花とドライアイスとお坊さん

―― 「鹿首」5号 2014・3 特集「死は祀り」に寄稿

高柳蕗子

 (パソコン画面で読みやすいように、雑誌掲載時よりも改行を増やしています。)

 

 人間は「死」が嫌いだ。

 だって、良いことなどひとつもない。死に至るときの身体の痛み苦しみ。親しい人々との別れ。死ぬのは初めてだから不安だし、きれいに死ねればいいけれど見苦しい死体になりたくない等々。

 その多くは人知を尽くして、ある程度有効な対処がされている。本稿は、そうした「死」への対処を、人知による「死の祀り」と位置づけて書く。

 そのポイントは、(1)お坊さん(2)ドライアイス(3)花だ。

 現代の一般的なお葬式では、お坊さんがお経をよみ、死者はドライアイスと花に埋まっているからだ。

(身体の苦痛は深刻だがほとんど打つ手がない。一人一人、自分に課された苦痛に耐えるしかない。薬物による緩和は不完全で、病院にいても、苦しんで亡くなる場合があるという。対処できないものは「死の祀り」と結びつきにくいので、本稿では、死に際しての苦痛は取り上げない。)

 (1)の「お坊さん」というのは、死生観の象徴として提示した。死生観といっても、高尚なものではなく、一般に広く共有されている、通俗的で親しみのある既存の死生観のことだ。「死」への不安などを、宗教的世界観等で和らげ、なんらかの形で「死」に納得しようとする試みだ。ただし、死生観はたいてい物足りない。時代の知性、感性、そして本音に添って、模索され続けるものかもしれない。

 (2)の「ドライアイス」は、死体の腐敗を遅らせるものだ。

 腐敗は見苦しくて悪臭を放つ。すごく皮肉なことに、その腐乱死体の様相は、今回のテーマ「死の祀り」という語にぴったりのものだ。鳥獣、虫、バクテリアなどが集結して死体を分解し、それぞれ命の資源として持ち去る。その過程は、地球が執り行う「死の祀り」と呼ぶべきものだろう。人はこれを生理的に嫌って、とにもかくにも忌避して対策を講じる。人の行う「死の祀り」は反地球的なものだ。

 そして(3)の「花」。これは何だろう。弔意を具体化し、清浄なものを死者に捧げ、死の穢れなどから死者を守ろうとしているのか。もっと別の理由もありそうな気がする。

 本稿は、こういう観点から、短歌等に詠まれた「死」や自分の体験を参照しつつ、「死」という事実にイメージで対抗して行う、人間流の「死の祀り」について考える。

 一 死生観の説得力

■花のしたにて春死なむ

 「死」に関する言説は、とにかく美化が著しい。「散る」と言うことがあるし、戦争の話で「全滅」を「玉砕」と言うのは、国民を厭戦気分にさせないためなのだろうが、時代が変わってもこの言い替えは使われ続ける。むごいありさまを思い浮かべては死者に失礼だ、という自然な感情が働くゆえだろう。

 言葉というものは、そういう暗黙の了解だらけのものであり、そこに目くじらをたてるつもりはない。「死」を美しく捉える言説は、イメージの世界の豊かさにかなりの貢献をしていると思う。

 ただし、「死」の嫌な面を安易にごまかすのは、ネタバレしたヘタな手品でしかなく、失礼のないように微笑んでつきあうだけだ。変な言い方になるが、だまさずに、かつ見事な手品であることが重要だと思う。

願はくは花のしたにて春死なむそのきさらぎの望月のころ    西行

 なんてきれいな歌だろう。きれいなだけではない。「きさらぎの望月の頃」と時期を絞り込み、めったに叶わない最高のシチュエーションを願っている。つまり、「思い通りの死に方は不可能」という事実認識がセットになっていて、陶酔的だがごまかしてはいない。

 

■ウソにもほどがあるのでは?

