MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE 国産ミステリ・レビュー
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−著者順全部索引− 


13/02/10
汀こるもの「少女残酷論 完全犯罪研究部」(講談社ノベルス'12)

 汀こるものさんは第37回メフィスト賞を受賞した『パラダイス・クローズド』から連なる「THANATOS」シリーズと、同じく講談社ノベルスで「完全犯罪研究部」シリーズを展開している。本書はその三冊目。

 相変わらずのテンションで合法非合法ぎりぎりのラインで、自分たちにとっての楽しいことをテーマに活動を繰り広げている醍葉学園高等部”ゼロ年代探偵小説研究部”。彼らが、美人局をテーマにユースト実況を試みようとしていたところ、別の学校の女子高生が中年オヤジにナンバされている現場を発見。ドッキリを仕掛け、絡んできたヤクザものをあしらって現場から、その彼女「宵宮天使」を連れて逃走する。研究部のあまりのハイテンションに対し、あまり頭の回転が良くない天使は戸惑うが、なぜか彼らと行動を共にするようになる。一方、彼らをはじめ不祥事の多い醍葉学園では、元教師の由利千早が呼び出されていた。妊娠した女生徒への処遇を巡って生徒と先生が対立、女子生徒数名が校舎内に立て籠もってしまったのだ。通りがかった完全犯罪研究部は、半ば恫喝、半ば協力というかたちで事件に関わることになり、女子生徒たちを傷つけないよう手玉に取るための兇悪な算段を錬り始める。

面白いことなら無理に正義を見出す危うい良心と道徳心。図抜けたアイデアと実行力に怖さ有り
 ミステリとして読むならば、一応レーベルにもある通り、クライムノベルということになる。が、「危なすぎる」というコメントは必要かな。そして怖い。
 怖いというのは、どちらかというと行為そのものよりも、行為に踏み切るまでのハードルの低さ。良心だとか、道徳だとか、正義っぽい何かだとか、判断基準が曖昧で一旦踏み切るとそのあとの怒濤の展開に飲まれてしまうのだ。また、普通の高校生に入手が可能な武器で、高校生にでも出来る(高校生だから出来る)行為で、本当に人間殺傷を含む完全犯罪が出来てしまいそうなことも怖い。由利先生がいるうちはいいのだが、杉野二号らアジテーターだけになった時の暴走っぷりもまた凄まじい。
 不審な行動を見とがめられたら、笑顔で学校の宿題です! といえばスルーして貰えるのが高校生。これが社会人だったらそうは行かない。ネットの悪意ある書き込みに対し、執念で個体特定してリアルの復讐を(冤罪を怖れずに)かましてゆく展開は、見方によってはミッシングリンクのサスペンス。ストッパーが無い若者は、行くところまで行くし引き際も計算済。体力的に弱くても、対象に合わせた武器(と知識、情報とネットワーク)があれば十二分に戦える――というのは主題とはちょい違うか。
 本書でさらに怖ぇ、と思ったのは、ネット時代のさまざまな真理を表現していること。 イジメにしたって、いじめられている側がネットでは人を攻撃する側に回るのも普通だし、ちょっとでも落ち度があって報道されてしまうと、被害者であっても溺れた犬をたたくように攻撃する下衆な人々が沢山日本にいるという事実。その先陣をひた走るのが、報道の自由を標榜するクソのようなマスコミなのだが、そのマスコミに散々洗脳されている国民は、自分も同じことやっても良いと思っちゃいますよね。そういった、海外は知らんけど、日本におけるインターネット民の怖さ(ネットが怖いんじゃなく、ネットに住まう人々が怖いのだ)と現状について、客観的に小説で表現できている作品なのデス。現状の日本のインターネット及びネット民たちを客観的に観察した、社会学のテクストとしても使用可能なレベル。

 冒頭のオオアリクイで吹いたけれど、まどマギにせよピンドラにせよ、その他ネットスラングにしても一、二年もすれば忘れられるし、そもそも知識として知らない読者も増えるだろう。中盤の架空人物による実在人物のtwitter炎上(この部分は傑作にして恐怖)にしてもmixiが廃れ、twitterに勢いがある今なら有りだけれど、SNSの行く末なんて、 半年先はどうなってるか分からないし。だから敢えて、こういった風俗的側面を強調するのもこの場合は「有り」なんでしょうね。文庫化のために中途半端に書き直すこと自体意味無い行為。書き直すくらいなら、こるものさんは新作書いてくれるに違いない。ついでにモデルガンほか、銃器関連も描写が深いなあ。

 籠城女子生徒に対する、攻城戦。百物語実況からのどっきり返し。全般に殺伐とした展開の多い完全犯罪研究部の仕事だけれども、幽霊を絡めるとちょこっとだけ(ほんのちょこっとだけ)キツさが緩むか。まあ、いずれにせよ全般にハイテンション、ハイスピードの物語は相変わらず。合わない人には徹底的に合わない作風だと思うので、初めて読まれる方はとりあえず少し立ち読みしてからがお勧め。


13/02/09
樋口毅宏「二十五の瞳」(文藝春秋'12)

 『別冊文藝春秋』二〇一一年九月号、十一月号、二〇一二年一月号、三月号に掲載された四編の短編に、書き下ろしのプロローグとエピローグの付けられた連作集。

 かつて真剣に交際していた中国人留学生と小豆島出身の女子大生。やがて二人は別れ、男は巨万の富を稼ぎ出す中国はおろか世界でも有数のIT長者に、女性は語学の才を活かしテレビ局の看板ニュースキャスターになっていた。男はダミー会社を使い秘密裏に小豆島の土地買収を進めており、事態が表面化した時には島の85%が買収されていた。男の真意は。 『あらかじめ失われた恋人たち』
 映画「二十四の瞳」の撮影中、主演女優の高峰秀子(作中では別名)は、島の有力者から言い寄られていた。彼女には後に日本で有数の映画監督となる男と不倫関係にあったが、その男が別の映画の撮影中断中にこっそり小豆島を訪れる。その時期から彼女に言い寄る男たちが不審な死を遂げはじめる。『『二十四の瞳』殺人事件』
俳人で晩年を小豆島で過ごした尾崎放哉。東大卒、保険会社の天才営業マンとしてエリート街道を進んでいた彼の人生は、澁澤榮一に呼び出され、当時は日本の一部だった京城で朝鮮の皇族を保険加入させて欲しいと頼まれたことから変転してゆく。 『酔漢が最後に見たもの』
 その昔、小豆島の長者のような人物が工場を動かし、その公害に心を痛めていた短躯の学校教師で発明家の男が、何かと啓蒙活動をする話。 『二十五の瞳』 以上四作に樋口氏自身のものと思われる、大震災以降に妻と離婚する顛末がプロローグとエピローグで付け加えられている。

