醸すカモシカかもしれない

―― 「鹿首」6号 20149 特集「醸す」に寄稿

高柳蕗子

  (パソコン画面で読みやすいように、雑誌掲載時よりも改行を増やしています。)

  

 「醸す」というテーマには、いろいろなことが当てはまる。

 絞り込みのために、詩歌のデータベース(短歌俳句川柳を約十万歌句収録)を開いて、「醸す」の用例にあたってみた。

 データベースを使うと、明るい驚きを味わうことがしばしばある。予期せぬものが網にかかる。

 「醸」「発酵」のほか、ひらがな表記の「かもす」も「かもさ」「かもし」など活用形を含めて検索してみたところ、「かもしか」が躍り出てきたのには驚いた。そのうえ、「かもしれない」が、なんと百五十もの大群で出現し、そのなかに、「醸す」を含むほんの二十例ほどの歌句が、ぽつぽつ混ざっているのがなんだかおかしかった。

 この明るい驚き。かもす・かもしか・かもしれない、という、この末広がりのめでたきクレッシェンド感にあやかるべく、表題に据えよう。

 

一 短歌の用例から考える「醸す」

 

 そもそも、「醸す」という言葉を、私はどれだけ知っているだろう。

 「醸す」という言葉の意味なら、調べればわかる。酵母菌などの働きで起きる変化を利用して、醤油や酒などの食品を作ることだ。

 しかし意味を知っただけでは言葉を知ったことにならない。ある言葉を、現実の事象の呼び名として認識しただけだ。

 たとえば発酵という現実の現象にどんなに詳しくなったとしても、言葉の「醸す」がわかったとは言えない。言葉の用例は、なかでも詩歌の用例は、現実の事象とはほとんど別物として機能することが多いからだ。

 第一章では、まず、言葉ならではの「醸す」に注目してみる。

 

1 酒などの比喩

 データベース検索の結果、十万弱の歌句の中で「醸す」という語を含む歌句は二十ばかりあった。その三分の一ほどが酒の話か、あるいは次のような酒の比喩的表現だった。

鉛筆の削り屑よりかもしたる

まくろき酒をのむこゝちなり         宮沢賢治

 この酒の味は、今、あああれかと思い当たらない人も、いつかその「こゝち」になったとき、これだ、と思い当たりそうである。材料が鉛筆の削りカスでは、さぞかし不味いものだろう。

 「醸す」という言葉の用例として見た場合ごく順当な表現だが、とても印象的な歌だ。

 

2 春の生気

 春のパワーを植物の生気になぞらえた用例も、酒を醸す歌句と同じぐらいの数があった。

春ふかき大地の温気(うんき)にかもされて立ち来る草の瑞青太茎(みずあをふとくき)     木下利玄

黄の蕊を花心に醸す春うつつ牡丹揺れ合へり百重花瓣        北原白秋

 なるほど、「春」という季節は、植物を生み出したり蘇らせたりする。比較的古い用例が多い。春が植物の生気を醸すのか、植物の生気が春を醸すのか、いずれにせよ、この感じは、今も多くの人が異論なく受け止めるだろう。

 

3 雰囲気を強気で言ってのける

 次に、いきなりコマカいが、「たたずまいやしぐさが何らかの雰囲気を帯びていることを主観的に捉え、『醸す』と短く言ってのける°ュ気の用例」に注目する。

 座り猫ふりむくときになにかかう懐手する感じをかもす    小池 光

 おもしろい歌だ。振り向く猫のしぐさをよく捉え、実際にはしていない「懐手」を感じさせるしぐさだということを、「醸す」と言ってのけ≠トいる。

 これは、歌の主体者がそう感じただけだ。前項の「春の生気=醸す」のように、多くの人が異論なく受け止めるようなこととは違う。個人の主観的把握を、強気で言ってのけ≠髣p例だ。

(前々項の「酒を醸す」という順当な用例、前項の「春の生気」という多くが納得するものになぞらえる用例、そしてこの「雰囲気」を主観で捉える用例は、歌句の数がほぼ同じぐらいあり、この三種類で「醸す」の用例の九割をカバーする、代表的な用例と言える。)

