短歌の読解ノート2 

短歌の読解練習17 愛の非礼――なぜ「死なば愛さむ」なのか

 

2011.6.23

普通は「鑑賞」といいますが、私はあえて「読解」といっています。

「鑑賞」というと、歌に対する自分の感動を描写することにかまけて、歌の解釈のほうがおるすになりがちだからです。


 

■死なば愛さむ父のひだり手注射器に一すぢの血のさかのぼるなり 塚本邦雄

 

 愛は非礼だ……。 そうだよー、愛はそもそも非礼なものだよー。
 ある評論を書いていてこの歌とりあげながら、ふいにそう思った。

 最近、「愛」は安売り傾向があるようだ。以前は(――私が二十歳ぐらいの時分は――)「愛」といえば、なんだか使いにくい言葉だった。すでに胡散臭さにまみれつつも、まだ、みだりに使えないという緊張感があったっけ。

 愛は、対象を、対象化する。ゆえに非礼だ。
 真に畏れおおいものは、じろじろ見ない。直接的に対象化しないように気をつける。そこにあるとそっと意識し、感じ取り、ときに周辺を詳しく語るという方法で婉曲に言い表わすなど、非礼にならないように配慮しないだろうか。

「愛は非礼だ」という感覚は、とても説明しづらい。理解もされにくい。
 きっと、多くの人が誤解する。
 なぜなら、日常的に使う言葉は、風呂屋で男女にわかれるがごとくに、良し悪し、善悪などに、考える以前に色分けされているからだ。「愛」は良いものであり、「非礼」は悪いもの。これだけでも混乱してしまう。

 最初に二つに分けるのは、使う頭が半分で済んで効率がいい。私だって日常はそれに習っている。
 だが、家庭用の包丁で切り分けられるモノばかりではない。

 そういうわけで、愛が非礼だということは、実に説明しにくいとかねがね思っていたのだが、この歌を見たらそうでもないと思った。
 歌の読解も兼ねて、考えを整理しながら書いてみたら、多少わかりやすく書けそうだ。

とりあえず読解を試みる。


【読解】


 死なば愛さむ父のひだり手注射器に一すぢの血のさかのぼるなり 塚本邦雄


 ・読者の私は「死なば愛さむ」に戸惑いつつ、注射器をさかのぼる父の血液のふるまいをありありと思い浮かべる。

 ・この血のふるまいは、消えかかる父の命の最後のふるまいであると同時に、作中主体の緊張の高まりにも添っている。

 ・弱った父の血のふるまいを見て、今まで畏怖してきた父がいかにもあえかな弱いものになっていることに衝撃を受ける。

 ・それでも父が生きている限り父への畏怖の念をしっかり保つべきだという気持ちが、「死なば愛さむ」という言葉になって明確化し、父を愛したいのをこらえている。 (ここは別の解釈もあるが後述)


 そして、上記は歌の中で無時間的≠ノ起こっている。それがこの歌の威厳である。


無時間的=\ 説明その1


 この歌は、親子が具体的にどんないきさつでここに至ったかという、歌の外側の経緯を断絶し得ている。

 これが日常会話だったら、親子の愛憎のような話になって、「まあ、お父様にはお父様なりのご事情が」などと、とりなしたくなっちゃったりするだろうが、この歌を読むとき、そんな「ご事情」だの、読者個人の人生経験からの意見だのは、いかにも卑小であって、思い浮かべたとたんうすら恥ずかしくて取り下げるしかない。


 要するに、この歌の鑑賞に外から何か持ち込む必要は全くない。歌の言葉以外に何も補う必要がない。外の世界のあらゆる「いきさつ」を遮断するゆえに無時間的≠ネのである。


無時間的=\ 説明その2


 この歌では、歌の中で進行≠オた経緯さえも無意味化し得ていると思う。

 先に私が「この血のふるまいは云々」と数行にわたって書いた歌の解釈は、散文ゆえに「○○して、××と同時に、△△になる」という因果関係を取り除けない。歌そのものと比べると、味わいも迫力もだいなしだ。

 それは無時間性≠ェ損なわれたからに他ならない。

 以上のように考えたあとで、落ちついて、「死なば愛さむ」を考えてみる。


なぜ「死なば愛さむ」なのか

 

 このフレーズは、ふつうの愛憎という概念でも語れるのだが、やっぱり違うと思う。

 確かに、これまでのいきさつが集積した「愛憎あいなかばする」感じもなくはない。

 死ぬまでは父に気を許せないが、死ねばこの緊張から解放されて父を素直に愛せる、という期待のようにも読み取れなくはないのだ。

 実は、私は長いあいだ、そのように解釈し続けてきたのである。

 が、その解釈は、間違いとまではいえないが、この歌の威厳に対して、「なんだか卑小である」という感じもぬぐえずに来た。


 では、主体はどうして「死なば愛さむ」と思ったのか。
 歌の外を見ずに歌の言葉を見る。

 そうすると、(さっきのくりかえしになるが)主体はたった今見ている注射器の中の血のふるまいの弱々しさに衝撃を受けた。

 畏怖してきた父はすでに弱まり、なんと愛を必要としているように見えるではないか。

 だが、父が弱ったからといって、いま人として愛しては非礼である。それは威厳ある父をおとしめる。生きている間は、死ぬまでは。
 だから「死なば愛さむ」と、愛をこらえているのだ。


畏怖はデフォルト 愛憎はうがち

 

 「父を畏怖した」ということも、「親子の愛憎」同様に外の要素ではないか、との反論があるかもしれない。

 

 「父」という言葉のイメージは、デフォルトで「威厳がある、尊敬の対象である」を含む。

 (もちろん、現実には威厳のない父も尊敬に値しない父もいるが、あくまで言葉のイメージとして。)

 