小説の持つ根源の迫力、現実を交え、奔放な想像力が加わった天衣無縫のコラージュ文学。
 まあ何とも、勢いがあって濃厚な小説なんだろう。
 もともと樋口作品では、実際に存在した人物や著名人が、普通にフィクションである小説内部に登場することはままあり、虚実入り交じった独特の樋口ワールドを形成することが多い。 本書の冒頭の『あらかじめ失われた恋人たち』にしても、特定の一人に絞ることはできないまでも、中国人留学生に相当しそうな(その特徴を一部備えた)現実の有名人・実業家のイメージが複数名思い浮かぶ。そういった手法により、物語展開自体が破天荒なのに、どこか不思議と現実と地続きに思える雰囲気を、作品内で醸し出している。
 (作者のあとがきによると、そういったオマージュを捧げることで、対象とした人物や作品を再評価して欲しいというような希望もあるらしい)。

 第一話から順に読むと、「小豆島」連作とまず思わされる。少なくとも間違っていない。小豆島という瀬戸内に浮かぶ大きな島、壺井栄の小説『二十四の瞳』の舞台となり、オリーブ栽培が盛んなこの島を舞台にした作品が続くのだ。また、その描かれている時代は、平成、昭和、大正、明治と遡ってゆく。(ただ、時代としては一応それぞれの年代ではあるけれど、文体や会話文が現代だったりするので、まあ、そこはそれ。当時の小説を復刻する意図はさらさらない)。
 ということで、小説自体が持つオリジナリティ、独自性は高く、物語の展開の先読みさせなさは天下一品。自由律俳句「咳をしても一人」などの作者・尾崎放哉といわれても、(小生個人としては)知っているのは僅かな句と名前だけ。その生涯なぞ普通は知らないし、ただ実物も結構嫌なやつだったっぽいです。なので現実を踏まえつつも先読みは、事実上封印。何が起きるか分からない、禁断系エンターテインメント小説として読むべきかと。
 ただ、その実、プロローグエピローグまで踏まえて俯瞰すると、実は小豆島は舞台として統一しているのみで、実際は「ニジコ」連作であることに気付く。ニジコってなんやねん! というのはここでは説明しないが、実際のとこ、この連作全体のテーマは男と女の愛とその終わりって感じじゃないでしょうか。

 あと、表題作である『二十五の瞳』は、ちょっと構想が安直じゃないかなぁ。「二十五の瞳」が出てくるところには驚いたものの(上記のニジコ連作の理由でもあるし)、明治時代の小豆島と東北大震災・福島原発を絡める展開は、どこか思慮の浅さが感じられた。まあ、それもひっくるめて樋口作品だといわれたら口をつぐむしかないのだが。

 エログロの少ない樋口節。あと「殺人事件」とある、「『二十四の瞳』殺人事件」、まあ、意外な犯人といえば、犯人。ただ、ミステリとして描かれた作品ではないためにサプライズだけが微妙に残るという奇妙な味わい。奇妙な味わいといってしまうと、本書収録の四つの作品全てが奇妙な味わいとしか形容できない作品群でもある。小説に対する許容範囲が広い人向け、かな。樋口作品にしては比較的入りやすくはあるけれど。


13/02/08
篠田真由美「ホテル・メランコリア」(PHP研究所'13)

 PHP研究所が刊行する文庫雑誌『文蔵』に二〇一一年一月号から二〇一二年七月号にかけて連載されていた作品が加筆修正のうえまとめられ、単行本化されたもの。

 題名でこそ『ホテル・メランコリア』だが、作中では「M――ホテル」といわれている、横浜の山手にかつて建っていたホテル。戦前から横浜の地で、主に外国人のしかも長期滞在客を中心に営業を続け、戦中・戦後の混乱も乗り切ったものの、バブル崩壊後しばらくして廃業したという。そもそもは最近米国から帰国したという高齢の老婆からの「私」への依頼だった。彼女は少女時代、横浜で実業家で資産家の父親と二人で暮らしていた。しばしば父親と共にそのホテルに行き、商談中はフロントの前で静かに一人遊び、当時は珍しかった洋食を食べさせてもらい、長い時間をそこで過ごした。しかし、心残りは、父親が「大きくなったら連れて行ってくれる」と約束していたクリスマスの舞踏会には、結局一度も参加することが出来なかったこと……。久しぶりに帰国したという老婆は、「私」に、そのホテルが本当にあったものなのか、何でも良いので分かることについて調べて欲しいという。私は、そのホテルの元従業員やその係累、客として滞在したことがあるといった人々から話を聞くのだが、それぞれ皆がみな、何かと数奇な体験、奇妙な経験をしているのであった――。

全く知らないのにどこか懐かしく蠱惑的。人間と時代とが重厚に交錯して生まれる物語空間
 最初に述べておくと柳川貴代さんによる装幀と、数多く再録されているイメージ写真が素晴らしい。写真は篠田真由美さんの相方・半沢清次さんによるもので、一つの短編に数葉のイメージ(どこかのホテルの設備や部屋、クラシカルな道具や花など)が挿入されており、半端なイラスト挿絵などとは比べものにならないほどに物語を補完している。いや、役割は補完だけではなく、写真自体、既に物語の一部なのだ。もちろん、文章だけでも読んでいて十分作品場面のイメージは喚起されるのだが、カットインされた写真が物語情景をより膨らませ、時に文章以上に饒舌に場面を語っている。文章と写真とのセンスの頭合わせというか、二人の息が合っていないとなかなか成功しない芸当だと思う(という意味では本書は最強コンビの手によるものですね)。

