わが青春の竹内浩三

中井利亮


 竹内浩三が戦死してから、もう53年になるとのこと。万に一つ、彼が生きていたら、今ごろどんな男になっているだろうか。すでに学生時代から、そのゆたかな天分がどのように実るだろうかと、大きな期待をかけられていたのに、わずか廿三歳の若さで、フィリピンの山野に消えた。
「戦死やあわれ
兵隊の死ぬるやあわれ
とおい他国で ひょんと死ぬるや」
と 、歌った彼。また、友人の悲報を聞いて、「胃袋のあたりを、秋風がながれた。気持がかいだるくなった。一度も彼に便りをせんだ。貰いもしなかった。どこにいるかも知らなんだ。とんでいって、なぐさめたい。ところが、その彼はもういない。たよりをしても、返事はないのである」と、悲しんだ彼。その彼も、とっくに消えたきり戻ってこない。
 人間の美しさは、ある抵抗にむかって、火花を散らすことだと云えよう。ところが、浩三にはそうした火花を持たぬ美しさがあった。彼は、生まれながらにして円光をもっているような善人であり、生まれながらの数少ない詩人の一人であった。呼吸をするように、詩が生まれ、画ができた。そして、彼の目は常識的などんな醜いものや、悪の中からでも、美や善や真実を見わけることができた。彼は軍隊に於いては、なかなか昇級しない兵隊であった。
「将集の当番であった。帰りたい。よくまあ、こんなところにいて発狂しないことだ」
と、言いながらも
「将集への出入はワルツを踊っているみたいだ」
とも言うのだ。
 阿呆めとはがゆい思いをさせられそうな、また、神とも呼びたいような、底なしに、人を信じ、女にも惚れた彼、こんな人間が生きていたこと自体が珍現象であった。

 彼は、大正十年、五月、伊勢市吹上町の大きな呉服商の長男に生れ、幼くして母には死別したが本当になんの不自由もなく、のびのびと育った。明倫小学校を経て、宇治山田中学校へと、特大の頭に型通りの帽子をかぶり、だらしなく巻ゲートルをつけて通学を始めた。
 学校の勉強は全くしないが成績は三分の一以内、手がつけられぬほど陽気でお人好しで、厳粛さになじめず、教練の時に「気をつけ」がかかっても突拍子に笑いだし、ひどい吃りで、運動会はいつもビリばかりだった。そして、幾何は天才と云われ、岩波文庫や新青年の愛読者であり、文芸雑誌の編集者で、マンガの上手な中学生であった。
 しかし、また父の死が俟っていて、姉と二人きりになってしまう。商売人にはむくまいと、彼に家業を継ぐことを免じ、その当時に於ける莫大な資産を残してくれたのは、他界した父の愛情であり、姉は母のそれに似た愛情で、あたたかく彼を包んでくれた。

 中学校を終えるや上京して、今の日大芸術学部映画科に入学し、彼の作品の大部分を、それから凡そ六年位の間に、矢つぎはやに戦時の夜空に開花する花火のように打上げ、消えたのである。−若くして逝ったラディゲのように。
「浩三さん。よく考えて下さい。今朝、姉さんはあんたが起きて来るまでに、口惜しいと言うか、情無いというか、もう胸が一杯になってしまって、涙がポロポロと流れて仕方がありませんでした。お父さんやお母さんがいらしたら、どんなに悲しまれる事でしょう。お父さんがあんたの為に残された財産は、決してそんな人の言う『ケッコウな身分』の為に残されたものではありません。十分学問して身を修める為の費用としてお残し下さったものです」
 これは帰郷した彼の枕もとにおかれた姉の手紙。
 彼は、この姉にはどんな事柄も打明けて話したし、彼の作品の殆どすべては、この愛する姉に捧げられたものとも云えよう。ところで、東京での彼の生活振りは、
 「現状を申しますと、借金が三十円、手もとにある金、三円四十三銭、人に貸した金は十一円、それに下宿への払いはまだです。時計のガラスを演習でわらかし、そのままになっているし、明日は二円も出して新協の音楽会を聞きに行き、また築地へ『どん底』を見に行く約束もあるし、新日本文学全集、一円五十銭と、新世界文学全集、一円八十銭の新刊が出るし、ドイツ語の字引をもうそろそろ買っておきなされと、先生が云う」
 といった有様で、映画は一日に一度は見、コーヒーも喫茶店で一杯飲み、レコードは買う、古本漁りに歩き廻るのだから「金がきたら」のような詩が生れた。江古田の日大芸術学部の近くにある下宿は十畳の広さだが、足の踏み場もなく夥しい書物が取り散らかり、垢じみたシーツの万年布団はポッカリと大きな煙草穴をあけていた。
「非常に危い状態になりかけて、またやっと今、もとに戻ったところです。たわいもない話ですが、『なんのために』と云うことからです。なんのために勉強するんだ。なんのためにえらい監督になるんだ。そう苦しんで、えらくなる必要があるか。ただ平和にのんびりと、暮らせばいいじゃないか、と云ったような考え方です。これには困った。もっともなことですから」
 これは日大入学当時の手紙で、この「なんのために」が襲って来ると、寂しくなり、遊び廻って浪費し、友人の下宿を泊り歩いた。
 しかし、他の事ならいざ知らず、彼と芸術の関係はぬきさしならぬ仲で、
「でも、オレはなんのためにやるのでもない。やらずにおれないから、やらずにすめばそれにこしたことはないが、不幸にしてやらずにおれないから、やらぬわけにはいかないじゃないか」
 と、芸術という宿命を背負った人間は云っている。
 「墨をすって半紙に『以 伎芸天 為 我妻』とかいて壁にはった。そしたら涙がぽろぽろと出た。伎芸天とは芸術の神である」
 彼にとって、芸術することが生活することであった。

