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三十年戦争

ボヘミア・プファルツ戦争 ハプスブルク家のカトリック主義に反発したボヘミアのプロテスタント等族は、1618年5月23日にオーストリアのウィーンから派遣された3人のカトリック代官をプラハ王宮の窓から突き落とした。1619年8月26日、ボヘミア議会は神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント2世(1578〜1637)のボヘミア王廃位を宣言し、プロテスタントのプファルツ選帝侯フリードリッヒ5世(1596〜1632)を新国王に選出した。

 これに対してフェルディナント2世は、スペイン・ハプスブルクからの軍費の支援を受けるとただちに鎮圧軍を派兵する。さらに、カトリック連盟の指導者バイエルン侯マクシミリアン1世(1597〜1651)を味方に付けるために、ボヘミア鎮圧後にプファルツ選帝候位を与えるという密約を交わした。これを受けてマクシミリアン1世は、名将ティリー伯ヨハン(1559〜1632)率いるバイエルン軍をボヘミアに派遣した。

 1620年11月8日、フリードリッヒ5世の宰相クリスチャン・フォン・アンハルト(1568〜1630)率いるボヘミア軍4万と、ティリー率いるバイエルン軍と皇帝軍の連合軍5万はプラハ近郊のビーラ・ホラで激突した。この戦いでボヘミア軍は、死者4000を出し、砲10門を捕獲される壊滅的打撃を受け、ボヘミアの首都プラハは帝国軍に占領されてしまう。本領地ラインプファルツをスペイン軍に占領されたフリードリッヒ5世はオランダに逃げ込み、帝国追放に処されたうえ「ボヘミア冬王」と蔑まれることになる。

 皇帝軍に占領されたボヘミアでは、ただちに反乱の指導者である27名のボヘミア貴族が処刑され、658家の貴族と50の都市の領地が没収された。ボヘミア王国はカトリック主義をふたたび強要されるとともに、選挙王制を廃止させられハプスブルク家の世襲王制となった。

 1621年、フリードリッヒ5世はプファルツを奪還しようと、マンスフェルト伯ペーター・エルンスト(1580〜1626)軍2万、クリスチャン・フォン・ブラウンシュヴァイク軍1万6000、バーゲン辺境伯ゲオルク・フリードリッヒ軍1万5000の3軍を差し向ける。「甲冑をまとった乞食」と呼ばれる傭兵隊長マンスフェルトは略奪を繰り返しながらラインプファルツ入りしたものの、5月6日にバーゲン辺境伯がネッカー川下流のヴィンプフェンで、6月20日にブラウンシュヴァイクがマイン川沿いのヘヒストで、ティリー率いるカトリック連合軍によって撃破されたために孤立してしまいフランスを経てイギリスへと逃れた。1623年2月23日、遂にフリードリッヒ5世は正式に選帝侯を剥奪され、マクシミリアン1世がプファルツ選帝候となった。


デンマーク戦争 フランスは歴史的にハプスブルク家とは敵対関係にあり、そのためカトリック国でありながらドイツのプロテスタント諸侯を支援してきたが、1624年8月13日にリシュリュー枢機卿(1585〜1642)の政権が誕生すると一層その政策が本格化した。

 ハプスブルク家の北進に脅威を感じたデンマーク王クリスチャン4世(1577〜1648)は、1625年、ドイツへの直接介入を決心し、1万7000の軍勢を率いて南下した。そしてそれにイギリスからの資金援助を受け軍勢を整えたマンスフェルトが加わる。しかしフランスは、国内でユグノーの反乱が相次いだためこれを支援することができなかった。

 一方、神聖ローマ帝国側も、フランス、サヴォイ、ヴェネチアの支援を受けたスイスのプロテスタントの蜂起によりヴァルテッリーナ峡谷が閉鎖されたため、スペイン・ハプスブルクからの支援を受けることが出来なくなっていた。そのためティリーからの兵力増強の要請を受けたフェルディナント2世は、大傭兵隊長ヴァレンシュタイン伯アルブレヒト(1583〜1634)を皇帝軍総司令官として新たに登用した。

 1626年4月25日、マンスフェルトはエルベ川のデッサウ橋に進軍しヴァレンシュタインに戦いを挑むが、戦死者6000、捕虜2000をだし大敗を喫してしまう。その後、マンスフェルトは逃亡中にサラエボ山中で病死する。一方のクリスチャン4世も1626年8月24日から27日にかけて小村ルッターでおこなわれたティリー軍との戦いに敗れ約半数の軍勢を失った。デンマークはバルト海沿岸のシュトラルズントの防衛には成功したもののヴァレンシュタイン軍にユトランド半島全域を蹂躙され、1629年6月7日に皇帝とリューベックの和約を結びドイツ介入を断念した。

 1629年3月6日、フェルディナント2世は神聖ローマ帝国内での皇帝権力の強化と再カトリック化を目的とした回復令を発令した。これによりカトリックとプロテスタントの対立は一層激しさを増した。


スウェーデン戦争(1630〜35)

