るように見つめる男。飯島昇と名乗った彼は兄を含む知り合いが過去に拉致されており、しかも北朝鮮ではなく河童に連れ去られたのだと信じているのだという。目撃された河童、兄が引きずり込まれた池、そして池から睨む二つの眼。居合わせたプロの〈観察者(ウォッチャー)〉鳶山久志は興味津々に彼の話を聞く。鳶山の知識もあって幾つかの事実が判明、鳶山の後輩で植物写真家の猫田夏海は、場所を山口県萩市と看破した鳶山により、現地に向かわされた。 『眼の池』
 立山連峰にある鳶山を目指す鳶山と猫田。山小屋で出会った学生たちは小屋主の制止も聞かず「天狗の高鼻」と呼ばれる円柱状の岩を登った。一人は途中ギブアップ、しかし登り切った一人は頂上で首を切り落とされた遺体となって発見された。 『天の狗』
 瀬戸内海に浮かぶ悪餌島。かつて銅山があり、現在は島の当主である神主一家と彼らがパトロンを務める芸術家たちだけが住む島。鬼の伝説のあるこの島で珍しい神事があると、鳶山と猫田は島に渡る。島の中では愛憎が入り乱れており、洞窟の中で絶食パフォーマンスを目指す者がいるなど、複雑な状態だった。 『洞の鬼』 以上三編。

民俗学+生物学+丁寧なウォッチャー。生物より民俗の味わいの濃い不可解本格ミステリ
 新本格ミステリ二十年のあいだに、それはもう題材としては貪欲に様々な事象や学問が取り込まれた結果、こういった河童や天狗、鬼といったメジャーな妖怪たちについては様々な作家が、その成立について見解を述べている。更にその見解を軸にして各者が各様のミステリを発表してきた。本書は、そんな先行民俗ミステリ群に割って入らんとする意欲作。
 殺人事件のそれぞれの奇妙さは抜群であるし、その解釈についても論理のアクロバットがきりっと効いている。まずはミステリ、特に本格ミステリとしての要件は満たしていると感じられた。その一方、本書としてはキモとなる河童や鬼の解釈については、実際そう目新しい意見ではない感。高田崇史氏や京極夏彦氏が既に書いていることの一部を角度を変えて書いたとも受け取れるもので、解釈そのものを本書最上の楽しみにするにはよほどこの方面に初心な読者である必要があるだろう。ただ、物語の流れのなかで綺麗にまとめている点は評価できる。また、生物にしても、一般人と離れたレベルの知識によって解釈が取れることは判るのだが、こちらはもはや知識の羅列に過ぎず、ミステリとして感心するタイプの蘊蓄とは異なっているように感じられた。
 そういった生物学・妖怪学が(題名などからしても)目立つ形になっているものの、本書の評価はやはり行われる犯罪の異常性にある。特に『天の狗』における真犯人の行動、そして行動原理は気持ち良くないものだし、『洞の鬼』の真犯人についても異様に後味の悪さが残るものだ。当然、『眼の池』の犯人やその周辺に淀んでいた障気も何か心に嫌なかたちで引っかかる。
 その個々の事件が孕む異常性が引き起こした、結果としての見え方の異常性が特に本書では目立つ。すなわち、池から浮かぶ離れた眼であるとか、誰も近づけない筈の崖上の首切断死体であるとか。鳶山によって様々な知識も応用されるとはいえ、提示されている証拠から導き出されるその論理的な帰結こそが本書では読みどころと感じた。

 シリーズ最初の一冊としての水準(つまり集客?)はクリア。どうしても生物探偵・民俗学探偵というレッテルが付けたくなるものの、先にも述べている通り本質的には異常者の犯罪を本格ミステリとして解き明かす流れがポイント。本格として楽しみたい作品だ。


11/06/01
古野まほろ「命に三つの鐘が鳴る Wの悲劇’75」(光文社'11)