 「かもす」と短く三文字で言えることも、この強気表現にふさわしい。短歌において、表現のスピード感や勢いは、言葉の動作≠ニして重要である。人が歩く速度を状況に応じて無意識に調節するように、歌人は体感的に速度を調節して言葉を使う。

 寄り道になるが、この話をもう少し続けたい。

 字数の少ない俳句という形式は、たぶん言ってのけ≠アそが本領なのだろう。

 紫陽花の醸せる暗さよりの雨         桂 信子

 「紫陽花の醸せる暗さ」は、紫陽花が暗さを醸すかどうか賛同のいとまを与えぬひとかたまりで言ってのけ、「とにかく紫陽花の醸せる暗さというものがあるんだ、その暗さから雨が生じるんだ」と強気で押しまくる。

 その勢いに押されるがままに、「紫陽花の醸せる暗さ」は、まるごと、現物の紫陽花の姿、語感、字面なども総合して大急ぎで成立し、その「暗さ」から「雨」が、当然のごとくに降りいづるのである。

 

4 匂う異変と明るい驚き

 さて、本題に戻り、もう少し「醸す」ということのイメージを追いかけてみよう。

 発酵食品の多くはクセのある匂いを発し、飲食をためらわせる。先にあげた、「たたずまいやしぐさの雰囲気を『醸す』と言ってのける@p例」は、ぷんぷんと匂い放つ感じから転じたものではないだろうか。

 チーズや納豆が初めてできたとき、人々は腐ったと思ったにちがいない。納豆は匂いだけでなく見た目も気味悪い。飢えた人がやぶれかぶれで食べてみて、最初の驚愕の「うまい!」が発せられたのだろう。(本当に腐っていて、「ウェッ」と吐き出されたこともあったろうが。)

 匂いや外見の異常、特に強烈な匂いは、良くも悪くも「ここで何かが起きている」というサインになる。吉だか凶だかわからない異変。その成功例が発酵なのである。

 うまく発酵して酒ができていた場面は、思い浮かべるだけでも楽しい。

 甕に穀物を入れといたら、なんだか変わった匂いの液体になっていた! 試しに舐めたらうまかった。みんなで指を突っ込んで舐めたら、いい気分になって、うかれ騒いで、ぐうぐう寝ちゃった!

 人々は当然、この明るい驚きを再現しようとしただろう。それはけっこう難しかっただろう。酒は、穀物等と酵母菌が居合わせ、発酵する条件が整った場所に一定時間置かれなければならない。酵母菌でなく腐敗菌が繁殖すれば腐ってしまうから、わくわくしての蓋をとって、落胆したケースも数多かったに違いない。

 

5 変化の時間

 酒の発祥は「口噛み酒」だという説がある。穀物などを噛むと、唾液中のアミラーゼがデンプンを糖化させる。それを溜めておくと野生酵母が糖を発酵してアルコールを生成する。

 「口噛み酒」は乙女が噛んで作るもので「美人酒」と呼ばれたらしい。(じゃあ「猿酒」は猿を雇って噛ませて作るのかと思いきや、違うそうです。笑)

 甕に醸すをみなの唾液と穀物のねむりをわれにほんのひととき       山田富士郎

 右の歌は、甕のなかで唾液と穀物が静かに発酵しているような、不思議な変化を起こす眠りにあこがれている。「ほんのひととき」は、「ほんのひとときでもいいのだが、しかし」という反語文脈を微かに引き寄せるので、「そんなねむりは得られっこない」という響きも含むようだ。

 なるほど、発酵している時間は、何か奇跡的な変化が起きている時間である。通常の睡眠は、疲労を回復はしても、変化までは期待できない。

 唾液と穀物が、発酵の間、自らの変化に気付かずに眠っているかのような把握をしているのもおもしろい。確かに、「醸す」という現象は、意志を持って行うことではない。

 こういう眠りに似たものといえば、「蛹」が思い当たる。一定時間、劇的な変化を内に秘めて静まっている。

 原子炉はなにかの蛹だと思ふ 西原天気

  それが何であれいつか変貌を遂げて出現する予感。この句は、その不安面を具現化したものだろうか。

 

6 醸しきったら?

