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   チーズは飛んでこない
                                 河野夕陽

 制服のスカートが地上数十メートルの夜風に揺れる。首もとについた大き目の赤いリボンはうちの学校を知らない人が見たらコントみたいに見えるんだろう。高校三年生にもなってこんな格好をさせられている自分が情けない。何時間も歩き回った足はほとんど感覚がなくなっていた。
 背中からチーズの臭いがしたような気がして、体を少し震わせた。
――もういいよね、終わらせてもいいよね。
 何度思ったことだろう。繰り返し過ぎて、頭の中の声がもう伸びきったテープみたいに間延びして感じられる。
 こういうときは靴を脱いでおくべきなんだろうか。今更どうでもいいことが頭にちらつく。ヒールのないシンプルな靴をそろえてフェンス際に置いた。
フェンスに手をかけた。力を込めた両手に、フェンスの太い針金がくい込むのも気にならない。はるか下の方に、まるで灯篭流しみたいなヘッドライトの列が見えた。
 十八年と四ヶ月。短い人生だったと言われるんだろう。けれど、あたしには長すぎた。
終わりが見えないことほど苦しいことはない、と思う。今日の次に回ってくるのは、明日じゃなく、また同じ今日。ずっとずっと、抜け出せない今日の連続。
片足をフェンスの網目に差し込む。
「ねぇ」
 後ろから声をかけられて、頭より先に体がびくんと反応した。けれど、学校からも家からもずいぶん離れたところまで来たし、あたしを追いかけてくれる人なんていない。……居てほしいわけじゃない。というか、居たら居たで、迷惑だ。
「……そこから何が見えるの?」
 とがめるような口調じゃなかった。感情が抜け落ちたような平らな声に聞こえたのは、全てを終わらせようとしたあたしの心境のせいだろうか。
 登りかけたフェンスから足を下ろして振り返る。彼はあたしを通り越して向こうの空を見つめていた。涼しげな半そでのシャツの首もとのボタンを二つ外して、ストライプのネクタイをだらしなく緩めている。どこにでもいそうな感じのサラリーマン。あたしはフェンスの向こうに視線を戻した。
「……天国」
 シカトするつもりだったけれど、なぜか消え入るような声で答えていた。知り合いじゃないことがあたしを安心させたのかもしれない。そして、けだるそうに空へと向けたまなざしが。
「天国か。俺にも見せてよ」
 あたしの知っている限り、大人って当たり前のことしか言わない。当たり前のことを言って、自分の言葉に当たり前に納得して、当たり前に興味を失っていく。でも、彼はそうじゃなかった。だからだろうか、彼の声は大人の声ではないように聞こえた。彼があたしの答えを笑わないことも、バカにしないことも、不思議だった。
最悪だった人生の最後に、神様が現実離れした出会いを用意してくれたのかもしれない。
 彼に背を向けたまま、あたしはとんでもないことを言っていた。
「じゃあ……一緒に死んでくれる?」
 自分の声がどこか遠いところから降ってくる気がした。
あたしはいつだって一人だった。生まれてから死ぬまで、ずっと一人なんて寂しすぎる。死ぬときくらい、誰かと一緒だったら……なんて思ったわけじゃなかった。一緒に死んでくれる人なんているわけない。それなのに、どうして自分が一緒に、なんて言ってしまったのか、分からなかった。
「……いいよ」
彼はあたしの隣まで来て、フェンス越しに真下の道路を見下ろす。ふっと眉をひそめた。「でも、死ぬ場所だけ、俺に選ばせてくれ」
 彼はしばらく考えてから言い足した。振り返ってのぞき見たけれど、こげ茶のセルフレームメガネの奥の目はふざけているような感じじゃなかった。けだるそうな瞳にほんの一瞬強い光が見えた。あたしは何も言うことができなくて、何かに操られるようにこくりと首をたれた。
 成り行き任せ。もうどうなったっていいや。最後の思い出と思えばいい。そう思ったあたしは、彼と一緒に、たった今飛び降りようとしたオフィスビルの向かいのドトールに入っていた。
 どうせ死ぬんだから名前なんてどうでもいいけど、と断ってから、彼は恭二と名乗った。あたしのサツキって名前を可愛いと言ってくれた。あたしは好きじゃないんだけど。カタカナの名前に込められた意味も(あたしが聞いた限りでは)なかったし、五月生まれだからサツキだなんて、両親のセンスを疑う。けれど、恭二が誉めてくれたことは胸がむずむずするほど嬉しかった。
 死ぬ理由なんて、名前と同じくらいどうでもよかったけれど、何となくそういう雰囲気になってしまった。
「バイト先でお金がなくなったの。あたしが盗ったって言われて。違うって言っても誰も信じてくれなかった。悔しいより腹が立つより、とにかく怖かった。……みんなの目が怖くて、あたしお金出したの。自分が盗ったんじゃないのに」
 一気に言い終えた途端、涙がこぼれた。もう涙なんて枯れたと思っていたのに。あれだけ泣いて泣いて、もう終わらせようって決めたのに。バカみたいに後から後から涙が止まらなかった。冷たい目で見られたときの、あの全身がすくむような感覚がよみがえってくる。
ぼやけて見える恭二の顔が優しそうに顔をしかめたのは、きっとこれから死ぬって決まっているからなんだろうと、意識の端で思っていた。

