戸田市郷土博物館企画展(2001・10・10−12・9)『重信展』図録

父の俳句

高柳蕗子

 

 お父さんから俳句を教わりましたか、と問われることがある。父は尋ねさえすれば、とてもわかりやすく説明してくれた。お客さんと句の話をしているときでも、私がそばにいると、それとなく子供にもわかるような言葉づかいになる。そんなとき私は、さも興味がなさそうな顔をするのだが、父は話の達人である。抵抗むなしく、気がつくと耳をそばだててしまうのだった。

私は妙な意地があって、俳句のことはめったに父に尋ねなかった。せっかく耳をそばだてて聞いたことも、ほとんどは忘れてしまった。かろうじて覚えている父の言葉のカケラを、これ以上忘れないようここに記しておこう。

 

1 それは誰でもない母だ

 

沈丁花

 

殺されてきて

母が佇つ闇

 

 父から詩歌の言葉との接し方を習ったのは、この句を通してだった。

「やだなあ、おばあちゃんが殺されて化けて出たみたい」

このとき小学六年生ぐらいだった。

「母と書いても、自分の母のこととは限らないんだよ。これは僕のおふくろさんの、あの高柳芳野という特定の個人のことじゃないんだ。『母』っていう言葉から浮かんでくるイメージがあるね。それは誰でもないけど『母』だ。言葉にはそういう使い方もあるんだよ」

「ふーん」と言ったが、実はさっぱりわからなかった。

「じゃあ、その誰でもない『母』は、どうやって殺されたの?」

父は苦笑したが、私がこういう質問をするのをあきらかに喜んでいた。

「『殺される』というのは言葉どおりではないんだよ。人に逆らわないで我慢することを『自分を殺す』と言う。お母さんっていうのは、家族みんなが元気に働いたり学校に行ったり出来るように、ご飯を作ったり洗濯したり、家の中の仕事をしていて、いつも自分より他の人を優先しているね。おじいさんおばあさんも大事にしなくちゃいけないし、我慢することがたくさんあるのに、それを打ち明ける相手もいない。この闇に佇んでいるのは、『母』の、そういう行き場のない悲しみなんだ。」

 言葉にこういう使い方があるということが、今度はかろうじてわかった。この新しい知識、考える新しい手段を得たことに興奮し、絶対に忘れまいとして、父の言ったことを頭でくりかえした。あんまり夢中になったので、「 沈丁花 ( じんちょうげ ) 」のほうは聞くのを忘れてしまった。

 

2 祈祷師は殺された

 

魏は

はるかにて

持衰を殺す

旅いくつ

 

 この句は、大きな色紙に書かれて玄関にかかっていたが、「魏」と「持衰」が読めず、なにやら難しそうだ、とのみ思っていた。学校で「魏志倭人伝」を習って「魏」がわかったときに興味がわき、「持衰」を指さして父に聞いた。

「この字、何て読むの」

「これは『じさい』と読む。大昔の日本人は、当時の文明国である魏の国をめざして海を渡った。だけど古代の船は小さくて、嵐にあえば半分ぐらい沈んでしまった。それでも新しい知識を求めて、たくさんの人々が死を覚悟で海を渡った。『持衰』というのは、お祈りをする人、祈祷師のことだ。嵐があると神様に怒りを静めてくれるようにお祈りをする。そしてお祈りが通じないときは、その祈祷師は殺されたんだ。」

 句の意味はこれでわかった、と、そのときは思った。私はそれから長い間この句を、「人類がたくさんの犠牲を払いながら、高い目標のために努力してきた、ということへの感慨を表したもの」、とのみ思っていたが、だいぶあとになって、別の面に気がついた。犠牲者のなかでも祈祷師のいたましさは特殊だということだ。みんなのために真剣に役目を務めたにもかかわらず、失敗だったからといって仲間の手で殺されてしまったのだから。この句はそういう種類の犠牲者に特に手向けられた鎮魂句なのだと、今は思っている。

 父は正義感が強い人だった。早大の法科に入ったのは、弁護士になって無実の人を救いたいからだったという。結核になってそれは断念したが、誰もかえりみない弱者に目を向けようとする気持ちや、人々が気づかずにおかしているあやまちなどにとても敏感だったのだ。

