MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE 国産ミステリ・レビュー
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


13/01/20
中山七里「スタート!」(光文社'12)

 2009年に『さよならドビュッシー』で第8回「このミステリーがすごい!」大賞を受賞した中山七里氏の書き下ろし長編作品。

 映画業界で監督を志しながら、テレビ局が幅をきかす商業主義のなか思い通りに映画仕事が出来ないことに悩む助監督・宮藤映一、三十四歳。若手監督の手伝いを放り出して酒に浸る彼のもとに、一本の電話が入る。今年で七十歳になる映画界の巨匠・大森宗俊監督が三年ぶりに新作を撮ることになり、その参加への打診だった。大森組と呼ばれる個性派集団の一員として再び仕事が出来ることに喜ぶ映一だったが、肺病を患う大森の体調は気がかりである。映画の題名は『災厄の季節』。刑事が主人公の猟奇と暴力が絡むミステリーで、精神障害や刑法三十九条など社会派テーマを織り込む意欲作。しかし昨今の資金不足の関係で大手のテレビ局で仕事をしているプロデューサーの曽根が大森の仕事に多々干渉をしてきたり、個性の強い女優や脚本家が自己主張をしたりするなか、大森監督を筆頭に現場はストレスを溜めつつも、一つ一つ乗り越えて撮影を進めていた。そんななか、現場で最も忌み嫌われていた曽根がライトの転倒に巻き込まれ怪我を負った。それから、シナリオが流出したり、撮影現場がネットに上げられたりと、関係者による妨害と思しき動きが表面化、人権団体や興味本位のマスコミによる撮影所への乱入など、撮影は難航を極めてゆく。

伝統的な映画撮影プロセスと現代的な種々の圧力軋轢と。潤滑・回避・正面突破、向かえ至高の映像へ!
 旧き良き時代の映画人たちが、一致団結。資金の問題、倫理の問題、直接的な妨害等々、数々の障害に負けず、それぞれのトラブルを、舌先三寸、詭弁の論破、さらに老獪な経験や、素晴らしい機転によって、トラブルを打ち消し、乗り越え、あまつさえ禍を転じて役立てもして、映画を素晴らしい内容のヒット作に持ってゆく話──だと思う。
 読み終わってみると一応ミステリでもあるのだけれど、どちらかというとその要素は添え物くらいに感じられた。やはり、観る人にとって良いものをチームワークで作りだそうという、執念と信念の物語として読む方が、素直に楽しいと思うのだ。
 いや、確かに邪魔者プロデューサーは何者かに怪我させられ退場したうえ、テレビ局が押し付けてきた主演女優も、怪我を負わされる。さらにあと一人、映画の撮影期間中に殺害までされてしまう。ただ、ここに謎解きのミステリがあるかというと、正直なところ、あまりその意図は感じられない。作者にはもしかすると読者に謎解きさせる意図もあったのかもしれないが、被害者が予想される被害者であり、ほとんどのケース撮影の進行上の妨げになっていないこと(むしろ、主演のマキの怪我以外は、被害者が排除されたことによって、むしろスムースに進行しているくらい)。
 結果的に、全ての問題は、映画完成までのトラブル、それが殺人であっても乗り越えるべき「壁」になっている(むしろ「壁」でしかない)という割り切りは、考えようによっては新鮮かも。

 本書の大きいテーマとは別ながら「大衆が攻撃を開始するのは、凶器を手に入れた時ではなく、大義名分を手に入れた時だ(意訳)」といった言葉が中盤にあった。この言葉、日本人の大多数に当てはまる厭な文化的性癖ではないかと改めて気付いて、自己嫌悪的気分になった。人間、正論に弱いんです。

 ということで先に述べている通り、映画メイキング! の小説です。映画そのものではなく、その裏方にあるはらはらどきどき、現代的にして刺激的。ミステリとしてではなく、純粋に小説として楽しみました。


13/01/19
太田忠司「探偵・藤森涼子の事件簿 金木犀の徴(しるし)」(実業之日本社'12)

 その発表年代に合わせて年輪を重ねてゆく女探偵・藤森涼子らが登場するシリーズとしては総集編としての実日文庫版『探偵・藤森涼子の事件簿』を除くと六冊目のオリジナル作品集ということになる。月刊『ジェイ・ノベル』に発表された二編に書き下ろしが加えられて刊行された。

 藤森涼子探偵事務所メンバーが張り込みを行っている最中、ターゲットとは別のひったくり事件と遭遇、涼子が咄嗟の機転で逃走する自転車を蹴倒して犯人を確保する。被害を受けたはずの印刷会社社長は尊大な態度で、涼子たちに「礼はあとでする」と言い残す。後日、その印刷会社のもとを訪ねた涼子は、相変わらず態度の大きな社長から、ひったくり犯と、印刷会社の専務が繋がっていないか調査するよう依頼を受ける。 『石楠花の詞』
キックボクシングジムで知り合った女の子が、両親の離婚で離ればなれになった兄を捜して欲しいと涼子に依頼する。兄の住んでいた父親は、調査に非協力的だった。近所の人によると、その兄が八年前、その近所で発生していた女性を襲って髪の毛を切る事件の容疑者だったと知り、彼を真剣に庇ったという同級生の紹介を受ける。同級生も現在の彼の情報はなく、一旦調査が途切れたところに、兄の携帯電話から妹にメールが届いた。 『金木犀の徴』
 涼子の姪の静子が、盗聴されているかもしれないと涼子のもとに相談に訪れた。調べてみると静子の部屋からソケット型の盗聴器が発見された。しかし、どうもその盗聴器は静子を狙ったものではなく、以前の持ち主である荻野加奈が標的だったものと思われる。その加奈は、最近、根も葉もない不倫疑惑が書かれた社内怪文書によって就職した商事会社を退職に追い込まれていた。涼子は怪文書の内容から、犯人は盗聴ではなく、荻野のことを直接知っている人物ではないかと推察する。『夾竹桃の焔』 以上三編。

