MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE
MYSTERIES THE PRIVATE COMFORTABLE フクさんの独断偏見に満ち満ちた感想・書評群。

 −著者名別索引 及び読書歴(平成編)−
 −著者名別索引 及び読書歴(昭和編)−
−過去の書評群 (掲載順)−  


99/11/30
栗本 薫「ぼくらの時代」(講談社文庫'80)

'78年に江戸川乱歩賞の受賞作品で、今や超大御所、栗本薫のデビュー作品。もちろんミステリである。

大学生で「ポーの一族」というアマチュアロックバンドに所属している三人組、信、ヤスヒコ、そして「僕」こと栗本薫の三人はKTVというテレビ局で雑用のアルバイト中。ある日、居合わせた人気歌番組収録中に、雛壇に座っていた見学中の女子高生が何者かに刺され、死亡するという事件が発生した。殺された女子高生は番組出演中の人気アイドル、あい光彦のファンらしかったが、背中に深々と突き立てられたナイフから指紋は発見されなかった。閉じられたスタジオという環境、撮影されていたテープの存在で事件解決は楽観視されたものの、動機は不明、容疑者が全く特定出来ない。しかも彼女が持っていたと思われる、あい光彦のLPがスタジオ内から紛失していた。そして翌週、何者かに撲殺された別の女子高生の死体が再びテレビ局内の大道具置き場から発見される。しかも彼女は最初の犠牲者の親しい友人だった。

単なる青春ミステリを越えた世代間ギャップミステリ
一編の長編に多数の事柄を詰め込んである。三件の殺人事件、当時の大学生の生活、「おとな」と「ガキ」の狭間の焦燥、若者の本質、そしてどんでん返し。乱歩賞という大きな賞を取った作品の割りに整理が仕切れていないような印象も受けたが、色んな意味での意欲は感じ取れるし、審査員もその辺りの実験性を評価したのかと思う。
本作内で使用されているいくつかのトリックはラストも含め、大がかりな割りにちょっと無理がある――というのが正直な印象。心意気は良いものの、細かい点にはいろいろと「?」な部分あり。本作で最も印象深いのはミステリの枠外で描かれている部分。特に「ぼくらの時代」という表題に見られるように若者の主張に強いアピールを感じる。一人前に扱われず、大人のエゴに反発する「ぼくら」、「ぼくら」を理解しているつもりで本質を見失っている「オトナ」。永遠に埋まらない世代間ギャップ。主人公と大人の象徴として描かれるディレクターとの中間の年齢層である私にとっては、どちらの主張も理解出来るだけに辛い。この主張に重なる動機を設定したことで作品の価値が上がったとするのもあながち穿った考え方ではないと思う。
読み進めていくうちに気になったのは全体的な「古びた」印象。私は昭和三十年代四十年代に執筆された作品もそれなりに読んでおり、それらの感想には再三「時代を感じさせない」という形容詞を使用している。にも関わらず、五十年代に出版された本作に「古びた」印象を受けるのは何故か。特有の若者風俗や気質、また最先端のシンボル的存在として描かれるテレビ局の風景。確かに「当時」を感じさせられるけれども「古びた」印象はそこからは受けない。考えるに「話し言葉に流行語を多用している」点に問題があるように思う。流行の話し言葉の盛衰は早く記録に残りにくく文化として残りにくい。風俗そのものは進化、変化し後世に伝わっても、廃れた話し言葉を後の世代は誰も使わない。作品寿命の落とし穴は意外とこんな部分にあるのかもしれない。

以下三人組は成長しながら(年を取りながら)『ぼくらの気持ち』『ぼくらの世界』と三部作を形成していく。彼らがどう「大人に変化」して行くのか。当然成長した、あるいは摩滅していく「ぼくら」の様をじっくりまた読んでいきたい。


99/11/29
藤本 泉「時をきざむ潮」(講談社文庫'80)