 軍隊と云う所が、こうした人間に対して冷酷であったことは想像に難くない。−−特にその当初にあたっては。
「うたうたいは、うたうたえと、きみ云えど、口おもく、うたうたえず。うたうたいが、うたうたわざれば、死つるよりほか、すべなからんや。魚のごと、あぼあぼと、生きるこそ悲しけれ」
 と鉛のようなハガキがきたりした。
 しかし、不動の姿勢や敬礼一つも完全に出来ず、真面目にやればやる程ふきだしたくなるような彼には、もって生れた暖かい愛される特質があった。
「筑波日記」は竹内一等兵が、軍隊を逃避しようとしたものではなく、もう胡坐を組んだ姿勢での軍隊日記で、異様な明るさがある。彼は小さな手帖二冊に、ひそかにこの日記をつけ、便所の中などで眺めては、「これがぼくのただ一つのクソツボだ」と云って大事にしていた。
「骨のうたう」は、彼が入隊する寸前、一種の抑鬱状態の中から生れたもので、戦後私家版の作品集『愚の旗』を編むときに、私が多少のアレンジをして発表したところ、それが巷間に流布されて、予想外の波紋をひきおこし、結果的には竹内浩三の存在を広く知らせることになった。入隊後も、いくつかの詩や、「花火」という短編で、ミシェル・モルガンらしき女を妻にするといった純空想的作品や「ハガキ小説」と称して、ハガキにごく短い話を書いて送って来たりした。
 彼の全作品は第二次大戦のさ中に生れたものだが、彼にとって、戦争は「悪の豪華版」であり「傲慢でなかったら軍人にはなれない」その軍人が幅を利かした時代には見向こうとしなかった。
 彼は、宮沢賢治を愛し、良寛にあこがれ、彼の詩の一節にあるような「温かいものを求めてさまよう浩三さん」であった。それは山下清が花火を求めて流浪するようにである。
 彼ほど容易に作品を生み落とし、また、よろこびの中で仕事をしたものは少ないだろう。彼には原稿の書き損じというものがなく、一気にペンが走って、その詩にはなんらの推敲も行われていない。
 彼の作品は、素朴で素直、ユニークでユーモラス、楽天的でペーソスがあり、暖かくて明るく、人間浩三の体臭が滲んでいる。そして、その感覚の素晴らしさは比類なく、伊勢の方言をよく消化し、とぼけていて、しかもするどさがあるのだ。


  この原稿は昭和三十一年に限定二百部で発刊された私家版『愚の旗−竹内浩三作品集』のあとがきに手を加えていただいたものです。

成星出版「愚の旗」より

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中井利亮さんについて

2001年8月5日小園さん、五月女さん、森で中井利亮さんを訪問したときに撮らせていただいた伊勢文学と中井さん。
2002年6月15日にご逝去されました。
ご仏壇には成星出版の写真を使って下さいました。

中井さんは宇治山田中学同窓、一番の親友である。いっしょに漫画回覧雑誌をつくっていました。
大学時代は東京で「伊勢文学」を起こし、共に詩を作られました。
「伊勢文学」は手作りの同人誌で、竹内浩三自身が切ったガリ版ずりで、表紙は竹内家で使う荷造りの包装紙です。
表紙の文字は一冊ずつ竹内浩三が手書きで書いたものです。
大変価値のあるものですのに、現存するものはわずかです。

2002.8.24