 ただし、蛹から出てきた昆虫の場合、これからがある意味本番のステージで、生殖・産卵という重大な仕事がある。酒などが醸成した後は、寝かせればさらに風味が増すといったことはあるが、重要なプロセスは完了した状態だ。

 そして、変化の完了といえば、もっと強い完了のイメージを帯びた「琥珀」というものもある。「琥珀」とは、木のヤニが地中に長い年月埋没して固まり、ついに宝石と化したものだからだ。

 琥珀色の海ができたら伝えよう 醸成を待つ心は金魚     柴田 瞳 

 「琥珀色」は色であって琥珀じゃないし、「琥珀色」といえばウイスキーで、ウイスキーは蒸留酒だから醸成はしないじゃないか、というツッコミもあるだろうが、ちょっとこらえてほしい。

 この歌は、たとえばドラマの「求婚されたかなにかで、ウイスキーを飲みながら、ゆっくり決心を固める」みたいな場面を思い浮かべて落着しそうだ。が、それだけでなく、なぜか、醸成された海にこの金魚が封じられ、世界が停止するような感じが、少し口残りする。

 「琥珀色」は、黄昏や変色した古写真を思わせる終末感漂う色であるし、「琥珀」といえば虫入り琥珀≠ニいう、樹脂に虫を封じたものがある。こうしたことが、無意識領域でひとりでに結びつくせいだろう。

 また、この歌には大きな揺さぶりが仕掛けてある。金魚という弱小のものが海の醸成を待つという大きなアンバランスによって、無邪気な大決心を描いていることだ。また、歌にはヒトコトも金魚鉢と書いてないが、金魚鉢の限られた水が琥珀色に醸成するところを想像させながら、「海」という語によって、「水の究極は、地球最大の水である海だ。その海という巨大な金魚鉢の水を醸しきったら……」というふうにも思考を揺さぶって来ないだろうか。

 進行する期待のうしろに控える終わりの予感が、歌に「琥珀色」という言葉を歌に呼び込んだのか、「琥珀色」という言葉が終焉の予感を呼び寄せたのかは定かでないが、そのはるか延長線上に待ち構える「人の願いや期待が琥珀となるまで、完全に醸成しきった世界の終焉」までも、歌の遠景に見えて来そうだ。

 

二 親しき菌のみなさん

 

 さて、第二章では、大きな寄り道をしたい。

 人体は、菌を、善と悪とに分ける。人体にとって好もしい働きをする菌は善玉菌、食中毒などを人体に不都合を起こす菌は悪玉菌と呼ばれ、現実の中では後者を忌避する。

 しかし一方、映像など感染しない方法で菌を見るならば、人はミクロの世界の神秘にうたれたり、微生物の力の不思議さに魅せられたりする。言葉の中も同様で、「菌」という字をどれだけ見ても食中毒にはならないから、菌に親しみを抱くことさえできるのだ。

 

1 「かもすぞ」

 菌という生物はあまり気心知れないが、「もやしもん」という漫画には「菌」が出てきてしゃべると聞き、早速、家にたまたま一冊だけあったのを読んでみた。

 漫画の中の菌たちは、しばしば「かもすぞ」と言う。これは「発酵させるぞ」「繁殖するぞ」という意味だ。私が読んだ中にはなかったが、悪性の菌が「かもしころすぞ」などと言うこともあるらしい。

 「醸す」の通常の用例は、「ひとりでに」というニュアンスだが、菌の立場なら、「醸す」は能動的な営みなのである。

 