第二十四回の江戸川乱歩賞受賞作品。藤本さんによる「えぞ共和国」シリーズ五部作の第二作目に当たる。彼女はこの三年前『地図にない谷』で今一歩のところで乱歩賞を逃しており、本作にて雪辱。梶龍雄『透明な季節』と同時受賞。

岩手県の白蟹村付近の岩場から乗用車が転落、との航空自衛隊からの通報を受け、警察が捜査を開始。東京から失踪者探しの依頼があったこともあり、付近の海岸を探ってみたところ、一台の乗用車が引き上げられ、失踪者とは異なる双子と思われる若者の死体が中から発見された。現場は一見浅瀬ながら、砂が深く堆積した特殊な海岸、通常なら一旦沈んだモノは絶対に浮かんでこないという場所。所轄の高館刑事は被害者三人が同世代でかつ上野付近に居住していたことから何らかの繋がりがあるはずだ、と見込む。彼らは何故にこの海岸に向かったのか。「原始共産主義」を取り排他的な存在の白蟹村に秘密があると睨んだ高館を内外部の敵が襲う。

権力者対抵抗者の図式がミクロ化して反転する……
本作の主人公は刑事の高館ではあるのだが、その対面に聳える、神を抱く人々が住む「白蟹村」が物語のもう一方の主人公である。古来権力者を排し、独自のコミュニティを創り上げてきたというこの村の不気味さ(警察の事情聴取の日に子供や老人を残して海上に出てしまったり、この村に駐在する警官が次々と変死を遂げていたり……)そして伺い知れない結束力。一人の刑事の持つ力では全く歯の立たない堅牢な壁。
もともと藤本さんの描く「えぞ共和国」シリーズとは日本の原住民族を西国が駆逐していった歴史を紐解き、日本国内に後から侵入し、現在日本を支配している異民族(捜査する側=我々)vs住処を追われた原住民族(白蟹村他、例えばアイヌの問題など)の対立をエキセントリックな形で描き出すものである。権力を持つサイドは、その自覚の有無に関わらず常に「加害者」として描かれる。しかし、物語中ではその図式は再逆転する。強大な存在を誇示するのは、原住民族でありそれが「多」、それに挑む権力者側(警察)は個人、つまり「個」になる。多対個の逆転現象。追っているはずの加害者がいつの間にか追われている。挑んでも挑んでも崩れない壁はそのまま「日本」が隠し続けている禁忌の深さを表現しているのではないか。推理小説としての鍵は風光明媚な海岸に隠されているが、そのトリックや物語構造そのもの以上に全編を覆う訴えの方に目が向いてしまう。

続々刊行中の講談社文庫の乱歩賞シリーズに恐らく収録されると思われるので、待てば入手可。古書店では「捜していないと見つかるけれど、捜していると見つからない」タイプの作家さんです。ちなみに、彼女は外国で行方不明になったまま帰らぬ人となってしまったとのこと。


99/11/28
篠田節子「贋作師」(講談社文庫'96)

本書は『絹の変容』にてデビューした篠田さんの第二作目。SFパニック小説という趣のあった一作目とはうって代わり「ミステリー」仕立ての作品。

日本洋画家界の大御所、高岡荘三郎画伯は「生き過ぎた」と書き残して故郷の山林で首吊り自殺をした。唯一の遺産相続人である姪の大沢芳子が保管庫を開けたところ、その膨大な遺作が現れた。しかし状態が悪く一刻も早く専門家による修復が必要な状態だった。彼の残した遺言により白羽の矢が立てられたのは修復家としては中堅の栗本成美。引き受けた彼女が絵を調べたところ、荘三郎の創作には大きな波があり、億単位で取り引きされている絵には実は芸術的な価値が感じられない。若い後妻を迎え「第二の絶頂期」と呼ばれる時期を迎えた彼も、彼女の失踪と共に精彩を失い、続いて荘三郎の弟子として仕えていた、阿佐村慧が武蔵野線に飛び込み自殺をして大きな失意に落ち込んだか、それ以降の作品は全く残されていなかった。そしてまた、その阿佐村こそは彼女が学生時代にただ一人愛した男だった。修復家としての眼から冷徹な作品判断と、芳子の腹に一物ありそうな振る舞いから、成美は一連の出来事には裏に隠された事件があったのでは、と疑い始める。

