< 語り部講座 >

     

 トップページ「協賛会」泉州・堺の石工家康、・宗薫・政宗の出会い黒田家伝承普及日記

 
      1.現代に生きる伝統芸能−「すずめ踊り」の人類学的研究
      2.伊達政宗と豊臣秀吉、徳川家康、堺の商人・今井宗薫関係年譜
      3.仙台城築城当時の石垣
      4.泉州・堺の石工 活躍の背景
        1)石工の社会と石造物技術の変遷
        2)中世 堺の繁栄と富のゆくヘ
        3)堺の石工の町
        4)堺の商人・今井宗薫の尽力
      5.謝辞および引用文献

















1.現代に生きる伝統芸能−「すずめ踊り」の人類学的研究
   津村晃佑;『東北文化人類学論壇』、第2号、39頁(2003年3月)
 約400年前、慶長5年(1600年)に伊達政宗が仙台城を築城することとなった。城を築く石工として、大阪城築城に関わった泉州堺の黒田八兵衛、その他辻本七郎兵衛、鹿野清左兵衛、能島与右兵衛らの石工頭が仙台に招かれ、仙台城の造築は慶長6年1月に着工した。石工たちは、国見峠付近から石材を掘り出し、牛にひかせて牛越橋を渡り川内まで運んでいた。
 工事は着々と進み、慶長8年(1603年)8月、江戸から帰ってきた伊達政宗は、移徒式(新築移転の儀式)を行った。その祝宴のさなか政宗は、石工たちに踊りを所望したという。突然命じられた石工たちは、即興で踊り始めた。泉州堺の石工達が中心で、小気味良いテンポの早い形になったようだ。躍動感あふれる身振り、伊達家の家紋が「竹に雀」であったこと、はね踊る姿が餌をついばむ雀の姿に似ていることから、誰言うともなく「雀踊り」と名付けられた。
 以来、「『雀踊り』は、仙台市石切町(現在、仙台市青葉区八幡町)に居住する石工によって踊り継がれ、戦前までは、毎年、政宗公が建立した大崎八幡神社の祭礼に奉納」(仙台市立第一中学校1997年)され、石切町にある瀬田谷不動尊の祭礼でも奉納されるのが通例となった。

 最初の「雀踊り」(舞う動作と跳ねる動作が一体化)は、仙台城築城に携わった泉州堺の石工による即興の踊りであった。それが戦争を挟んで衰退し、その後、第一中学校で復元されたことで、石工と生徒によって文化祭や諸団体主催の全国大会などで踊られるようになった。
 これも長く続かなかったが、NHKの大河ドラマ「独眼竜政宗」の影響により仙台が脚光を浴びたことで、1985年、伊達政宗に由来を持つ仙台・青葉まつりが再び「雀踊り」を復元した。この時に「雀踊り」は、初めて、石工の手を離れ、一般市民の誰もが踊れる「すずめ踊り」(「舞すずめ」と「はねすずめ」の組み合わせ)になった。
 「仙台・青葉まつり」に取り込まれて伝統が創られたが、お囃子と二つの基本動作(「両腕を8の字を描く動作」と「腰を落とした状態で左右の足で交互に飛び跳ねる動作」)は変化することなく、「雀踊り」本来の恒常性は継続されている。
第22回「仙台・青葉まつり」
  
2.伊達政宗と豊臣秀吉、徳川家康、堺商人・今井宗薫との関係年譜
   <凡例> 赤文字:主な出来事、緑文字:堺関連、紫文字:京都関連、青文字:大坂関連
 ・天正 4年(1576年)
       織田信長、近江国・蒲生郡に安土城築城開始。3年後に五層七重の天主閣城郭完成。
 ・天正10年(1582年)
     6月 織田信長、重臣明智光秀の謀反により京都・本能寺にて自刃。
  ・天正11年(1583年)
        
豊臣秀吉、大坂・石山本願寺とその寺内町に大坂城築城開始。1年半後本丸完成。
 ・天正18年(1590年) 24歳(伊達政宗公年齢) 
     1月 黒川城にて豊臣秀吉から北条攻めの朱印状受けるが、参陣送れ怒りを買う。
     6月 小田原へ着陣、秀吉
死装束謁見。摺上原以降に入手した所領は没収。
        