涼子四十歳代の人生オンステージ&前向き探偵女子たちによる事件簿
 藤森涼子も本書では四十歳代。美容というよりも健康のためにエクスサイズとしてキックボクシングの事務に定期的に通っている。そこから事件に進んだり、キックボクシング自体がある事件の流れのなかでは重要な役割を果たすところは流石(これは太田忠司さんに)。本来褒めるべきところは、事件簿として一定のクオリティを二十年近くキープしているという事実だろうけれど。
 本書、というか本シリーズはセクハラ被害から会社を辞めた単なるOLだった藤森涼子が、「求む、バカな人」の求人によって探偵事務所に就職、幾つもの事件を経験し、恋愛も失恋も(結婚歴は無し)して、現在の女性だけで運営する探偵事務所を開設して現在に至っている。というのが、藤森涼子シリーズの現在までのあらすじ。(全部を現在揃えることは多少難しいので、経緯についてはポプラ文庫で再編集された『藤森涼子の事件簿』を読むとうっすら分かるかと思います)。

 二十代で探偵として我は強かったが頼りなかった涼子が、本書では曲がりなりにも探偵事務所所長として、切った張ったも含めてしっかり対応している。普通は「成長」というのだろうが、このシリーズの場合は、時系列が単行本刊行と順番は合っているものの、連続していないのだ。丁度、ゼロ地点の年代はそのままに、単行本が刊行されるタイミングでの涼子の描写が為されている。読者は涼子の成長を追体験するのではなく、涼子の成長を行間から読み取るというタイプの作品なのである。本書では、四十歳を越えてなお未だ男性の気持ちを惹きつける凛とした魅力が彼女にあるようだ。そんな彼女が経営者、責任者としての大人の顔を見せつける一方で、(従業員に煽られながら)依頼者が依頼を取り下げたり、お金にならないと分かっている事件であっても、強く興味を持った事柄については、無償でも対応してしまうという性癖(正義感)はそのまま。
 この、ある意味、子供っぽくもある正義感が、本シリーズの実は最大の特徴だとも思う。自分たちなりの「筋」を通す姐さんですよ。カッコいいに決まっている。

 ミステリとしては、他の涼子シリーズ同様、本格というよりもハードボイルドの骨法を使っての謎解きが主眼。加えて、人間心理の裏の裏(嫌なところ)まで見せつけられるような展開が多く、決して事件そのものも結末もハッピーではない。それでも、藤森涼子以下、探偵事務所の面々にかかると、それでも頑張ろうという気分になってくるから不思議。 本書は短編一作品ブラス中編が二作品という構成。表題にあるように植物の名前が題名の一部に加えられていて、そういった洒落っ気もまたこのシリーズ特有の味わいとなっていることと共に、一冊の統一感に繋がっている。


13/01/18
倉阪鬼一郎「小料理のどか屋 人情帖1 人生の一椀」(二見時代小説文庫'10)

 近年は角川ホラー文庫や単行本で刊行されるホラー系統の作品、講談社ノベルスで年に一冊刊行されるバカミス系統の作品と共に、倉阪鬼一郎という作家の名前を拡げているのが、良いペースで刊行されるこの時代小説の系列か。二見時代小説文庫で人気シリーズとなっている小料理のどか屋シリーズの一冊目。書き下ろし。

 江戸の片隅で小料理屋のどか屋を営む時吉は、元武士ながら、刀を包丁に持ち替えた料理人。出戻りの師匠の娘・おちよと共に、庶民的なものから少し高級な食事まで工夫を凝らした料理を供する。世話になった大旦那が病に伏せっており、もう先は永くないといわれている。千葉から江戸に出てくる前、少年の母親がつくってくれた蛤汁がもう一度食べたいというがどのように作っても微妙に旦那の舌を満たせない。あと足りないものは何なのか。『人生の一椀』
 数珠職人だった兄が博奕に入れ込み、岡場所に売られることになった妹。絶望のあまり身投げを考えるうちに、のどか屋の二人に出会う。 『わかれ雪』
 のどか屋近くに捨てられていた赤子。客の医者とのどか屋で手を尽くしたところ、目を悪くして仕事を失った若い女性が母親であることが判明する。 『夏がすみ』
 時吉の料理にいちいち難癖をつける料理人風の客。ひとしきり論議が尽きたところでそのまま食い逃げしてしまった。似顔絵をもって弟子仲間に忠告していた時吉は男を発見、腕の良い料理人の転落話を聞く。 『うきくさの花』
 近くで人に物を尋ねる武士風の男を目撃した時吉は、のどか屋の二階に隠れる。かつて一流の剣技を持つ侍・磯貝徳右衛門だった時吉は、唆されたとはいえ国元で人を何人か斬り殺しており、藩からの追っ手に追われる身だった。 『江戸の華』 以上五編。