 あるお葬式で、老人が感慨深げにこう言うのを聞いた。

「みんな土に還るんだなあ。」

(ウソだぁ。これから火葬にして灰は壺に納めちゃうくせに。友人が亡くなってさびしくなり、みんなふるさとの土になると思いたくなったのか。)

 ところが、こんどはお坊さんがこう言うではないか。

「われらいづかたより来たりて、いづかたへか去る。」

(えっ、去る? 体は土に還さず、タマシイはどっかへ去るだって。私たちたしか地球人だったよね。)

 お坊さんが言ったのはたぶんこれだろう。

不知(しらず)、生れ死ぬる人、いづかたより来りて、いづかたへか去る。

又不知、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。    鴨長明「方丈記」

 平安末期から鎌倉時代にかけて生きた鴨長明の詠嘆だ。現世を「仮の宿」と捉える感覚は、現代感覚に存外合う面もありそうだが、「いづかたへか去る」は、死後に行くあてがある(死んでも死なない)という、その場しのぎのなぐさめに聞こえなくもない。

六道輪廻の間には ともなふ人もなかりけり

(ひとり)(生)まれて独死す生死の道こそかなしけれ(中略)

たましゐ独さらん時たれか冥土へをくるべき

親族眷属あつまりて屍を抱きてさけべども

業にひかれて迷ゆく生死の夢はよもさめじ(後略)     一遍「百利口語」(和讃)

 大迫力である。魅力がある。しかし、鎌倉時代の一遍上人は、和讃をこうしめくくってしまうのだ。

 すべての思量をとゞめつゝ 仰で仏に身を任せ

 出入る息をかぎりにて 南無阿弥陀仏と申べし

 南無阿弥陀仏と唱えれば死後は浄土に行けますよという話。現代人はここでがっかりしないだろうか。

 効力を失いすぎると死生観は微笑ましくなる。祖父に葬儀屋さんが着せた死装束は、首にかわいらしいポシェットを下げてあった。六文銭がプリントしてあった。

 べつに仏教を目の敵にしているわけではない。ドラマで「天から見守る」「星になる」などと言うことがあるが、実生活では気恥ずかしくて言えない。

母が死ぬ前からあった星だけど母だと思うことにしました     木下龍也

 

■生きかはり死にかはりして

 少し話変わって、多くの死生観には「めでたさ」がある。

生きかはり死にかはりして打つ田かな 村上鬼城

 この句には、「人は生きかはり死にかはり、『田』というシステムに永遠に携わる」という死生観がある。「めでたさ」とは、このような何か大いなる摂理などを想定し、人の生死をその一環として位置づけることで得られる安堵感なのである。

 この句の「かな」は何に対する詠嘆なのか。農耕生活への詠嘆か。否、綿々と続く生死の摂理への詠嘆か。否、人間が人間のシステムを綿々と支えて継承していく、ということへの詠嘆か。

 田を打つという営みは、人の手で育てた作物を人に供給する、人間だけの食料自足システムで、たまたまいる動物を狩る狩猟とは異質だし、地球の自然を利用してはいるが、地球の食物連鎖に所属しない。これは食料に限らなくて「文化」全般を含むだろう。たとえば言葉の営みは、イメージの田を耕し品種改良を重ねている、というふうにも考えられる。

 死生観はそもそも人間の勝手な考えであり、自己陶酔すると「めでたさ」が「おめでたさ」に昇格してしまう。

 この鬼城の句では、思考が停止しにくく陶酔しにくいゆえに、「おめでたい」域の足止めを免れそうだ。

 

■たましいを掛けておく釘がない

 現代の死生観は、現代の人がごまかしたくない事実をごまかさず、和らげたいことを和らげるものであるべきだ。

晴れ上がる銀河宇宙のさびしさはたましいを掛けておく釘がない        杉崎恒夫

星空がとてもきれいでぼくたちの残り少ない時間のボンベ               同

 この二つの歌は、従来の死生観に頼らず、天に昇らず仏にもならず、「死」のさびしさを描いている。ここに描かれたさびしさは、先の「百利口語」等とはだいぶ異なる。一首目では、「方丈記」の「いづかたより来りていづかたへか去る」という死生観をやんわり否定してさえいるようだ。

