【HOME】【古代国家の興亡】【東西文明の激突】【火薬帝国の時代】【ヴァルハラ宮】【参考文献】【リンク】【掲示板】【メール】

八十年戦争

八十年戦争 スペイン王フェリペ2世(1527〜98)は、1556年にカール5世(1500〜58)から継承したネーデルランドの自治を認めず、重税を課したうえに新教徒に対する過酷な宗教弾圧を行った。これに対してネーデルランドの貴族たちは乞食党(ベガーズ)を結成して蜂起したが、フェリペ2世はアルバ公(1508〜82)指揮するスペイン軍1万を鎮圧のために派遣する。カール5世からの信望も厚かったナッサウ・オラニエ家のウィレム「沈黙公」(1533〜84)は、エグモント伯(1522〜68)、ホルン伯(1524〜68)と共に新教徒迫害を中止するように説得したが、フェリペ2世は耳を貸そうとはしなかった。

 1568年2月16日、アルバ公が全ネーデルランド住民を異端として処刑すると宣告し、さらにエグモント伯とホルン伯が逮捕されるに及んで、ウィレム公はついにフェリペ2世の説得を諦めて、弟のローデウェイク・ファン・ナッサウに募兵を命じた。しかし、フランスとの国境から侵入した2500と、ライン川とマース川の間から侵入した3000の反乱軍は、それぞれ当時ヨーロッパ随一の実力を誇るスペイン軍に敗れて壊滅してしまう。北からフリースラントに侵入したローデウェイクは、5月23日にハイリゲルレスでアンベルク伯率いるスペイン軍5000を撃破したが、7月21日にイェミンゲンの戦いでアルバ公率いるスペイン軍1万2000に死者7000という大敗を喫し、辛うじてエムス川を泳いで逃げ帰った。ウィレム公自身も騎兵9000を擁する3万の反乱軍を率いて、10月4日にマース川を渡って北ネーデルランドに侵入したものの、アルバ公が決戦を避けて追尾しながら相手の消耗を待つ戦術を採ったため、やがて軍資金が尽きて兵を解散し、ドイツへと引き揚げた。

 ウィレム公の悪戦苦闘をよそに、ネーデルランドの人々はスペインの強兵に対する恐怖から、なかなか蜂起しようとはしなかった。しかし、1572年4月1日、ルーメイ・ウィレム・ファン・デル・マルク伯爵率いる24隻の海乞食(シー・ベガーズ)が、スペイン守備隊の手薄だったデン・ブリルを占領したのを皮切りに、アムステルダムを除くホラント州とゼーラント州のほとんどの都市で、住民が蜂起してウィレム公の旗を掲げる。さらにウィレム公は、フランス王シャルル9世(1550〜74)とイギリス女王エリザベス1世(1558〜1603)からの援助を得ることに成功し、5月24日、ローデウェイクはフランスのユグノー勢力と共に南ネーデルランドのアントワ州モンスを占領した。

 この事態に対してアルバ公は、反乱軍とフランスとの連携を断つために、直ちに息子のドン・フェデリコに対してモンスの包囲を命じた。フランス軍1万はフェデリコ軍6000に敗れて壊滅し、さらに、8月23日にフランス国内で聖バルテルミーの虐殺が起こったために、反乱軍はシャルル9世からの支援を受けることが出来なくなってしまう。ウィレム公は、もはやモンスを維持することは不可能と判断し、ローデウェイクに対してモンスからの撤退を勧告した。

 モンス奪還に成功したスペイン軍は、降伏した都市で暴行掠奪を繰り返しながら北上し、12月10日、3万の軍勢でホラント州ハーレムを包囲した。翌1573年7月12日にハーレム市は7ヶ月もの篭城戦の末に力尽きて降伏するが、男子3000、婦人部隊300、工兵隊1000を動員した激しい抵抗によってスペイン軍は1万7000もの兵を失い、アルバ公はスペイン宮廷内での支持を失って失脚する。後任の総督に任命されたレケセンスは、10月から南隣の主要都市ライデンを包囲したが、ここでも反乱軍は兵糧攻めとペストに苦しめられながらも抵抗を続けた。スペイン軍は、翌1574年3月にライデン救援に訪れた反乱軍を撃退してローデウェイクを戦死させたものの、ライデン防衛隊の用いたアイセル川の堤防を決壊させる洪水戦術に悩まされ、10月に攻略を諦めて撤退した。

 スペイン軍の攻勢が続くなか、1576年3月5日にレケセンスが急死し、11月4日、給与未払を理由に暴動を起こしたスペイン兵が、アントワープ市を占拠して暴行掠奪を行うという惨事が発生する。ネーデルランドの北部諸州と南部諸州とはこれまで宗教の違いなどから対立していたが、これを機に反スペイン感情で一致し、4日後の11月8日に「ガンの和解」を締結してウィレム公のもとに結束した。