「篠田ミックス」による複層構造ミステリー
「篠田ミックス」というのは、私の造語。本作を読み終えて色々考えるに思いついた言葉。篠田節子という稀代の作家の最大の特徴は「ジャンルミックス」にある、と言われる。しかも「SF」と「ミステリ」などの単純なミックスでなく、更にそこに「パニック」「恋愛」「ホラー」といったいくつもの要素を、これでもかと次々に注ぎ込み、独自の世界を形成してしまう「複合ジャンルミックス」。ただ篠田さんの作風はそれを読者にあまり意識させずに最終的に「総合エンターテインメント」という形に完全に融合させてしまっており、一般的なジャンルミックスより一段階高次なのでは、と思わされる。このようなミクスチュアを日本人で堂々と成功させているのは篠田さんくらいではなかろうか。これが「篠田ミックス」の所以である。
本作は、大画家に弟子入りした昔恋した男が、彼の贋作を作っていたのでは?という疑惑が最初の謎になる。この点は比較的あっさり解決するものの、二重三重に悪意が罠を仕掛けており、一つを主人公がうち破るとまた大きな謎が現れて、なかなかすっきりと脱出出来ない。この大画家の宅で過去に起きた出来事は、ミステリとサイコホラーと恋愛小説の殻の中で堅牢に守られている。気付くと彼女自身の成長の物語になっていたり、巧妙なミスディレクションだったりとミステリはミステリながら茫洋とした大きな繭に囚われている感。女性ハードボイルドのようでも、サイコサスペンスのようでも、愛欲ホラーのようでもある、不思議なミックス感覚。

分類しようとすると絶対に「ミステリー」なのに味わう感覚はなんとなくそれとは「ずれ」がある。ラストにカタルシスも用意されているし、紛うことなきミステリのはずなんだけれど……。不思議だ。


99/11/27
佐々木丸美「沙霧秘話」(講談社文庫'89)

佐々木丸美さんの講談社文庫収録の中では最後の作品にあたり、「会社」にも「館」のどちらのシリーズにも属さない独立した(といいつつ私が気付かないだけで何かを暗示している可能性もあるが)作品。

山奥の旧家にひっそりと生活する沙霧。彼女は美しい外観を持ちながら時としてまったく異なった人格を表す二重人格者。彼女の母親は彼女がまだ幼い頃、彼女を連れて家を出た筈なのだが、慌てた家人が後を追おうとしたところ、沙霧自身は家の庭で遊んでいたのが見つかったという。彼女の世話をするために看護婦である「わたし」が雇われる。
一方、母親に連れられ幼い頃から地方の一漁村で網元の家で働く沙霧。母親はすぐに亡くなってしまったものの、彼女は働くことを苦にしない少女だった。御転婆な元気娘に育った沙霧。しかし彼女も時々、我が身を喪ってしまうことがあった。
旧家に生活する沙霧は偶然家に立ち寄った旅人に、漁村に生きる沙霧は網元の息子で文人に恋をし、そしてそれぞれが抱えた出生の秘密が徐々に明らかになっていく。

恋する女性の一途さをこうまで見事に言葉に置き換えられるものなのか
佐々木丸美作品では、一人称で語られる文章は独特の性格を持っている。語り手となる人物の独白のように見える文章が多数挿入されている。独白とも心象風景とも神への祈りとも取れるこの数々の魔法のような文章。作品全体を覆う一種靄のような独特の空気はこのリズムと情感を併せ持った文章によって伝えられる。
  (例:69P:酔っていますか私もあなたも。夜の静寂。呼吸を止めて時をとめて。もたれる頬にあなたの唇。這って流れて私の唇へ。重なりましょうか運命へ。雪の夜のくちづけ熱く約束熱く。かなたへ、かなたへ、二人の海へ。:漁村の方の沙霧が網元の息子と二人きりの会話した後に続く文章)
書き出してみて気付いたけれど、これは演歌だ。佐々木さんが文中で繰り返し訴える女心、それは演歌で繰り返し歌われる情感に比するのが最も適当に思える。まぁ、あくまでその「エッセンス」という意味でだが。真っ直ぐで泥臭くて不器用な愛。例え「語る」言葉にならずとも万感の想いは相手に伝わっている。宿命の恋。運命の縁。(こっちまで佐々木調になる)一人の沙霧から心と体の別れた二人の沙霧たちが歩む数奇な運命。ほのかなロマンが心を温めながら一抹の寂しさも覚えるラスト。物語としての収束はミステリとしての収束ではない。文体によって香気漂う恋愛幻想ミステリ、か。