俳句をベースにした情景を豊かに、そして料理とともに描き出す人情小説
 もちろん池波正太郎の時代小説の頃からそうだし、最近では田郁もその手の作品があるし、現代に時代を移しても、場を東西に移しても、美味しい料理と料理人、そして事件の組み合わせは人情と幸福の物語の背景として適している。倉阪氏による時代小説自体は既にあるのだけれど、その舞台に料理が加わることは正直予想していなかった。実際、この文章を書いている2013年1月段階で既刊七冊、倉阪氏の作品群のなかでももっとも長続きしているシリーズ作品となっており、時代小説市場の大きさ、加えて料理小説との相性が適正に評価された結果なのだと考える。(ついでをいうと、本シリーズを支えている読者の多くは、従来のホラー・ミステリ系の愛読者とは層が異なるのではないかと思われる)。
 さて、本書、人情帖という題名が示す通り、人情譚である。捕物帖や事件帖といったミステリ系統ではない。従って、作品の多くは何らかのトラブルからスタートしているものの、謎解き系統のカタルシスはほとんど無い。とはいえ、表題作『人生の一椀』における、最後の「隠し味」の正体であるとかは、ヒネリが効いていて巧さは感じられる。
 それならば、料理が主体かというと、それもちょっと違うように感じられた。思うに本題は、まず人情、そしてさりげなく描かれているが、俳句も鍵になっている。
 実際、作中で料理人・時吉のパートナー・おちよは俳人で、何かあると矢立から筆を取り出しさらさらとその場その場の情景を詠み、俳句を認める。もともと倉阪氏本人も俳句を嗜まれる方なので、作中で詠まれている句は玄人のもので、情感や色景などが滲み出ており、素人からみても良いものだという印象を受ける。そしてこれら短編における物語は、むしろ、その俳句から逆算されているようにすらみえるのだ。
 各作品で披露される料理の数々も、味そのもの以上に季節感覚や見た目といったところが重視されているようにみえる。つまり、料理も物語の必然でありながら、むしろ俳句のための風流や気遣いの延長のなかで作られている――というのは言い過ぎかな。

 倉阪作品の持つホラーやミステリで発される「毒」を敢えて全て抜いたうえで、更に「いい話」を加えた作品。刊行されている以上、ある意味これも倉阪鬼一郎、であるのだけれど。


13/01/17
樋口有介「窓の外は向日葵の畑」(文春文庫'13)

 単行本で読んでいたのに感想を書く前に文庫が出てしまった。『ぼくと、ぼくらの夏』へのオマージュと解説にはあるが、樋口有介氏の描くところの青春ミステリの定型枠組みを使用しつつ、むしろ父親と息子のダブル主人公というところがユニークな作品だと思うのだが。単行本は書き下ろしで2011年刊行、本書はその文庫化。

三代江戸に住んでいるという松華学園高校二年生・青葉樹(しげる)こと僕は、父親が松華学園理事長で、現部長である美女・高原明日奈に強く勧誘され、江戸文化研究会という文化系部活に所属している。樹自身、趣味は盆栽で、幼馴染みで中学まで一緒に育った二木真夏を二年前に事故で亡くしており、物静かでクールな性格で後輩からは取っつきにくい人物だと思われている。若くて美人の若宮紗智子先生が研究会顧問となり、弥次喜多道中記を夏休みの研究テーマとすることが決められたその日、高原明日奈が学校帰りに失踪してしまう。樹の父親・完一は四十一歳、バツイチで樹との二人暮らし。警視庁の刑事であったが、あることをきっかけに退職、現在はハードボイルド・ミステリ作家デビューを志しながら、「馬鹿につけるくすり」なる育毛剤を通信販売している。その完一の前に、明日奈の行方を心配する若宮先生が現れた。若宮先生の美貌に虜になった完一は、息子の樹からみても明らかに不自然な態度で、元刑事としてのネットワークを活用し、明日奈の居場所捜索を手伝い始める。一方、研究会の後輩でインドからの帰国子女・圓藤紅亜(くれあ)と急接近した樹は、一緒にいた副部長の佐々木もまた行方不明であることを知る。

樋口有介らしい主人公と展開(x2)、少年には仄かな夢を、おっさんには哀愁を。
 冒頭から登場する複数の美女・美少女。彼女たちから多かれ少なかれ好意を得つつも、あまり嬉しくなさそうなモテクールな少年主人公。 一方、夢に生きながらも人生に倦んだ、だらしなく子供っぽい(それでも結構モテはモテの)、だけどマメで頭の回転は早い中年オヤジ主人公とのダブルキャスト。 老人趣味の少年、ミステリ作家志望、元刑事、片親との二人暮らしと、それぞれどこか既に別の樋口有介作品のどこかで聞いたことがある(かもしれない)要素を持っている。個人的にはそういう要素が重なっていても「またか」という気はせず、むしろその変化の具合を楽しんでいるので無問題。だって、美女にモテるのは永遠の男の夢じゃないですか。
 一方、あえて算用数字で書くが、父親と息子の物語で1人称と1.5人称とを使い分けている。息子が一人称を使うのは恐らくは、○○である真夏の存在を相対描写するためか。ただ、ここまで書いて思ったけれども、結構、設定だけを抜き出すとライトノベルとも重なるようにも思えてきた。ただ、一般的なラノベと異なるのは、主人公に対して美女・美少女が興味を持つ理由が伏せられていながら、しっかりと大人の理由があること。 結果、単純な好意だけではなく打算があったり、恋愛以外の部分における興味であるといった真実が明かされ、物語は強烈な悲哀や寂寥を纏うことになる。ハードボイルドともちょっと違う、大人の現実的恋愛小説でもあるのだ。
 ミステリとしての真犯人の意外性も十分。 ──十分なのだけれども、その真実から逆に物語をたどると、この部分でも哀しみに満ちた被害者の半生が浮かび上がる。残酷ですらある。父親の完一だけでなく、樹の導いた結論からも哀しさは大きい。
 ただ、最後の最後に理屈ではないサプライズを作者は用意している。表面的に問題のない世界を一旦、犯罪で大きく崩しておきながら、最後に別のかたちで再構築する。やり方としては、冷静に考えると微妙ではあるのだけれど、これはこれで良いのだ。この余韻こそが樋口作品に大人が求める何か、ではなかろうか。