2 菌に親近感

 人間は、こういう菌たちの生命活動に魅力を感じるようだ。

 「菌」を詠む短歌を集めてみたところ、善玉菌、悪玉菌の区別なく菌の身になって詠むなど、気心知れない生物のなのに、微かに親しみを感じさせる歌がいくつもあった。

 乳白の闇を想へり生きたまま腸までとどく乳酸菌の       魚村晋太郎

ほの光る空気中浮遊細菌は母かもよああ数かぎりなし     渡辺松男

細菌が肌を寄せあい待っている愛したものは埋葬せねば    東 直子

 右の歌のうち善玉は乳酸菌だけだが、他の歌でも菌を悪役として扱っていない。「菌」を嫌う歌を探してみたが、私のデータベースでは見当たらなかった。

 

3 発酵と腐敗

 ところで、もし、「醸す」について菌たちに意見を聞けば、こう答えるはずだ。

「我等なすべきことを粛々となすのみ。人類の言うところの『発酵』『腐敗』は一切感知せず。」

 発酵と腐敗は紙一重だ。その線引は、人体の都合によってなされる。腐敗物を食べて下痢するのは、人体がそういう仕掛けになっているからだ。

 人間が腐敗と呼ぶ現象も、自然界の命の循環に必要な菌の営みであり、人間が吐き気を催す腐敗物に、大喜びで群がる生物だっているだろう。

 そこまで考えたかどうか知らないが、普通なら忌み嫌う「腐敗」という現象さえも、歌では冷静に詠まれている。

自らを弔うようにゴミたちは腐敗、自然発火をなせり         俵 万智

腐敗とは誰かに負けることなのか 静かに分離してゆくミルク    田中 槐

 

4 本音と除菌

 現実生活では除菌グッズがはやりだが、詩歌の中では、「除菌」は必ずしも良いイメージで扱われない。

 そういえば、アニメ「アンパンマン」には、バイキンマンという人気キャラが登場する。

 アンパンマンは自身の顔を他者に分け与えるような自己犠牲のキャ ラだが、それに対してバイキンマンは、自己の欲求のままに行動する。人間には、バイキンマン的な要素も不可欠だろう。

抑制を身につける必要があることは確かだが、その抑制の度合い、範囲、方法によっては、人間性そのものを「殺菌」してしまうかもしれない。私たちは心のどこかで内なるバイキンマンの必要性を知りつつ、でもバイキンマンは不滅であって、殺菌ぐらいで死に絶えやしないとたかをくくっていないか。

朝礼に並ばされいておとなしい低温殺菌されたる君ら       杉崎恒夫

  「低温殺菌」は、朝の寒さに萎縮して並ぶさまを示唆すると同時に、もう一つ含みがある。「低温殺菌」という殺菌法は、「微生物を完全に死滅させず、害のない程度にまで減少させる、賞味期限は短いが素材の風味を損なわない」という殺菌法なのである。

 ――それなら生徒の低温殺菌は大いにけっこうじゃないか、と思うかどうか。

 菌を殺しすぎないはずの念の入った低温殺菌のほうが、普通の単純な殺菌より恐ろしい感じがするのはなぜなのだろう。

 

5 無菌と生命の危機

 「無菌」を詠む歌も検索してみた。重篤な状態の近親者を、離れて見守るらしい歌が少しあった。

 人の身体が免疫力などを失って危機に陥ると、「無菌」という特別な保護が必要になる。肉親もむやみに近寄れなくなり、直接の看病ができなくなる。

 無菌室できみのいのちは明瞭な山脈であり海溝である       笹井宏之

 「明瞭な山脈であり海溝」という喩を導いた要因の一つは、「無菌室」の空気のクリア感だろう。快晴の日のくっきりした山と海を見るかのような表現はそこから生じた。

 が、この歌では山と海でなく、「山脈」と「海溝」を取り合わせている点が重要だ。普通は目にすることのない「海溝」を取り合わせることによって、海を失った地球の凹凸を見るかのように、免疫力というバリアーを失った「君」のむきだしの命が見えてしまっているという、そういう痛ましさを詠んでいる歌だと思う。

 もうこの歌を離れるが、個体のバリヤーがなくなったらかえって近寄れないとは、なにか皮肉な状況だ。また、前項の「低温殺菌」もさることながら、「無菌」という言葉にちらっと感じる恐ろしさは格別だと思う。

