ジャンボ・プロフィール

ここではジャンボ鶴田のプロフィールを紹介します。
が、一部私見・演出も混ざっています。タイトルについては初戴冠以外はあえて省いています。
完全な誤り、追加希望項目の連絡はこちらです。

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本名:鶴田 友美(つるた ともみ)
愛称:ジャンボ、ともちゃん、マスター、トミー
生年月日:1951(S26).3.25(日)先勝
干支:兎年
九星:四緑木星
星座:牡羊座
出身地:山梨県東山梨郡
血液型:O(オー!)型
身長:196cm
体重:127kg(今はそんなに無いはず)
趣味:作詞、作曲、歌唱、音楽観賞
好きなタイプの女性:藤純子のような日本的な女性
好きな色:グリーン
嫌いなもの:ヘビ類
学歴:牧丘町第二中学校−山梨県立日川高校−中央大学−筑波大学大学院
オリンピック:1972年ミュンヘン−レスリング・グレコローマンスタイル100キロ以下級 (2回戦敗退:7位)
特技:講演
座右の銘:「健全な精神は健全な肉体に宿る」 〜 ユヴェリナス 〜
       「スポーツは我々に公平に勝つことを教えてくれるだけでなく、威厳を持って負ける事も教えてくれる。
       つまりスポーツは全てのこと、言わば、人生というものを我々に教えてくれる」〜 E.ヘミングウェイ 〜

週刊プロレス選手名鑑 歴代プロフィール
東京スポーツ新聞社制定プロレス大賞 歴代受賞記録



略 歴
(鶴田x年)は西暦を鶴田暦に変換したものです。試験に出るので学生は暗記!

少年時代(1951−1966:鶴田元〜16年)
1951.3.25(鶴田元年)
鶴田友美誕生。おとなし気な顔をしており、気の優しい子かもしれないと父親が判断。「友美」と命名される。今が想像も出来ない位小さい子だった、3人兄弟の末っ子。
小学校4年の大晦日。盲腸で入院。退院が小正月(15日)頃になるといわれ、餅が食えないのを悲しむ。すでに食いしん坊バンサイ!
先生から代わる度に女の子と間違えられるので「友美」という名があまり好きではなかった。
体が大きくなり始める。「デカ」(体がでかいので)と呼ばれる事が嫌だった。
牧丘町第二中学校(既に廃校)では陸上部に所属。社会科の先生が好きだったので自然に社会、歴史が得意科目になる。
中学一年の運動会では足にあう運動靴がなくゴム草履で参加。
中学二年の夏休み。既に180cm、72kgあった鶴田は親戚の勧めで大相撲朝日山部屋に見学に行く。のんきな性格のおかげか帰るまでに一回も実家に連絡を入れていない。中学校を中退するのが嫌ですったもんだの末、入門は拒否。本人は単なる見物気分だったが周囲の人間は入門と思い込んだ為、戻ってきた鶴田を相撲をクビになったと誤解。鶴田の心に暗い影を落とす。

高校時代(1966−1969:鶴田16〜19年)
県内でも有数の進学校である日川高校に入学。バス通学だと天井に頭が突っかえるのが嫌で三年間自転車で通学する。本当はバイクが欲しかった様だ。
野球部に所属。甲子園、プロ野球(巨人ファン)を目指し頑張る。投手で強打者だったが、高校受験勉強での視力低下により泣く泣く一年の夏に退部。もし、視力低下していなかったらプロ野球か?G馬場と同じくプロレス入りか?
バスケット部に勧誘され入部。一ヶ月後には全国大会に出場する。親切なシューズメーカーの人に見込まれ毎月シューズを送ってもらえる事になり感激する。全国大会は三年間全てに出場する偉業。
高校二年の夏〜秋。わずか一週間の練習(吊り技のみ)で相撲の全国大会に出場し、県二位、全国四位となる。やはり相撲でも怪物なのか?
高校三年の夏。全国大会後、大学へ進路を固める。スポーツで入学する事をよしとせず、自力で入る事を決意。すげー、すげえぜ、ジャンボ!中央大か早稲田大か迷ったがバスケ部に馴染みがある中央を選択する。