 どうでもいいが「あすな」とPCで打つと「アスナ」とカタカナで変換された。某ラノベを読んでいることがバレますなぁ。それにしても十五年前に書いた『ぼくと、ぼくらの夏』の自分の感想の出来が文章・考察ともにあまりに酷い(それもその瞬間の感想だから消さないけど)。ただ、いずれ書き直そう、と思いました。


13/01/16
小路幸也「ナモナキラクエン」(角川書店'12)

 小路幸也氏のノンシリーズ長編作品。『野生時代』2006年11月号から2008年1月号にかけて不定期で掲載された緩い短編を集めた長編作品。かなり時間をかけて発表された作品にもかかわらず、コンセプトがしっかりしているせいか、長編としてすっきりまとまった作品となっている。

 湘南海岸沿いのおんぼろ家に住む、二十一歳の大学生・山(さん)を筆頭に、クールな女子高校生・紫(ゆかり)、美術好き男子中学三年生・水(すい)、元気いっぱい小学四年生の明(めい、女の子)の向井家の四人兄妹は、それぞれ母親が違っている。四人もの妻と結婚、そして離婚した父親は、元ファッション系雑誌の編集者をしていたが、現在は辞めている志郎。しかし、その母親がいなくなる体験を繰り返したばかりに、大切な人をつくるとどこかに去ってしまうというトラウマを持つ山。現在は、海岸で知り合った桜井はるかという大学の後輩にして大切な恋人がいる。父親は「楽園の話を聞いてくれないか」と山に話しかけようとしたところで、急に心不全を起こして亡くなってしまう。志郎は生前、何かあったら開封せよ、と遺書を残していた。そこにはそれぞれの母親の名前と連絡先が。志郎が仲良くしていた、近所に住むハマさん夫婦、弁護士の神崎さん、家政婦のように、そして時には家族のように向井家の面倒をみてくれていた朝美さんらの助けもあり、これからの生活の目処は立った。彼らはそれぞれ、自らの意志で志郎の形見である、おんぼろ自動車モーリス・マイナー・トラベラーに乗って、日本の別地域に住む自分の母親に会いに行く。山は自分を含め、母親たちとの再会に立ち会ううちに、彼女たちが何かを隠していることに気付く。

父親に先立たれた兄妹たちの、母親との再会の旅。旅の先にあった「楽園」とは……?

 冒頭にいわゆる「運命の出会い」を体験する主人公・二十一歳男子大学生・向井山(さん)のエピソードが(といっても短編)描かれている。これはこれで海岸沿いでの静かな暮らしと出会いであり、小路作品全体を象徴するような、悪くない話である。心の中に、ちょっと他の、一般的な人たちとは異なる静かな鬱屈を抱えた、でも常識を知り、互いを労り合える感覚を持った二人の静かな出会い。多少語られていない部分はあるものの、この作品が恋愛アンソロジーの一つといわれても、そう違和感はない。
 だけど、物語はそこから急展開(?)を見せる。主人公・山とその家族の話になってくる。第二話以降では、最初の話に登場した桜井はるかは、完全に山の恋人(以上)になっている。焦点は、急死した父親が語ろうとした「楽園」とは何か──。 という部分に物語は移行してゆく。
 兄妹が一人づつ、自分の大切な人と共に、これまで没交渉だった母親に会いにゆく。決して嫌われていたり、嫌がられたりすることなく、再会を果たしてゆくし、母親たちの態度に極端におかしなところはない。長年離れていた息子や娘を迎え入れる態度である。だが、どこか感じられる違和感の正体は──。
 この、主人公の行動、感覚と、読者の興味とのずらし方が巧い。「楽園」とは何なのか。決してその指向はない(少なくとも強くない)にも関わらず、どこかミステリのような感覚を味わうことができる。あと、これも終盤明かされるが、なんで子供たちがこれほど変わった名前がつけられていたのかも興味深い。
 また、静かでいながら、様々な感情が作品内部でクロスしている。淡々としているようにみえる四兄妹も悪くないのだが、むしろ残された大人たちの感情表現に関する描写(の差違)がまた絶妙。父親・志郎の死については、子供たちより、むしろ大人の友人たちの喪失感に、個人的には共感を強く覚えてしまった。

 いつもいつも同じようなまとめになってしまうが、本書は動と静でいうなら「静」のサイドにおける小路幸也さんらしさが強く出ている作品である。 同じ大家族でも『東京バンドワゴン』は「動」。「静」は、ぱっと思いついたのは『モーニング』とか。いずれにせよ、小路作品の落ち着いた側面がじわり滲み出る好作品であります。


13/01/15
牧野 修「晩年計画がはじまりました」(角川ホラー文庫'11)

