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スレイマン大帝の戦い

ロードス島征服 1520年にセリム1世(1467〜1520)が没すると、後に「壮麗者」と呼ばれることになるスレイマン1世(1494〜1566)が後を継ぎオスマン帝国のスルタン(皇帝)に即位した。1521年、かつて「征服者」と呼ばれたメフメット2世(1429〜81)をも退けたベオグラードを征服したスレイマン1世は、メフメット2世の攻略出来なかったもう一つの要衝、ロードス島の征服を決意した。

 東地中海に浮かぶロードス島は、1309年以降、聖ヨハネ騎士団の支配下にあった。聖ヨハネ騎士団は、聖地エルサレムを訪れるキリスト教巡礼者を保護する一方で、さかんにイスラム教徒に対する海賊活動を行ったためオスマン帝国の海上交易にとり重大な障壁となっていた。1480年にメフメット2世による第一次包囲を退けた聖ヨハネ騎士団はオスマン帝国の再来に備えて、神聖ローマ帝国の軍事顧問を務めた築城技師バジリオ・デッラ・スコラを招聘して1518年から3年間にわたって城壁を増強し、1522年からは高名な築城技師ガブリエル・タディーノ・ディ・マルティネンゴを招聘してさらなる改良を加えていた。その結果、ロードス島の城塞は当時のヨーロッパで最強のものの一つとなっていた。

 1522年6月1日、スレイマン1世はイスラム法に従い降伏を要求する書簡をロードス島に送ったが、聖ヨハネ騎士団の団長フィリップ・ヴィリエール・ド・リラダン(1464〜1534)はこれを拒絶する。6月4日、遠征軍の総司令官に任命された第2宰相ムスタファ・パシャ率いる300隻の艦隊が兵1万を乗せてイスタンブルを出港し、6月18日にはスレイマン1世率いる10万の軍勢がボスフォロス海峡のアジア側、ウスキャンダルを出発した。6月26日、ムスタファ・パシャ率いる先発隊がロードス島上陸を果たし、さらに7月28日にはスレイマン1世率いる本隊も到着して、ただちにロードス城を包囲する。対する騎士団側の戦力は騎士が650人で、その他傭兵や戦闘に参加可能なロードス島民など合計7000人程であった。

 8月1日、ついにロードス城に対するオスマン軍の砲撃が開始された。オスマン軍は砲撃とともに坑道を掘り地下から城壁を爆破する作戦も採用したが、騎士団側はマルティネンゴの指揮のもとに対抗道を掘ってこれを阻止した。エジプトからの増援軍を加えさらに強化されたオスマン軍は再三城壁に対する攻撃を行ったが、その度に騎士団の激しい抵抗によって撃退された。9月24日に行われた精鋭部隊イェニチェリを投入した攻撃も失敗に終わり、総司令官ムスタファ・パシャは責任を取らされ罷免された。

 しかし、騎士団側の内部にも長引く籠城戦により分裂が生じていた。10月末、副団長のダマラルがスパイ容疑で捕らえられて処刑された。さらにギリシャ正教徒のロードス島住民が騎士団と袂を分かち独自にオスマン帝国に降伏しようとする動きも表面化する。12月20日、騎士団長リラダンはついにオスマン帝国に降伏することを決意した。

 スレイマン1世は、聖ヨハネ騎士団の武勇を称えて武器を携えたまま島を退去することを許可した。1523年1月1日、わずか200人となった聖ヨハネ騎士団は、1600人の兵士と共に船に乗ってロードス島を去った。ロードス島を征服したオスマン帝国は、これにより東地中海の制海権を獲得する。一方、敗れた聖ヨハネ騎士団は8年間の放浪生活の後、1530年に神聖ローマ皇帝カール5世(1500〜58)によってマルタ島を与えられた。


ハンガリー征服 ベオグラードとロードス島の征服により、オスマン帝国のヨーロッパ侵出を阻む障壁は取り除かれた。一方のヨーロッパではこの当時、オーストリアとスペインのハプスブルク家とフランスのヴァロア家がイタリアの支配をめぐり激しく対立していた。1524年2月24日、イタリア戦争第二期のパヴィアの戦いでフランス王フランソワ1世(1494〜1547)がハプスブルク家のカール5世に敗れて捕虜となると、フランソワ1世の実母ルィーズ・ド・サヴァイはスレイマン1世に支援を求めた。これによりオスマン帝国とフランスとの間に同盟関係が成立する。