 それに対して、「親子の愛憎」は、とてもありがちだが、デフォルトではない。つまり、言葉そのものを受け止めるのでなく、この場の状況に対して、少し「うがった見方」を導入した解釈である。

 

 私が、長い間、「親子の愛憎」と解釈しながら、それが「歌の威厳に対してなんだか卑小」と感じたのは、無意識に、この「うがった見方」を経由していたからなのだ。

 

 (待って、誤解しないで!  私は、うがち感覚を批判する気は毛頭ない。 

 私はうがち感覚が好きである。

 川柳ならば、このうがち感覚がデフォルトになるので、「愛憎」という解釈の方が妥当になるだろう。

 むむ、これはかなり重大なことではないかな。詩歌のジャンルによって単語のデフォルトイメージが異なるということは。)

 

ついでに考えたこと1――「愛」という言葉の矜持、および、うがち感覚との関係


 私は、「愛」という言葉に、以下の緊張感を感じる。

 

「この言葉は大変だいじなもの、畏れるべきものを指し示す。ただし、それには、まがいものがいっぱいある。だからこの言葉はしばしば、まがいものに対して用いられ、胡散臭さを帯びてしまっているのだが、たとえ本物がこの現実の世界にはないとしても、人間が本物を感受することが不可能だとしても、この言葉は、本物を指し示し続ける。」

 

 つまり、私にとって「愛」という言葉は、ちまたで何を「愛」と呼ぼうが、それらがどんなに胡散臭かろうが、本物の「愛」にあこがれて指し示そうという矜持を帯びている言葉だ。

 

 そして、この矜持を嗅ぎ取るからこそ、対抗的に「うがち感覚」が成立するのではないのか?

 (むむ、これはかなり重大なことではないかな。言葉の矜持面が理解されなくなれば、うがちも効かなくなるという。)

 

 (――うわ、待って。誤解しないで!

    「言葉が矜持を帯びる」というのは言葉の擬人化である。言葉を使う人の矜持ではない。

 ――人はピーピーキャーキャーいろいろすぎて、かまっていられない。

 ――文章が紛らわしくなる危険をおかしても、私は言葉が好きなので擬人化したくなるのだ。

 ――ああ…いや、言葉が好きだということは擬人化の理由ではないな。

   人も言葉も森羅万象の一つ一つであって、どこか対等である、そういう形の親しみの感覚だ。そう、親しみによる擬人化だ。)

 

ついでに考えたこと2――本質は迷子だ


 「正義」という言葉も「愛」に似ている。

 あまりにもいろんなもの、いろんなウソが、「正義」という言葉で振りかざされる。仮にどこかに本物の正義があったとしても、ウォーリーのようにまぎれてしまって、めったに見つからないだろう。

 それでも「正義」という言葉は、行方不明の息子を待つように、どこかにまぎれた本当の正義を待っている。

 

 言葉に対して本質は、なんであれ迷子だと思う。

 だが、ふつう人は言葉を、もっと慎重に使う。自分の子でない子どもに対して「お母さんですよ」とみだりに名乗らない。

 遊園地で迷子になったとき、もしも「母」が大勢名乗り出てきたら、どれだけ困惑するだろう。正義はいまそんな状態の子どもだ。どの「正義」という言葉にもうっかり宿れない。

 

 そういう形で、今や「愛」という言葉も、「正義」という言葉と同じぐらい振りかざされ、「愛」は紛らわしいものが押し合いへし合いする広い世界で、迷子のなかでもいっそう迷子になっているのではないだろうか。

 

ついでに考えたこと3――批評に愛?


 いつだか、「あなたの批評は辛辣だけど愛がある」と言われたことがあった。
 やや無理に笑顔を作りつつも、相手の目を穴のあくほど見返したら、その人の瞳がみるみる星形に破れてしまった。

 

 私は以下のことを口にしなかった。

 

「あなたは『やさしさ』のことを『愛』と呼んだにすぎないのだろう。そういう安易な用法は、真の『愛』という概念にあこがれを捨てない『愛』という言葉の矜持に対して、無神経すぎるじゃないか。」

 

「だいいち、私の文章に愛かと見間違うような『やさしさ』のボロが出てしまっているかもしれないが、それは少なくともあなたへの『やさしさ』ではない。」

 

「それとも、短歌や言葉に対する愛のことを言いたいのか。それは性愛程度の安全な愛※でしかない。愛はそもそも、うんとデリケートなレベルで非礼なものだから、むやみに行使しないものだ。」

(※性愛の本質そのものが生物の本能的欲求であるぶん、相手を対象化すること自体も自然であって、本能的欲求は非礼扱いしなくていい。文化や社会的抑制を無視して本能のみで行動し、人を欲望の対象としてしか見ないのは非礼だが、それは別の話、別の非礼だ。)

 

「とにかく、『愛』をまぎらわしくするものの中に私を加えないでくれ。しかも悪意なしに言うなんて。『愛?』と目で問い返しただけで瞳が破れちゃうなんて。」

 

ついでに考えたこと――4読解という非礼

 

 私は短歌を解剖的に読解する。

 それは短歌を対象化することだけれども、こんな方法を「愛」と呼んではいけない。
 なぜなら、対象を読解して切り開くというこの無遠慮は、愛そのものの「非礼」を意識しないで済むレベル、性愛のように対象化がおおらかなレベルの無遠慮だからである。

 この程度なら短歌は気を悪くするかもしれないが、死なない。そうやわじゃない。

 

 真に畏れおおい要素には、愛をもってアプローチしない。対象化しないで近づく。

 

 要するに、私は今、「本当に愛しちゃうのは非礼だから、性愛の対象にしておくにとどめる。読解はそういうものだ」と、そういうふうなことを言っているのだ。

 これは理解されるのだろうか。

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