スウェーデン戦争 卓越した軍編成能力を誇るヴァレンシュタインの軍勢は戦争の経過とともに膨れ上がり12万5000にも達していた。ヴァレンシュタインはその強大な軍事力により、1628年3月11日、メックレンブルク侯に昇位するがしだいに専横が目立ちはじめ、1630年8月に皇帝軍総司令官を罷免された。皇帝軍の指揮はティリーがをとることになった。

 1630年7月4日、フランスのリシュリューから軍費の支援を受けた「北方の獅子」スウェーデン王グスタフ・アドルフ(1594〜1632)が、1万3000の軍勢を率いてウゼドム島ペーメミュンデに上陸する。しかしドイツのプロテスタント諸侯はスウェーデンの参戦に対し冷ややかだった。そのためスウェーデン軍は十分な補給を受けることが出来ず、グスタフ・アドルフの戦略は遅滞した。

 1631年5月、ティリー率いる皇帝軍はハンザ都市マクデブルクを包囲した。ティリーは「甲冑をまとった聖者」とあだ名される信心深い人物であったが、陥落後の兵士達の略奪を止めることはできなかった。都市は炎に包まれ3万人の住民のうち2万5000人が殺戮された。マクデブルクの虐殺に驚愕したドイツのプロテスタント諸侯は、ただちにスウェーデンと同盟を結び、グスタフ・アドルフは南下を開始した。

 1631年9月17日、ライプツィッヒの北6マイル、ブライテンフェルトで皇帝軍3万2000とスウェーデン軍4万は対峙した。ティリー率いる皇帝軍が伝統的な戦闘隊形テルシオを主体としていたのに対し、グスタフ・アドルフ率いるスウェーデン軍はオランダのマウリッツ公(1567〜1625)に開発された横隊隊形を継承発展させた新戦術を採用していた。皇帝軍はスウェーデン軍に圧倒され戦死者1万2000、捕虜7000の大敗を喫した。対するスウェーデン軍の戦死者は1500足らずであった。南下するスウェーデン軍に対しティリーは、1632年4月15日から16日にかけて、ドナウ川の支流レッヒ川を挟んで再び決戦を挑むも、またもや敗北を喫する。ティリー自身もこの戦いで瀕死の重症を負い、4月30日に逃亡先のインゴールシュタットで死亡した。

 スウェーデン軍の脅威に対しフェルディナント2世には、罷免したヴァレンシュタインを破格の条件を呑んで再召還する以外の選択肢はなかった。再び皇帝軍総司令官となったヴァレンシュタインは素早く新軍を組織するとザクセンに侵攻する。ヴァレンシュタイン率いる皇帝軍はスウェーデン軍と互いに牽制し合いながら北進し、ライプツィヒ近郊のリュッツェンに陣地を構築した。2万6000の皇帝軍に対し1万6000のスウェーデン軍が攻勢に出ることはないと判断したヴァレンシュタインは、パッペンハイム・ゴットフリート(1594〜1632)率いる騎兵部隊1万1000をプロテスタント側の都市ハレに派遣する。しかし、皇帝軍の兵力分散の情報を受けたグスタフ・アドルフは、1632年11月16日早朝、皇帝軍を急襲した。ヴァレンシュタインは急遽パッペンハイムを呼び返すも戦局はスウェーデン軍優勢のまま推移し、日が沈むと皇帝軍は退却した。この会戦でグスタフ・アドルフとパッペンハイムが戦死する。

 グスタフ・アドルフの死によって、ドイツ内に対抗出来る者の居なくなったヴァレンシュタインは皇帝の要請を無視し、独自にスウェーデン、フランスとの講和の方策を模索しだした。この動きに脅威を感じたフェルディナント2世は、1634年2月25日刺客を送りヴァレンシュタインを暗殺した。

 グスタフ・アドルフ亡き後、宰相オクセンシェルナ(1583〜1654)が指導するスウェーデン軍2万5000の軍勢は、1634年9月6日、アウクスブルク近郊のネルトリンゲンで、皇帝軍とスペイン軍の連合軍3万5000に対し攻撃をしかけた。ヴァレンシュタイン亡き後、皇帝軍総司令官となった皇帝の嫡男フェルディナント3世(1608〜57)は、スウェーデン軍に戦死者1万7000、捕虜4000の損害を与え大勝を収めた。

 ネルトリンゲン会戦の大敗によってスウェーデン軍は南ドイツから撤退した。1635年5月30日、フェルディナント2世が回復令を撤回すると皇帝側に有利な条件でプラハ和平条約が締結され、帝国内の大半の諸侯がこれに署名した。


フランス・スウェーデン戦争(1635〜48)

 プラハ和平条約によってスウェーデンがドイツ内で孤立したため、ついにフランスは直接三十年戦争に参入することを決意し、1635年5月21日にスペインに対して宣戦布告を行った。カトリック国フランスが反皇帝側の陣営に加わったことにより、戦争勃発当初のカトリック対プロテスタントの宗教戦争という構図は完全に崩壊する。

 1643年5月19日にロクロウでスペイン軍がフランス軍に大敗したため、スペイン・ハプスブルクからの支援を受けることの出来なくなった皇帝軍側はしだいに劣勢に追い込まれるようになる。1648年10月24日、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント3世はウェストファリア条約に署名し、三十年戦争は終結した。


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