
第1便五月女ナオミ・小園弥生
序章
私たちは1984年に竹内浩三の詩「骨のうたう」に感銘を受けたことから曲をつけ、歌い始めた。小園弥生(1961年生れ・現在横浜市の女性センターで働く)が作曲してピアノを弾き、五月女ナオミ(1963年生れ・演劇人)が歌い、詩を朗読している。1999年の夏、朝日新聞記事により竹内浩三の姉上・松島こう子さんが三重県松阪市にご健在であることを知った五月女が、歌を届けたいという一念をあたため、翌春、松島さんに手紙を書いた。そして2000年8月、ついに松阪市中央公民館にて
「竹内浩三さんの詩“骨のうたう”を聴いていただく会」
を開くことが出来た。当日は地元の新聞社などの協力もあり、70名ほどの方々が足を運んでくださった。
これが、「歌を届ける旅」の始まりだった。
2001年の今年、私たちは初夏から8月にかけて横須賀・横浜・伊勢・松阪の4箇所を拠点に「骨のうたう音楽会」の旅程を組んでいる。
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私たちにとって旅は場であり、出会いと、思いもよらぬ響き合いをもたらしてくれる。
「きてよかった。ほんとうにいい時間だった」と言ってもらえることはうれしい。でも、私たちもまた、同じぐらいいい時間を、エネルギーをもらっている。
竹内浩三と同級生だったという男性がコンサートに来てくれ、戦争の時代を語る時、生き残った者の思いを語る時、場はその人のステージに変わる。語られなければ、なかったことになってしまう、そんな時代に私たちは生きていると思う。本で読むことはできるかもしれない。でも、人間の声で聴くことはまたちがう。その人にしかない味わいをみんなで聴く。みなで場をつくっていると感じる、至福のひととき。
若い高校生が来てくれる。それはまた格別にうれしい。さまざまな年代の人がともにいることがうれしい。青春の時代背景は世代によりちがう。でも、共通するものがあると思う。竹内浩三とも共通する何か。それは何なのだろう。そんなことを思いつつ、旅をする。
気ばかり若いけれど、中間の世代となった私たちには、ただ感動して歌を歌っているとはいえ、それぞれの人がどんな時代を生きてきたのかな、とあいだに立って伝えたり通訳の役割ももっているのかもしれないと思う。そしてこれからどんな時代にしていこうとするのか、それを考えつつ、ゆっくりと旅をする。
現代ではゆっくりとした時間の流れさえ、罪悪のように思われているので、なにごとも明確な目的を持って効率的に行うべきだとされているので、私たちは大いに反逆者のようである。なんだか竹内浩三のようである。目的もさだかでないことをじっくりと楽しんではまりこんでいくのは、まったく旅の麻薬である。やめられない。
今回、竹内浩三の郷里・伊勢市の森節子さんが竹内浩三を後世に伝える町おこしプロジェクトを発起された。森さんが開かれたホームページに便乗して、私たちのささやかなる旅の記録を掲載していただけることになり、本当に感謝している。
いかがですか。あなたも旅の道連れに。
第1章
「”骨のうたう“を聴いていただく会」
へ、至るまでのこと
五月女ナオミ
17歳の時に演劇をやりはじめまして、その中で私は数々の学ぶことがありましたし、また、さまざまな人と出会ってまいりました。これからもそれは続くのでありましょう。
小園弥生さんとの出会いは、私にとって強烈でありました。当時、横浜市立大学の学生であり、ヨコスカのタウン誌の記者でもあった彼女より、小さな喫茶店で取材を受けました。その後、舞台を観に来てくれたり、劇中歌を数曲、作曲してもらったり、と今から20年近くも前のことであるのに、昨日のことのように記憶が残っております。
1984年、米海軍ヨコスカ基地にトマホークが配備されるということに対し、市民運動が盛り上がっていました。その中で小園さんが素朴なる怒りを込めて詩を書き、歌をつくりました。「トマ食い虫の歌〜この海を愛するなら」「お元気ですか」、その2曲の歌を、私が歌うこととなったのです。これが小園さんと私のコンビの大きなきっかけであります。あるときは横須賀臨海公園の5000人集会のステージとなった10トントラックの上で、あるときは生協の小さな集まりで、また横浜公園の「女の秋祭り」で、上野音楽堂で、日比谷野外音楽堂で、呼ばれればどこへでも行って歌いました。