 さて、ある歴史あるホテルと、かつての関係者たちによる、様々なエピソードを重ねる連作集。ああ、これは『グランドホテル』であり『黄昏ホテル』だ、と読みながら思っていたら、しっかりあとがきに題名が挙げられていました。ただ、本書も含めホテルをメインに据えたアンソロジー形式の物語を創るためには、どうしてもクラシカルで重厚で、そしてどこか胡散臭いところのあるホテルになってしまうのだろう。数多くの人の想いは、一泊五千円の薄っぺらいビジネスホテルでは受け止められないのは当然だけれど。「器」としてのホテルの外見だとか、歴史だとか、サービスだとか外観そして建物の器としては、本書に登場するホテルと、アンソロジーで登場した他のホテルとどこか似ているような印象を受ける。
 しかし作者一人で構成しているせいかか、一冊の単行本として受ける印象は随分違ったもの。『グランドホテル』などは、主人公は「ホテル」だったが、本書はそれとは異なる。ホテルは、あくまで人と時代を受け入れる器・交差点としての役割に徹していて、物語はホテルにまつわる人々、そちらに重点が置かれていることが一つ。また、同時に具体的な時代を描いてもいて、背景の時代性にもスポットライトが(あくまで登場人物と同時にですが)当たっているように感じられる作品が多いこと。
 そして、掃除婦、シェフ、フロント、バーテンダー、それに色々な客――は登場するものの、恐らく敢えてだと思うのだが、そのオーナー(恐らくは一族)が登場しないこともあるか。「ホテル」を一つの支点とした、それぞれの時代を経た、人々の思いの集合体――が小生が本書に感じた大きなイメージである。 (写真も含めて)特に、戦前から終戦、昭和期にかけての時間の流れを踏まえた登場人物の設定。さらに彼らの行動原理の背景にある時代の変化、地域的な特徴、そういった細かな設定を膨らませることで、物語の神秘性が増しているようにみえるのだ。個々の作品は神話のようにみえたり、オペラのようにみえたり、昭和期の名画のようにみえたり、幻想小説的であったりさまざま。

 懐古趣味というのとも少し異なる、その時代時代が醸し出す空気に、「ホテル」という一種の非日常空間(祝祭空間というと少し過剰か)の雰囲気が加わって、個々の短編が、登場人物の動きを単純に追う以上に、別々の手触り、香りを伴って読者の前に立ち上ってくる。その美しさを喩える言葉をあまり持ち合わせていない。あくまでそれは小説の役目なので、読んで確かめていただきたい。

 古びた宝石箱のなかにあるくすんだ宝石たち。光の当て方次第で華やかにもなるけれど、流行遅れになったり、持ち主が仕舞い込んだまま忘れてしまったり。ただ、時折蓋を開けてじっくり眺めていたくなる――ホテルの小説であるのだけれど、どこか懐かしく、そして蠱惑的な物語。 ラストに明かされる作品通じての謎は、悲劇でありながらもの悲しさが勝っていて、ミステリというよりも幻想小説としての本書の価値を高めている印象だ。写真を含め、味読することでどんどん深みを増す、そんな連作集です。


13/02/07
北山猛邦「猫柳十一弦の後悔 不可能犯罪定数」(講談社ノベルス'11)

  メフィスト賞作家・北山猛邦が送り出してきた新たな名探偵・猫柳十一弦。本書が一冊目だが、既にシリーズとなっており、二冊目の『猫柳十一弦の失敗』が既に刊行されている。

 名探偵に憧れ、名探偵として仕事をしたいと思いながら、自らの才能に挫折を覚えた君橋君人(後にクンクン)は、それでも名探偵に関係する仕事がしたいと、国内でも唯一、探偵助手の技能を学べる大東亜帝国大学探偵助手学部に合格した。親に反対されたため、住まいは大学近くの鮟鱇荘という貧乏アパート。アパートには同じく探偵助手を目指す、月々守(マモル)がおり、二人はすぐに親しくなった。彼らが二年生になり、大学のゼミ選択の時期となった。しかし彼らは揃って第一、第二希望と落ち、冗談半分で書いた第三希望の「猫柳十一弦」ゼミに所属することになる。実績も知名度もゼロに等しい彼女は、鮟鱇荘の二階に部屋を借りている二十五歳。ただ年若くして探偵試験に合格した天才ということだったが、彼らから見ても行動も言動も頼りなかった。ゼミ生は彼ら二人だけで、鮟鱇荘のクンクンの部屋がたまり場にされていくうちに、マモルはいつの間にかタメ口、猫柳は相変わらずという状態。そんななか、名門・雪ノ下ゼミと合同で合宿に行く話が持ち上がる。メンバーは猫柳ゼミ3名に雪ノ下ゼミ7名。行き先は雪ノ下ゼミ所属のお嬢様・千年舘宮子の父親が所有する島と決まった。洋館があり、パーティなどがひらけるのだという。準備期間を経て、島にわたった一行だったが、その初日の深夜、大量の蛍光塗料で道案内された森の中で、棺のような箱に入れられ、胸を杭で貫かれた千年舘宮子の死体が発見された。もう一人、雪ノ下ゼミの緒方みのりが行方不明だったが、彼女は地下室でアクリルケースに詰め込まれた状態で発見される。死因は箱に充満した一酸化炭素。折しも島には台風が接近、外部と接触が断たれた状態で、探偵とゼミ生は犯人を突き止めることが出来るのか?