 「死んでどこかに旅するといっても、たましいというコートを脱いでくつろげるような場所は、宇宙にはないんじゃないですか。死のさびしさってそういうものでしょ」と。

 この歌は、こういうさびしさを、銀河宇宙の静寂と、たましいをコートに見立てるウイット、あてがはずれたような言い回しのユーモアによって和らげている。

 二首目では、限りある「生」の時間を「時間のボンベ」という情け容赦なきものに喩え、きれいな星空とその星空を見上げているだろう人の澄んだ瞳とが静かに向き合う図を、厳しい事実を受け入れる境地として提示している。

 この作者は、人がいかに「死」のイメージを操作しようと、それで「死」そのものは変わらない、という、醒めた視点を密かに保ち、それに対処する適切なやさしさを歌に込めている。

 私たちはかつて、星に対して、「真砂なす数なき星の其中に吾に向ひて光る星あり」(正岡子規)などと期待し得たが、この歌では、星がこちらを見るなどと思っていない。片思いであることを心得て、人は静かに星空を仰ぐのだ。

たれかいまかすかにささやく青空の底の秘密を(あなたはゐない)      井辻朱美

 

■領域感覚と新たな死生観

 最近出版された若い人の歌集には、若いのに、「死」に言及した歌がずいぶんある。おそらく新しい死生観が必要になったのだろう。

秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは         堂園昌彦

 「秋茄子」からなぜ「どうして死ぬ」と思うのか、しばらく解釈に困った。これから私なりの解釈を述べるが、そのためには、いったんこの歌を離れねばならない。

 近頃の歌では「領域」の感覚が以前より繊細に捉えられ、たとえば「語彙の領域」というものまで意識される。

電車の外の夕方を見て家に着くなんておいしい冬の大根        永井祐

 帰宅しておいしい大根にありつく歌、なんだけれども、「なんておいしい冬の大根」というわざとらしい母親口調に着目すべし。電車の外の夕方を見るのと同様に、「なんておいしい冬の大根」という語彙圏の部外者として食べるおいしい大根。こういう領域感覚が歌に詠まれる時代だ。

 これに似て、堂園の歌の「秋茄子」という語も、多くの伝統的イメージを背負った語だ。秋茄子を季節感などの豊かなイメージとともに食せる人は、そのめでたき語彙圏に所属し、その語彙圏にある死生観の中で死ねるだろう。

 しかし、その領域に所属できない者は、従来のイメージによる「死の祀り」の部外者だ

 秋茄子をためつすがめつ光らせるのは生命感を観察することである。普通なら自然の恵としての生命感を見るところだが、いきなり「どうして死ぬんだろう」とぽろっと出た問いの飛躍ぶりと、さみしげな口調を考え合わせると、従来の死生観を拠り所に出来ない、という心情に基づく歌であると推察されるのだ。

 若い歌人の歌では領域移動や存在の変容がしばしば題材になる。「カードキー忘れて水を買いに出て僕は世界に閉じ込められる」(木下龍也)「網棚を初めて使うもう二度と戻れないとは知っていながら」(望月裕二郎)など、不可逆の領域移動に関心が強い。従来の一般的な死生観に対して、彼らはたぶん、失礼のない程度に微笑んでいると思われる。

 

二 死体の地球パワー

 

■アカシアの雨にうたれて死ぬ

 はじめて詩歌で「死」に出会ったのは、子供のころの流歌「アカシアの雨がやむとき」(作詞:水木かおる 歌:西田佐知子)である。

アカシアの雨にうたれて

このまま死んでしまいたい

夜が明ける 日が昇る

朝の光のそのなかで

冷たくなった私を見つけて

あの人は

涙を流してくれるでしょうか

 子どもの心に「死」への美意識が芽生えた。

 「あの人」の目になって見る美しい死体。花を透過した美しい雨で、一晩かけて少しずつ失われる命……。

 が、今になってはたと考えた。歌詞冒頭の「アカシア」が無かったらどうだろう?