 牧野修さんによる、文庫書き下ろしの長編ホラー作品。ノンシリーズ。

 高校を卒業し、介護のケースワーカーとして働いている茜。一見頼りなさそうな彼女の、真剣で真摯な働きぶりに同僚は高い評価をしていた。しかし介護の現場は、自己中心的、わがまま、電波系など、介護を受ける立場の側に変わり者が多く、そんな彼らを相手にする仕事ゆえに関係者は常に高いストレスに晒されている。そんなある日、茜は突然“晩年計画が始まりました”という奇妙な文面のメールを受け取った。その意味が分からないまま、仕事を続けていたところ、あるクライアントの部屋にて首吊り自殺死体を発見してしまう。その現場には「晩年計画はじめてください」との文字が残されていた。一方、茜の高校の同級生で、現在は大学四年となって就職活動をしている千晶。彼女は就職活動の壁にぶつかっているうえに、悪質で変態的なストーカー行為にも悩まされており、精神的にぼろぼろの状態になっていた。そんな二人は再会し、久しぶりに明るい会話を交わすが、二人は二人とも晩年計画のメールを受け取っていた。噂では晩年計画とは命と引き換えに誰かに復讐する組織であるらしい……。

前半は社会派電波系という特異な展開、後半のどろぐちゃで牧野ホラーがきっちり
 冒頭から断酒に失敗した元中小企業の社長ががなり声をあげている。信じられないような儲け話を延々と語り続ける男、借金を申し込んで断られると罵倒する男、アル中、貧乏なんでもあり。ケースワーカーといってもいろいろあるなか、主人公は市の福祉事務所に勤め、生活保護受給者の認定や自立支援を仕事にしている。この茜の置かれた境遇と、彼女に対して無茶難題をふっかける、半分電波の入った男女の描写が、さりげなく巧い。もちろん主題はホラーであるので、何か社会の不満を訴えるといった意図はないと思うし、あくまで人間の厭なところを執拗に描写するつもりだと思うのだけれども。不思議と「社会派」の感覚がある。こんなんじゃ、特に頼む側の問題を是正してゆかないと日本の福祉現場はダメになる! とか、角川ホラー文庫で感じる……ってどうなの?
 ただ、後半に至って「晩年計画」に追われる立場になると、そんな雰囲気は一変、電波系に理不尽な襲撃を受ける厭な、ある意味、通常の牧野ホラー作品へときっちり変貌する。いじめと引きこもりといったところが絡み、理不尽な恐怖に追われ、対決する主人公。だけど、果たして。いつの間にか、ぐじゃぐじゃに引き込まれてしまっていて、それはそれで読者としても、なんか喉がひりひりするような緊張感を共有してしまうのだ。
 これは物語の本質とは無関係なのだが、本書でポイントとなる部分のひとつに「あとがき」がある。3.11を経て、醜悪で嫌悪感を催すようなホラー小説を書くという行為について牧野さんが真剣に悩み、考え、その結果得た結論が書いてある。(ある意味、結論こそがこの作品ということにもなるのだろうけれど)。フィクションであるからこそ、ホラーであるからこそ、得られる感覚・感情もある。当たり前のようでいて、パニくると見落とされがちな、ホラー小説の本質について、この「あとがき」から暫し考えてしまった。

 むしろ牧野氏はどこかで以前、ホラーはホラーだけれども理屈や辻褄の合うように物語作りをしてしまう、といった 趣旨のことを発言されていたように思う。で、本書でも少しそのことを思い出した。最後の最後で救いが──あるのか、ないのかもネタバレなので控えるが、「あとがき」で触れていたような、ホラー小説としての命題は全うしているように思った。


13/01/14
石崎幸二「皇帝の新しい服」(講談社ノベルス'12)

 着実に年末のお約束として確立されつつある(喜ばしい)「櫻蘭女子学院高校ミステリィ研究会」シリーズ、ないしは「ユリ&ミリア」シリーズ、ないしは「サラリーマン石崎が被虐される」シリーズ(今考えた)、の、2012年の一冊にしてシリーズ九冊目。方針が変化したのか、表紙にユリらのイラストが登場している。

 造船や海運を中心にした事業をしている海燈ホールディングスの社長・美蔵武治の娘・恵理。櫻蘭女子学院高校ミステリィ研究会所属の深月仁美の知り合いの彼女は、婚約式の参加者を求めていた。美蔵家は、もともと瀬戸内海に浮かぶ島にある仲津賀神社の神職一族であり、彼女はその祭礼に則って婿と結ばれる必要があるのだという。瀬戸内海の美味しいお魚目的で、ユリとミリアは当然のように顧問の石崎を推薦。口八丁と恵理の美貌に目が眩んだ石崎はこれまた当然のように受諾してしまう。しかしこの祭礼儀式を巡っては過去に複数の殺人事件が発生しており、参加を表明した石崎のもとには、何者からか参加しないよう脅迫状が届けられた。複数の花婿候補がそれぞれ異なる小島にある施錠された小屋に入り、花嫁はお気に入りの婿にだけ正しい錠を与え、抜け出した花婿が花嫁と結ばれるという儀式。二十八年前には美蔵の一族で現在の社長やその妻らが巻き込まれ、小島で三名が死亡、翌年には脅迫状が届いて中止、更には刺し殺される人物まで出ている。海燈ホールディングス会長からの会食に仁美を通じて招かれ、後に引けないサラリーマン石崎に、なぜかご指名を受けて斉藤瞳刑事も島へ。果たして――。