 

3 作者は一人目の読者にすぎない

 

船焼き捨てし

船長は

 

泳ぐかな

 

「ひどいなあ。船長といえば船が沈むときは運命をともにするっていうじゃない。それがどうして焼いちゃうの。しかも泳いで逃げちゃってさ」

 からみかかるような口調は小学生みたいだが、このときはもう高校生だった。つねに途方もなく大人である父には、口調ぐらい甘えてもかまわないと思っていた。

「うーん。船長が自分の船を焼くなんてよくよくのことなんだね」

「自殺みたいに?」

「うーん、そうだねえ」

父の「うーん」は肯定的な響きから否定的な響きまで、三段階ぐらいに分けられる。これはその中間だった。

「でも、結局死なないで泳いだのね? ちょっと迷ってから」

「どうして」

「一行あいてるもん」

「うーん」

 この「うーん」も中間的な響きだったと思う。つまり、「違うとも言えないが説得力に欠ける」というふうに聞こえた。高校生だった私はそれ以上聞けなかった。父もそれ以上説明しようとしなかった。

こうしたやりとりは、父が「正解」を知っていて私が言い当てようとしている、というものではない。

「作品は書かれたらもう作者のものではない。作者は一人目の読者にすぎない」

と父はよく言っていた。父には父なりの、自分の句に対する解釈があるのだろうが、それだけが「正解」であるわけではなく、私がもし、一句の言葉に即して私なりに筋を通した説得力のある解釈ができたなら、それはひとつの解釈として成立することになる。だから、あとは自分で考えるしかない。

 思うに、「泳ぐ」というのは、努力を意欲的にし続けなければならない動作である。足の着かぬ不安のなかで水を掻き分けて進み、疲れて止まれば溺れてしまうのだから。そして船長とは、そもそも安全な地上を捨てて不確かな海に生きることを選んだ人だろう。この人はそれでも足りず、船という拠り所までも捨てて、巨大な掴み所のない海=世界を全身でじかに掻き進むことにしたのである。

 つまり、「船長」という語は「これまでのあらすじ」であり、この句は、絶対的である二回目の転身について書いてある。それは、自らを「船長」でなく、「未知の世界にじかに触れて泳ぐ者」となす重大な決意が、ついに船を焼くという決して後戻りできない手段で決行されたということだ。空白行は、迷いではなく、この変化の絶対性への強い思いではないか。

 ここまで考えるのに何年もかかったので、この解釈を父に示す機会は失われたが、これなら、まあまあ良い方の「うーん」をもらえるだろう。

 「泳ぐ」で思い出したが、小さいころに大水が出たことがある。父はいつだか回想して次のように言った。

「危険だから避難しろと言う一方で、盗難があるかもしれぬから一人は残れとも言われて、パパは屋根にいたんだ。虫やトカゲもいっぱい上がってきた。人も虫けらもなく生き物が助け合うこんなときに、泥棒をするような奴がいるかもしれないなんて、ひどい話だと思った。

 このとき、足元に蛇が這い登ってきた。さすがに蛇は気持ちが悪くてね、蛇なら泳げるからいいだろうと思って落としてしまった。ところが、洪水が引いた後、蛇があちこちの木にかかって死んでいるのを見た。泳ぎ疲れたのだろう。かわいそうなことをしてしまった。わかっていたら決して落とさなかったのに」

 

4 本人の言うことがいちばんあやしい

 

身をそらす虹の

絶巓

処刑台

 

 この句は、船長の句と並んで、若い頃の父の代表作だ。父自身が自解の一文を書いている。乱暴に要約すると、

「病気になってからは病院以外のすべての門が閉ざされ、俳句以外、人生のアリバイがなくなってしまった。そんな中で、なぜか目をつぶると浮かんでくる、バスケットボールのゴールを狙って構えている後ろ向きの少女の遠景があった。それは、僕を(ゴールの後ろにある扇形の板の形の)虹の頂上の首吊り台へ投げ上げようとしている予言だったのだ」

というようなことなのだが、私は釈然としない。この句については、「いやあ、聞かれるたびに違う答えを言いたくなる。本人の言うことが一番あやしい」と言うのを聞いたことがある。父はひじょうな照れ屋だったから、おうおうにして手の込んだとぼけかたをするのである。