 1526年4月21日、スレイマン1世はハンガリー征服を目標に10万の軍勢と300門の大砲を率いてイスタンブルを発った。オスマン軍はペトロワインデンやエセックなどの拠点を次々に攻略しながら、ドナウ川沿いにハンガリーの首都ブダを目指して進軍する。

 対するハンガリーはハプスブルク家の支援を受けるヤギェヴォ家のラヨシュ2世国王(1506〜26)と、乱立する大小貴族との利害が対立して分裂した状態にあった。追いつめられたラヨシュ2世は、全ヨーロッパにオスマン帝国の脅威に対する援助を要請する。しかし、このとき頼みのハプスブルク家は、兄のカール5世がローマ教皇クレメンス7世(1478〜1534)を中心としたコニャック同盟に包囲されており、弟のフェルデナント(1503〜64)もドイツ国内の宗教問題に忙殺されていた。結局、ラヨシュ2世の要請に応える国はどこにもなかった。

 8月29日、ラヨシュ2世麾下のハンガリー軍3万はブダ南方のモハーチの平原でオスマン軍を迎え撃った。戦闘は夕刻近くに重装備のハンガリー騎馬隊の激しい攻勢によって開始された。オスマン軍は作戦通り左右に展開して敵の攻撃をかわすと、アクンジュ軽騎兵5000が退路を断ち、300門の大砲によってハンガリー軍を粉砕した。ハンガリー軍は騎士4000を含む兵3万が戦死し、ラヨシュ2世も逃亡しようとして沼地で溺れ死んだ。

 スレイマン1世麾下の軍勢は進撃を続け、9月10日に首都ブダに到着した。ブダの住民は戦わずしてオスマン軍に城門を開き、ハンガリー貴族たちはスルタンに対して臣従を誓った。


第一次ウィーン包囲 1526年11月末にスレイマン1世がイスタンブルに帰還すると、ハンガリーの貴族は戦死したラヨシュ2世の後継国王の選出をめぐって分裂した。大半の貴族はトランシルヴァニア候のサポリヤ・ヤノシュ(1487〜1540)を支持したが、兄のカール5世から支持を受けたオーストリア大公フェルディナントは独自に議会を召集し、自らのハンガリー王位を認めさせた。

 強大なハプスブルク家の軍事力によってブタを追放されたザポリヤは、イスタンブルに使者を送ってスレイマン1世に封臣としての支援を求めた。フェルディナントも同様にイスタンブルに使者を送ったが、この使者はスルタンに対して高慢な態度をとったために投獄された。スレイマン1世はオスマン帝国こそが再建されたローマ帝国だと考えていたため、スペイン王にすぎないカール5世が「神聖ローマ皇帝」を名乗ることに我慢ができなかった。1529年5月10日、カール5世とフェルディナントの兄弟を討つ決意をしたスレイマン1世は、12万の兵、300門の大砲、2万2000頭のラクダ、1万頭のラバを列ねてイスタンブルを発った。

 しかし、悪天候による河川の増水のためにオスマン軍の行軍は難航し、ベオグラード到着までに2ヶ月も費やしてしまう。9月にようやくモハーチに到着したオスマン軍は、ここで騎兵6000を率いたザポリヤと合流し、スルタンに臣従させたうえで改めてハンガリー国王として承認した。オスマン軍はさらにブタまで進軍すると5日間にわたる包囲の後にフェルディナントの勢力下にあったこの町を占領する。

 冬の到来が迫っていたためオスマン軍は慌ただしくブタを発ち、9月27日、ハプスブルク家の牙城ウィーンを包囲した。対するウィーンでは、カール5世とフェルディナントが避難したためニコラス・サルム伯が歩兵2万、騎兵2000、市民義勇兵1000、大砲70門の守備隊を指揮していた。籠城に備えて城壁を補修して弾薬と食料を十分に貯えたウィーンに対し、オスマン軍は悪路の進軍を急いだために妨げとなる巨砲を途中で放棄していた。小口径の野砲と地下からの地雷のみのオスマン軍の攻撃は破壊力に欠け、再三にわたる襲撃も守備隊によって撃退される。オスマン軍の陣中では気候が厳しさを増すにつれ糧食と弾薬が不足しはじめ、疲労による兵たちの不満も限界に近づいていた。10月15日、スレイマン1世はやむなくウィーン攻略を断念し、包囲を解いて撤退することを命令した。