滞在中千利休に「茶の湯」の教授を申し出て、秀吉の怒りを懐柔
     7月 黒川城を明け渡し、米沢城へ帰る。
 ・天正19年(1591年) 25歳 
     9月 徳川家康の勧めにより岩出山城に移る。
 ・文禄元年(1592年) 26歳 
     
1月 秀吉の命により朝鮮出兵のため岩出山城出発、上洛、京都聚楽第に入る。
 ・文禄 2年(1592年) 27歳 
     3月 肥前名護屋より朝鮮へ渡海。
     
9月 名護屋へ帰陣。翌月、京都・聚楽第の屋敷へ入る。諸大名と饗応・茶会を楽しむ。
 ・文禄 4年(1595年) 29歳    
        
京都・伏見に居を構え、伏見城造営に関わる。
 ・慶長 3年(1598年) 32歳 
     
8月 豊臣秀吉63歳で死去。 
 ・慶長 4年(1599年) 33歳 
     
1月 徳川家康の命を受けて、今井宗薫の仲介により伊達政宗の長女・五郎八姫が徳川家康の
        第六男松平忠輝と婚約した。

 ・慶長 5年(1600年) 34歳
     
5月 伊達政宗、徳川家康の指示により上杉景勝討伐のため大坂城を発ち仙台・北目城に入る。
     7月 上杉景勝領・白石城を攻略。
     8月 上杉景勝が、徳川家康の軍門に降参。
     
9月15日 関ヶ原の合戦で徳川家康勝利     
            
今井宗薫、家康より1,300石を領し、河内・和泉の国の代官に任ぜられた。
    
10月19日 伊達政宗は、今井宗薫を仲介して、関ヶ原合戦の恩賞と新城築城許可斡旋を要請。
    12月24日 家康より新城築城を許可された「千代」を「仙台」に改め、普請の縄張りを開始。
 ・慶長 6年(1601年) 35歳    
     
4月18日 書状で、今井宗薫に普請の経緯報告(大坂城天守閣博物館所蔵)
 ・慶長 8年(1603年) 37歳
    
2月12日 徳川家康征夷大将軍任官、江戸城(太田道灌1457年築城)にて江戸幕府開府
    
8月    政宗、仙台城入城、新城移徒式の祝宴席で泉州・堺の石工達“すずめ踊り”を踊る。
 ・慶長19年(1614年) 48歳
   12月    
大坂冬の陣 京都・方廣寺鐘銘「国家安康」、「君臣豊楽」事件で徳川幕府大阪城包囲
 ・慶長20年(1615年) 49歳
    4月28日  豊臣方が徳川方の兵站基地となっていた堺を焼き討ち(「大坂夏の陣」の大火
    5月 7日  大坂夏の陣 天王寺・茶臼山合戦で徳川方勝利 豊臣秀頼と淀君自刃
 ・元和元年(1615年) 49歳
   7月13日  夏の陣後、7月13日 後水尾天皇即位元号を「元和」と改正

        第2代徳川秀忠「武家諸法度」公布(参勤交代、築城禁止、姻戚許可、キリシタン禁止)
3.仙台城築城当時の石垣
 戦国時代以前の中世の城は、「山城」といわれ、例えば、犬山城(築城:1537年)のように数十から数百メートルの山の上に造られ、防御的機能に重点を置いたものが多く、城下町の発達もあまりみられなかった。
 織田信長は、中世の宗教勢力と戦い石工の「座」を解放し、石積み技術と共に寺院勢力の特権とされた瓦職人の技術も取り入れ、それまで寺社建築に限られていた瓦屋根を、はじめて安土城(1576年)の築城に使用し城郭建築を変えた。このように、石垣を構え、瓦葺の屋根の天守閣を持った本格的な築城は、安土城以降約50年の間であったといわれている。
 安土城の石垣は、比叡山の門前町・坂本に住んでいた「穴太衆(あのうしゅう)」という石工集団が、石の形により配置を考えて築いた「穴太積み(あのうずみ)」工法で築いたが、織田信長の後、豊臣秀吉を中心とした群雄割拠の時代では、大坂城(1583年)のように築城の命令が短期的である場合が多く、しかも、各地の各種職人が駆り出されたこともあって、石垣は自然石をそのまま加工せずに積み上げてゆく「野面積み(のづらづみ)」工法が取られた。
 一方、時間的な余裕と財政的に恵まれたところでは、「打ち込みハギ」(丸亀城:1597年)や「切り込みハギ」(高松城:1587年)のように石の表面を加工して隙間を少しでも少なくして積む工法が取られた。