「雨にうたれてこのまま死んでしまいたい」

 美しさ激減。気品が損なわれ、びしょぬれで哀れっぽくなる。体力を奪われて死に至るのは苦しそうだから、そのぶんあてつけがましさも漂ってしまう。

 右の例は流行歌だから娯楽的な面もある。「死」は娯楽領域で親しまれることがあり、私はガイコツをプリントした服を持っている。ガイコツプリントはうんとデフォルメしてあって、なまなましくないから忌避感も起きない。

 

■「迫真の」死体

 全く逆に、徹底的になまなましく表現される死体もある。

 犯罪捜査ドラマでは、毎回、いろんな殺され方をした死体が登場する。でも、それらはなぜか見苦しくない。職人さんが腕によりをかけ、注意深くこしらえた「迫真の」死体だからだ。

 「NCIS ネイビー犯罪捜査班」というアメリカのドラマの一話を紹介しよう。

 変死体が盗まれた。監察医と助手もいっしょに拉致された。山中のアジトで、医師たちは解剖を命じられた。変死体は重要なものを飲み込んでいるという。死体が胸から腹へと大きく切り開かれる。

 犯人は銃をかまえて立ち会っているが、もう一方の手は鼻を押さえている。(幸いテレビからは悪臭は出ない。)医師が(わざと)派手に胃袋を裂くと、内容物がじゃぼっ! 犯人は部屋から飛び出した。(笑)

 ここで医師と助手が小声で話す。

助手「解剖が終わればわれわれは殺されます。どうしましょう、立ち向かう武器もない。」

医師「われわれには死体がある。死体は武器になるぞ。」

 二人は解剖に手間取るフリをしながら、腸の内容物を使ってメタンガスを作りため、爆発させて逃げたのだ。

 

■地球方式の「死の祀り」

 ここまでにあげた二つの死体の例、アカシアの美意識の雨にうたれる死体と、リアリティ重視の「迫真の」死体は、両極のようだが、どちらも演出されたものである。

 では、本当に対極にあるのは何かというと、本物の死体だ。が、本物の死体の話の前に、「九相図」(くそうず)に触れておこう。

 「九相図」は、死体が少しずつ腐っていくさまを九段階で描いた仏教絵画で、現世の肉体の不浄・無常を知って煩悩を振り払うためのものだ。修行僧の多くが男性だから、美女で名高い小野小町が描かれることが多かった。腐乱死体の様相は、男性の強い煩悩をも吹っ飛ばすものらしい。

 絵は見ていないが(見たくない)、調べたところ、九相とは、およそ次のようなものだそうだ。

1 脹相(ちょうそう)死体が腐敗によるガスの発生で内部から膨張する。

2 壊相(えそう)死体の腐乱が進み皮膚が破れ壊れ始める。

3 血塗相(けちずそう)死体の腐敗による損壊がさらに進み、溶解した脂肪・血液・体液が体外に滲みだす。

4 膿爛相(のうらんそう)死体自体が腐敗により溶解する。

5 青瘀相(しょうおそう)死体が青黒くなる。

6 噉相(たんそう)死体に虫がわき鳥獣に食い荒らされる。

7 散相(さんそう)以上の結果、死体の部位が散乱する。

8 骨相(こつそう)血肉や皮脂がなくなり骨だけになる。

9 焼相(しょうそう)骨が焼かれ灰だけになる。  Wikipediaより)

 人ひとりの身体が地球に還元されるまで、なんと手間ひまがかかることか。死体は表面が破れ、内側から溢れ、鳥獣や虫が(バクテリア等も)集まってきてくれて、解体し、地球の命の循環システムに還す。

 この工程こそは、地球方式の「死の祀り」というべきものではないだろうか。

 もっとも、地球に「祀る」という意識はない。自然界のものはみんなあるがままにあるだけなのに、それがどういうふうに、命の循環の仕組みとなったのか。悠久の時のなか、あるがままがたまたまうまくつながって、意思なき意思を形成したのだろうか。

 人間はこの自然界の意思なき意思を攻略し、いわば片思いをし続けているけれど、しかし、この地球方式の「死の祀り」を、私たちは地球人であるにもかかわらず、しんそこ嫌悪してもいる。

 