ボケつっこみの応酬に、既に連作長編の風格も。積み重ねた安定感が楽しみを増加させる
 これが、ぽっと出の新人作品であったなら、何このラノベみたいなノリ! と結構叩かれていたかもしれない。(むしろウケていた可能性もあるし、分からないけど)。少なくとも外観はシンプル、内容はノリノリという知る人ぞ知るシリーズだったのが、今回からがらっと変更された。本作から表紙のイメージを変更、ライトノベル風のキャラクタイラストがカバーに使用されているのだ。どちらがユリでどちらがミリア? 石崎ってこんなイメージなんだ、といろいろ表紙だけでも不覚にも楽しめてしまった。
 変更されたのは表紙のみ。むしと内容は安定したおふざけあり、お色気無しの、いつも通りの新本格ミステリ。 まずは序盤のユリxミリアに加えて更に、お色気とおっぱい担当(?)の仁美が入った三人娘による石崎いじり、相変わらずではあるのだが、これが面白い。

 「石崎さんのことを災難だなんて言ったら、災難に失礼でしょ」ミリアが言った。
 「ミリア、逆よ、逆」ユリが指摘する。
 「ああ、そっか、災難のことを石崎さんだなんて言ったら、災難に失礼でしょ」
 「そっちじゃないでしょ」仁美が突っ込む。

 ああ、好きだなぁ、こういうノリ。はっきりいって女子高生のダブルSに、騙されやすいM系サラリーマンって。石崎の反応が分かりやすくダメ男のそれ。嗚呼。

 それはそうとやり取りとしてはふざけながらも、徐々にミステリの体裁は整えらてゆく。謎めいた儀式とその背景。過去にあった殺人事件。複雑な人間関係。軽めの文章ながら、必要条件を埋め込むことは忘れられていない。その根底にあるのが、血液型及びDNAのあれこれであり、トリックとも関係することは、前作までのシリーズを読まずとも本作でもかなり不自然な記述もあって丸わかり。ただ、動機を含め、それなりに説得力のある解決が用意されているため、最後の最後までふざけているだけのミステリではない。 提示されたヒントと一般常識によって意外性のある解決まできちんと繋がってゆく。 ──ビンタされる石崎で物語を締めるのはお約束であるにせよ。

 前半部分で登場人物を絡ませ、ふざけるだけふざけておいて(繰り返すがお色気は無い)、後半で事件をもってきてきっちり解決する、と。フォーマットだけみると西尾維新の「物語」シリーズとも実はノリは近いとも考えてみたり。(西尾の方がよりラノベ的であり、石崎の方はミステリ的ではあるにせよ)。フラグは沢山立ちながら、今回も石崎はきっちり生き延び、解決へと持ち込んだ。シリーズも引き続き、事件満載での継続を期待したい。


13/01/13
田中啓文「ウィンディ・ガール サキソフォンに棲む狐T」(光文社'12)

 田中啓文氏によるジャズミステリの新シリーズ作品。田中氏には東京創元社より刊行され、日本推理作家協会賞を受賞した短編作品を含む『永見緋太郎の事件簿』シリーズがあるが、巻末における対談によるとサックスを手にした女子高生を主人公とする音楽小説にしたい(もちろんミステリでもある)とのこと。『ジャーロ』四二号(二〇一一年六月)から四五号(二〇一二年六月)にかけて掲載された作品がまとめられている。

 二年前に父親・光太郎が新宿で事故死して以来、都心まで高速バスで二時間余りの地方都市に住む女子高生・永見典子。人見知りする性格の彼女だったが、偶然見学に行った吹奏楽部でサックスの魅力に取り憑かれ、吹奏楽部員として活動しているが、彼女べったりの母親の機嫌は良くない。典子は偶然、質屋流れのサックスを入手、メーカー不明のそのサックスには管狐のチコなる、言葉を解する狐の妖精が棲んでいた。そのチコと良い関係になった典子。そんななか、吹奏楽部一年生を対象にしたレギュラー選抜のオーディションが行われることになった。『ブラックバード』
 学校の改装を控え、音楽室が使えなくなることになった。マウスピースを学校に忘れた典子は深夜の学校に忍び込むが、音楽室では部活終了後にきちんと仕舞い込んだ筈の大量の楽器が保管庫から取り出され、放置されていた。 『ミッドナイト』
 典子の通う須賀瀬高校の全国大会行きを阻んでいた江賀田高校が地区大会で敗退、全国大会への可能性が出てきて吹奏楽部は盛り上がる。そんななか部員に事故や怪我で演奏できない人間が出てきてしまい、バスサックスで代用する必要が生じた。何人かが挑戦するも吹けたのは典子だけ、更に挑戦した他のメンバーは皆、体調を崩してしまう。 『フェイヴァリット』
 吹奏楽部を止め、本格的にジャズについて学ぼうとジャズ喫茶でのアルバイトを開始した典子。比較的近くのサックス奏者の個人レッスンを受けることになるが、彼がこだわりの多い変人であった。 『オーニソロジー』 以上四作品。