他の作品に関しては「順番」という点を気にしながら読んだ方が良いかと思うが、本作に関しては完全独立なので、これ一冊でOK。何よりも佐々木丸美的なエッセンスがしっかり詰まっているので、雰囲気を知るには最適ではなかろうか。恋愛ファンタジーとして読めば、期待は絶対に裏切られないかと感じる。


99/11/26
島田荘司「Pの密室」(講談社'99)

'99年に発売された小説現代別冊『メフィスト』に掲載された二中編を収録。どちらも御手洗潔幼少時代の事件。

御手洗潔の幼稚園時代。五歳の彼は、家が水商売を経営している友達のえり子と仲が良かった。ある日彼女の父親が前触れなく車で海に飛び込んで死亡、彼女の店の床には透明なガラス片が散乱していた。御手洗は必死で現場の保存を訴えるが自殺と考える警察官はそのガラス片をまとめて廃品回収業者に渡してしまう『鈴蘭事件』
御手洗潔は小学校二年生。類い希なる頭脳は既に各方面に知れ渡るところとなっている。そんな折り、市内の高名な画家が愛人と共に死体となって発見される事件が。彼らは体中滅多刺しにされており、密室となった家で血と絵の具に染まった大量のコンクール応募作品絵の上で横たわっていた『Pの密室』

御手洗潔はいつでもどこでも幾つでも御手洗潔である、ということ
「島田荘司御大による大人気シリーズ御手洗潔ものの新作」。……少なくともミステリ読者にとっては、レッテルを聞くだけで、骨組み、登場人物、構成、内容共々しっかりとしたミステリ作品であることを想像しようといおうもの。一種の保証と同値。誰が読んだとしても、必ず期待値レベルは軽々クリアしているな、という感想を抱くことだろう。もちろん、私自身も楽しませてもらった。
……なので敢えて苦言を。 特に近作にて顕著に感じられる島田氏自身による「御手洗潔の神聖化」を本作収録の二編でも強く感じた。昨年から今年にかけての氏の同人漫画への肩入れは「キャラ萌え」系の容認に繋がっているように感じる。最近特に傾向の強い、登場人物ひとりひとりの背景への記述。特に本筋と関係ない語りの増加。本作でも「御手洗潔」の生い立ちや子供の頃の様子について延延と語りが入り、石岡自身は(短大生となった犬坊里美に一人相撲するなど)ますます情けなさを増していく。『異邦の騎士』の格好いい石岡は何処に行ってしまったのだろう? 島田作品を手に取る読者全てが「御手洗潔」「石岡和己」という登場人物のファンと限ったものではないはず。この辺りに「キャラ萌え」系読者への「媚び」を感じ取ってしまう私の感性が捻れているのか。少なくとも確信犯的にあの手この手で表現される「御手洗像」に辟易してきているのは私だけではないと思う。
でも物語の構造、ミステリ小説としてのレベルはやはり悔しいくらいに島田レベル。二つの作品に共通している「事件の人工性、虚構性」――妙に作られた印象、というのは島田作品(特に長編)に見られる特徴であり、論理の飛躍を大きくする為のジャンプ台みたいなもの。「事件発生による揺らぎ」「解決による安定」これは島田短編(中編か)の大いなる魅力。