■死体とはいっしょにいられない

 私は「九相図」のような状態の死体は見たことがない。よって、「九相図」がどの程度に現物に近いのかわからないのだが、少なくとも「九相図」には悪臭がなくて、それだけでも、本物の迫力には遠く及ばないらしい。

「防空壕に隠れていたとき、いっしょにいた知らないおばさんが大怪我をした。だんだん傷口が腐って、何日も苦しんで亡くなった。やむなくその防空壕を出たさー。」

 沖縄の親戚に聞いた沖縄戦の体験談である。危険なのになぜ防空壕から出たのかと、無邪気に尋ねてしまった。

「人は死ぬとすぐに腐る。そのおばさんは、生きてるうちから傷が腐って、蠅がたかってウジがわいて、見たら気味が悪くて、見なくても臭くて、すごく臭くて。(ここで言葉が止まり)まして死んだ人とはいっしょにいられない。爆弾が降るから埋めてあげる余裕もなくて、しかたなく置いて出たさー。」

 沖縄戦は長期の地上戦で、終戦後も人々は終戦を知らず隠れ続けた。死者は二十万以上。即死でなかった人は、この話のおばさんのように苦しんで亡くなり、遺体は何ヶ月も埋葬されぬまま、そこいらじゅうにあったという。

 二十万体以上が「九相図」の過程を経て土に還った。

(正確には、未だ完全には土に還らず遺骨として埋まっている。)

 沖縄の親戚の人は、幼時に見たその光景を決して忘れないが、思い浮かべることもできないそうだ。

 

■吾に恥見せつ!――売り言葉に買い言葉

 自分の腐乱死体を見られて怒る話がある。古事記の誰もが知っている話だが、大好きだからあらすじを書きたい。

 イザナミノミコトは火の神の出産による火傷で死んだ。夫イザナギノミコトは、黄泉の国まで連れ戻しに行った。妻はすでに黄泉のものを食し、その場合は戻れない規則だったが、黄泉の神に掛けあってみることにした。

 交渉の間は私を見るな、と言われたが、闇の中で待ちきれなくなった夫イザナギは、櫛の歯を折って灯し、そして、見てしまったのだ。

(うじ)たかれころろきて、頭には大雷(おおいかずち)居り、

胸には火雷(ほのいかずち)居り、腹には黒雷(くろいかずち)居り、

陰には泝雷(さきいかづち)居り、左の手には若雷(わかいかずち)居り、

右の手には土雷(つちいかずち)居り、左の足には鳴雷(なりいかずち)居り、

右の足には伏雷(ふしいかずち)居り、併せて八柱の雷神成り居りき。

 妻の身体に蛆と雷神がいっぱい! それは愛妻家のイザナギも逃げ出すほどに恐ろしいありさまだった。

「吾に恥見せつ!(わたしに恥をかかせましたね)

 見られたことに気づいた妻イザナミはすごく怒って、黄泉醜女(よもつしこめ)などを放って夫を追わせた。夫は命からがら黄泉の国から脱出し、出口を大岩で塞いだ。そして、その岩を挟んでの大喧嘩になった。

妻「愛しき我が夫の命(みこと)、かく為せば汝の国の人草(人間)、一日に千人殺さむ」

夫「愛しき我が妹の命、吾一日に千五百の産屋を立てむ」

 売り言葉に買い言葉。トイレでお尻をまくったみっともない姿を夫に見られても、こうまでは怒るまい。

 

■言葉のドライアイス

 さて、この章の本題は、ドライアイスのつもりだった。

 現代の遺体は、腐敗を防ぐために、ドライアイスとともに安置される。ドライアイスがない時代では消臭に気を使っただろう。

 人は腐敗を忌避する。現実だけでなく、イメージの中、言葉の中でも、ドライアイス的な役割をする語がある。

 と、本当はそういうことを書くはずだったが、前置きのつもりの死体の話が長くなってしまった。

 挽歌、鎮魂歌等をドライアイスの例として引用するのはためらわれる。一つだけあげさせていただく。

雪の上にいでたる月が戦死者の靴の裏鋲を照らしはじめつ        香川 進

 この靴の中の足がどうなっているか、私は今日まで考えたことがなかった。

 しかし、現実の戦場を知る人は(沖縄の親戚などは)、この歌の「雪」や「月」が慰める無残なものを、私などよりも具体的に感知し、より切実に、この美しい鎮魂(保冷・浄化)を味わい得るのではないだろうか。