 

三 われら情報菌

 

 さて前章ではたっぷりと、菌に対する親近感と、そして「殺菌」や「無菌」に対する恐れを書いたわけだが、ではなぜ私たちは、顕微鏡を使わなければ見ることもできず、しかも目鼻もない、生物としての仕組みがひどく異なる菌というものに、こんなにも親しみをおぼえ、「殺菌」等に恐れを感じるのか。

なぜならわれわれも菌だから、と言ってのけてしまおう。

 

1 物議を醸す微力

 「醸す」という語の日常場面での用例を考えてみると、最もよく目にするのは、「物議を醸す」である。

 何かのきっかけから議論が巻き起こる。いたずらに炎上するだけのこともあるが、根深い問題を炙り出すこともある。

 物議とは人間が醸すものだ。物議が醸されているとき、その議論に加わっている人たちは、思い思いに意見を言う。そのとき、人間は、いわば情報菌≠ノなっている。

 人間は、確固たる個人として情報を発信することもあるが、日常では、気軽に情報を収集・仲介・拡散、あるいは無視する、情報媒体でもある。

 人の言動にはそれぞれの思惑や事情がある。が、視点を遠く引いて見るならば、固有の顔を見分けられぬ小さなものがひしめいて、その微力によって情報を発酵(ときに腐敗)させている。そういう生物ではないだろうか、人は。

 

2 情報菌は薄情

 近代以降の短歌は、ある意味とても強い自尊心によって詠まれてきたと思う。作者自らも読者も、歌はかけがえのない一人の人間の思いを込めるものとして、作者側は「われ」を尊重し、読者側は作者という個人を尊重する。それを当然のこととして歌を詠み上げてきた。

 しかし、そういう自尊・他尊で過ごす時間より、名も顔もない情報菌として過ごす時間のほうが実は長くないだろうか。長くても無意識だから、その淡い「個」の視点に立つ歌が、ほとんど無かったと思う。

 情報菌たる「個」の特徴のひとつは、互いに尊重しきれない、ということだ。「ひどいとは思うが無視するほかない」と、口にこそ出さないだけで、実際は多くのことを見殺しにしている。

 そのような薄情≠ェこのごろ歌に詠まれるようになった。軸足を菌の側に置いたからこそ、タブーを破って、この葛藤と向き合えるのだ。

 自分は薄情ではないと思う人も、新聞・テレビ・ネット等で、あふれんばかりの情報に接してはいるだろう。

 はい死んだはい死んだって言いながらあなたがめくる朝日新聞                    木下龍也

「見ないまま重ね録りされ消えてつた推理ドラマの刑事みたいね」                  秋月祐一

むちゃくちゃに窓の多いビルだから月はいちいちのぞいておれぬ                   杉崎恒夫

 一粒の菌の立場では、情報対象をいちいち尊重しきれない。せっかく興味を持った情報だって、次々に押し寄せる情報がどんどん上書きで消してゆく。

 杉崎の月の歌は痛快ですらある。かつては「月かげのいたらぬ里はなけれども眺むる人の心にぞすむ」(法然)などと詠まれ、見る人を漏れなく見つめ返してくれた月でさえ、そそくさと通過してしまうとは。

 

3 微力の融合

 薄情な面もあるが、情報菌には融合力がある。

 「カネは天下の回りもの」であり、カネを得たり使ったりする人はカネの媒体となって経済に所属し、そのカネがほどよく天下を回れば景気がほどよく醸される。

 猟奇事件のニュースを熱心に見て、外国の紛争のニュースになるとテレビを消す。こういうON・OFF、つまり情報の取捨選択も、名も顔も無き菌の仕事なのだ。

 ネットの中の匿名化など、「個」の存在感の縮小を痛感する場面が増してきたが、そのかわり情報の生命感のようなものを感じるようになった。実名をさらして主張しようが、匿名でヒトコトつぶやこうが、また、発信者にとって嘘だろうがまことだろうが、情報は、情報菌たちに関心を持たれ醸されることで血が通い、存在感を増す。