歌もそれから数々生まれ、それだけでは飽き足らなくなった私たちは「もも組すぺしゃる」というバンド名もつけて、今は無きヨコスカのライブハウス「かぼちゃ屋」で自主コンサートも開いたりしました。
そんな中で84年の暮れに新宿のライブハウスがぎゅうぎゅう詰めになったコンサート「反核ライブ・イン・ロフト」がありまして、私たちも出演。そのステージにて、小園さんが曲をつけたばかりの「骨のうたう」を歌うこととあいなったのでした。「詩を読んで、びっくりしたんですね」と、小園さんはステージで語っています。その時私としては「23歳でフィリピンで戦死された方の詩」としか聞いておらず、ともかく初めて歌うのでせいいっぱい。テープを聞きますと声も若く、詩の解釈云々というより、詩の独特なるリズムを文体を、感覚にて受けとめ、自分なりに感ずるままを表そうとしていたような気がします。
このように歌い始めることにより、私は「骨のうたう」という詩に出会ったのでありました。その後、図書館で小林察編の『恋人の眼や ひょんと消ゆるや』を見つけ、「骨のうたう」という詩の背景なるもの、竹内浩三の世界に触れ始めたのです。
書物にて味わう中で、まず魅きつけられました詩が「三ツ星さん」。竹内さんがそれら作品を書いた年齢と私も近かったということもありましょうが、とても身近に感じられたのです。それと、挿し絵や、思わずにんまりしてしまうユニークな漫画の数々。なんておもしろい発想を持つ人なのだろうと、ますますおのれにひきつけて読みました。同時に読んで知った詩の背景、それはその後の私の歌い方に大きな変化をもたらしました。「骨のうたう」が戦争へ行く前の言わば抑鬱状況のうちに書かれたということ…など。小園さんが衝撃を受けた数年後、私もびっくり≠オてしまったのです。
そして、もうひとつの大きな事実であります、竹内浩三さんのお姉さんの存在。姉弟の手紙のやりとりの数々。筑波日記や、他の作品をも知りまして、ますます自分としてこだわりたい歌、詩≠ニなってゆきました。一表現者として、竹内浩三さんの作品はとても豊かなイメージを喚起させてくれるものであり、あるときは、骨が唄う「骨のうたう」だとすれば果たしてどんな歌になるのだろう、など実験めいた考えで詩に向かったり、ということもありました。
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前置きがとても長くなりましたが、今年8月31日に至りました経過を述べさせていただきます。
1999年夏、「時のらせん階段」とテーマタイトルをつけたコンサートで相馬正男さんのギター伴奏にて「骨のうたう」を歌いました。それからまもない8月15日、駅で何気なく買った朝日新聞を開きましたら、「追悼論」(論説委員・福島申二氏)が大きく出ており、そこに「骨のうたう」があり、興味深く読み進めました。するとお姉様、松島こう子様のことが書かれており、「ああ、三重県松阪市というところに住んでいらっしゃるのだ」と。それまで書物の活字世界の中にて接しておったわけなのですが、その方が新聞に登場されており、ご年齢なども知りました。以前より私の中でぼんやりとではありましたが、歌をお届けできればなあ、など思っておりましたもので、これはもう、すぐにでもお届けしたい、とその時思ったのです。
しばらく考えた後、しかし、お贈りするのなら過去のものでなく、今現在の私にとっての「骨のうたう」を創りあげるべきだ、と。ちょうどその頃2000年2月に自主コンサートを企画しており、そこでじっくり創りあげたものを贈ろう、と考えました。
2月のコンサートでは、私自身もかなり身を入れて詩と向き合い、サウンド面ではプロ活動しているギタリスト、ベーシスト(元吉秀美氏、入間川正美氏)の協力を得まして、重厚な「骨のうたう」ができました。