 人間の「死の祀り」というべきものは、一章で考察した死生観(多くは「死」を受け入れやすくするもの)だけではない。防腐や消臭に似た働きで、地球方式の「死の祀り」に対抗するイメージ群もまた、人間の「死の祀り」の切実な要素であるように思える。

 

■夫婦喧嘩できない

 前々項の古事記の話は、日本の神話らしいおおらかさにもかかわらず、さほど「おめでたい」感じはしない。

 その理由の一つは、死体への嫌悪が率直であることだ。古代人の死体認識は甘くない。腐乱死体に雷神というおどろおどろしくかっこいいイメージは、「迫真の」演出なんかではなかろう。むしろ事実を越えるイメージで、ねじ伏せる必要があったように、私には見える。

 二つ目の理由は、この死生観がさびしくないことだ。多くの死生観がさびしさにおたおたするなかで、この死生観における「生」と「死」は、決別しつつも離れられず、永続する売り言葉と買い言葉として対立する。それも「愛しき我が……」と呼びかけあいながらの夫婦喧嘩だ。「生」も「死」もちっともさびしがれないではないか。

 たとえ喧嘩でも生死が接点を保ち、互いを意識しているという死生観の魅力は捨てがたい。ただ、生死はこういうふうに夫婦喧嘩できないから、さびしいのである。

 実際のところ、地球方式の「死の祀り」に隣接して構築する人間の「死の祀り」は、そして、「死」に限らず、あるがままの世界に対して私たちが構築するイメージ世界は、人間の側の一方的な片思いだ。次章ではその淡く切ない片思いのことを考える。

 

三 この世に開く花

 

■きゅっきゅっと栓をする

 ここまで死生観と死体のことを書いた。人は、「死」の不安などに対処して死生観を抱く。死体の腐敗を防ぎ、イメージの中でもそれに対抗している。これから書く「花」も同様の働きをしているのだが、もう一歩踏み込みたい要素がある。周り道をしてしまうが、実体験から書き始めたい。

 私がこれまでに見た死体はみんな、白布を顔にかけ布団に寝かされ、きれいな「ご遺体」になっていたが、死体にはすぐに、ある処置をほどこす必要がある。

 祖父は家で亡くなった。大騒ぎだった。

白布は?」

「ハンカチでいいか。折り目がついて変だけど。」

「魔除けに刃物を置くもんだろ。」

「包丁しかない。どこに置くの?」

枕元かな。」

「胸の上かも。」

 葬儀屋さんがなかなか来ない。身内でとりあえずの処置を施すことになった。若い私には声がかからず、隣室で聞き耳を立てていると、指揮をとる老人の声が聞こえた。

「ダメダメ。こうして、ね、こうして、きゅっきゅっと詰めるんだよ。出てきちゃうからね。」

そばにいた人が小声で教えてくれた。

「穴という穴に綿を詰めるんだ。」

 三十数年も前の話である。

 その少し後、祖母が病院で息を引き取った。このときは、医師がご臨終を告げたあと、入れ替わるように、白いエプロンをした女性が二人来て、深々とお辞儀をした。

「私どもがご遺体の処置をさせていただきます。」

 病室にいた私たちは(ほっとして)、言われなくともぞろぞろ退室した。

 ところで、きゅっきゅっと栓をしないと、何が出てきてしまうのか? 