この、父自身の解説文がウソだというわけではないが、これは作者が「一人目の読者」になる前のことを語っている。句を作ったときの状況を述べることは、子宮を語ることであって、赤ちゃんには言及していないのだ。人の人生が生後にはじまるように、句の解釈も句を出発点として考えなければいけないはずだ。

虹のあの形を、「反っている」と見るのは珍しい見立てだ。私にはそれが気になっていたが、父に尋ねたのは、「絶巓 ( ぜってん ) 」という語の意味だけで、父が答えたのも「山のいただきのこと、つまりてっぺんだよ」だけだった。そのときはもう一九歳の予備校生。自分の解釈を用意せずに、父の解釈を教わるようなことはできない。

身を反らすのは、前に屈むのに比べたら、背筋のこわばる苦しい姿勢である。一方、虹といえば一般に美しいものとして描かれ、どこか遠い国への架け橋の比喩として使われることが多く、普通はそんなに緊張感を孕む語ではない。ところがこの句では、虹の頂点に処刑台があるという見立てだ。だとすれば、遠い国へのあこがれは、見かけは美しくとも、我が身を辛い姿勢に保って橋となそうとするものであり、その絶頂に、ひどく恐ろしいものが待っていて中断させられた、と読めるだろう。

先にあげた、「魏は/はるかにて/持衰を殺す/旅いくつ」の句に、はるかな国に渡る途中で、祈りが不成功だった場合に殺された祈祷師が出てきたが、身を反らす虹は、船旅の成功のために命がけで祈る祈祷師と似通っている。書かれた順序は、虹の句の方がずっと早く、結核で挫折したうんと若いときのものだ。かつて、「自分の努力には処刑台が待っていた」という形で提示されたテーマが、後年視点が変わることで、「魏ははるかにて」の句になったのではないかと思われる。このように思い至ったとき、すでに父はいなかったけれども。

 

5 大きな鐘を揺らす

 

あるとき、ニュースで反戦運動を見ていて父がふいに言った。

「世の中を変えるためには、こんなふうに、大勢の人が何年も何十年もがんばって取り組まなければならない。それは誰でも知っているね。だけど、歴史は長いから、もっと時間がかかる事柄もあるんだ。一人の一生の努力が、ものすごく重たい鐘をちょっとつっつくぐらいの力でしかないような事柄。その微々たる数えきれない力が何世代もちょっとずつ加えられて、重たい鐘が揺れる。でも、その鐘は大きすぎて、ひと揺れに百年ぐらいかかるから、手応えを感じるのが難しい。パパはそういう仕事をしているんだ」

 これが具体的に何をさしていたか、私にはまだわからない。だが、父が一般よりも長大な時間の中で自分を捉えていたことは確かだろう。お葬式の写真というものはちょうど色紙ぐらいの大きさだ。見たとたん、父がついに無期限の時を生きる俳句のひとつになったような気がした。

詩歌表現には瞬間的に読者の心をとらえる生き生きとした要素がある一方、死者のごとき忍耐強さで読者を待っていてくれる要素もある。父の句には後者の要素が多いようだ。「死者のごとき」と言ったが、それは死ではなく、日常の言葉と時間の流れが異なる、別種の生命現象とも言えるだろう。げんに、子供のころ家の中にかかっていた色紙の句には、とても存在感があった。私が自分の解釈を形成するのを、無期限にそこで待ってくれていた。父の時間感覚は、そういった尺度の大きなものだったにちがいない。

 * * * 

 父の俳句について書いたのは初めてである。父の俳句の業績については精密な研究をされている方々がいて、歌人である私が解説めいたことを書く必要はないと思っている。

しかし、今回「重信展」が開かれる戸田は、子供のころ父と暮らした幸せな思い出の場所だ。「火曜印刷」という小さな印刷工場で、いまは大家(たいか)となった人たちの処女句集や歌集を作っていたパパ。私は、その工場の前の野原で、犬猫を兄弟として育った。こういう機会ならば、父の思い出プラスアルファとして、私が俳句のことを書いてもお許しいただけるだろう。

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