 その後、スレイマン1世はカール5世との決着をつけるために、1532年4月25日に15万〜20万の兵と300門の大砲を率いて3度目のハンガリー遠征に発った。オスマン軍は8月にウィーンの東南100キロほどにあるギュンス要塞を攻略した後、ウィーンに籠るカール5世を野戦に誘い出そうとしてスティリア地方へと向かう。しかし、カール5世が誘いに乗らずウィーンから出撃しなかったため、スレイマン1世は目的を達することなく、11月18日にイスタンブルに帰還した。

 フランスとの対立やドイツ国内での宗教分裂を抱えるカール5世と、北メソポタミアを巡ってサファヴィー朝ペルシアと対立するスレイマン1世は、これ以上負担の大きなハンガリーでの戦争継続を望んでいなかった。翌1533年、フェルディナントがイスタンブルに使者を送り、スレイマン1世を父と仰ぐことやハンガリー国土の継承権を放棄することを認めたため休戦条約が調印された。


メソポタミア遠征 オスマン帝国の東方に位置するサファヴィー朝では、1524年にイスマーイール1世(1487〜1524)の死去によって幼いタフマースブ(1514〜76)が王位を継いで以来、混乱した状態が続いていた。トルコ系遊牧民キジルバシ(トルコ語で「赤い頭」の意)同士が政治の実権を巡って武力闘争を繰り広げ、権力争いに敗れた多くの有力者が、命を落としたりオスマン帝国に寝返ったりした。1529年、バクダードの太守ズルフェキル・ハーンがオスマン帝国へ寝返ると、タフマースブは直ちにバクダードを包囲してこの太守を殺害する。しかし、今度はタブリーズの太守ウラーマ・スルターン・タッカルーがサファヴィー朝を見限ってオスマン帝国に出奔してしまう。

 スレイマン1世は国境に近いビトリスの太守シャラフ・アッディーンにウラーマを出迎えるように命じたが、この時の手違いからウラーマはシャラフに対して恨みを抱くようになった。イスタンブルに到着したウラーマは、スルタンにシャラフのことを反逆者と讒言し、1531年に討伐のための大軍を率いてビトリスを包囲する。進退窮まったシャラフはサファヴィー朝に寝返り、タフマースブの援軍によって辛うじて窮地を脱した。

 西方のフェルディナントと休戦条約を結んだスレイマン1世は、サファヴィー朝との諸問題を片付けるため遠征を決意し、1533年9月末に大宰相のイブラーヒム・パシャ(1493〜1536)を総司令官に任命した。イブラーヒムはもともとは貧しいギリシア人の少年漁師だった。海賊に攫われて奴隷として売られた後、聡明さをかわれてスレイマン1世の小姓に献じられる。スレイマン1世の即位後は鷹師匠を皮切りに急速な立身を遂げ、30歳を待たずして大宰相に任じられると遂にはスルタンの妹を妻に娶り、オスマン帝国の宮廷内で並ぶものの無い絶大な権力を手にするに到った。

 10月21日、イブラーヒムは先発軍を率いてイランに向かい、アナトリアからアゼルバイジャンへと進軍する。この時、タフマースブ麾下のペルシア軍はウズベク族のシャイバーン朝と戦うため、はるか東のホラーサーン地方にいた。シャラフはウラーマに敗れて戦死し、ヴァン湖地方の首領たちは次々とオスマン帝国に対する服従を誓う。アレッポで越冬したイブラーヒムは、タフマースブがホラーサーン地方に向かったとの情報をつかんだため、バグダードへは向わずにサファヴィー朝の首都タブリーズを目指した。

 一方、1533年に成人したタフマースブは、1534年にキジルバシの最高実力者フサイン・ハーン・シャームルーを反逆の罪で処刑し、ようやくサファヴィー朝の実権を掌握する。タフマースブはチャルディラーンの戦いの教訓によってオスマン軍に正面から戦いを挑んでも勝機がないことを認識していたため、徹底した焦土、ゲリラ作戦で応じた。

 1534年7月、イブラーヒム率いる先発軍はタフマースブが放棄したタブリーズに入城し、2ヵ月後にスレイマン1世率いる本隊と合流を果たした。その後、オスマン軍は越冬にそなえて南下し、11月末にバグダードを征服する。オスマン軍は悪天候と隘路に悩まされ、300門の大砲のうち100門は輸送不能のために放棄せねばならず、のびきった兵站線による糧食確保の困難さは最高位の官僚の一人が飢餓のために死亡するほどであった。1535年、スレイマン1世はタフマースブとの決着をつけるため再びタブリーズに向ったが、重装備のオスマン軍は機動力に勝るサファヴィー軍を捕捉することができなかった。すでに長期の遠征によって兵士の疲労が極地に達していたため、スレイマン1世はサファヴィー朝打倒という当初の目的を果たせぬまま、1536年1月にイスタンブルに帰還した。