その後3月3日、作曲者の小園さんに「追悼論」を見せ、お姉さんに歌を贈りたい、という気持ちを話し、進めていくこととなったのです。さらに3ヶ月ばかり、よく考える時間をとり、6月、思い切って松島こう子さんに手紙を書きました。歌を贈りたいという、こちらの一方的な思いゆえ、お姉様にとっては唐突な話であろうと思いましたし、ともあれ、できるかぎり気持ちをお伝えしようとペンを走らせました。
それから数日後、私のもとへ郵便物が届きました。封筒の後ろを見ますと「松島こう子」とあり、私は、お返事をいただけた、となんともうれしい気持ちにて封を開けました。とてもドキドキしながら。中には「謹呈・松島こう子」と書かれた、最近新たに出された『愚の旗』と『20世紀を生きた三重の女たち』の2冊とお手紙。歌声をお待ちしてくださる、との文面。ああ、受けとめてくださったんだ、と本当にうれしくほっと致しました。
そんななかで小園さんのピアノ伴奏によるテープもつくろうという話が進み、録音スタジオを持っている横井さん、照美さん(沖縄八重山民謡・「みるく」)のご協力でCD録音。 あとはどうやってこれをお渡ししようかということになり、やはり会いに行って手渡したい、せっかくお会いするのであればいっそのこと生で聴いていただければ、という思いが強くなってまいりました。
三重県にはなんのとっかかりもなく、曲折を経ましたが、松阪市役所の方がていねいに教えてくださり、市立中央公民館を教えてくれました。このときは本当に、コンサートのようなことは少しも考えておらず、ただピアノのある場所にお姉さんの松島様をお招きし、「骨のうたう」を聴いていただこう、というのみの主旨でありました。が、松島様より「ひとりでも多くの方に」というコメントをいただき、タイトルを「骨のうたう≠聴いていただく会」としました。松島様より「夕刊三重」を教えていただき、連絡(前日なんと一面に大きく掲載される)。ご招待状を書き、10人ぐらいはどなたか聴きに来ていただけるかしら、と思いながら、あちらこちらへと郵送をする。
松島こう子様をはじめ、ほんとうに色々な方の協力を得、8月31日、三重県松阪の地へとたどりつくことができたのでありました。
第2章
2000年8月31日 木曜日
「夏の終わりに旅は始まり」
小園弥生
気がついたら松阪の駅に降り立っていた。名古屋からさらに1時間余り乗って2時過ぎ。空もようは雨が降ったりやんだり。それでも知らない町に行くと心が浮き立つ。朝到着していたナオミさんと駅で落ち合い、その足で竹内浩三さんのお姉さん、松島こう子さんにご挨拶にうかがう。道に迷ってなかなか着かない。ウキウキと私たちは目を皿のようにして歩いた。松阪の町全体がちょっと昔の映画から脱け出したようにレトロで、育った頃(昭和40年代)の町の風情を思い出す。
めざすお姉さんのお宅は、結婚式場も経営する格式ある神社である。戦後の歳月の重さがしのばれた。なにしろナオミさんが手紙でやりとりしていたとはいえ、お会いするのは初めて。80歳を過ぎているとは思えない、凛とした知的な令婦人である。小1時間ぐらい緊張してお話したり、写真を一緒に撮ったりした後、ナオミさんが調べて予約した公民館へ私たちは歩いて行ってみることにした。
訪ねてみて知ったのだが、松阪という町は歴史ある町だ。真ん中に松阪城跡(石垣のみ)があり、そのそばに武家の門番長屋や公民館、市役所、ここで生まれて研究生活を送った本居宣長の記念館などがある。「松阪商人(あきんど)」というのも有名だそうな。三越や三井を出した町。「松阪牛」は1軒が1、2頭を家族のように手塩にかけて育てるとか。散歩しながら飽きることがない。竹内浩三の詩を世に広く知らしめるきっかけの本を作った、本居宣長記念館の高岡館長を訪ねてごあいさつ。
市立中央公民館の3階講堂が本日の会場。利用料金を払う。案内のチラシを貼ったり、受付をつくったり、いすを並べたり。なんだかいつもの私の仕事のよう。いすはとりあえずの予測として20脚並べた。マイクと録音のテストをして、ピアノと歌を合わせてみる。あとはお客さんを待つばかり。松島さんがまず座ってくださる。その娘さん(竹内さんの姪にあたる)も到着。親戚の方。6時ごろから、ポツポツと年配の人々が、エレベーターがないので古びた階段を上がっていらっしゃる。先月竹内の題材で演劇を公演した伊勢青年劇場の人々。なんだか人が切れずに多くなってくる。二人でいすを足すのに大忙し。スタートの6時半には、思ったよりずいぶんたくさん(60名ぐらい)のお客さんで開演。