 仙台城は、戦闘に備えた「山城」で、石垣工法は「野面積み」を採用し、築城に着手して約1年4ヶ月で完成した。

★大坂城 
   大林組;『Web季刊大林』、No.16、「城 CASTLE」(1983年)

     ・「野面積み石」:直径60cm程度、長さ50k〜80cmの自然石が中心
      ・産地は、量的な供給面から、瀬戸内海の犬島付近と想定
      ・石積み背面の排水を良くし、安定を保つため、厚さ4m裏込め栗石(5〜20 cm)を置いた

仙台城
  「仙台城本丸跡第1次発掘調査」中間報告
     ・「野面積み石」 元和2年(1616年)の地震で本丸の石垣破、その後修復

  
4.泉州・堺の石工 活躍の背景
1)石工の社会と石造物技術の変遷
 室町時代(1334〜1575年)中期以降、石工たちは、五輪塔、宝篋印塔(ほうきょいんとう)、石仏等を作り寺院などの石垣を積むことで技術を高めていたため、石工集団には寺院の支配勢力が大きく「座」が形成されていた。
 寺院石造物、とりわけ、一石五輪塔は、真言密教の聖地・高野山に集中的に多く存在し、室町時代中期にはじまって安土桃山時代に急増し、江戸時代には減少して墓標へと変じていった。
 石材質は、緑泥片岩(紀ノ川、吉野川流域)、砂岩(泉南地区)、花崗岩(神戸・御影)で、花崗岩は最も少ない。泉砂岩製五輪塔は、鉄砲伝来の地と言われた根来寺に多く、堺市内にも多く存在する。建立者、寺、石大工の三者の関係が認められ、僧侶が強く関わっていたことが推察される。
高野山の有紀年銘石造物造立推移
2)中世 堺の繁栄と富のゆくヘ
 応仁3年(1469年:文明元年)、兵庫港に入港予定の遣明船が、応仁・文明の乱(1467〜1478年)のため兵庫港に入港できず堺港へ回航されたことから、その後、堺は、1550年までの81年間、遣明船貿易、琉球貿易の主力港町として栄えることになった。
 さらに、その後、1615年、大坂夏の陣で焦土と化すまでの65年間、南蛮貿易により、ヨーロッパとほぼ時を同じくして、日本の歴史上最初の国際商業都市として栄え、政治、経済および軍事戦略上重要な拠点としての地位を築いた。
 町は、会合衆といわれた商人、特に、武野紹鴎、今井宗久、津田宗及、千利休、山上宗二など茶人を含めた十人衆(納屋衆)が中心となって町人による自治・自由都市・堺を築いた。

 応仁・文明の乱を逃れて、京都の公家や僧侶達が堺を訪ね、奈良の寺院文化と併せて京都文化が流入し、独自には、千利休により「茶の湯」の文化が大成された。
 16世紀には、堺の商人は「安心立命」の思想から富を寺に寄進し、当時の堺の町には寺院225寺に加えて、祠堂屋敷約70軒が存在し「泉南仏国」といわれた。
 堺は、慶長20年(1615年)、大坂夏の陣の前哨戦で、堺が徳川方に味方することを恐れた大坂方によって焼き尽くされた。戦略基地として堺を重く見ていた徳川家康は、長崎奉行・長谷川左兵衛藤廣に堺政所の兼任を命じて復興に当たらせ、徳川家康の側近・南禅寺(禅宗)の僧・崇伝(本光国師)および地割奉行・風間六右衛門(日蓮・法華宗信者)が長谷川を助けた。
 大阪夏の陣後、元和元年(1615年)、元和の町割り(下図黒枠)では、中世の環濠都市(下図の赤枠)の東側(下図の上部)に寺院の統括と支配を強化する「寺町」を築き、禅宗、日蓮宗および法華宗寺が重用して配置された。
 寺町では、朱印状下付寺院の16寺が、市中の常楽寺(天神)と念仏寺(大寺)の二大寺院と同様に全て寺地を与えられ寺領を保証されていた。
 