吹奏楽・ジャズ・ミステリに伝奇も少々。永見緋太郎シリーズとは別アプローチの音楽ミステリ
 田中啓文氏の音楽小説である。『永見緋太郎の事件簿』シリーズの時にも書いたように思うのだけれど、田中氏によるジャズに絡む文章、生々しくて生き生きとしていて、門外漢ながら聞きたくなるような表現が多いのだ。本書でも「べしゃっ」とか「ぶぼっ」とか、音楽とは思えない表現があるにも関わらず、同じような気持ちになった。
 さて、田中氏によるものではないが、これまでに何冊かの吹奏楽部をテーマにした小説を読んできてはいるが、ジャズへ至る(ことが分かっている)本書は、それらとはまた異なった展開。部活小説でありながらアウトロー小説のような、不思議な手触りで物語は転がされてゆく。
 それにしても、吹奏楽部の顧問であるボンパ(バカボンのパパから来たニックネーム)を始め、その腰巾着の女生徒・柿沢、大学生のジャズ奏者・本条ら、一般的な小説に比べると性格が悪い(少なくとも、いい人ではない)人間の比率が登場人物中に高いように感じられる。ただ、思うに、こういった要素こそが「音楽小説」たる所以なのかな、とも思う。女子率の高い体育会系文化部特有の粘着した感情や、学年や練習態度と比例しない「音楽のセンスや才能」の差、これはそのまま、音楽性の高さ、演奏家としての素晴らしさと人格は比例しない(全く関係ない)といった、どうしようもない現実にも繋がってくる訳で。ただ、世間知らずで直情家の典子の性格や言動もまた、ちょっとひどいと思える部分が多い。母親に対する態度や言動は思春期とはいえ、ちょっといただけないなあ。
 謎解きとしては軽め。掲載誌を考えると本格ミステリである必要がある一方、探偵役を努めるのはサックスに棲む妖精(?)管狐のチコだ。事件は奇妙にせよ、日常系の謎となるため、永見緋太郎シリーズ以上に当たり前の解決となっている。ただ、その回答に至る論理についてはきちんと伏線があって手順を踏んでおり、納得できるレベルにある。
 中編としてそれぞれのエピソードにおける謎解きは行われているものの、題名の最後が「T」となっている通り、彼女に依存する母親、新宿で変死を遂げたという父親など、主人公を巡る境遇や管狐、更にアルト・サックスにまつわる秘密など、物語の根幹にあたるであろう秘密は全くといって良いほど明らかにされていない。 もちろん既に作者の構想のなかにあるものだとは思うので、それを含めて今後に期待ということですね。

 巻末対談を読む限り、音楽、特に吹奏楽とジャズに関してはかなり記述に正確を期していることが伺える。その関係者が読むとニヤリとし、そして小生のような音楽素人が読んでも知識が無いなりに、全く引っかかるところなく読むことができるようになっている。単純に主人公のような、ある意味純真な女子高生を頻繁に新宿や新大久保の裏通りを歩かせるのは(親心として)どうかと思うのだけれども、そういった都市文化もまた、音楽と密接に関係しているということなのだと思う。田舎生活だけではジャズにならないのかな。次作で彼女と再会するのが今から楽しみなシリーズです。


13/01/12
海堂 尊「ナニワ・モンスター」(新潮社'11)

 「週刊新潮」二〇〇九年十二月三十一日・二〇一〇年一月七日合併号〜二〇一〇年十二月二日号にかけて連載された作品に加筆修正されて単行本化された長編作品。一連の海堂ワールドと世界を同じくする作品。

 西日本最大の都市・浪速府。近年ににあって浪速大学医学部准教授でマスコミに顔が売れている本田苗子を中心に、新型インフルエンザの脅威が喧伝されていた。ラクダを介した突然変異で生まれたこのインフルエンザは「キャメル」と名付けられ、厚生労働省によって水際検疫が強化されていたものの、浪速府内で開業医をしている菊間徳衛・祥一親子は死亡率などからその危険性が非常に低いことを認識していた。ところが菊間家が懇意にしている八百屋の息子が、海外の渡航歴が無いにもかかわらず、キャメルを発症した。ヒステリックとも思える対応を厚生労働省とマスコミが主導、浪速市は事実上封鎖され、自治体として大打撃を受けることになる。事態を憂慮した府知事の村雨弘毅は、彦根新吾や喜国忠義ら、ブレーンの知識や知見から対策を練ってゆく。その裏側には霞ヶ関の、カジノとお笑い、そして医療で改革を目指す政治方針に対する陰険な陰謀が見え隠れする──。

たかが病気、されど病気。パニックの裏側に仕掛けられた、冷静で残酷な謀略と戦いと
 読者に対する意表の突き方がとても巧い小説。 いわゆる感染する病というか伝染病ですね。その蔓延、パンデミックをベースにしたパニック小説をやっているように見せかけながら、作者が実際に描きたかったであろう事柄、作品の主題に相当する部分は、実は全く他にあるのだ。いわゆる謎解きの小説は、伏線や手掛かりがあって、それらを回収することで探偵役が真相に至る訳であるが、ストーリー全体が伏線であり手掛かりであるという、ある意味では壮絶に大がかりな(あくまで広義のだが)本格ミステリだともいえるように感じられた。
 風邪のようなウィルスで世界を滅亡させるのが『復活の日』、地方都市を崩壊させ得るのが本書『ナニワ・モンスター』である。大阪府と某知事(後に市長)あたりがモデルとなっていることであろうし、中央に頼らずに自立志向で生きてゆく地方のあり方、そしてその模索といった主題が端端に描かれる。一方で、なにやらきな臭い官僚とマスコミの動き。これらに対し、裏側にある策略を見通し、更にその裏をかくという相変わらずの謀略小説というのが本書の本質だった。
 官僚制度の歪みであるとか、問題点であるとかは、一連の医療ミステリを通じて海堂氏は説いてきているのだけれど、マスゴミのひどさも加えた本書では、その問題点(の一部だけれども)が大きくクローズアップされる。もちろんフィクションではあるので、本書のような行動自体が実際に行われている訳ではないのだが、その本質的な性質・指向といった部分については恐らく、実際に霞ヶ関に確固として存在するものだと思う。
 ただ痛快なのは、そういった問題点を暴き出すだけではなく、本書の主人公たちがそういった状況すら見据えたうえで、その先を行き、瞞してきた筈の彼らを返り討ちにしているところ。よくぞここまでというくらいに官僚も政治家も、頭の回転が早いこと早いこと。終盤に明かされる手の内については、もう読者として唖然とするしかなかった。
 あと、ミステリ的に少し興味深かったのは、(ちょいと真相に触れるので伏せるが)「認識されていない病気は、病気として扱われない」という状況。インフルエンザウィルス「キャメル」を巡る不思議な部分は、この一点にて説明される。ミステリにおける「本当の完全犯罪とは、結果はもちろん実行されたこと自体が露見すらしない犯罪」である、というよく知られた命題とも、どこか重なっているようで、ちょい唸りましたぜ。

