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ペルシア戦争

第一次ペルシア戦争 BC550年頃にキュロス王によって建国されたアケメネス朝ペルシアは、リュディア、バビロニア、エジプトを征服し、「王の王」ダレイオス1世(BC558頃〜486)の時代にはインダス川からエーゲ海に及ぶ巨大帝国となっていた。小アジア西岸のイオニア地方に点在するギリシア人植民市も、いち早く有利な条件で和を結んだミレトス市を除き、相次いでペルシア軍によって征服される。僭主擁立政策による支配はそれほど過酷なものではなかったが、ペルシアの保護の下で海洋民であるフェネキア人の通商貿易が発展するにつれて、イオニアの商工業階級の間では反ペルシア感情が高まっていった。

 そうした中、野心家のミレトス王アリスタゴラス(?〜BC497)は、ダレイオス1世の支援を受けてナクソス侵攻を企てたが、ペルシアから派遣された将軍メガバデスと仲違いしたために作戦は失敗してしまう。責任追及を恐れたアリスタゴラスは、イオニア12都市による同盟を結成し、BC500年にペルシアに対して反旗を翻した。BC498年、アリスタゴラスの救援要請に応じてギリシアからもアテナイの軍艦20隻とエレトリアの軍艦5隻が派遣され、反乱軍はサルディスを攻略する。しかし、体制を立て直したペルシアの反撃が始まると反乱軍は敗北を重ね、BC494年にはミレトスが陥落し、住民は奴隷としてメソポタミアに移住させられた。

 イオニアの反乱を鎮圧したダレイオス1世は、アテナイとエレトリアが反乱軍を支援したことに激怒し、ギリシアの征服を決意した。BC492年、ダレイオス1世の甥で娘婿のマルドニオス(?〜BC479)率いるペルシア軍が、海陸からギリシア北部のトラキアとマケドニアに侵攻する。ペルシア海軍はアトス岬周辺で遭遇した嵐によって、沈没30隻、死者2万以上という大損害を受けて壊滅したが、陸軍はマケドニア原住民の夜襲に悩まされながらもトラキア地方の確保に成功する。

 この遠征によってギリシア征服の前哨基地を得たダレイオス1世は、BC490年、ダティスとアルタフェルネスによって率いられた艦艇600隻の遠征軍を派遣した。この艦隊には、およそ歩兵2万、騎兵1000と推定される軍勢が搭乗し、政争に敗れてアテナイからペルシアに亡命していたヒッピアス(BC560頃〜490?)が水先案内人を務めていた。ペルシア軍は6日間の攻囲戦によってエレトリアを攻略すると、ヒッピアスの進言に従いアッティカ地方北東端のマラトンに上陸する。

 一方のアテナイ側では、将軍ミルティアデス(BC550頃〜489)がポリス内の籠城派を説得し、重装歩兵を率いて迎撃に向う。アテナイはギリシア最強の軍事力を誇るスパルタに使者を送って援軍を求めたが、あいにくスパルタは神事の最中だったため直ちに軍を動かすことができなかった。このためマラトンに布陣したアテナイ軍は、プラタイアからの援軍1000を加えても約1万に過ぎなかった。

 丘の上に布陣したアテナイ軍と海岸に野営するペルシア軍は数日間にわたり対峙したが、膠着状態が続く事でアテナイ市内から内通者が出る事を恐れたミルティアデスは、ついに攻撃を決断する。アテナイ軍はペルシア弓兵の射撃を浴びる時間を短くするため、敵に近づくと駆け足で突撃した。ペルシア軍は平野部での機動力を駆使した戦いを得意としていたが、肉弾戦においては密集陣を組むアテナイ重装歩兵の方が優っていた。ペルシア軍は相手の薄い中央を押し返したものの、左右両翼を突破したアテナイ軍によって包囲され、海上に脱出することを余儀なくされる。歴史家ヘロドトス(BC484〜?)の記述によるとマラトンの会戦における両軍の損害は、アテナイ軍が死者192名なのに対し、ペルシア軍は死者6400名と軍船7隻であった。

 このとき、山の上から海上のペルシア軍に、磨いた盾で太陽光を反射させて合図を送る内通者がいた。それを受けてペルシア艦隊はスニオン岬を廻ってアテナイ市を強襲しようとしたが、察知したアテナイ軍が引き返して護りを固めていたため、攻撃を断念して帰還した。ダレイオス1世はギリシア征服を諦めず再遠征の準備をはじめたが、BC486年、エジプトで起こった反乱の鎮圧に向う途中で死亡した。


第二次ペルシア戦争 ダレイオス1世の後継者としてペルシア王に即位したクセルクセス(?〜BC465)は、エジプトの反乱を鎮定すると、帝国の威信回復のためにギリシア征服を掲げ、アトス半島に運河を開設するなどの準備を進めた。BC480年、ヘロドトスによると528万3000という未曾有の大兵力(実際には陸軍約30万、海軍約1200隻と推定されている)を動員したクセルクセスは、自らペルシア軍の陣頭に立ちギリシアへの進軍を開始する。ペルシア陸軍はヘレスポントス海峡に船橋をかけて渡り、大軍の兵站をまかなうために海軍が沖合いを並行して進んだ。