3)堺の石工の町 − 石屋町、石切町
 大永3年(1523年)、開口(あぐち)神社文書に「石屋町」(横○印:現・中之町西1丁)の町名が記載され、元禄2年(1689年)堺大絵図には「石屋町」とともにその西側に「石切町」(横○印内:現・中之町西2丁、寺地町西2丁)があった。
 それは、有力な堺商人・今井宗薫の屋敷(下図縦○印)から、わずか西側約300mのところであった。
4)堺の商人・今井宗薫の尽力
 徳川家康は、、堺商人の力を高く評価し、茶人であり商人(納屋衆)でもあった今井宗久や津田宗及と交遊しお茶のもてなしを楽しんでいた。天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変の時、家康は見物のために堺を訪ね妙国寺に宿泊していた。この時、小姓衆など少人数だったので、伊賀越えをして逃れたといわれている。
 今井家の屋敷は、石屋町から約3丁ほど東の宿院町にあった。今井宗薫は、父・今井宗久に茶の湯を学んで奥義を極め商人としても有能で、豊臣秀吉亡き後は、徳川家康の寵遇を受け、慶長4年(1599年)徳川家康の命を受けて伊達政宗の長女・五郎八姫と徳川家康の第六男・松平忠輝との婚約のお世話をした。
 翌年(1600年)、関ヶ原の戦いの恩賞として、今井宗薫は、徳川家康より1,300石の所領を領し、且つ、河内国と和泉国の代官に任じられた。また、その立場を活かし、関ヶ原の戦い後、上杉景勝を攻略した恩賞の斡旋や仙台城築城の許しなど伊達政宗と徳川家康の間を取り持つ大役を果たした。
 伊達政宗が、今井宗薫に仙台城普請の経緯を知らせた書状(慶長6年4月18日付)が大阪城天守閣に残っている。
 このように、豊臣秀吉が亡くなって後、天下分け目の“関ヶ原の合戦”を前後して、堺の商人・今井宗薫は、双方に請われて、時の天下びと・徳川家康と陸奥の国の武将・伊達政宗との間を取り持つ大役を務め、伊達政宗にとっては、大事なことを相談できる信頼の厚い人脈であったと言える。
 26歳から34歳の間、上方(京都、大阪)に滞在して、色彩鮮やかな安土桃山文化を身につけ、威容を誇る大坂城を目の当たりにした伊達政宗が初めての自分の城を築造する時、堺の有力商人・今井宗薫が身近に住する堺の石工に派遣を指揮したものと考えられる。
5.謝辞および引用文献
 本資料の制作にあたり、堺市博物館学芸員・吉田 豊様に貴重なご助言をいただきました。ここにお名前を記して厚く御礼申し上げます。
 また、以下の貴重な文献を広く引用させていただきました。そのお名前を記して感謝し、敬意を表します。


1.津村晃佑;東北人類学論壇、第2号、39頁(東北大学文学研究科文化人類学研究室、2003年3月)
2.仙台市史編さん委員会;『仙台市史』第22回配本、特別編7、城館(仙台市、平成18年3月31日)
3.「仙台市博物館」ホームページ「伊達政宗」 http://www.city.sendai.jp/kyouiku/museum/date/index.html
4.逸見英夫、伊達泰宗『独眼流政宗の素顔』(宝文堂、1996年)
5.三浦周行監修『堺市史』(堺市、初版:昭和5年)
6.「京都新聞」ホームページ「探訪 京滋の庭」 http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/niwa/64.html
7.濱田直嗣監修;『国宝 大崎八幡宮』(大崎八幡宮、平成16年9月20日)
8.城の萬情報「石垣」 http://www.asahi-net.or.jp/~by4m-/yorozu/Ishigaki.html
9.穴太積みの石垣について「近江の城郭」 http://siro.parafait.ne.jp/oumi_castel/anou/anoutumi.html 
10.大林組;『Web季刊大林』、No.16、「城 CASTLE」(1983年) http://www.obayashi.co.jp/kikan/shiro/index.html
11.「仙台城石垣を守る会」ホームページ http://www.vegalta.net/~ishigaki/top.html
12.木下浩良;『高野山中世石造物の実体を探る』、18(石造物研究会、2004年)
13.阪南町役場『阪南町史』上巻(昭和58年)
14.堺市立埋蔵文化センター;堺の遺跡ガイドシリーズ1『堺環濠都市』(堺市教育委員会、平成12年)
15.角山 榮;『堺−海の都市文明』(PHP研究所、2000年)
16.福島雅蔵;『堺の町探訪−寺町の文化財』、12(堺市博物館、平成18年6月3日)
17.平凡社地方資料センター編集;日本の歴史地名大系第28巻『大阪府の地名』(平凡社、1986年)
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