本書とは関係ないが最近『メフィスト』の定期購読を止めたおかげで単行本が新鮮に味わうことが出来る。ただ『メフィスト』に掲載された後、再収録されない作品もあるだろうしそれなりのリスクは勿論あるのだけれど。


99/11/25
岡嶋二人「とってもカルディア」(講談社文庫'88)

三度目ならばABC』に登場した「上から読んでも織田貞夫、下から読んでも土佐美郷」の回文名前コンビの活躍する長編。岡嶋二人の十一冊目の単行本で初出は'85年の講談社ノベルス。

テレビ局の下請け会社で「事件の再現ドラマ」を製作するのが仕事の織田の元に、信州にいるはずの旧友、秋本が「厄介になる」と転がり込んできた。彼はカメラをタクシーに忘れてきたと言い、織田が預けられていた美郷のカメラを強引に借り出してしまう。「カルディア」とまで名付けた愛機を勝手に貸し出され、気分を害していた美郷だったが、職場に掛かってきた秋本からの電話によって結局原宿に三人で昼食を摂りに出向くことになる。街並みを珍しそうに撮影していた秋本は、一軒の画廊喫茶に迷わず入り、不自然に奥に座っていたカップルを隠し撮りしようと試みる。店を出た秋本は「カルディア」を持ったまま原宿で二人と別れたきり、完全に姿を消してしまう。一方TV局には、さる屋敷でのパーティに出席した男が「死体を目撃したのに、確かめに行ったら消えていた」という話を持ち込んで来た。

「着想」と「話運び」「構成」の巧さ。岡嶋ミステリは時代を超越
この作品の良さ……と考えるに色んなポイントが挙げられるだろう。死体消失、ミッシングリンク、被害者の謎の行動……などなど普通に考えられる「推理小説」としての興趣は様々なものが込められている。しかし、個人的に本作の最大の面白さは「ノリだ!」と断言したい。
一読瞭然というか、貞夫と美郷のコンビが醸し出す雰囲気がとにもかくにも絶妙。背が高くのんびりした常識人と、小さい身体でもパワフル、そして突飛なひらめきで行動する女性。二人が一つの事件に向き合うとき、必ず逆の発想をするため激しい言葉の応酬をしないと意見の一致を見ない。これぞ岡嶋二人作品的な「ノリ」だろう。どこにでもいるような、それでいてどこにでもいないような二人。彼らの漫才的な掛け合いが、息のあった行動が、仄かに惹かれ合う恋心(笑)が、物語を(そして読者を)ぐいぐいと引っ張って行く。執筆されたのが十年以上前になりながら、この「ノリ」だけは現在でも古いとはまったく思わないし、これから先も古びないはずだ。(題名はちょっと古臭くなってきたかも、ですけれど) ミステリとしての作りそのものには関連づけなどに多少の強引さが垣間見えるものの、ノリで読んでいる分にはそれほど気にはなるまい。

岡嶋作品をずっと現役本として出版を続けている講談社文庫は偉い!ので、普通に本屋さんで購入しましょう。作品数は多いながら「外れ」がホントにない作家です。


99/11/24
岡本綺堂「中国怪奇小説集」(光文社時代文庫'94)

岡本綺堂の作品は一時期光文社にて幻想文学中心にいくつも再刊されていたのだが、気付くと「半七捕物帳」のシリーズを除くと全て絶版らしい。惜しいことである。

支那の怪奇小説は日本文学に多大な影響を与えている。中世の日本文学の多くは実は支那の小説の換骨奪胎、剽窃が行われているのは常識なんだそうで、日本最初の正史である日本書紀にさえ翻案と思われる物語が見つかるという。中国、六朝から前清に至る間に著された史書、小説、筆記から「志怪」と呼ばれる怪奇談を抜き出し、綺堂による日本語訳によって物語化されたのが本書。その抄出された物語数、二百二十。これが一冊にまとめられている。
「開会の辞」「捜神記」「捜神後記」(六朝)「酉陽雑爼」「宣室志」「白猿伝・其他」(唐)「録異記」(五代)「稽神録」「夷堅志」「異聞宋録・其他」(宋)「続夷堅志・其他」(金・元)「輟耕録」「剪燈新話」(明)「池北偶談」「子不語」「閲微草堂筆記」(清)以上よりの抄出。冒頭に「綺堂先生に感謝する」と題して海音寺潮五郎氏が謝辞を寄せている。

