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モンゴル帝国の南宋侵攻

クチュの南宋侵攻 1230年に開始されたオゴデイ・ハーン(1186~1241)の金侵攻の最終局面で、南宋はモンゴルからの要請に応えて孟珙(?~1246)率いる兵2万を派遣し、軍糧30万石を援助した。その結果、南宋の宿敵であった金朝は、1234年に蔡州でモンゴル軍と南宋軍に挟撃されて滅亡する。南宋は蔡州など十数州を獲得し、金の領土の大部分はモンゴル帝国のものとなった。ところが南宋の宮廷内では、この機会に乗じて開封、洛陽、帰徳の三京回復を目指す強硬論が、趙范と趙葵の兄弟によって提出される。多くの朝臣が反対したのにもかかわらず、南宋の皇帝・理宗(1204~64)は出兵を決定した。

 全子才率いる先遣隊1万が開封に接近すると、モンゴルに開封を託されていた崔立は部下によって殺害され、南宋軍は無血入城を果たす。その後、趙葵率いる本隊5万が合流し、南宋軍は更に洛陽も占領した。しかし、中原地方は長期間の金と宋の戦いの結果、軍を養うことのできない不毛の荒野と化していた。南宋軍は物資の現地調達ができず、洛陽到着の翌日には携帯していた兵糧も尽きてしまう。対するモンゴル軍は黄河を決壊させて南宋軍に損害を与え、次いで洛陽を強襲する。戦闘は勝敗がつかなかったが、飢えに苦しむ南宋軍は洛陽と開封を放棄して壊走した。こうして「端平入洛の役」と呼ばれる南宋の中原回復作戦は大失敗に終わった。

 南宋の違約を責めるオゴデイからの使節に対し、理宗も弁明のための使節をモンゴルへと派遣したが効果はなかった。1235年、新たに建設されたモンゴル帝国の首都カラ・コルム近郊で開催されたクリルタイにおいて、南宋に対する侵攻と西北ユーラシアを標的としたバトゥの征西という東西への2大遠征作戦が決定された。

 南宋は長江、淮水、漢水の三大河という天然の要害と、強力な防衛力を持つ城郭都市群によって守られていた。南宋侵攻軍はモンゴル人、契丹人、中国人などで編成され、オゴデイの第3子で後継者と目されていたクチュが総司令官として将軍テムテイ、張柔などと湖広を目指す一方、オゴデイの第2子のコデンが将軍タカイと四川へ侵攻し、コウン・ブカと将軍チャガンが淮東、淮西へ向うことになった。

 8月、モンゴル軍の先鋒部隊が四川に侵攻し、青野原で四川安撫制置使の趙彦吶を包囲したが、救援に駆けつけた権利州都統制司職事の曹友聞によって撃退された。だが、コデンは鞏昌で抵抗を続けていた金の残存勢力の汪世顕を降伏させると、翌1236年8月、地理に詳しい汪世顕を先鋒に本格的な侵攻を開始。陽平関でモンゴル軍を迎え撃った曹友聞は善戦むなしく戦死した。陽平関を突破したコデンに四川は席巻され、都市の大半が占領されてしまった。

 湖広方面でも、3月に漢水の緊要地である襄陽が内紛を起こし、大量の軍需品と共にクチュ麾下のモンゴル軍に降伏。ところが、11月にクチュは突如陣中で病を発して死亡し、代わりにテムテイが指揮を執ることになった。テムテイは江陵を包囲したが、長江流域の防衛を担当する史嵩之は、蔡州攻撃で名をあげた孟珙を後方から呼び寄せて撃退させた。1237年にも孟珙は長江江畔の黄州においてコウン・ブカ麾下のモンゴル軍を撃退し、1238年、荊湖制置使に昇進する。1239年にタカイが四川から湖広侵入を試みた際には、湖広西方境上に強固な防衛陣を構築してこれを阻止した。

 孟珙のもと反撃に転じた南宋軍は失われていた諸都市を次々と回復し、遂には襄陽と漢水を挟んだ対岸にある樊城の奪還に成功する。翌年、四川宣撫使となった孟珙は中原から南に逃れてきた人々を収容して軍を増強し、屯田を興してこの地方の防衛体制の再建に務めた。そのため戦局は膠着し、モンゴル帝国の最初の南宋侵攻は長江を越えることもできないまま、1241年のオゴデイ・ハーンの死去によって自然消滅した。


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