 地球が溢れ出てくるのだ。

 

■「花」と「穴」の淡い縁

 こんなところに引用してしまって、しかも作者の意図せぬ変な話に巻き込んでしまいそうで申し訳ないが、

穴という穴に真綿を詰められて荼毘に付された娘(こ)の花赤し                天道なお

 という歌を見てひらめいた。「穴」と「花」は、淡い縁があるではないか。

 (葬儀の時だけ出会う遠い縁だが、)どちらも「開く」という共通点があり、かつ、「花」が開くのは地上世界への志向を感じさせるのに対して、「穴」は開いて地下へと誘う、という対比もある。

 柩の死者は箱入り娘だ。雷神(イザナミノミコトの話を参照)が涌かないようドライアイスを抱かされ、体内の下品な地球が漏れぬように穴という穴に綿を詰められる。

 そのかわり、地球の自然のなかでも特に上品な「花」をお友達にしなさいよと、柩にいっぱいに入れてもらう。

 これは無理なこじつけだろうか。だとしても、もう少し関連しそうな用例を探してみよう。

 

■花はこの世に開く窓?

 父の死は三十年ほど前、祖母の翌年だった。

 父の柩には、お別れ用の小窓があった。小窓を開いて覗くと、花がある。さらによく見ると、花に混じって目鼻口がある。それが父なのだった。

此の世に開く柩の小窓といふものよ    山川蝉夫

 「此の世に開く」という言い回しには幽かな暗示があるだろう。「開く」が「花」の縁語であるからだ。

 父はもうこちらを見ない。柩の小窓はこの世に向かって開くのに、父の顔は窓へと仰向いているのに、その顔を囲む花たちと同じように、こちらを見ていない。

 死者の顔と花の配置は、納棺の演出である。美しいだけでなく、最後のお別れという心情にも配慮した表現として、

「亡くなられた方はお花になりました。」

と、納棺師が配置した「死の祀り」ではなかろうか。

 花は地上へと開く。地下に誘わない。地上の何も見やしないが、意志でない意思によって地上へとひたすら開く。花はこの世に開く窓だ。父はそういう存在として祀られていたのだった。

 

■共に在るために

 思えば「土に還る」というイメージには、物質として地球の自然に吸収され、この先も形を変えて「共に在る」という意味合いがある。

 「花になる」は、物質的変化でなくて、存在の仕方が異なる隣接世界への移籍のイメージである点は異なるが、前項に書いた「窓」のような性質によって、少なくとも拒絶的ではない変化だ。

林檎の花に胸より上は埋まりおり そこならば神が見えるか、どうか        永田和宏

 花に埋まっている故人はもう見つめ返してくれない。

 「胸より上が花に埋まり(存在の変化を表す変身のようだ。あなたは半身すでに私を残して行ってしまったのか。私もさびしいが、あなたもさびしいだろう。でも)そこならば、(私を見ないかわりに)神が見えるのかもしれないね。」と、いったんは考えかけ、「か、どうか」と考えなおしている。

 この「か、どうか」の哀切さはどうだ。「神を見る」という空想は思いやりのつもりだったが、こちらの満足でしかないかもしれない。「見える」と言ってしまったら、そのぶん今のあなたの真実を考えない空想にひたってしまい、そのぶんあなたを突き放すことになりはしないか? そういう「か、どうか」だ、と私は思う。

 生者が死者を思うのは片思いである。その事実を曲げることなく、誠実に片思いを続けること。それが人間流の「死の祀り」として一番素直な方法だ。

 

■人類が建てるイメージの産屋

「生」VS「死」の関係は、「人間が認識や意思によってイメージで構築する世界」VS「あるがままの世界」との関係となんだか重なるように思える。

「イメージ世界」は「あるがままの世界」のいくつかの面を嫌悪しつつも、大変な熱意で攻略を続けている。しかし、どんなに攻略しても、「あるがまま」は、「よくやった」とも「やめてくれ」とも言ってくれない。

「千人殺す」と言うイザナミに対して、イザナギは「千五百の産屋を建てる」と言った。一.五倍という程よい数である。だが、死者のごとくにむっつりを決め込んだ世界に対し、片思いする人間は、何万倍ものイメージの産屋を建てる。どんどん膨張してゆく祀りのようだ。

この祀りは、そもそもの「あるがままの世界」に寄り添うことを忘れることがある。「死」は二者の接点として、私たちが「死」を誠実に受け止めようとするなら、それとなく二つの世界を引き寄せてくれるのだ。

極楽は眉毛の上の吊し物あまりの近さに見つけざりけり     道元


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