中国四千年の歴史は「物語・文学」の歴史でもあるのか
二百三十もの物語である。長いものでも数ページ、短い物はページ半分程度の長さしかない。原文が漢文だっただけに簡素とも感じられる表現にて、ポイントを押さえた「怪異」を綺堂が上書きする形で現代の言葉に甦らせる。綺堂ならではの的確かつツボを突いた文章表現。中国語からの翻訳、抄訳のはずが、短く無駄のない文章の中で万感を込めた表現に変化させられている。名人芸。また、セレクトの巧みさにも感心。中国に伝わる様々な史書・物語から怪異だけを抜き出す――簡単なようでいてこれは目茶苦茶に大変な仕事ではないか。綺堂の「怪異」に対する大きなこだわりがなければこれほどの大仕事、実現されなかったことだろう。頭が下がる。
内容。大陸−日本の繋がりが最も直接的に現れているのが「天女が羽衣を隠された為に天上に帰れなくなる……羽衣伝説」あたりか。また日本昔話として親しまれている「かさじぞう」「鶴の恩返し」などなどでも「これがもしかすると原型?」と思われる作品が存在する。また吉川英治の『三國志』などで慣れ親しんだエピソードの中にも取り上げられているものも。日本人が作り、日本文学と思って親しんでいる内容が実は、その骨子を大陸に端を発しているものなのかも……。大いに驚き、感心し、そして嘆息する。
他、繋がりを抜きにもいくつも印象に残る物語があった。特に現代の我々の視点からは「怪異」に見えない状況でも、登場人物が「怪異」を「存在するもの」としてきちんと受け止めている点に面白さを感じる。日常生活をスムースに平穏に安心して送る為に、逆に「怪異」の存在を当時の人々が必要としていたということだろう。

変な考え方かもしれないが「物語の基本」になりそうな話が多数揃っている。意外と実作者を目指す方にも大いにヒントがあるのでは、などと考えた。単純に大陸らしい怪異譚に酔うも良し、日本文学との繋がりを考えるも良し。色々な楽しみ方が出来そうな一冊。


99/11/23
友成純一「インカからの古代獣V」(講談社ノベルス'89)

放射能獣−X』に続く、友成氏の講談社ノベルス書き下ろしの「怪獣シリーズ」第二弾。

ペルーのアンデス山脈奥地に眠るインカ帝国。デパートや新聞社の支援を取り付け、異端の考古学者、城之内裕輔を団長とする数人の一団が、ビルカバンバと呼ばれる未踏の一帯の発掘調査の為にリマに向けて飛び立った。インカ帝国の残した未発見の秘密の遺跡の探索が目的。第一次調査隊は少人数で、城之内の他二人の学者、新聞記者の目黒、カメラマンの松本の総勢五名、それに現地ガイドのユパンキというインディオの男が加わった。高山病対策や周辺地域の遺跡調査を済ませた一行はジャングルに分け入る。自分のいる地域も分からず彷徨う一行は一つの遺跡に到着する。彼らを喜ばせたのはその遺跡から見つかった神像だった。無事に日本に帰った一行は第二次調査隊を編成、再びビルカバンバに赴く。再訪した遺跡の巨大さに眼を見張った一行は発掘を開始、その作業が遺跡に眠る獣、ビラコチャの眠りをも妨げてしまうとも知らずに……