変化球のようにみえるがストレートのド本格。ゆるめの設定と丁寧な論理との協奏が楽しい
 探偵学部の教授とその助手という設定、一般的日本人離れした登場人物の名前、お金持ちが提供する孤島合宿等々、第一段階としては、「あちゃー」と思う部分がかなりあった。なんというかライトノベル等で使われることの多い、いわゆるご都合主義、設定のための設定とみえたのだ。登場人物やストーリーに都合の良いような現実離れした設定ですね。
 実際、探偵学の教授、助手となるための大学といった要素、多少は事件と関係がある(犯人の動機だとかの面で)ものの、まあ、こういった突飛な設定がなくても事件そのものは対応は可能なようにみえる。個人としてはそのせいで評価を割り引いたりはしないが、大人の読者(?)に向けては、そういった成分の分、少し損しているかもしれない。
 ただ、孤島のクローズドサークルを設定、深夜に次々発見される奇妙な状態の他殺死体から、クローズドサークルならではの緊張感とサスペンス感覚の醸成はさすがにうまい。 また、その状態下で「その段階で」分かるところから推理を行い助けられる人を小さな身体を張って、魔の手が迫る直前に回避させてゆく探偵・猫柳十一弦の姿は、物語前半部からは想像すらしていなかった程の格好良さがあって驚いた。また、全員を集めて「さて」は無いが、少しずつ明らかになった手掛かりから犯人を絞ってゆく過程もなかなか読み応えあり、特に中盤以降は一気に世界に引き込まれてしまった。全くもってド本格ミステリになっているのだから。
 作中でも言及があるが、スマホも携帯もインターネットもある状態で、果たして孤島でのクローズドサークル化にどんな意味があるのか。それでも本書の場合は、そうするだけの理由を設けているというところも評価に値する試みだと感じた。
 もうひとつ、(個人的に)本書でもっとも感心したのは、猫柳十一弦が名探偵である理由。詳しくいうと、これだけ無名であるにもかかわらず、年若い女性が名探偵の号を持っている理由が本書の最後の方にある。なぜ事件の最中に十一弦はあれほど泣くのか、救えなかった被害者のことを嘆くのか。単に性格のせいかと思われたこれらの行動、その理由を聞くと得心すると同時に、その事実を説明的に冒頭に使わずに(質の悪いラノベとかであれば、間違いなく嬉々として超人性を付加する「設定」として用いられそうだ)、じっくり長編一本分を使用した描写のあと、さらりと問答のなかでこれが明らかになったところで、最初の「あちゃー」は「何これ格好いい」に変わったのはナイショだ。(書いてるけど)。

 少し感想を書きあぐねていて寝かしていた作品ではあるけれど、再読して改めて良さを確認できた。終わってみると、この奇妙な設定にしても北山作品が時々醸す惚けた味わいと相まって読後感としては悪くない。(ラノベ寄りという印象は残るにしても。あ、それも悪いことではないですよ)。素直に、シリーズ次の作品へと進みたくなる余韻あり。


13/02/06
太田忠司「虹とノストラダムス」(PHP研究所'12)

 太田忠司氏によるノンシリーズ長編作品。書き下ろし。

 昭和四十二年、八歳の上岡史生は、雨上がりの虹を追いかけて自転車を走らせていた。気付くと虹は消え、知らない町に来ていた。俯いたまま走っていた史生は強烈な衝撃のあと、暗闇の中で虹の橋をみた。その虹を渡る途中にいた白い服を着た子供に問われ、死にたくないというと虹は消え失せ、史生は生還する。一九七四年、中学生になった史生はある日、黒板に書かれたノストラダムスの予言を目にする。史生はノストラダムスをその段階で知らなかったが、大人びたクラスメイト・新開恵津子や、親友の高田仁志は既に知っているようだった。その日、クラスには東京から宮坂鶴文という生徒が転入してきた。恵津子が『ノストラダムスの大予言』を貸してくれ、早速読み出した史生。一九九九年の七の月、二十五年先、世界は滅亡する。史生は衝撃を受ける。しかしその翌日、新開が登校してこなかった。隣に住む宮坂は何も知らないというが、恵津子は自殺を図ったらしいとの噂が学校に伝わり、どうやらそれは事実らしい。彼らは彼らなりに”そのとき”について考えだす。史生は所属している生物部の文化祭での展示を、ノストラダムスとからめた、公害による自然破壊をテーマにしようと提案、準備を進めた。──一九八五年、社会人になって四年目の史生は自動車部品会社の営業として働いていた。そんな折、イタリアで修行していた仁志から帰国しているとの連絡が入り、久々に会うことになる。仁志は新開恵津子の消息を史生に告げる。

ノストラダムスを巡る時代への共感と、いささか唐突でざらりとしたラスト二行と。
 先に述べておくとこの作品、ミステリではない。

 時々、太田忠司さんは作品内部で自伝的要素を交えることがあるのだが(私小説的要素をふんだんにとりこんだミステリ『さよならの殺人1980』という作品もある)、本書もまた、どこかその要素を抱えた作品である。ただ、小生も作者ではないので想像するに留まるのだが、まず主人公と作者・太田忠司氏の生きた「世代」が重なっていることは間違いない。
 そんななか、ひとつ補助線となるのが『ノストラダムスの大予言』。2010年代の現在では、なかなか想像がつきにくいと思うのだけれど、あの頃の子供は皆、予言を信じる信じないとは別に、「1999年7月に自分の年齢がいくつになっているか」「その頃自分はどんな大人になっているか」を必ず夢想していた。本書における中学生たちの行動・言動が実に自然なこととして「あるある」と頭に入ってくる。この時期の日本人にとっての一種の通過儀礼といっても良かったのではないか。
 本書は、その通過儀礼に向けて、感じ方の異なった数人を中心に据えた、成長(というよりも、むしろ時間の経過が主)物語。年代を踏んで、高度成長期を経てのオイルショック、プラザ合意後の円高不況から、バブル景気に向けての展開、さらにリーマンショック直前から、刊行タイミング少し前のある出来ごとに至るまで。時代時代ごとに(小生の知る範囲ではあるが)特有の空気がうまく表現されている。 そして中学生の頃、クラスメイトとして一括りだった友人たちが時を経て、様々に別々のベクトルで人生を歩むのは当然。その年代ごと、異なる悩み、異なる苦労。サラリーマン経験もおありなだけにバブル前後の雰囲気であるとか、会社組織の嫌なとことか、上手に表現されているように思う。この主人公・史生が、作者と方向性を頒つのは、小説賞の受賞の有無。作者の考えや人生については、史生ばかりに展開されているのではなく、恐らく親友の仁志や、新開恵津子といった登場人物の考え方や境遇にも分散して表現されているはず。

 さて、本書。結末に、かなり大きなサプライズがあることはあるものの、これは一般小説の流れのなかでの「効果」をもたらすための仕組みと受け取るべきか。(いわゆるミステリのサプライズとは異なる)。ただ、臨死体験の象徴としての虹を見た経験のある主人公たちに対し、こういう予感めいた終わり方をする点、びっくりした後では少し腑に落ちないものもあった。単純に前向きに生きてゆこうといういい話で終わらせず、心にざらざら引っかかる結末となり、インパクトという意味では大きい。 ただ、そこでそれを匂わせることで、では何がいいたいのかというと、正直少し分からなくなる。予言された未来とは無関係だから。前向きに生きてゆくことを否定したいのかな(と勘ぐることもできなくはないですよ?)。分からないので、分からないと書いておく。

 太田忠司さんの作品らしいといえばらしい長編。そして一読した結果、良くも悪くも強く心に引っかかる作品。ただ、それが物語としての味わいを微妙なものにしてしまっている。果たして、本書はどういう読者に向けて書かれたものなのだろう?