 1536年3月15日、突如イブラーヒムはトプカプ宮の寝室で処刑される。スルタンの継嗣問題に関連してハレム内の陰謀に巻き込まれたことが原因だった。イブラーヒムの財産は没収され、墓碑などは一切建てられなかった。


プレヴェザの海戦 1536年に絶大な権勢を誇っていた大宰相イブラーヒム・パシャが失脚すると、オスマン帝国の宮廷内では地中海の支配を目指す大海相バルバロッサ・ハイルッディン・パシャ(1483〜1546)の影響力が増大した。これまでイブラーヒムの親和政策によってオスマン帝国との協調関係を維持していたヴェネチア共和国は、この動きに危機感を募らせてスルタンの大敵である神聖ローマ皇帝カール5世に接近する。ヴェネチア海軍のガレー船はオスマン帝国の船を度々襲撃し、スレイマン1世を激怒させた。1537年、スレイマン1世はイタリア沿岸を荒らしまわっていたバルバロッサの艦隊に、ヴェネチア共和国領のコルフ島に対する攻撃を命じた。

 8月25日、ルトフィ・パシャ率いるオスマン軍2万5000と大砲30門がコルフの要塞から約5キロの地点に上陸し、29日には大宰相アヤース率いる兵2万5000がそれに加わる。オスマン軍が要塞への攻撃に投入した50ポンド砲は3日間で19発の砲撃を行い、その内の5発を命中させた。しかし、要塞からの砲撃でガレー船2隻が撃沈されると、9月17日、スレイマン1世はバルバロッサの反対にもかかわらず攻撃の中止を命じる。その後、バルバロッサはガレー船70隻、ガリオット船30隻を率いてアドレア海とエーゲ海の島々を荒らしまわり、数千のキリスト教徒が奴隷として連れ去られた。

 オスマン海軍の脅威に対してキリスト教世界は、カール5世、ローマ教皇パウルス3世(1468〜1549)、ヴェネチア共和国などによる神聖同盟を結成し、ジェノヴァ海軍の名提督アンドレア・ドーリア(1468〜1560)を総司令官とする連合艦隊を編成した。カール5世は、ボーナ、ブージー、トリポリの提供と引き換えにバルバロッサを買収しようとしたが、バルバロッサが全アフリカ海岸を要求したため交渉は決裂した。

 1538年9月、コルフ島に集結したヴェネチアのガレー船80隻、ローマ教皇のガレー船36隻、スペインのガレー船30隻、ガリオン船50隻、乗員6万、大砲2500門の連合艦隊は、イオニア海岸にあるオスマン帝国の拠点アルタ湾口のプレヴェザを包囲した。それを知ったバルバロッサはガレー船122隻、乗員2万のオスマン艦隊を率いてプレヴェザへと急行する。オスマン艦隊の接近を知ったドーリアがひとまずコルフ島へと退いたため、バルバロッサは何の抵抗も受けずにアルタ湾内に入ることができた。

 9月25日に連合艦隊は再びプレヴェザに迫ったが、水深の浅いアルタ湾口に侵入することを嫌い、9月27日、南方48キロにあるサンタ・マウラ島沖へと後退する。バルバロッサはただちにアルタ湾を出て後を追い、9月28日に停泊中の連合艦隊を強襲した。連合艦隊は戦力では優勢だったものの帆走船と漕船の調子が合わず、ドーリアが砲力に頼って遠距離砲戦に終始する間に各個撃破されてしまう。連合艦隊はガレー船7隻と帆船数隻を捕獲され、日没後に夜陰にまぎれてコルフ島へ撤退した。

 プレヴェザの敗戦はキリスト教世界に深い挫折感を与え、1571年のレパントの海戦に到るまで地中海の制海権はイスラム勢力のものとなった。10月に神聖同盟軍は報復のためにアドリア海東北岸のカステルヌオーヴォを陸上から占領したが、1539年7月、バルバロッサは重砲48門を陸揚げして砲撃を開始し、8月11日に奪還に成功する。1540年10月20日、ついに神聖同盟を見限ったヴェネチア共和国はフランスの仲介で、エーゲ海諸島、ペロポネソスの2都市、ダルマチア海のいくつかの拠点の譲渡と引き換えにオスマン帝国と和平条約を結んだ。


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