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僕だけのマザー
橙 オレンジ
僕は今、深く後悔し、そして反省している。どんなに後悔し反省してもどうにもならないことが実証できるくらい、ものすごく後悔し反省している。マザーが言ったようにどんな罪も過ちも、悔い改めることができるなら……。
僕には物心ついたときから、母さんと呼べる人がいなかった。黒い服を着た何人かの大人の女の人と、僕と同じたくさんの子どもたちが一緒に暮らしていた。そこは、ひまわり園というキリスト教の孤児院――孤児院と言う言葉を、僕は後から知った――で、要するに僕らはみんな、孤児ってわけだ。いや、正確に言うならば、僕はもう孤児ではないけれど。
大人の人たち――たぶん修道女と言うのだろう――の中でも一人、かなり年をとったおばあさんと言ってもいいくらいの人がいた。僕らは彼女をマザーと呼んでいた。
なぜかは知らない。物心ついたときには僕も「マザー、マザー」と呼んでちょろちょろついて歩いたもんだ。マザーは僕の絵を、いつもほめてくれた。「ミッ君、よく描けたわねぇ、マザーのことも一緒に描いてくれたのねぇ、ありがとうね」ほめるだけでなく、その絵をマザーの部屋に飾ってくれた。マザーの部屋には、誰の絵よりもたくさん、僕の絵が並んでいたのを覚えている。
小学校に入り、僕が自分たちは周りの子どもたちと違うんだって気づいた、一年生の春。孤児院の前に、男の子が捨てられていた。多分僕がそうだったように。
それから、僕の生活は変わっていった。学校からまっすぐに帰って、ひまわり園のドアを勢いよく開ける。「ただいま」小さい子たちがくっついてくる。マザーは忙しそうに新しい男の子をおぶって他の子たちの世話をしていた。僕より、一つ二つ年上くらいの子が、小さい子どもたちの世話を手伝うように自然となっていった。
日を追うごとに、ひまわり園から足が遠のく。でも、公園に行って友達と遊んでいても、僕にだけ、迎えに来てくれる人がいないって言うのは何よりこたえることだった。友達の家にいけば優しそうなお母さんの姿を見せ付けられ、僕は余計孤独になって、ひまわり園へと帰ることになる。
その日から僕の描くマザーの絵には、気がつくといつも隣に赤ん坊がいた。だって、それがいつもの姿だもの。僕はどうしようもなく、胸がうずくのを感じた。描いた絵は、びりびりに破って捨ててしまった。僕の絵を、もうマザーは飾ってくれないんじゃないかって、不安とも苛立ちともつかない重苦しい気分に、僕は押しつぶされそうだった。
マザーは「キリスト様はみんなを愛してくださる」と教えてくれた。そして「あなたたちもみんなに優しくしなくてはいけませんよ」と。
マザーはきっと僕らを愛していた。でも、僕はそれを実感できなかった。
そんなある日。
夜になってみんなが寝静まったころ。トイレに起きた僕の目に、ぼんやりと黒いものが映った。寝ぼけていたから余計に、僕はそれが何なのか、分かるのに時間がかかった。その隣では銀色のフォークのようなものが不気味に光っていた。
「いい考えがある」
突然、そいつは言った。
「自分だけのマザーがほしいんだろ? だったら、家出をするんだ。いや、ここは家じゃなくて園だから園出かな。まあ、何でもいいんだ。姿を消すんだ。そうすりゃ、お前の愛しのマザー、必死になって探してくれるぜ? どうだい、お前だけのマザーになるんだ」
赤ん坊の泣き声が聞こえた。続いて彼をあやす、マザーの声。
「でも僕、どこも行くところがないんだ。ここにいるしかないんだ」
「本当にどっかにいくわけじゃないさ。一時的に隠れるんだ、一時的、分かる? そう、明日一日だけでもいい」
翌日は日曜日。教会にみんなでお祈りに行く日だ。
「教会なんてどうだっていいじゃないか。キリスト様はお前だけの母さんになってくれるのか? そうさ。キリスト様にお祈りなんかして叶ったか? 俺がマザーをお前だけのマザーにしてやるぜ、ついて来いよ」
僕はそっと部屋のドアを開けようとした。
「何やってんだよ、ばれるじゃないか。こっちから出るんだ」
そいつの言葉は強引に僕を引っ張った。黒い色のそいつは窓を開け放し、優雅に地面に舞い降りた。僕は小声でささやく。
「こんな高いところから降りられないよ」
「大丈夫、俺が支えてやる」
僕は恐る恐る窓枠をまたぎ、外に足を出した。やつは僕の片足を、冷やりとする手で肩――暗くて分からなかったけれど、多分そうだ――の上に乗せ、それから静かに僕を地面に下ろしてくれた。
「さて、と、どこへ行くかだな。隠れられそうなところ」
「……学校だ、裏庭に小さい小屋みたいなのがある……」
「よし決まった、その調子だ、そうさ、マザーが好きなだけなんだ、悪いことじゃない」
僕らはそうして、薄暗い小屋に隠れた。キリスト様が悪いことをした罰に時間を引き延ばしているみたいだった。僕はもうキリスト様なんて信じないぞ、とそのとき思った。
空は次第に紫から朱色、赤、ブルーへと変わり、そしてまた時間がたって、赤いレースのカーテンが西の空を覆い隠そうとしていた。朝から何も食べていない。お腹がギュルルと鳴ると同時に、僕の寂しさは限界に達した。
「もういいよ、帰ろうよ。僕はこんなところにいたくない」
「まあ、待てよ。マザーが必死に探してるところ、お前だけのマザーになっているところ、見たくないのかよ?」
その言葉は、十分僕に最後の我慢をさせる力を持っていた。
やつは、例のフォークの、ぎざぎざになっているのと反対の突端についている水晶を僕に見せた。
何てことだ。僕は涙を出すことさえ忘れた。
マザーは僕を探しなんてしていなかった。誰一人、僕のいないことに気づいていないかのように、食卓を囲み、楽しそうに笑っていた。思わず、僕は水晶を地面にたたきつけた。それは粉々になってもなお、明るいひまわり園の食卓を映していた。
「こいつはひでぇや。お前がいなくなっても心配もしないなんて。だから俺、人間ってやつは嫌いさ。キリスト様に仕える聖なるお方がこれだぜ? お前、こんなマザーのこと、まだ好きだって言えんのか? 俺と一緒にいっちまおうぜ、向こうの世界はいいよ。俺たち、人間や天使は裏切っても仲間はぜってぇ裏切らねぇ。お前だってそっちのほうがいいだろうよ」
力なく、僕の首は、だらんと前に垂れ下がった。
「よっしