承徳  外八廟紹

承徳の避暑山荘の東側と北側の緩やかな起伏の続く丘の上に、あたかも月の周りを囲む星のように色彩絢爛、金碧煌めく大型のラマ寺廟が輪状に集まっている。これらの寺廟の建物は清澄で風格類ないものである。又、漢、モンゴル、チベット文化融合の典型である。

又ここでは、チベットのポタラ宮を仰ぐような迫力を感じ、タルシンポ寺の勇姿を見ることも出来る。又山西の五台山や新彊イリのクニサ寺に来たかのように感じることも出来る。。更に世界最大の木造仏像、千手千眼観世音菩薩にもお目にかかれる。以前はこの八つの寺は北京の理藩院によって管理されていた。北京のラマ記録所の記録によれば北京にはラマのことを処理する常駐の事務所がなく、八つの寺全てが古北口(北京と承徳の間にある長城の出入り口)外にあることから8つを総称して外八廟と呼んだ。(即ち口外の八つの寺の意味である)。それがいつの間にか外八廟は12の寺の総称となった。1994年12月外八廟は避暑山荘とともに世界文化遺産に登録された。

避暑山荘と外八廟を外形で見比べると、避暑山荘は荘厳、いかにも皇家の宮殿である。遊歩を楽しむ四阿、軒、高閣全て青磚灰瓦を使っている。古めかしく飾り気のない自然な風格を示している。その周りに建てられた外八廟はカラフルな瑠璃瓦が使われ、頂には金メッキ魚麟瓦を載せ峨峨とそびえる様は荘厳そのもの、紺碧に光り輝いてまさに華麗な王宮の景色といえる。避暑山荘の古朴典雅さと対照的な鮮烈さである。清代康乾二代の心配り、苦心の程が伺い知れる。

外八廟の中の12の寺の建築様式は漢式、チベット式、漢チベット結合式3種類ある。外八廟の建物、庭園、およびおびただしい数の碑、彫刻、壁画、仏像、祭器等で清代の歴史、文化宗教芸術、庭園芸術、形象を研究すれば2百年以上も前の労働者の智慧と才能そのものが得難い宝物だと言うことが認識できる。

 

普寧寺 俗称大仏寺、1755年創建、河北省の承徳避暑山荘の東北に位置する。面積33,000平方メートル。その名には「天の下 普(あまねく)永遠の安寧を」の意味が込められている。漢チベットの建築様式の風格を一体に融合したものである。

前方は漢仏教の伝統の七堂伽藍方式の配置。主殿の大雄宝殿には三世仏をまつる。後ろ部分は9メール強の高さの基台の上にある。チベットの三摩耶廟に倣ったもので、大乗之閣を中心として「須弥山」と「九山八海」の構成になって、チベット族の建築の特徴とチベット仏教伝統の宇宙観を表している。

大乗之閣は普寧寺の中心建物であり、高さ36.75メートル。閣頂には大4個小5個の先のとがった金頂をまとめて構成する金剛宝塔がある。廟内に立つのは金漆、木彫の千手千眼観世音菩薩、これは中国古代彫刻芸術の絶品である。仏像の高さは22.28メートル、重さ110トン、木造仏像としては世界一である。

普寧寺は借景も巧みである。山に依り沿いその勢いを生かし、伝統に則った配置は味わい豊かなものにした。寺内に重々と続く岩、濃い緑の古松、天然の画塀のごとく。

紺碧に輝く殿閣を引き立たせ気宇軒昂、壮観、その様は皇子の天下に臨むときの風格を示している。
普寧寺は既に中国北方最大のチベット仏教活動拠点となっており、世界レベルの文化観
光地である。1961年全国重点文化財に指定され、1994年には世界文化遺産に登録された。

普楽寺

普楽寺は乾驍R1年(1766年)創建、面積24,000平方メートル、建物の配置と形式は前後二つに分けられる。前半部分は漢族の寺廟伝統形式を採用し、七堂伽藍形式の配置である。後半部分は旭光閣が主体建物で北京天壇の祁年殿に倣ったものだ。

普楽寺建設の主目的は清朝皇帝に謁見に来る哈薩克、維吾尓、柯尓克孜等の西北各少数民族の王侯貴族が崇礼をする用に供することである。清朝政府は宗教政策と辺境少数民族の団結を固めるためこれを利用した。封建統治強化の活動の場であった。乾骰c帝は題名「普楽」を范仲淹の「岳陽楼記」中の名句から取った。即ち「普天同楽」の意味である。寺全体は漢チベット結合方式である。西の部分は漢族の寺廟様式で、山門、天王殿、鐘鼓楼、脇殿、正殿からなる。東の部分はチベット様式で主な建物は旭光閣、重檐(重軒)圓頂、北京の天壇公園の祁年殿に似ている。殿内の須弥壇には大きな曼陀羅模型が置かれている。これは37個の部分の組み合わせできている。

37は釈迦牟尼の37種類の学問の数を表している。その上には銅製の双身仏像一体がある。これは男女抱合いの姿であり、俗称「歓喜仏」と呼ぶ。男像は「上楽王仏」(即ち勝楽王仏、歓喜仏)、これは大日如来の法身正面が磐錘峰の方を向き、「智慧」を表す。女像は明妃(即仏母)で遙か永佑寺舎利塔に向かい「禅定」を表す。これは密教の最高修練形式であり原始生殖崇拝意識の形態を反映している。
殿内頂上部分には円形の天井画が嵌め込まれている。龍鳳の図案、龍鳳天井画の中心は彫金の龍が戯れている珠が描かれている。 (この間の天井画の構造説明は理解不可能につき省略)、 彫刻は繊細であり、金色の光は閃々、最高の芸術的価値を備えている。

溥善寺

創建康熙51年(1712年)。中原仏教の顕宗の建築風である。主要建物は山門、鐘楼、鼓楼、天王殿、仏楼、および脇殿である。敷地面積27,500平方メートル。溥善寺は康熙皇帝60歳の時蒙古各部の首領が祝意を申し出てこれに応えて建立された。寺内に供奉されている無量寿仏は最高の精緻さで造られている。仏楼一階には宝座がない。これは皇帝が読経の祝詞を受けるところだからだ。別にある壇はラマの経文講義の場所である。二階には経典を収蔵する。現在僅かに残っているのは数本の古松で出来た基礎の残材だけである。建物は1920年代、湯玉麟が熱河地方を統治したときに壊されてしまった。

 

溥仁寺

康熙52年 1713年創建、康熙時期に創建された寺廟の現存する唯一のものである。この年は康熙皇帝60歳の祝い年でその時の詩の言葉から「広く仁政を施す」の意味から名前を付けた。(その詩の訳は省略。沢山の蒙古の人がお祝いに来た。これも仁政のたまものという意味らしい)溥仁寺の建立は、康熙皇帝が永年の災いであったジュンガル部のジュンガル丹の反乱を平定して、辺境の守りとオイラート(厄魯特)対策を強化し、ハルハ等蒙古地区の行政管理と中央政府と蒙古の各部族との関係を強化する方針の象徴として造られた。その経緯は廟内の碑文に書いてある。「熱河の地に思いをいたし 内外の交わりを密にせんと 朕この夏この地に留まる ・・・。蒙古諸族の王侯貴族打ち揃って康熙皇帝の万寿節に祝辞を献上に来たとき、祝福の印としてこの廟を建つ」溥仁寺の敷地面積は32,500平方メートル、建物は15棟。解放前に多数壊されていた。現在では全てが原状復元されている。建物は漢族形式。最後の区画に無量寿仏が奉納されている。これは長寿の祝いを表している。寺内の建物の配置、仏教芸術品、碑文等は清朝の政治、経済、仏教芸術発展の研究にとって非常に歴史価値の高いものである。

普佑寺

1760年(乾驍Q5年)の創建。乾骰c帝50歳の祝いと皇太后70歳の祝いが重なった年で、丁度清軍が西北辺境の反乱を平定した年でもある。普佑寺は外八廟ラマ教の経倉とも関係する。それは顕宗、密宗、医学、歴算の4部に分かれる。寺僧達は日常の仏事活動の他にここで顕、密宗の教義、チベット医学、天文歴算、戒律を学んだ。当時の寺内の主要建物は山門、大方広殿、天王殿、風輪殿、経楼、順山房等。1937年、侵入した日本軍が五百羅漢堂の五百羅漢をごっそり移してしまった。1964年、普佑寺は不幸にも落雷で出火した。法輪殿その他の主要建物も被災し破壊された。五百羅漢も僅かに178体が残った。

 

普陀宗乗之廟

普陀宗乗はチベット語の「ポタラ宮」の漢訳である。即ち「普陀洛伽」――観世音菩薩の道場の意味である。構造配置はチベットのポタラ宮を模して造られ、俗に小ポタラ宮と言われる。創建は乾驍R2年(1767年)と乾驍R6年(1771年)、敷地面積20,000平方メートル。外八廟中最大の大きさで、堂宇はこれ一つである。当時蒙古、新彊、青海等各地の少数民族のリーダーが避暑山荘に集まり乾骰c帝60歳、皇太后80歳の奉祝典に参加していた。乾骰c帝は記念として、チベット仏教の中心ラサ ポタラ宮に倣った普陀宗乗之廟を建立した。この廟の落成の時、フルカ河流域から多数の民を引き連れたトルグート部の首領ウパシが帰順してきて、この承徳で皇帝に朝見した。このトルグート蒙古の祖国帰順の英雄的壮挙を記念して、乾骰c帝は自ら揮毫した。「トルグート部全員帰順の記」及び「トルグート部一同の救援、受容の記」これを巨石に刻み碑として廟内に建立した。  

 

須弥福寿之廟

須弥福寿之廟の遠景 「須弥福寿」はチベット語のタルシンポの漢訳、即ち「吉祥の須弥山」の意である。乾驍S5年(1780年)創建、敷地面積37,900平方メートル。建物配置は山の地形に合わせ前後二つに分かれ、漢、チベットの建築芸術の要素を取り入れた。乾驍S5年、チベットの政教の指導者 6世パンチエン・ラマが、乾驍フ70歳のお祝いのためチベットのシガッツエから承徳まで長途2万キロを歩いてやってきた。乾驍ヘこれを大変重視、清朝の「吉祥盛世」の吉兆と考えた。それで6世パンチエン・ラマが住むシガッツエにあるタルシンポ寺の形に合わしてこの寺を建立した。

 

安遠廟

建立は乾驍Q9年(1764年)、建築様式は新彊イリ河畔の「固尓扎廟」に倣っている。又イリ廟という。当時アムルサナ(阿睦撒納)の反乱をダシダワの未亡人が打ち破った。幾多の苦労の結果の戦果であったがその後部族をあげて清朝に帰順した。乾驍ヘダシダワ部族を安堵し彼らを承徳に遷し、定住させた。定住の山上に安遠廟を建てた。その意味は遠方を安定し、辺境の各民族をまとめ、北方の守りを固め、国家の統一を維持するという意味である。安遠廟は落成後、ダシダワ族の宗教活動の場として使われただけでなく、清朝の辺境諸民族の団結をはかるための政治活動の場としても用いられた。安遠廟の面積は26,000平方メートル、建物配置は左右対象になっており山門、碑亭、普渡殿、后山門が主要建物で、山門を入ると庭がありそこはダシダワ族の飛跳踊りが行われたところである。主殿は普渡殿で屋根全部を黒の瑠璃がわらで覆っている。様式は蒙古ラマ教の伝統的な様式を受け継ぎ、配置は整然としている。

 

珠像寺

文殊菩薩、この寺は俗称乾驩ニの廟と言われ創建は1774年、敷地面積は23,000平方メートル。1761年乾髓驍ニその母鈕鈷禄氏が山西の五台山に参拝し香を供えた。その際、五台山珠像寺の文殊菩薩を見て、北京に帰って香山静宜園に珠像寺に倣って宝相寺を建立し、文殊菩薩を奉納した。その後1774年になって避暑山荘の北、普陀宗乗之廟の西に香山宝相寺の形式の承徳珠像寺を建てた。この寺は完全に漢族仏教伝統様式で、方式に厳密に沿っている。廟の背後の布涵洞山の頂上に八角亭「宝相寺」がある。両側には又小さいながらも精緻に出来た僧坊区域がある。建物の並び方は庭園の雰囲気に富んでいる。皇家の菩提寺として境内の主要なものは満族ラマ風であり、業務として大蔵経の満文翻訳も行われている