 しかし、北部と南部との蜜月は長くは続かなかった。新たにネーデルランド総督となったレパントの海戦の英雄オーストリア公ドン・ファン(1547〜1578)は、やむなくスペイン軍の退去を約束したものの、1577年7月には態度を変えて再びスペイン軍を呼び戻し、翌1578年1月31日、ゾンブールでネーデルランド全国議会軍を撃破する。スペインはネーデルランドの外交的分断、離間工作に力を注ぎ、10月1日に没したドン・ファンの後任パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼ(1545〜92)は、1579年1月、南部10州に「アラス同盟」を結成させてフェリペ2世に忠誠を誓わせることに成功した。ただちに北部7州も「ユトレヒト同盟」を結成してこれに対抗し、1581年7月26日にはフェリペ2世に対する忠誠破棄宣言を公布してネーデルランド連邦共和国(オランダ)が成立する。

 フェリペ2世は、北部統合の中心であるウィレム公の暗殺に2万5000クラウンもの莫大な褒奨金を出すことを公布し、1584年7月10日、狂信的なカトリックの刺客ジェラールによってウィレム公は殺害されてしまう。さらに、ネーデルランド南西部に足場を得たパルマ公が、8万もの大軍を率いて北上し、1585年8月17日に南部最大の都市アントワープを攻略する。成立したばかりのネーデルランド連邦共和国は、僅かにホラント州、ゼーラント州、ユトレヒト州を残すのみとなり風前の灯火となってしまう。しかし、この危機に際してイギリスのエリザベス1世は、ネーデルランドの新教徒を自らの保護下に置くことを決定し、レスター伯ロバート・ダットリ(1532〜88)率いる歩兵6000と騎兵1000の軍勢を救援のために派遣する。このためフェリペ2世はイギリス本土に狙いを定め、1588年に総数130隻に及ぶ大艦隊を差し向けたが、この艦隊はドーヴァー海峡で行われたアルマダの海戦で大敗を喫した。

 苦しい戦いの続くなか、ウィレム公の跡を継いだオラニエ家のナッサウ伯マウリッツ公(1567〜1625)は、スペイン軍の強兵に対抗するために従兄のウィレム・ローデウェイクと協力して軍制改革を行い、歩兵2万と騎兵2000からなるヨーロッパで最もよく訓練された軍隊を作り上げた。1589年にパルマ公がフランスのユグノー戦争に介入するためにネーデルランドを離れると、マウリッツ公率いるオランダ軍はスペイン支配下の都市を次々に攻略して北部7州の領土をほぼ回復する。1600年、マウリッツ公はホラント州の指導者オルデンバルネフェルトの要請に従い、スペインの私掠船が拠点としていたニューポールトへと侵攻した。しかし、7月2日に行われた会戦でオランダ軍1万2000余は、アルベルト公指揮するスペイン軍約1万2000に戦死3000、捕虜600という損害を与えて勝利したものの、ニューポールト攻略を断念して退却し、これ以後マウリッツ公とオルデンバルネフェルトは次第に対立するようになる。

 オルデンバルネフィストを中心とするホラント州の政治家たちは、戦争が続くことによってオラニエ家の権力が強まることを恐れ、1609年、マウリッツ公の反対を押し切ってスペインとの12年間の休戦条約を締結させる。その後、オルデンバルネフィスト一派は、1617年にカルヴァン派教会内のアルミニウス派とホマルス派との対立を機に反乱を起こし、マウリッツ公によって粛清された。

 1621年に休戦期間が終わると戦闘が再開されたが、双方ともに城壁の修復や戦線の整理などの十分な備えをしていたため、陸上では戦争の拡大は免れた。1639年、三十年戦争の戦況のために「スペイン街道」を切断されたスペインは、フランドルに1万3000の兵を海路輸送するため、「サンタ・テレサ」を旗艦とする100隻の大艦隊を派遣する。これに対してマールテン・ヴァン・トロンプ提督(1597〜1653)率いるオランダ艦隊18隻は、9月16日に英仏海峡の西端で敵艦隊を捕捉して砲撃を加え、損害を受けたスペイン艦隊は休戦状態にあったイギリスの港に逃げ込んだ。スペイン艦隊の提督デ・オケントはイギリス王チャールズ1世(1600〜49)に調停を求めたが、オランダ中の艦艇をかき集めて96隻の艦隊を擁するに至ったトロンプは、12月21日、イギリス艦隊の警告を無視して総攻撃を開始する。この海戦でスペイン艦隊は戦艦の3分の2を失う大敗を喫し、フランドルへの軍事物資の補給は陸路、海路ともに不可能になった。

 1648年1月、長年の宗教戦争で疲弊したヨーロッパ各国は、ドイツ西部ウェストファリアのミュンステル市に代表を送り和議を行った。10月に結ばれた「ウェストファリア条約」によって、スペインはネーデルランド北部7州の主権をついに認め、オランダの独立は国際的に公認された。


このページのトップへ