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宋と西夏の戦い

宝元用兵 古より四川西北辺から青海地方にかけて居住していたチベット系タングート族は、7世紀に吐蕃が勢力を拡大すると、その支配を逃れて東北方へ移動し、オルドス地帯に住むようになった。その首長の拓抜思恭は黄巣の乱平定で功があり、唐より定難軍節度使に任ぜられ、李姓を賜った。以後、拓抜李氏は代々節度使を世襲し、夏、綏、銀、宥、静など、オルドスから陜西北境にわたる地域を支配した。

 思恭から8代目の李継捧は、982年に自領を宋に献じて入朝したが、一族の李継遷はこれに反対し、夏州東北300里の地斤沢を拠点に抵抗運動を繰り広げた。李継遷は当時宋と対立していた契丹(遼)に臣従し、その後援によって故地を回復。1002年には東西交通の要衝であるオルドス西辺の霊州を攻略して都城とする。1003年に李継遷は吐蕃との戦いで戦死したが、息子の李徳明がその跡を継いだ。

 1004年、澶淵の地で対峙した宋と契丹は水面下で交渉し、契丹は宋を兄と呼び、宋は契丹に毎年絹20万匹と銀10万両を贈るという条件で盟約を結ぶ。この「澶淵の盟」を踏まえて李徳明も宋と和平し、1006年に定難軍節度使西平王に封じられた。契丹と宋の2大国に両属することとなった李氏は、内陸東西貿易の利によって富力を充実させた。だが、皇太子の李元昊(1003~48)は対宋屈従に不満だった。1028年、李元昊はウイグル族の支配する甘州を攻め落とし、吐蕃の支配する涼州も奪取した。

 1031年、李徳明の死によって李元昊が立った。契丹から興平公主を妃に迎えた李元昊は、宋からの完全独立を目指して国家体制の整備に邁進した。都の興州を興慶府と改めて宮城を拡張し、官制や儀礼、兵制を整え、1034年には年号を定めて「開運」とする。また、タングート独自の西夏文字を創製し、これを国字として国内の官用文書全てで用いることにした。内政とともに領土拡大も進められ、沙州と瓜州の攻略によってシルクロードに通ずる河西回廊全域を制圧。1038年10月、遂に李元昊は皇帝を称し、国号を「大夏」、元号を「天授礼法延祚」とした。宋では中国古代の王朝名である夏を、タングート族が称することに抵抗があり、これを「西夏」と呼んだ。

 宋は西夏の独立に憤慨し、1039年6月、李元昊の官爵を削り、国境貿易を禁止した。だが、国境の軍備は脆弱で、1040年初に李元昊の侵入を受けると宋軍は三川口で大敗し、指揮官の劉平が捕虜になってしまう。慌てた宋は名臣と称される韓琦(1008~75)と范仲淹(989~1052)を急派し、潼関に築城して防衛態勢を強化する。加えて、吐蕃青唐羌の首長厮囉と連絡し、西夏の背後を衝かせようとした。厮囉は李元昊と熾烈な戦闘を繰り広げたが、宋の期待に反して西夏を抑えることはできなかった。

 1041年2月、渭州好水川で宋軍1万8000が李元昊に大敗し、大将の任福ら将校数百人を含む兵6000人が戦死する。宋は防衛態勢を見直し、陝西を秦鳳、涇原、環慶、鄜延の4路に分け、それぞれを韓琦、王沿、范仲淹、龐籍が担当することにした。しかし、1042年閏9月1日、宋軍は定川砦で西夏軍に包囲され、大将の葛懐敏とその武将16人、兵9400余人、馬600余匹が壊滅。李元昊は告論を発し、目標は長安占領だと豪語した。

 契丹も宋の窮地につけ込み、国境付近に軍を集結させると、関南10県の割譲を迫った。何としても領土の割譲を避けたい宋は、澶淵の盟で定められた歳幣に絹10万匹と銀10万両を追加することで妥協する。宋と契丹の緊張緩和は、李元昊にとって誤算だった。西夏軍は局地戦で勝利を重ねたものの、韓琦と范仲淹の適切な防御によって、迅速な決着は望めない情勢となっていた。もともと国力の乏しい西夏には、戦争の長期化による損耗や、経済封鎖による困窮は耐え難く、李元昊も対宋和平を考慮せずにはいられなくなる。対する宋も、50万を超える兵力投入によって国家財政が赤字に転じるなど、和平やむなしの方向に傾いていた。

 契丹を仲介として和平交渉が進められた結果、1044年に「慶暦の和約」が成立した。これにより、西夏が宋への臣従を受け入れる一方で、宋から西夏へ銀類7万2000両、絹類15万3000匹、茶3万斤という莫大な歳幣が贈られることになった。しかし、その後も両国関係は安定を欠き、宋は陜西方面に大軍の駐屯を余儀なくされた。そのことは契丹と西夏への歳幣とあいまって、宋の財政を圧迫した。


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