追憶


野村一雄


 昭和18年12月1日。其れは学徒出陣の日。其の前夜、茨城の筑波の麓から、偶然に帰って来ていた竹内浩三一等兵と私と私に数日後れて海軍に入隊する中井君と、小生の書斎に三人枕を揃えて、夜更け迄、寝床の中で最後の別れを惜んで、語り明した思い出が、今更の如く想い出される。
 軍隊の徹底的に嫌いだった竹内は、新らしく軍隊に入らんとしている小生等を、或る同情的な気持で、見守っていたに違いない。
 兎角、私は、此の与えられた峻厳な運命への挑戦の為に、全精神を集中させていた。学生生活が、思い懸けなく中道にして、ポッキリ切断させられ、全く違った世界に入らざるを得なくなった事実が、より以上に、ロマンチックな此の夏の最後の学生生活の思い出を無性に懐かしめた。その時、小生は軍隊に入ってからの事を想像しての話は何にもしなかった。それよりも、私達三人の頭の中を、占領していたものは、学生時代の楽しい、、健康な、青春の香り高き、思い出の数々だった。その翌日私は、出陣の途についたのである。

 それから十数ヶ月、竹内は依然として、筑波の麓で、空挺隊の訓練を続けていた。中井は海軍の航空隊に入った。私は、四国の香川県の豊浜と云う田舎で、幹部候補生として、船舶部隊の訓練を受けていた。
 皆思い思いの宿命の道を、思い思いの気持で突き進んで行った。丁度、其の頃、八月も半ば過ぎ、突然、私達の学友でもあり、「伊勢文学」の同人でもある風宮泰生君の、満州での戦病死の報を、私は風宮君の親戚の方から受け取った。彼は、広漠たる満州の野に、青春の純潔のまま、死ぬとも明瞭に、最後まで、意識せずに散ってしまったとの事である。彼の母上と妹さんとが、取るものを取りあえず、困難をおかして、新京に急行せられたに拘らず、時既に遅かったとの事だった。

 私は、其の夜、窓から射す月影、長く陰引く銃架の列を、喰い入るように、見詰めていた。秋を知らせる蟋蟀の声が、悲しみに、澄みきった私の魂に、沁み透って行くのを覚えた。何となく泪が流れて、枕覆を濡していた。彼は、私達の仲間の最初の犠牲者であった。私はたまりかねて、この悲報を、筑波の竹内に知らせたら、彼から次の葉書がきたのである。




ハガキミタ。
風宮泰生ガ死ンダト。ソウカト思ッタ。胃袋ノアタリヲ、秋風ガナガレタ。気持ガ、カイダルクナッタ。参急ノ駅デ風宮ヲ送ッタ。手ニ、日ノ丸ヲモッテイタ。ソレイライ、イチドモ、カレニタヨリセンダシ、モライモシナカッタ。ドコニイルカモ知ラナンダ。トンデ行ッテ、ナグサメタイ。セメテ、タヨリデモ出シテ、ナグサメテヤリタイト。トコロガ、ソノカレハモウイナイ。消エテ、ナイノデアル。タヨリヲシテモ、返事ハナイノデアル。ヨンデモコタエナイ。ナイノデアル。満州デ、秋ノ雲ノヨウニ、トケテシマッタ。青空ニスイコマレテイモウタ。
秋風ガキタ。
オマエ、カラダ大事ニシテクレ。
虫ガフルヨウダ。

頓首

 彼の言葉は、一言一言、竹内らしい深い友情として、私の胸の中に、沁みこんだ。おそらく、竹内は、人前も憚らず、大粒の泪を、ポタポタと流しながら、書いたものと思われる。竹内の祈りの如き、葉書は、悲哀に沈んでいた。私の魂を、心の底から暖めてくれる思いがした。”風宮よ、私達の魂の中に、立派に生かしてゆくよ”と云う決意にも似た気持が強く強く私の心に蘇ってきた。それから屡々冬近く迄、竹内から便りがあった。
 暖かい四国の森や林が、黄ばみ、やがて落葉が、散りつくしてしまう頃、竹内から、ばったり便りが断えてしまった。
 彼は、それから南方に出動、転戦した。其の後の事は何にも解らない。
 傷ましい悲しい戦いの終末に不図にも、生を得て、帰還した私、中井、土屋。先日三人会して、伊勢文学の再刊に就いて話した時、伊勢文学の生みの親の竹内の事が、涙ぐましい気持で、話しに上った。
 私達は、全く生死不明で雲の如く姿を消した竹内に、限り無き友情を覚える、そして、竹内が風宮の死をいたんだ時の葉書のような気持を、今度はそれを書いた当人の竹内に対して、私達が持つような羽目になった運命の皮肉を悲しむ。竹内よ。一時も早く帰ってこい。私達三人の気持は、何時もこんな気持で待ちうけている。死んでいたとしても、私達のお互いの魂の内に、常に語りながら、彼は永遠に生きる、生かさねばならぬと言う気持が私達三人の気持を、つつんでしまった。
 私達のこれからの前途は、生易しいものではない。限りなき困難が続くであろう、そして又各々異った運命の道が、展開されてゆくであろう。だが、私は、何時までも、相寄り相助けて、美しい世界を作ってゆきたいものと祈って止まない。

(1947年「伊勢文学」第八号より)

新評論  竹内浩三全集2「筑波日記」 より