13/02/05
乾くるみ「カラット探偵事務所の事件簿2」(PHP文芸文庫'12)

 PHP研究所刊行の月刊文庫『文蔵』2010年11月号から2012年2月号にかけて発表された「カラット探偵事務所の事件簿season2』に書き下ろしが一編加えられ、文庫書き下ろしのかたちで刊行されたもの。『カラット探偵事務所の事件簿1』は単行本からノベルス、そして文庫と段階を踏んでいたが、本書はいきなりの文庫となった。また『事件簿1』の続編という形式上か、物語上の日時は2006年となっており、当時の時事ネタを多く含んでいる。

 実家のビルに謎解き専門の探偵事務所を構える古谷と、同級生ながら部下となっている井上。当然のごとくほとんど依頼などない事務所なのだが、ごくたまに舞い込んだり、首を突っ込んだりする事件をまとめた作品集だ。
 三人の年上の女性、その誰かから誘惑を受けたというハートマークの日焼け跡を付けられた高校生からの依頼。 『小麦色の誘惑』
 探偵事務所のあるビルでエレベーターの点検があって各階間が移動不能になっているあいだに「あるもの」が盗まれたという事件。依頼人は「あるもの」が何なのか明らかにしないまま依頼。 『昇降機の密室』
 井上がコインパーキングで見かけた車同士の接触トラブル。入り口で高級車がバックしたとも、後ろの車が前進したとも……。 『車は急に……』
 とある削除されたブログの記述の一部が残されたキャッシュ。そこに書かれている謎めいたクイズの答えが知りたいという依頼。二人は深海魚の謎を求めて静岡へ向かう。 『幻の深海生物』
 山師になると言い残して家を絶縁して出て行った弟が亡くなり、不動産業の社長をしている兄に弟の執筆した絵が一枚届けられた。メッセージが無いか物理的に分析されたあと、事務所に届けられ、絵に込められたメッセージがあるのか、調べるよう依頼される。 『山師の風景画』
 洋食屋マルチ堂で一子相伝といわれるソース。その秘伝を子に伝える前に主人が死亡。残された手掛かりや言葉から、ソースの秘伝の謎を解き明かして欲しいという依頼。 『一子相伝の味』
 探偵事務所のあるビルにあるパブに勤めるホステスがストーカー被害に遭っていた。偶然彼女と知り合った古谷は、井上と候補と思われる客二人をを尾行するが、どうやら彼らでは無いように思われた。 『つきまとう男』 以上七編。

マニア嬉し泣きのtipsをいろいろ込めつつ、硬軟取り混ぜたミステリはゆっくりのんびり
 以前、『カラット探偵事務所の事件簿(1)』がソフトカバーで出た時(その時は()ナンバリングに括弧がついていた)に某Iさんに「なんで最初から1付けてるの? 続編あるの?」といった趣旨のことを尋ねたことがある。確かその時に「続編はまだ分からない。でも1だけで完結しちゃう事件簿というのも、それはそれで面白いじゃない」と返されたように記憶している。結局無事に「2」が出た訳で、良かった良かった(ということなのか?)。
 で、この作品、実に乾くるみらしいというか何というか、ウナギのような作品である。即ちとらえどころがよく分からない。本格ミステリ指向の所長・古谷に、ハードボイルド指向の語り手・井上のコンビ。基本的には「取り扱う事件がない」状態が常態なので、古谷は読書に、井上は(PCが持ち込めないので)携帯電話をいじりながら過ごすことが大半。さらに「謎解き専門」なんて掲げた日には、そうそう依頼がくるものではない。
 ──それでもたまに依頼はある。
 ただ、依頼される謎に殺人傷害はなく、失踪人の捜索もなく、探偵が暴力に巻き込まれることもない。せいぜい泥棒事件があるくらい。その提示される謎の格差がまた、大きい。絵に残された秘密を解き明かす『山師の風景画』や、ストーカー被害を対策する『つきまとう男』といったところは探偵事務所短編らしさがあるが、腕に残された日焼け跡って何だろう? 
 加えて、それぞれの謎に対する解決も、硬軟取り混ぜてある。――というと聞こえはよいが、真相そのものや読者への見せ方に格差があり、正直、作品ごとに当たり外れがある印象だ。(もちろん、それを含めての「乾くるみ」なのでありますが)。
 もちろんあちこちに登場する探偵小説絡みの蘊蓄や、京極堂最新作といったマニア心をくすぐるTipsもちりばめられているし、そもそも、この緩くてのんびりしたテンポや、IT音痴の古谷のボケ、そして全く面白くないダジャレであるとか、同級生コンビの迷走であるとか、謎解き小説として読まずとも、そこそこ暖かな気分になることができる。 そして、その意味ではこれもまた一種のコージーミステリということもできない……かな? わかんない自信ない。

 今のところ「3」の予定はどうやらまだ無さそうだが、「1」で多用されていた訳の分からない暗号だとか、脱力するようなミステリもまた良し。柔らかな雰囲気とのんびりした謎解きを楽しみ、ところどころ挿入される蘊蓄にニヤリとする、そういう楽しみ方が似合う作品である。


13/02/04
菅原和也「さあ、地獄へ堕ちよう」(角川書店'12)

第32回横溝正史ミステリ大賞の大賞受賞作品。同時受賞は『デッドマン』。菅原和也氏は1988年生まれで、現在のところ横溝賞受賞者中では最年少とのこと。経歴は高校中退、19歳で上京、バーテンを経て現在はキャバクラのボーイだという。インタビューによると馳星周作品の大ファンらしい。