 迎え撃つギリシア側でも、BC483年にアテナイの政治家テミストクレス(BC528頃〜462頃)が、ラウレイオン銀山で得られた余剰金によって三段櫂船200隻を建造し、ペルシア軍の再来に備えていた。BC481年秋にはコリント地峡にほとんどのポリスの代表が集い、アテナイとスパルタを中心とする「ギリシア連合」の結成を誓う。スパルタはコリント地峡を防衛線とすることを主張したが、それより北に位置するアテナイ、アイギナ、メガラ等の反対によって、海と山とに挟まれた天然の隘路であるテルモピュライを第一防衛線とすることを決定した。BC480年、スパルタ王レオニダス(?〜BC480)率いる連合陸軍約7000がテルモピュライに布陣し、側面のアルテミシオン沖海域にエウリュビアデス率いる艦隊が進出してペルシア軍の到来を待った。

 8月下旬、テルモピュライに到着したクセルクセスは、ギリシア軍が自主的に撤退する事を期待して4日間待ったが、5日目にしびれを切らして攻撃を命じた。だが、戦車1台がやっと通れるという地形のために大軍の利を活かすことができず、2日にわたる戦闘でも強固なギリシア重装歩兵の密集陣を突破することができない。また、海上でも地形を熟知するギリシア艦隊271隻が、数倍のペルシア艦隊相手に敵艦30隻を拿捕するなど善戦していた。

 しかし、6日目の夕刻、クセルクセスのもとに地元のギリシア人からテルモピュライの背後に抜ける間道があるとの情報がもたらされる。ペルシア軍の背後への移動に気付いたギリシア軍は、テルモピュライを放棄して第二防衛線のコリント地峡に撤退することを決定した。同盟軍の撤退を援護するためテルモピュライに踏み止まったレオニダス以下300名のスパルタ軍は、圧倒的な敵に包囲されながらも、武器が壊れると素手や歯を武器にして最後まで戦い、全員が討ち死にした。

 テルモピュライが突破されたことによって中部ギリシアの大半はクセルクセスに恭順の意を示し、ペルシア軍はアッティカ地方を南下してアテナイを占領する。アテナイ市内は放火され、神殿財務官や女神官の立て籠ったアクロポリスも陥落したが、市民は事前に艦船に分乗してサラミス島やアイギナに疎開していたため無事であった。

 アテナイの陥落を受けて、ギリシア艦隊300隻はサラミス水道に集結し、今後の作戦方針について討議した。艦隊総司令官のエウリュビアデスは、陸軍と一体となって戦うためにコリント地峡へ後退しようとしたが、テミストクレスは狭いサラミス水道で敵を迎え撃つことの利を夜通しで説得した。一方、艦艇400隻と数で勝るペルシア艦隊では、補給が困難となる冬の到来を前に、ギリシア艦隊との決戦を望む声が高まっていた。

 9月19日、テミストクレスは奴隷のシキンノスをクセルクセスの陣中に遣わし、ギリシア艦隊の内部が分裂していること、アテナイがペルシア側に寝返るつもりであることを告げさせた。この情報を信じたクセルクセスは、翌9月20日、主力のフェニキア艦隊とイオニア艦隊をサラミス水道に突入させる。しかし、退くと見せかけたギリシア艦隊がサラミス水道奥深くで反撃に転じると、ペルシア艦隊は狭い水域に制約されて大混乱に陥ってしまう。ギリシア側が艦艇約50隻を失ったのに対して、ペルシア側は沈没200隻と拿捕多数という大打撃を受け、クセルクセスは艦隊にヘレスポントスへの退却を命じた。ギリシア艦隊もアンドロス島まで追撃を試みたが、敵艦隊を発見するには到らなかった。

 クセルクセスと艦隊が撤退した後も、ギリシア本土にはまだマルドニオス率いるペルシア陸軍30万が残されていた。テッサリアで越冬したマルドニオスは、翌BC479年、収穫が終わる6月を待って再び南下を開始し、ボイオティア地方のプラタイアでパウサニアス率いるギリシア連合軍11万と対峙した。双方が占いによって「攻めた側が負ける」という神託を得ていたため、アソポス河を挟んだ睨み合いが何日間も続いた。11日目、ついにペルシア軍は敵が移動のために列を崩した隙を衝いて攻撃を仕掛けたが、マルドニオスがスパルタ兵の放った投石によって戦死したのを機に総崩れとなった。

 同じ頃、スパルタ王レウテュキデス率いるギリシア海軍は、ミュカレの浜に乗り上げていたペルシア艦隊を発見し、陸戦の末に勝利を収めた。こうしてギリシア本土における戦いはギリシア側の勝利に終わったが、スパルタとアテナイが対ペルシアで団結していたのはここまでだった。戦争はアテナイを盟主とする「デロス同盟」によって継続され、BC449年の「カリアスの和約」によって終結した。


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