大学時代(1969−1973:鶴田19〜23年)
一年の時、バスケ部がオリンピックアジア予選に韓国に敗れた為、「ひょっとしてオリンピックに出れないんじゃない・・」と、バスケ部を退部。後、バスケットではプロ選手になれない事も原因の一つだった。
レスリング部に転部しようとしたら「バスケの練習に耐えられない奴は駄目」と断られる。他に柔道、ボクシング、バレーボール(何故バレー?)部にも断れられた。
雑誌の記事で知った埼玉県朝霞の自衛隊体育学校レスリング部に練習しに行く。社会人選手権に出場し、第三位。
大学三年の全日本選手権では第一位の成績。断られたレスリング部から入部依頼。心がジャンボなので快く入部する。
大学四年の大学選手権で団体優勝。念願のミュンヘンオリンピックに出場。メダル獲得はならず。
<ミュンヘン出場時の体力測定結果>
21歳 体重 110kg 身長 193.5cm 座高 99.2cm 胸囲 114.9cm
背筋力 228kg 握力・右 76kg 左 77kg
肺活量 6400cc 体脂肪 13.86%
1972.10.31(鶴田22年)
赤坂プリンスホテルで全日本プロレスへの入団を発表。 ジャイアント馬場の地位、名誉、経済力に魅力を感じてのこと。例の台詞を吐く。