 SMバー《ロマンチック・アゴニー》でM嬢を演じる仕事をしているミチル(ミチ)。別に真性のMではなく、なんとなく店に入って惰性で続けており、その日常は精神安定剤や抗鬱剤、睡眠導入剤などの錠剤とアルコールによって維持されている。変化のない日常、耳に大量にあけたピアス穴。そんなある日、薬剤を貰う病院でミチルは幼馴染みながら没交渉となっていたタミーと再会する。行くところがないという彼をアパートに泊めるミチだが、彼が持つ、女性の遺体写真を眼にしてしまう。死体はタミーの元の同棲相手であり、タミー自身が殺害したのだという。彼によると、《地獄へ堕ちよう》というアンダーグラウンドのWEBサイトがあり、そこで公開されているリスト上に掲載されている人間を殺害し、その証拠写真をサイトに送ると報酬が貰えるというのだ。一方、店には一年前まで働いていたというリストというSM嬢が復帰してきた。彼女は人前で身体に針を次々突き刺せる本物だった。ミチルは常連客とのトラブルを発生させてしまい、ミチルと共に店から出奔、彼女のマンションに連れてゆかれる。リストの全身にはタトゥーが施され、多数のピアスを装着、身体の内部に金属を埋め込んだうえ、頭蓋骨にも穴をあけている。その晩、ミチルはリストにより乳首に針を突き通されてしまう。タミーは姿を消し、ミチは《地獄へ堕ちよう》にアクセスして、リストの身体にあったタトゥーと同じデザインの死体写真を発見する。リストの部屋を訪れたミチの前には全身の皮が剥がれた遺体が……。

人体改造、SM、フリークス。丁寧な描写による痛覚や嫌悪感をレッドヘリングやトリックに応用
 読者を選ぶミステリである。 表紙と題名からかなりおどろおどろしいので、こういった刺激が苦手な方はそもそも手に取ることはないと思うのだけれど。先に述べておくと人体改造や容貌を変更するための手術、麻酔無しの人体損傷、苦痛と絶望のあまり舌を噛みきって死んでしまうレベルの、男性下半身への集中的な拷問などなど「想像するに背筋がゾクゾクするようなヤバい場面」がたくさんあります。たくさんあり過ぎて、最後は段々麻痺してくるねこれは。
 ただ、それでいて本書のテーマとしては、上記したような場面や、そういう嗜好を持つ登場人物の存在は切り離せないし、絶対に必要なのだ。つまりは、不必要にグロテスクな場面を描きたいから描くという(そういう方向性が皆無とは断言できないが)変態的興味から行われている訳ではないということだ。
 作者が二十四歳と若く、どこまでミステリとして計算しているのか全く読めないのだけれど、まず、読者と、そして登場人物たちが持つ残酷・グロテスク描写に対する心理的な嫌悪感や、思いこみ、こういったSM系趣味を持つ人間への偏見といった部分が、ともすれば単純ともいえる真相をシンプルに覆い隠している。心理的なレッドヘリング
 また、これも偶然なのか計算なのか不明なのだが、一連の展開のなかで、主人公ミチが思い込みを強めたり早とちりしている状態で、彼女の考えや心情を延々と一人称で語っている――というが本書のスタイル。そしてこの点もまた、強烈なミスリードになっている。《地獄へ堕ちよう》というSNS、少し考えればその目的は想像がついていたのだけれども、主人公の視線や考えをなぞるうちに逆にその考えを読んでいるうちに排除してしまったので余計にそう感じるのかもしれない。
 個々のエピソードには目を瞠るような演出も多い。そもそも主人公の職業をSM嬢に設定したところも巧いし、ミチが自分のアパートの成人男性遺体を廃棄する場面。仕方なく分解した結果、マスコミがセンセーショナルに取り上げてしまうというギャップもユニーク。《地獄へ堕ちよう》のリスト上の人物の気持ちなども、現代的にして退廃的、非常に説得力があった。

 ちょっと微妙に思えたのは、主人公の能力値、かな。極限状況に追い込まれてゆくからかもしれないながら、主人公・ミチ、次々に障害物(人間ですよ)を傷つけたり、殺害したりすることに抵抗感無くしてしまい、半ば人間辞めちゃってバケモノになっている印象なのだ。一方で、まだマトモ、自分が正義だとするような描写もあって筋が通っていないようにみえる。どっちが本当のミチなの? といったところに揺らぎが感じられて後半部読んでいてどこか落ち着かなかった。

 最初に書いた通り、グロと痛いのオンパレードなので読者を相当に選ぶ作品。物語としては、先に書いた通り後半の主人公の揺らぎと不確かなラストとでちょっと消化不良にも感じられるものの、あくまでミステリとしては、個人的に高い評価を与えられる作品。


13/02/03
森 晶麿「黒猫の薔薇あるいは時間飛行」(早川書房'12)

森晶麿氏は2011年に、日本タイトルだけ賞を『奥ノ細道・オブ・ザ・デッド』で、第1回アガサ・クリスティー賞を『黒猫の遊歩あるいは美学講義』で受賞してデビュー。翌年には『黒猫の接吻あるいは最終講義』を発表、デビュー作に登場する黒猫と付き人のコンビを再度登場させ、「黒猫」シリーズとした。本作はその第三弾にあたる長編作品。書き下ろし。

 二十代で教授という異例の昇進を遂げた黒猫が渡仏して半年。付き人を解約された「私」は黒猫のことを想いつつも、博士課程の論文に挑むことになっていた。女性作家・綿谷埜枝のデビュー作品『星から花』が、ポオ『アッシャー家の崩壊』と同様の構造を持つことを見いだし、論文テーマとすることを決める。個人的に綿谷埜枝と知り合いだという指導教授の唐草は、その着眼点を褒めつつも、この小説は「供物」であると思わせぶりな言葉を告げる。一方、フランスでも、卓越した頭脳と魅力ある態度と風貌で多くの人々を魅了する黒猫。彼をフランスに呼び寄せた学長のラテスト教授の孫娘で、大学院に所属するマチルドもまた彼の魅力に取り憑かれた一人。マチルドは早世した父親が聴いていたリディア・ウシェールという音楽家に興味があり、その音楽性が実験音楽風に変化したことについて黒猫の意見を仰ぐ。さらに彼女の邸宅の庭園が「空中庭園」に設えられたうえ、昼間の決まった時間に身体の不自由な男性が庭園の中心で空を仰ぐことなどから、黒猫は興味を持ち、マチルドと共にリディアが育ったイギリスへと調査に出かける。日本とフランス、距離の離れた二人が挑む謎、そして美学と時間との関係とは……。