 たった今出会ったばかりの子が、感情をこんなにも露にするのに驚いていた。屋上で見たときのサツキは無表情だったから、余計にそのギャップは俺を困惑させた。涙を拭った後もまだ犬みたいに潤んだ瞳が印象的だった。肩までストレートにおろした髪が余計に寂しそうな犬を連想させる。
一緒に死ぬ、といった手前そのまま別れる気にもなれなくて、と言うより、雨の日に捨て犬と目が合ったような気分になって、俺は生きるか死ぬか、賭けてみることにした。生きることに執着はなかった。積極的に死にたいとは思わなかったけれど、賭けに負けてサツキと一緒に死ぬなら、それはそれで悪くないような気がした。会ったばかりだけれど、その弱々しい姿が放っておけないように、いや、むしろ愛しくさえ思えたから。でも、実際には賭けに勝つことを確信していただけなのかもしれない。
 バイクの後ろに乗ったサツキが俺の腹の辺りをぐっと締め付ける。微かな震えが伝わってきた。フルフェイスのヘルメットをかぶったサツキの表情は見えない。けれど、相当緊張しているのが分かった。これで賭けに勝つのは確実だ、と俺は死ななくて済むことに少なからずほっとしていた。たった今、死んでもいいと思ったばかりなのに。
 路地を抜け、左折して、国道に入った。右手には海がずっと広がっている。湿った潮風が半そでの腕にまとわりついた。タクシーと大型トラックだけがものすごいスピードで走り去る。
すぐに信号につかまった。信号が変わった瞬間、俺は右にハンドルを切り、体を倒して反対車線に突っ込んだ。手首をひねってアクセルを全開にする。
前方はるか遠くからヘッドライトが見える。
腹の辺りに回ったサツキの手に力が入った。背中に震えるサツキの体が押し付けられる。
 ヘッドライトが近づく。まぶしくていかれてしまいそうな視界の中に大型トラックの姿がぼんやりと浮かぶ。鋭いクラクションが鳴り響く。
途端、腹がぐっと締め付けられる。
「やめて!」
 サツキが振り絞るように叫んだ。
 もっと早く言えよな、危うく死ぬとこだよ。そう思いながらハンドルを切って、左に体を倒し、元の車線、五十メートルほど空いた二台のトラックの車間にバイクを滑り込ませた。タイミングから言えば、ギリギリのところだった。額に汗が浮かんでいることに気付く。
 片瀬東浜の海に下りると、もう十二時を回っていた。まだ暑い日が続くとは言え、この時間では人影はほとんどない。抱えあげるようにしてサツキを砂浜に運び、自分もその隣に座った。よほど怖かったのか泣きじゃくっている。
死ぬのが怖いのなら、死のうとするなよ。俺は口の中で小さくつぶやいた。
 でも、と俺は思った。バイト先で疑われたくらいで、本気で死のうとするだろうか。大体、やってもいないのに怖くてお金を出した、なんてことも普通では考えられない。
 聞くことをためらっていると、サツキの方から話し出した。
いじめを受けたのは中学のときだった。
シカト、悪口、落書き。持ち物を隠されたり、体育着を焼却炉で燃やされたり、トイレで頭から水をかけられたり、汚い雑巾を投げつけられたり。
言いよどむようにサツキは口を閉じた。思い出しているのだろうか。目を閉じて頭を振り、大きくため息を吐いた。
でも一番辛かったのは、とサツキは言った。給食にチーズが出ると昼休みに残り物のチーズでキャッチボールが始まること。頭の上をチーズが飛び交う。とにかく怖くて、机にしがみついていた。三回に一回くらい思い切り制服の背中にチーズがぶつかる。教室中からくすくすと笑いが沸き起こる。クラス中の見世物だった。すぐに次のチーズが頭の上を飛ぶ。チーズがぶつかる。制服には無残にチーズの跡と臭いがついた。
「痛いとか、悔しいとか、ムカつくとか、そういう感情は起こらなかった。それより、怖かったし、恥ずかしかった。自分がどんどん汚れていく。汚い生ゴミみたいになっていく。怖くて、情けなくて、あたしは動けなかった。制服を洗いに教室を出ることもできなくて、午後の授業中、ずっとチーズの臭いをかいでいたの。帰りも汚い制服でそのまま帰った。家に着いて、親にばれないようにチーズの跡を洗う自分が惨めだった」
話しながらサツキは小さく震えていた。終わったことじゃないか。サツキの小さく曇った目を見て、その言葉を飲み込んだ。サツキの中ではまだ何も終わってはいない。
俺はサツキを胸の上に抱き寄せながら砂浜に横になった。
「もうそんなバカなことは起こらない。チーズは飛んでこないよ」
 胸の上に温かい涙が零れ落ちた。人の弱みをこんな風に見せられると、なかなか離れられなくなる。俺はサツキを抱きしめる手に力を込めた。
「一生懸命と一所懸命の違いって知ってる?」
 努めて明るい口調を作った。サツキが胸の上で小さくかぶりを振った。
「最初から最後まで全部に力を入れるのが一生懸命、大事なところだけに命を懸けるのが一所懸命。っていうのが、俺の持論なんだ。一生懸命より、一所懸命でいたいって。……今日、俺たち命懸けたよね」
 大事な出会いに、という言葉は、喉の奥で砂になった。
 サツキはもう泣いていなかった。温かい息遣いを胸の上に感じていた。

                   






2004.9.10