厳重に封じられた封印を犯すとき、危険な怪獣が眼を覚醒す
前作に続く長編パニック小説。登場人物にも主人公格の人間も存在はするものの、本編の主人公はやはり怪獣と言ってしまいたい。その姿は「頭は鷲で大きな翼を持ち、その胴体から下は斑点模様のピューマのよう、そしてその尻尾は三つに分かれた蛇の形をしている」その上「マッハ5のスピードで飛行する上、そのスピードで自由自在に空中で方向転換を行い」「口から吐く超音波で物体を破壊する」ことが出来る。インカ帝国の最後の生き残り達が、自らの生命を次々と生け贄として捧げることで命を吹き込まれた獣神、それが怪獣ビラコチャである。
前半部がやや退屈か……インカに踏み込み聖域に触れるまでの序章部分がいささか長く感じられる。作者が自らの取材の成果を発揮したかったのも分かるものの、「怪獣」見たさで小説を読んでいる身、主人公の到来が待ち遠しくて仕方がない。なので禁断の迷宮に踏み込み、怪獣以前に迷宮内の罠に探検隊が引っかかるシーンあたりから、一気にどばーーーーっと怪獣の登場するまで、一気に読める。ああ、だからもっと怪獣を縦横無尽に暴れ尽くさせてやって欲しかった……。いやまぁ一応、ちゃんと山手線の内側を火の海にはしてくれますけどね。

前作に比べると多少小粒感は否めない。にしてもやっぱりこのシリーズの三作目まで恐らく私は読んでしまうことだろう。ページの隙間から怪獣が呼んでいるから。本書も表紙は横山宏氏による怪獣モデルの写真。これがまたツボに嵌っていい感じ。


99/11/22
小栗虫太郎「成吉思汗の後宮」(講談社大衆文学館'95)

『黒死館殺人事件』に代表されがちな小栗文学のもう一つの方向性、歴史伝奇文学に光を当てた短編集。

天明時代、露西亜の領土にただ一人冒険の途に立った一日本人の活躍を描く『海螺斎沿海州先占記』
中国共産軍に心ならず身を隠して参ずる反共産ドイツ人の数奇なる運命『紅軍巴蟆を越ゆ』
第二次大戦前。ナポレオンの血を引くと思われる数学者が抱いた野望『ナポレオン的面貌』
蒙古を舞台にジンギスカンの末裔が民族の自立のために立ち上がろうかと逡巡する『成吉思汗の後宮』
十八世紀イギリス。ロンドン塔に幽閉された謎の囚人<禿げ鬘>の脱獄計画を描く『破獄囚「禿げ鬘」』
革命時代のフランス。王妃マリー・アントワネットを救う為に活躍する快男児<百合家の騎士>の攻防『皇后の影法師』
十五世紀の欧州。ハンザ商人が利権を守るためバスコ・ダ・ガマの東方遠征を阻止せんと企みを凝らす『金字塔四角に飛ぶ』以上七編

着想と空想と考証と。読者を煙に巻き、歴史の浪漫精神に落とし込む
中世のヨーロッパより、執筆当時の現在にあたる戦前の一時期に至るまでの期間から「様々な状況」まさに「秘史」と呼ぶに相応しい部分を取り出し、小栗氏らしい解釈、空想力を元に紡ぎ出されて物語とされた作品群。恐らくは大量の資料を費やした部分もあるのだろう、一編一編に高度な学問的歴史的事項を、これまた小栗氏らしいやり方で注ぎ込んである。
ハッキリ言うと、読みやすいとは言い難い。地理や人物など相当の教養が必要とされる事柄が、説明抜きに取り上げられている。学問的なバックグラウンドを有る程度持った読者を想定しているのか、それとも当時の読者の常識レベルが高いのか。不親切な作りと言っても差し支えないだろう。例えば「マリー・アントワネット」と言う固有名詞を挙げるだけで、その背景となる彼女の生い立ち、生き様は「既に読者の既知のもの」として、彼女そのものに関してはわざわざ説明が付け加えられたりしない。私のような無知蒙昧な読者にとって、このあたりは多少辛い。
それでいて一旦読み出すと不思議な魅力に取り憑かれるのは何故だろう。独特の文体の魅力も勿論あろうが、結局は色んな人物の背景を抜きにした「精神」を描いているからではなかろうか。環境こそは特殊なれど、一風変わった志を抱いた主人公らの生き様が物語の中心となる。極限的状況における彼らの大いなる野望、そして挫折。主人公の不思議な人生を点描することで、読者は不思議な時代浪漫の中を彷徨うことになるのだ。