世界観、小道具、テーマ+恋愛小説。美学を鍵に組み合わせた化学反応が実にユニーク
 十五年以上前(と書くとなんかそれはそれでびっくり)”森”博嗣という作家が初めて世に出た時、理系学術系な登場人物の恋愛含めた合理主義にちょっとしたショックを受けたものだけれども、こちらの”森”晶麿は、文系アカデミズムの非合理を包含する論理体系の展開に驚かされる。 内容は「理系森」と「文系森」、異なるというより、ある方向性で考えると対極にあるのだけれども、そのサプライズの質にどこか似たものを感じた。(ので少し昔を思い出した)。

 本書で解かれる謎は二つ。日本における、女性作家が若かりし頃に体験した出来事の解釈と、その出来事をベースとした小説の秘密。もう一つは辛く苦しい体験をしてきた音楽家と逆さに作られた空中庭園の持つ秘密。とはいっても、明確な犯罪やトリックが仕掛けられたミステリとしての謎とは少々趣きが異なり、主題のために創作された、解かれるために創られた謎だともいえる。 通常であれば、こういった恣意的な謎解きはマイナス評価になるのだけれども、このシリーズに限ってはそうならない。その出来事の真相そのものよりもむしろミステリとしては、その対象に生じている美とその解析にあたる部分こそが「解」として君臨しているからだろう。

 本書では、従来通りポオの作品、本作では『アッシャー家の崩壊』が取り上げられている。後半にて黒猫が付き人に行う美学的解釈はまさに圧巻。美学(一般的な芸術)に限らず、文学・文芸に対するアプローチのかたちについての驚きと、時間の要素などをぶち込んで改めて作品を解題してゆくことによって、まったく想像もしていなかった真実(っぽいもの)が生まれてくる驚き。二重に驚かされた。そしてまた前述の通り、その論理展開の過程がスリリングであり、美学と時間を絡めたその展開そのものが本書のキーポイントとなっている。

 また、本書の場合は多様な植物が重要なモチーフとして、それぞれの事件に登場するのだがスイフヨウ(酔芙蓉と書く)とcotton rose、そしてバオバブといったちょっと変わった植物の使い方が、さりげなく巧い。誰でも知る有名な植物ではないし、本格ミステリとしてみるならば特殊な知識を要する小道具は御法度なのだが、本書の場合ストーリーと密接な関係を……、というかストーリーそのものが植物である。
 それらとは別に、黒猫のいない日本で付き人を狙う年下の男の子・戸影君、付き人のいないフランスで黒猫を狙う黒猫恩師の孫娘・マチルドちゃん、さらに加えて女性作家・綿谷埜枝の運命的な恋愛譚など、恋愛小説的にも読みどころが多い。(人によってはこちらの方により強い魅力を覚えるかもしれない)。だけど、一旦読み終わって冒頭に立ち返って意味をかみしめると、ライバルたちにはなかなかチャンスはない(?)ようにみえますね。

 前作も「これが最後?」と思ったし、今作もラストはここで切れても仕方ない、と思える結末。ただ、某所にあった著者の言葉から引用。「黒猫シリーズを何部作というふうには僕は考えていませんが、毎日の生活と同じように、表面張力ギリギリの状態をお届けできたらいいなと思います。」とのことなので、売れている限りは継続して貰えそうな印象です。


13/02/02
真藤順丈「墓頭(ボズ)」(角川書店'12)

 執筆に三年かかったという真藤氏入魂の一冊。書き下ろし。

 作家として本を数冊刊行しながら近年スランプに陥っていた「僕」は、行方不明の父親を捜索していた。その過程でで父親の親が「墓頭」と呼ばれる人物であることを知り、徐々にどうしてもその人物のことが知りたくなってくる。僕は新実という探偵に依頼、ちゃらんぽらんにみえた彼は仕事はきっちりと行い、二人はインド洋の孤島に暮らす日本人の養蚕家のもとに辿り着く。「僕」の祖父にあたる人物、「彼」――ボズ(墓頭)は日本と世界の歴史と共に波瀾万丈の人生を送ってきた。1955年山梨。生まれた時から頭の瘤の中にバラバラになった双子の身体を宿し、帝王切開で母を殺しながら生まれた赤ん坊は、名前も付けられずに蔵の中で育てられた。身内ですら正視できない容貌を持った彼を救おうと近づいた者ですら次々命を落としてゆく、呪われた人生を送っていた。放任されている近所の子供・ホウヤらと連れだって死体を探しに富士の樹海に入り、自分を置いて逃亡した父親の遺骸を発見。ホウヤはそんな彼から逃げようとして交通事故に遭い死亡する。頭に麻袋を被り、放任されたまま生きた彼を救ったのは、意外にも死んだホウヤの伯父だった。彼はボズの手先の器用さを見込み、特異な能力を持つ恵まれない子供が共同生活を送る、白鳥塾にボズを入れる。当然、集団生活に馴染まないボズはトラブルを次々引き起こし、抜群に頭は良いが性格が最悪のヒョウゴ、八歳で成長を止めた弟の面倒をみるために男女問わずにフェロモンを発するシロウらと反発し合いながらも交流してゆく。ホウヤ伯父らに連れられ、彼らは中国香港に社会見学に出発、しかし見学先は奴隷売買や死体清掃など究極の裏社会ばかりであった……。

ホラーテイストはほとんどなく、近代から現代アジアを広く舞台とする壮大な伝奇譚といった趣き。
 「頭の中に墓がある」という状態をイメージするに、ブラックジャックのピノコ誕生の短編のあれが頭についた瘤のなかにあるようなもの、と考えて読んだ。
 物語の方は、特異な能力と外見を保つ主人公の、いわば一代記。ただ、真藤氏のイマジネーションと構想力が膨大でなんというか振り回す、いや読者の頭をつかんでぶん回すくらいの勢いで物語が進んでゆく。 なかでも圧巻なのは、第一部の後半の富士樹海に入り込む小学生時代のボズの話、さらにそこから怒濤の勢いで繋がってゆく、第二章の「楽園の寵児たち」におけるエピソードだ。異能を持った学生たちが(ある意図のもと)集められ、そのまま海外で人間としてのとんでもない社会見学を体験する。実際に内部がどうだったか良く分かっていない当時の九龍城や、香港の底辺などでの暴力的で俗悪で、最底辺の悲惨さを直視し、体験させらされる子供たちというモチーフは、ボズの数奇な運命といった全体を繋ぐ要素とは別に大迫力で伝わってきた。

