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1260年4月、チンギス・ハン(1167〜1227)の孫に当たるクビライ(1215〜94)が、開平府でクリルタイを開き、モンゴル帝国の大ハーンに即位した。この年、朝鮮半島でも約30年間にわたるモンゴル帝国の高麗侵攻の結果として、クビライに恭順を誓う元宗(1219〜74)が王位に就く。1235年から続くモンゴルと南宋の戦いに終止符を打つため、着々と南宋包囲網を築くクビライは、既に雲南の大理国やヴェトナムの陳朝をその軍門に下していた。高麗人の趙彜から日本について聴かされたクビライは、1268年、南宋と日本とを討たんと欲し、高麗に大型戦艦1000隻の建造を命じた。
1268年正月、クビライからの牒状が九州の大宰府に到着し、日本は高麗を征服したモンゴルによって、自国が狙われていることを知った。日本は牒状の内容が無礼だとして、返牒しないことを決定。日本の実権を握る鎌倉幕府は、3月5日に北条時宗(1251〜84)を執権に据えて、徹底抗戦の決意を示した。1269年、1271年、1272年にもクビライからの使節が大宰府を訪れたが、日本は返牒せずとの姿勢を崩さなかった。北条時宗はモンゴル軍の襲来に備えるため、1271年9月に九州に所領を持つ御家人に対し、下向して警護に就くように命じ、翌1272年2月には「異国警固番役」が発足する。
一方のクビライは、1270年、高麗に駐屯するモンゴル軍を増強し、日本侵攻のための「屯田経略司」とした。1271年11月、クビライは自らの帝国の国号を「大元」と定める。1273年6月、使節として訪日していた趙良弼(1217〜86)が元都に帰着し、日本滞在中に探った大宰府周辺の地形や防衛体制をクビライに報告した。日本の外交と海防を専任する大宰府は、663年の白村江の戦いの後に築かれた土塁、全長約1.2キロ、高さ約13メートルの水城によって守られていた。クビライは2〜3万の兵力で大宰府の攻略が可能と判断し、1274年正月2日、高麗に日本遠征用の艦艇900隻を建造するように命じた。
洪茶丘〈1244〜91)が大船300隻の造船を担当し、金方慶(1212〜1300)が小船600隻の造船を担当した結果、1274年6月16日、高麗の使者が燕都に赴いて艦隊の完成を報告。ところが、その2日後の6月18日に元宗が死去したため、当初7月に予定されていた侵攻計画は、変更を余儀なくされた。8月26日、かねてより日本侵攻に積極的だった忠烈王(1236〜1308)が高麗王位に就き、9月、朝鮮半島南岸の合浦に、都元帥のヒンドゥと副都元帥の洪茶丘・劉復享が指揮する蒙漢軍2万5000、金方慶が指揮する高麗軍8000、水手などの非戦闘員6700、艦艇900隻が集結する。元軍を率いるヒンドゥ・洪茶丘・金方慶の3人は、三別抄の乱を鎮圧した際に、珍島や耽羅への渡海作戦を成功させた実績の持ち主だった。
10月3日に合浦を出港した元の艦隊は、10月5日の午後4時頃、対馬西岸の佐須浦にその姿を現す。翌朝、大船7〜8隻に分乗した元兵約1000が対馬に上陸し、応戦した宗助国麾下の80騎はことごとく討ち死にする。元軍襲来の知らせは対馬を脱出した小太郎と兵衛次郎によって博多にもたらされ、10月17日には早馬が京都の六波羅探題に到着した。一方、元軍は約1週間にわたって対馬を蹂躙した後、10月14日に壱岐を襲撃。兵船2隻から上陸した元兵約400に対し、平景隆率いる100余騎は樋詰城に立て籠もって応戦したが、翌15日に攻め落とされ城内で自害した。その後、16日から17日にかけて元軍は平戸・能古・鷹島を襲撃し、10月19日夕刻、大宰府を目指して博多湾に侵入した。
今津沖に停泊していた元軍は、10月20日未明より上陸して馬に乗り、旗を揚げて攻撃を開始。対する日本軍は、少弐景資(1246〜85)を中心に九州各地の御家人約5000騎が集結し、息の浜を固めていた。日本軍の主力は博多で元軍を迎撃する作戦だったが、菊池武房・白石道泰・竹崎季長(1246〜1324)など中小御家人の一部は、更に先へと馬を進め、相互に名乗り合って証人となり、高名のために一命を賭して戦った。百道原から上陸した金方慶麾下の高麗軍は、松浦党や原田一族を撃破して赤坂に進軍したが、菊池隊100余騎に散々に駆け散らされて敗走する。劉復享も夕刻に騎兵14〜15と歩兵70〜80を率いて博多へと進出したが、少弐景資の馬廻りに狙撃されて負傷してしまう。やがて日没となると、日本軍は陣を解き、兵糧などが貯蔵されている水城に退いた。
残された元軍は軍議を開き、今後の方針を協議した。高麗人の金方慶は、帰りの船を焼き捨てて戦った孟明視や、背水の陣で戦った韓信(?〜BC196)の故事を例に挙げ、作戦の継続を主張した。しかし、モンゴル人のヒンドゥは、疲弊した元軍が日ごとに増す日本軍と、これ以上戦うことを危険と判断し、撤退を決断する。元軍は結局、大宰府に到達できないまま、博多や筥崎で放火や略奪をおこなったのみで、夜の内に博多湾から出港した。翌朝、日本軍が戻ると、そこには志賀島に座礁した元船1隻が残るのみであった。乗船していた220名は全員捕らえられて処刑され、11月6日には飛脚が京都に到着し、合戦による元軍の撃退を報告した。
沖合いに出た元の艦隊は、悪天候のために更なる損害を受けた。11月27日に合浦に帰還したヒンドゥは、忠烈王とその后に日本で捕らえた童男・童女200余名を、戦果として献上した。この遠征における元軍の死者や行方不明者の数は1万3500に上った。
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