『黒死館殺人事件』『人外魔境』シリーズ以前に書かれた、そのベースとも言える伝奇作品群。暗号、トリックなどの探偵小説的趣味、極限の自然環境での冒険、数奇な伝承への新解釈など、後の代表的小栗作品に繋がる過渡的作品かと感じる。


99/11/21
小泉喜美子「メインディッシュはミステリー」(新潮文庫'84)

創作、翻訳、解説と大車輪でミステリ界にて活躍していた小泉さんによる「ミステリー」観を強く打ち出したエッセイ集。'77年『小説推理』一月号から二十一回にわたって連載された「現代ミステリーを考えよう」というコラムに加筆集成されたもの。

「殺人をテーマに好んで扱うジャンルだけに、ミステリーは美しく、洗練されていなければならない」
「知的な快感を味わうことこそ、謎解き本格ミステリーの醍醐味だ」
「B・ハリディの『死刑前夜』という作品は、書きかたそのものが素晴らしいトリックだった」
「フランス・ミステリーの耽美的な文体と、凝ったトリックの秀作が多い」
「やっとミステリーが御馳走になってきたのだから、泥くさくて良いわけがないのである」
「私の書いているものこそ文学だと、ハードボイルド作家R・チャンドラーは公言した」
「殺人者の内面に謎を設定したクライム・ストーリィ物の出現は、現代ミステリーに新しい可能性を拓いた」
「警察小説やスパイ小説などのデラックス虚構に、いっときくつろぐのは大体が男たちだ」
「C・ライスの抱腹絶倒ミステリーほど、道化と恐怖を結びつけた小説はない」
「海外の短編ミステリー作家のSFっぽい作風を、”奇妙な味”と名付けたのは江戸川乱歩だった」
「外国物の新作を読みながら、ミステリーは小味なのがいっとう良いと私はあらためて考えた」

「ミステリーには本道も邪道もない。あるのは、いい作品と悪い作品だけである。」
二十年前に書かれた海外ミステリに関するエッセイ集。
で、ありながら深い洞察と一貫した感性に貫かれた内容は決して古びておらず、小泉さんらしい洒落たセンスとあくなき探求心に彩られた内容は、いちいち深く頷き、感心させられる。古典から始まり、その後のミステリの変遷、ハードボイルドやクライムストーリーまで触れながら、その楽しみ方、読み方の提案を本当に嫌味なく、一作一作丁寧に紹介している。
特に強調されているのは「新しさ」に対する価値基準。トリックそのものにこだわるのでなく、作家がいかに「新しい驚き」を読者に与えようとしているか、ということを非常に大切に考えている。ミステリーは常に旧来のものを乗り越え、変化して行かなければならない、という当たり前のようでいて実はかなり難しい命題をクリアした作品に高い評価を与えている。それが例え当時の評論家、読者にあまり評価されなかったとしても小泉さん的に「いい作品」と思えるものを一作一作、粗筋をまとめたり、作品の一部を抜き出したりと効果的な紹介を心がけており、その真摯な姿勢には驚きさえ覚える。ネタを割っていないのも嬉しい。色んな意味でミステリーは洒落た作品であって欲しい――という願いが感じられる。
彼女の価値基準が絶対ではない、けれども読者に対していくつかの示唆をきちんと提示してくれている。これからミステリに入る人に是非とも読んで貰いたい一作だ。

執筆された当時から現在までの二十年の空白に目をつむったとしても、海外ミステリへの読書ガイド、入門書としてまだ有効だろう。小泉さん自身の作品群と合わせて読むと、あの国産ミステリ離れした独特の洒落た感覚が生まれた背景も伺えて興味深い。現在入手不可。残念ながら古書店か図書館で。