 相変わらずの海堂リーダビリティ。読み出すと一気に最後まで読んでしまう一方、胃が痛くなるような緊張感がある場面がかなり継続するので、じっくりと読書に取り組めるタイミングで読むのが吉かも。ここまで刊行されてきている一連の海堂ワールドも、裾野がかなり広くなっているので、初期作でさえなければ、どれから読んでも良くなってきているようにも本書から感じた。


13/01/11
河合莞爾「デッドマン」(角川書店'12)

 河合莞爾氏は熊本県生まれ。早大法学部卒業で東京都在住、現在は出版社勤務。本書は第32回横溝正史ミステリ大賞を、菅原和也『さあ、地獄へ落ちよう』と同時受賞で獲得した。

 警視庁刑事部捜査一課に所属する鏑木鉄生。捜査にのめり込むあまりに嫁さんに逃げられバツイチとなっている四十五歳のノンキャリア警部補である。コンビを組むのは刑事という存在に対するオタク的存在二十五歳の姫野。彼らは、スポーツジムを経営する若手実業家が、頭部を切断された遺体となって発見された殺人事件を担当する。被害者は資金繰りに困っているうえ、女性関係にも問題が多く、捜査はその線で進められようとしていた。ところが鏑木はその現場で覚えた違和感を捜査班に指摘、その嗅覚が信用されて特別捜査班の長に抜擢される。しかし、その捜査途中の段階で同じ犯人によるものと思しき、次の殺人事件が発生、今度の遺体は頭と手足が残され、胴体だけが持ち去られていたのだ。続いて犯人は捜査班をあざ笑うかのように手のみ、脚のみを切断した死体を残してゆく。一方、記憶を長期間喪っていた男は、自分が沢山の死体を合成して創られた身体を持つといわれていた……。

明らかに島田荘司の作品、そして御大の提唱する「本格ミステリー」を引き継ぐ才能
 頭部、腕、脚など、身体の異なる部分の一部が切り取られた死体が次々発見される――といった段階で「アソート殺人」である。『占星術殺人事件』をなぞった展開であり、この段階で読者の多くが島田荘司を意識するのは普通のこと。恐らくその点は作者も自覚的であろうと思われる。幻想にすらみえる怪奇現象、気味の悪い犯罪を冒頭に持ってきて、最終的に理屈と論理をもって現実の地平に着地させる。 オーソドックスともいえる作品創作の方法でありながら、”美しく”実作するのは難しい。これは『本格ミステリー宣言』での島田荘司氏が提唱していた作品理論をなぞりきったという希有な作品だ。
 実際のところは、当然『占星術殺人事件』を真似たトリックでないし、死体を繋げることで生き返ったというデッドマンなる存在にせよ、その最終的に読者に提示される解決にせよ、良い意味で「むちゃくちゃ」。当然、オリジナルである島田荘司氏に比べても話運びの強引さ、筋道のナンセンスさがより強烈に感じられる。 ただ――、そのむちゃくちゃをカバーして余りあるのがこのリーダビリティだ。
 ノリが良く、テンポで繋がる会話、次々に転じられる場面展開。文章自体が決して巧いという訳ではないし、差し挟まれたユーモアのセンスも素晴らしいとは言い難い。無駄と思える描写がある一方で、殺人事件の一部などは一行で済まされてしまっている。だけれども、物語の「見せ方」には天性のセンスがある。その結果、かなり強引な、ちょっと無理のあるトリックや理屈についても、何となく納得させられてしまうのだ。(だって例えば、冷静に考えたら真犯人が複数の犠牲者の死体を切り刻むの、医学の知識とかそういうこと以前に実行は相当難しいと思うのよ)いずれにせよ、本作を読むことで、島田荘司氏の作品においても同様にリーダビリティというものが大きな役割を果たしていることを改めて感じる。
 勿論、理屈が凄まじいとはいえ、凄まじいなりに辻褄は合っており、破綻しているということではない。そしてリーダビリティの良さを作り上げている最大の理由は登場人物のキャラ作りの巧さ。正直、鏑木にせよ、その他の捜査員にせよ、それほど極端に特徴が付与されている訳ではない。ないのだけれど、人間的な魅力というか、どことなく親しみのようなものを、彼らから感じてしまうのだ。
 新人賞を受賞という事実は、当然のことながら審査員の方々がそういった才能やセンスといったところも評価して、ということだろうし、多少の粗も、新人ということでご愛敬。読んでいて読者を飽きさせない展開がとにかく素晴らしい。個人的にはミステリ専業よりも、物語作家としてジャンルに囚われない作風を選んだ方が、より面白い作品が打ち出せるのではないか、などと思った。