 自我は、人生というひとつながりのものとして自分の情報を掌握するが、他者のことは、親しい人や関心のある分野以外はバラバラの情報でしかない。それらを名も顔もない情報菌が取捨選択して醸す。その何気ない言動の微力は、連携し融合し、集団的生命活動として世を担っている。

 わたくしの口癖があなたへとうつりそろそろ次へゆかねばならぬ                   斉藤斎藤

 「わたくし」で始まるが、後半はその「わたくし」が口癖に憑依して、「あなた」へと感染していくかのようだ。

 言葉が人から人へと巡るとき、口癖という個性が情報交換のついでに全体の中に溶けこんでゆく。そのとき、「わたくし」という「個」そのものまでも、少し口癖に憑依していっしょに他者にのりうつっていく。

 この「わたくし」は、自我の掌握を逃れた自分だ。植物の花粉やタネのように、意識せずにのりうつりあう。情報菌集団は、そういう無自覚な有機的融合体ではなかろうか。

 

4 夢の神秘と日常の神秘

 夢の領域などで人は融合している。と、そんな神秘性を感じさせる歌が、以前からときどきあった。

右腕にうすくなりゆく黒子あり消えなば誰の身に発芽する     梅内美華子

夢を碾く わたしのゆめがどなたかのゆめの地層をなしますように      佐藤弓生

境界がわからなくなるところまであなたとおととことばとわたし       馬場めぐみ

 今までは、こういう歌を見るにつけ、これがあの集合無意識≠ニいうものかしら、などと思い、神秘的な味わいだけを味わって、それ以上は特に考えなかった。

 だが、情報菌としての融合的な在り方を意識した後は、右の歌を「夢のような神秘」でなく、「日常の神秘」として鑑賞できる可能性が出てきた。(もともとそういうつもりで詠まれたのを、私が今ごろ気づいただけか。)

 少なくとも、前章でとりあげた、「わたくしの口癖があなたへとうつりそろそろ次へゆかねばならぬ」(斉藤斎藤)は、明らかに日常系の神秘である。情報菌の立場に立脚すれば、フツー≠フ表現であるだろう。

玉川上水いつまでながれているんだよ人のからだをかってにつかって                望月裕二郎

 この歌は夢ではない。奇抜だが、なんと事実である。水は世界を循環する途中で人体を通過する。人体は水から見れば通り道なのだ。

 玉川上水は飲用水供給のために江戸時代に作られた人工の川で、今でも一部は飲用されている。太宰治の入水自殺という出来事も玉川上水にまつわる情報として語り伝えられていて、地球を循環する水が人体を通過し、その水に人は情報を混ぜ合わせる。

 千家元麿の「おうい雲よ」を思わせる親しげなたわむれ口調によって、水の循環と人の情報伝達が重なる。この視点に立つことで、世界観、生命観が刷新される気がした。

 

5 醸すカモシカかもしれない

 最後に、表題「醸すカモシカかもしれない」を考える。

ダイバーの吐き出す息がサイダーの泡のひとつとして湧きあがる                   伊波真人

 ダイバーとサイダーの音の類似、そこに泡のイメージシフトを重ねて詠んでいる。

 現実のダイバーの息は命にかかわる切実なものだが、映像ではいかにも涼しげに見え、それがサイダーの泡の清涼感として湧きあがる。「ダイバーの息」という情報は「清涼感」に変換され、人の間を巡ってゆくのである。

人間が情報を醸すときこういうイメージシフトがしばしば起きる。人が情報菌として「醸す」営みは、現実をイメージで彩色し、解釈で意味づけして配信しあう、人間だけの終身型ネットワークサービスだ。

 このイメージシフトはそこに付随する不可欠の娯楽のようなものなのだろうか。

 

たらちねの酵母

 

「ひさしぶりー、どうしてる? みなさん元気?」

 友人が、開口一番、私の情報を尋ねてくれた。

「ほんとひさしぶりだねー。こっちはあいかわらずだよ。あなたのほうは?」

 お互いの脳内で、たらちねの酵母がほほえむ。

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