プロレスラー時代(1973〜 :鶴田22〜 )
1973.3.22(鶴田22年)
テキサス州アマリロのファンク道場へ入門。スタン・ザ・ラリアット・ハンセンや帝王ボブ・バックランドとともにラーメンをすすりながら修行。日本から送られたラーメンはほとんどがハンセン達に食われたという。
1973.3.24
アマリロにてエル・タピア戦でデビュー(TVマッチ)。いきなりスタジオでドリー・ファンク・シニアに言われてびっくり仰天。
1973.5.20
ニューメキシコ州アルバカーキはシビックオーデトリアムでドリー・ファンク・ジュニアの持つNWA世界ヘビー級選手権に挑戦。デビュー3ヶ月に満たないのに世界挑戦・・ハッキリ言って凄すぎる。一本目を原爆固めで奪ったが後の二本を取られ残念ながら敗北。
1973.10.1
6カ月間、約150戦を消化して修行より帰国。修行中には車の運転で日本と同じ様に左側通行をして正面衝突しそうになったり、アメリカのおねーちゃんにモテたりとエピソードには事欠かなかった模様。
1973.10.6
後楽園ホールでムース・モロウスキーにフォール勝ち。国内デビューを飾る。
1973.10.9
馬場と組み、ファンクスの持つインター・タッグ選手権に挑戦。1−1のドロー。
1973.10.27(鶴田23年)
リングネームがジャンボ鶴田に決定。 ファン公募により決まったもの。当時、ジャンボジェット機が就航し始めたのと、師匠のジャイアントという大きいものを表現する言葉とから誰もが考えたと言われている。
1974.1.4(鶴田24年)
ジャンボ鶴田として初試合。 後楽園ホールにてK・V・スタイガーを原爆固めで破る。
1974.12.2
馬場、第49代NWA王者になる。鶴田は44番のラグビーシャツ(?)を着て祝福のリングイン。
1975.2.5
テキサス、サンアントニオにて馬場と組み、ファンクスからインター・タッグを奪取。
1976.3.10
日大講堂にて「鶴田・試練の十番勝負」がスタート。
1976.8.28
復活したUN王座決定戦にてジャック・ブリスコを破り、王者となる。
1978.12.15
世界最強タッグリーグ戦で馬場と組み、優勝。
1979.1.5
川崎にて「鶴田・試練の十番勝負」が終了。4勝2敗4分け
1979.8.26(鶴田29年)
全日、新日、国際によるオールスター戦。藤波、マスカラスと組み、快勝。
1980.5.1
第8回チャンピオン・カーニバルで喧嘩番長ディック・スレーターを破り、初優勝。キム・ドク、大熊、小鹿らに騎馬組みで担がれオー。
1982.6.8
蔵前。リック・フレアーとのNWA戦から星タイツから黒いタイツにチェンジ
1983.8.31
蔵前。テリー・ファンク引退。ブロディをリングアウト葬でインター・ヘビー選手権奪取。
1983.11.25
ジャンボ鶴田著「熱き若武者の叫び」発売。
1983.12.10
入場テーマが「J」になる
1983.12.20
赤坂プリンスホテルにて日本テレビ新春かくし芸大会の優秀個人賞受賞。全日本プロレスは団体準優勝。
1984.2.23(鶴田34年)
AWA、インターヘビーダブル選手権試合。ニック・ボック・ウィンクルを岩石落とし固めで破り、世界を制す。日本人初のAWA王者。控え室では後藤、三沢らに騎馬組みでオー!!しばしのAWAサーキット防衛の旅。
1984.5.13
2度目の防衛サーキット最終戦、セントポールのシビックセンターでリック・マーテルにAWA選手権を奪われる。防衛は16回。
1984.9.23(鶴田34年)
♪東京はホテル・オークラで挙式♪ 奥さんは当時巨人軍の定岡選手のファンだった。負けるな、ジャンボ!
1984.12.12
天龍と組み、超獣&不沈艦組に勝つ。最強タッグリーグに優勝。鶴龍コンビ。
1985.8.28
赤坂プリンスホテルで日テレがゴールデンタイム復帰発表記者会見。馬場とともに満面の笑みを見せる。他の選手はおすまし顔。
1985.11.4
延ばしに延ばされた長州とのシングル初対決。鶴田は余裕の60分時間切れ引き分け。
1987.7.3
後楽園ホールで二代目タイガー・マスクと組み、不沈艦&テッド・ミリオンダラーマン・デビアス組からPWFタッグ選手権奪取。
1987.12.11
谷津と組み、世界タッグリーグ戦優勝。五輪コンビ。
1988.6.10
日本武道館で谷津と組み、ロード・ウォリアーズと対決。PWF、インタータッグダブル選手権を奪取。初の世界タッグ王者組となる。
1989.4.18(鶴田39年)
大田区体育館で不沈艦を撃沈し、インターナショナル、PWF、UNヘビー級選手権者となる。つまりは初の三冠統一王者。この時点で世界タッグも保有していたので、これまた初の五冠王!
1991.4.16
愛知県体育館で不沈艦をジャンピング・ニー葬。復活したチャンピオン・カーニバルに優勝する。「オー!」連発。
1992.秋(鶴田41年)
B型肝炎の為、長期欠場となる・・・日刊スポーツ紙に「引退」の超誤報まで飛ぶ騒ぎに。
1994.10.18(鶴田43年)
筑波大学大学院修士課程体育研究科社会人特別選抜「コーチ学」を受験。
1994.10.28(鶴田43年)
筑波大学大学院に見事合格 。「名前があるのを見て頭の中が真っ白になりました。」
1995.春(鶴田44年)
筑波大学大学院に入学。
以降
筑波大学スポーツ科学・健康研究所主任研究員、各校の非常勤講師、プロレスラーを続けている。主にNHKに出演が多い。時々、日本テレビのバラエティに出演。
1998.1.21
長野オリンピック聖火リレーで山梨2区を激走。
1998.5.1
全日初の東京ドーム大会でバックドロップを披露。
1999.2.1〜8
ジャイアント馬場逝去報道でTVインタビューに答える・・
1999.2.20(鶴田48年)
キャピタル東急ホテルで引退表明記者会見。「ひとつの時代が終わった。」
アメリカ・オレゴン州立ポートランド大学に教授として就任することを発表。
1999.3.6(鶴田48年)
’99エキサイト・シリーズ最終戦日本武道館大会で引退表明セレモニー
「長い間、本当にジャンボ鶴田、全日本プロレスを御声援下さいまして、ファンの皆様、ありがとうございました。・・・・これからも全日本プロレスに熱き御指導と御支援を、切に、切に宜しくお願いします。」
1999.3.10
成田空港よりアメリカへ出発。「もう気持ちの整理はついていますし、向こうでも気後れしないようにやっていきたい。」
1999.7.19
ポートランド大学で講演。「日本とアメリカの」、当日以外にも26、8.2、9で開催
1999.12.?
肝臓を患い帰国。肝臓疾患の権威とされる岐阜県内の松波病院で入院生活。「あなたの知っているジャンボ鶴田はもういませんよ、」
2000.4.11(鶴田49年)
オーストラリア・プリスベーン市の病院に転院。一週間ほどでドナーの関係上フィリピン・マニラ首都圏ケソン市の国立腎臓研究所に転院。
2000.5.12
肝臓移植手術中にショック症状を起こし大量出血。
2000.5.13
17時(現地時間16時)息を引き取る・・
2000.5.17
19時35分涙雨の成田空港に夫人の元職場であるJALで無言の帰国
2000.5.18
都内で親族のみのお通夜
2000.5.19
都内で歴代入場テーマを流す中、親族、関係者のみの葬儀。戒名は「空大勝院光岳常照居士」
2000.6.18
青山葬儀所にて12時〜15時30分「ジャンボ鶴田メモリアル 献花式」を行う。この日は前日の豪雨が嘘のようなジャンボ晴れ。
「花一輪、一輪、ありがとうございました。」(保子未亡人の挨拶)
2000.6.30
四十九日法要、納骨式が慶徳寺で行われた。お墓は鶴田選手と同じ身長の円形。「人生はチャレンジだ!」とタイトル暦が刻まれている。
「ファンの方々にも、焼香していただければ幸いです」(保子未亡人・談)
− 参考資料 −

適宜更新していきます。