お礼のごあいさつから、今日ここに来たいきさつを話し、「三ツ星さん」を朗読した後まず「骨のうたう」を歌う。この3ヶ月、ナオミさんはこればかりくりかえし練習してきた。CD録音よりも、聴衆を前にしたこの日の歌はよかった、と私は思う。私たちの音楽活動の始まりについて紹介したあと、そのきっかけになった古い自作の歌「お元気ですか」「私の友だち」を歌う。それからナオミさんが「10人の女優が歌われなくなった歌を歌うコンサート」での持ち歌「満人娼婦の唄」(軍歌「討匪行」の替え歌)をアカペラで。ここでどんな方がきてくださったのかと、会場にマイクを回す。竹内浩三と中学の同級生だったという人が何人か。戦争に行った話。「今日はほんとによかった」と聞いてともあれ、ほっとする。このころには公民館の職員の方がすっかりサポーターとなってくれており、旧式の機械音の響くエアコンを場面に合わせて止めたりつけたりしてくださった。
最後に、「骨のうたう」を次の世紀にも歌いつづけたいとナオミさんが熱く語った。いつのまにこういうことをいうひとになったか。そして、詩「望郷」を朗読し、もう一度心を込めて「骨のうたう」を竹内の故郷の人々に贈る。最初よりさらによかった感じ。会場はしーんとする。それから拍手。お姉さんの松島さんにCDをプレゼントする。「こんなふうにしていただいて、浩三がどんなに喜んでいることでありましょう」とおっしゃり、短歌を1首詠まれる。
日本より 遥かなる地に若きらの
み魂のこして新世紀迎ふ
何人かの方と記念撮影。持ち歌が少ないので、このかんしめて50分あまり。それでも十分なゆったりしたふしぎな、時代をこえた空間であった。と思ったのは私だけではなかったということが、帰ってからたくさんの方のお手紙でわかった。幸せだった。
列車の時間まで、駅前のお寿司屋さんでごちそうになり、松島さんとお話する。駅で別れを惜しみ、私たちは夜の闇の中、日常に帰っていく。伊勢名物「赤福」の包みや、大きな花束を抱えて。車中、ともかく缶ビールで乾杯。名古屋で夜行列車「ムーンライトながら」に乗り込んだ。
夏の終わり、この日が旅の始まりだった。
☆追記
旅から帰ってからしばらく、ナオミさんは私たちのささやかなコンサートに来てくれたひとりひとりに礼状を書き、「こんなに筆まめではなかったのに」と言いながら手紙のやりとりに忙しがっていた。
本当にたくさんの方々からあたたかいお手紙をいただいた。おおかたは「歌も朗読もすばらしく、胸がしみる夕べでした。会を開いてくださってありがとう」というものだったが、愉快なものも少なくなかった。「私どもの町ではこのような催しはあまりないのです」「当日見慣れない人がいすを並べていると思ったら歌手本人とは」「マネージャーもなくこのような活動をよく」「普段着での出演が好ましかった」「いまどき珍しい心の資本家」(うわあ、すごい!と読んだがよく見たら「心ある音楽家」だった。あんまり達筆で)などなど。たった1曲の歌を通してこんなに心の交流ができるものかと、来てくださった方々の気持ちの深さ、率直さが身にしみた。ありがたかった。
帰ってからすぐに、やはり竹内浩三さんの詩、「雨」と「望郷」の2編に曲をつけた。いまに通じるものがあるようで、私はこれらが好きだ。「骨のうたう」も1942年という時代に書かれた詩ではあるが、戦死はあの戦争の時代だけではなく、いまもさまざまな戦死やいのちのすり減らしというものが、あるのではないかと思う。「芝居をやっても何をやっても、みんながいきづまっていて、じゃあどうしたらいいんだって叫んでいるのを感じる」とナオミさんはいう。
そんな時代の中で、私たち自身の迷えるホネを込めて新しい「骨のうたう音楽会」を、2001年は三重県と横浜を中心に何カ所かで開きたい。