 「天帝」シリーズに登場する二条警視正が警察に入ったばかりの頃の事件。書き下ろし。

 七十年代、この世界でも左翼運動が盛んに行われ、当初は学生や労働者に支持されていた彼らだったが、時に行動が先鋭化、極左組織が内ゲバを繰り返すようになっていた。かつて東京帝大で左翼活動組織に属していた二条実房は、ある理由からその主義を捨て去り、父親と同じ警察に、そして警察官僚への第一歩を踏み出した。埼玉県で実習している二条は自らの頼みで交番に配属され、地べたを這いつくばるような活動を行っていた。しかし管内で極左組織・革学労による内ゲバ事件が発生、活動を終えて埼玉県警に戻った後も次々と事件は発生した。そんな時に、大学時代共に闘い、現在も革学労の対立組織革人戦の中央委員である親友・我妻雄人がふらりと警察に二条を訪ねてきた。学生時代に二条が交際していた和歌子の、現在の恋人である彼は、ついさっき京浜東北線の電車内で、ペーパーナイフにて和歌子を刺し殺してきたと二条に対して自首をしてきたのだ。警察に入った続報によれば、それは事実であるらしい。組織を超えての固い絆で結ばれていたはずの二人に何が。二条は取り調べを買って出るのだが、それは二条の苦行の開始を意味していた……。

取調室でのやりとり、その周辺の証拠固め。論理と泥臭い捜査の果てに浮かび上がる真実の苦み
 まほろ歴が浅いので、大日本帝国が現在まで継続している設定が物語の前提になっていること程度しか理解できておらず、もしかすると後の作品に関係する人物はもっと沢山いるのかもしれない。(が、そういうのは信者の方にお任せしたい)。過大にも過小にも評価するつもりはないのだが、特殊な時代の特殊な背景(特高がまだ続いている時代の警察に、左翼の内ゲバ)を巧みに取り入れつつ、取調室での密室や捜査の過程で得られる細かなヒントから、供述内容とは全く別のストーリーを浮かばせてゆくというのが狙いか。
 警察小説ならでは、足で稼ぐ細かな事実。ユニークなのは、主人公のみならず、たたき上げの刑事や新人に近い女性警官まで思考がフル回転。その証拠や証言の持つ意味、次に必要な手がなんなのか、証拠によってこれまでの供述の意味合いがどう変化するか。細かな点までが同じレベルで(しかも相当に高いレベルで)話し合われ、個々に議論が行われている。フィクションなのでこれはこれで有り、というか、この部分が古野まほろらしさ、に相当するのだと想像した。
 現代日本でいえばまだまだ昭和五十年代。まだら模様になっているのが残念だが人間味を感じさせるエピソードが散見される。最も味があるのは、二条の上司役として君臨する眞柴係長と酌み交わす場面だが、女性刑事の未緒とディズニーランドに行く場面も面白い。
 いくつかの証拠、証言を主人公自ら秘す(読者にも)といったところは少し気になるが、結果的に浮き上がる図式の悲劇性はかなり強烈だった。単にオマージュという意味だけで「Wの悲劇」が副題に採用されている訳ではない。一旦、決着ついた事件を締めくくる「終章」のインパクトもまた「悲劇」だし、このエピソードによって、敢えてやはり現代ではなくこの特殊な時代を浮き立たせているように感じられた。

 論理というか、いくつもの証拠から蓋然性の高い推論を導き合う展開のなかで何を浮かべてゆくのか、何を幻視し、それを現実に展翅してゆくのか。論理は手段でしかなく、その手段を巧みに使う作家であることは確認。特に論理というか議論というか、「為の」話し合いになっていないところに好感を持った。ただ、浮き上がった図式はある意味新鮮、ある意味陳腐。全読者をねじ伏せるというタイプではないだろう。あえて探偵小説から離れて「警察小説」とした意味はここにあるのかも。