 一応、ホラーの要素がといった思いが当初は作者にあったのかもしれないが、ボズ自身が引き寄せる「運」が強すぎて(家族や周囲が破滅する運命にあったとしても)主人公のボズさえ無事ならばまあいいか、といった読み方になってしまう。ある意味これだけ徹底すると、ボズ以外の周辺人物に感情移入はできなくなる。極端な話、皆死ぬ訳だ。
 また、ポルポト政権下のカンボジアにいた芸術家・マダム・ヴィラと、ユウジンらのエピソードも芸術家らしく印象に残った。ボズの物語でありながら、芸術とはなんぞやという根源的な問いかけがあり、剥き出しの感情のぶつかり合い、傷つけ合う姿に奇妙にざらっとした心に残る味わいがあった。 語り手は誰かという謎、ヒョウゴやシロウ、アンジュ、ユウジンといったボズの仲間たちに関するエピソードに、前述のアジアン・ダークサイドの歴史を加え(カタストロフィにあの出来事を持ってくるあたりも流れ的に秀逸、シェイクしてトッピングして差し出される物語。 語り口がとにかく饒舌であり、装飾が過剰な文章は、時に勢いがつきすぎて読みづらくもあったが、結局のところは物語が持つ「熱」と「迫力」にて押し切られてしまった印象。文体がところどころ、妙な風にいじられているところがあったが、効果になっているところと、うまくいっていないようにみえるところも。

 とにかく、普通の同じボリュームの長編一作品に対し、それとは別のもう一作品ぶんくらい、追加でイメージや情報やエピソードが押し込まれている印象だ。それこそ頭の中にもう一人、人間が詰まっているかのように。ボズとは結局なんだったのか。神なのか、それとももっと形容しがたい何かなのか。そういったことも含めて、読み終えた時に感じたのは、何か特定のテーマが押しつけられるような印象ではなく「物語を読んだ!」という、戦い終えたような気分でした。本当は再読、再々読でまた別の何かが見えてくるタイプの作品だと思うのだけれど、結構体力を使うので、今は初読での感想がやっとです。


13/02/01
黒田研二「CUTE&NEET」(文藝春秋'12)

 黒田研二氏による書き下ろし作品。幼稚園児とニートの青年が日常の謎に挑む連作ミステリ。ノンシリーズ。

 僕こと白畠鋭一は東京の自宅に引きこもる三十歳前のニート。現在は母親と二人暮らしである。学生の頃から人としゃべるのが苦手で、アニメ《電撃ナイト★ミスティ》の大ファン。高校を中退してから完全な引きこもりで、ほとんど部屋から出ることもない。対人関係に必要とする距離が普通の人より遙かに広く、他人が近づき過ぎると吐いたり、気を失ったりしてしまう。従って電車やバスなどの交通機関も苦手で遠出も出来ない。――はずだった。夫と離婚し名古屋で五歳の娘・リサを育てている真矢ネェのニューヨーク出張が決まった。三週間のあいだ家を空けるので(引きこもりの僕では無理なので)その間、母親が名古屋でリサの面倒をみることになっていたのだが、ちょうど当日、母親は、僕とそっくりで引きこもりの母親の弟・薫の付き添いで病院に行く予定があった。真矢ネェの提示した報酬に負けた僕は、一大決心をして名古屋へと赴くが、迎えに行った幼稚園でいきなり不審者扱いされてしまう。更に園児の一人・サヤカちゃんがが行方不明となってしまったため、警察に連行されてしまった。サヤカは無事に発見されるが、彼女の行動の秘密を解き明かしたのは、なんと僕の姪・五歳のリサだった――。

幼稚園を巡るほのぼの日常の謎連作と思いきや、物語全体の仕掛けで周到に締めくくる
 主人公・白畠鋭一(これは明らかに誰かの名前の裏返しなのだが)の一人称で物語が進む。この手のニートやオタクによる独白は、目に余る自己中であったり、肥大した自尊心が吐く毒舌であったり、強烈な独りよがりであったりすることが多いのだが、幸い本書の白畠クンは、(気持ち悪いことは気持ち悪いにせよ)それなりに自分を客観視していて 多少のわがままや訳のわからない行動はあれど、読み進められなくなるほどではなかった。
 一応、つっこんでおくとアニメオタクという設定と彼の行動にギャップを感じた。→と書いて誤解がありそうなので書き直すとアニメオタク自体は別に「あり」なのだが、彼ら二次オタクとしての行動や信念、心情の流れに作り物めいた不自然さがあるところに微妙な居心地悪さがありました、ということ。アニメの再放送のリアルタイム視聴にこだわっているところとか。
 少しずつ五歳児の世話をしたり、世話になったりしていくニートの成長物語と共に、ミステリとしては幼稚園系日常の謎連作、ということになる。謎の難易度の高低はあるものの謎解きミステリとしてのポイントとツボは丁寧に押さえられていて、設定自体がお子様であることを考えると総じて悪くない。
 特に、中盤であった、「普段眼にする時には必ずカーテンが閉じられているプレハブ小屋」、それが僕が訪れた時にはたまたま開いていて中には沢山の子供。さらに僕の姿を見るや、皆なぜか悲しそうな顔で泣き出した! →そうなるシチュエーションの設定、必然性、子供が泣き出す理由。たすけて、と書かれた紙片。解決そのものの意外性が大きいわけではないのだが、必要なピースが全て填ったあとの収まりの良さ、キレイさは日常系のミステリのお手本クラス。
 章ごとに準備されている幼稚園児とその行動をベースにしたミステリや、5歳児にしてはかなり大人びているリコちゃん(設定としてこのチートな能力を5歳で、というのは正直かなり無理があるにせよ)に加え、あえて主人公の行動を戯画的(マンガ的に)動かしている場面も多く、まあ、登場人物の年齢等々を考えると、逆クレヨンしんちゃんみたいな見方・考え方をするのが正しいかも。こんな5歳の女の子なんている訳がない! →当然、フィクションですから、ということですね。
 大人の視点、視線からみると奇妙な出来事が、五歳児目線や別の角度からみることですっきりしてゆく過程を楽しんでいると、最終話できっちりまとめてきた。これは予想していた以上だった。終わりの切り方もむしろべたべたしてなくて良い感じ。

 このフレーズはちょっと心に残った。「一人きりは楽だ。だけど、一人ぼっちは恐ろしい。

 そうそう簡単なことではないと思うのだけれども。彼らのこれからに幸あれ。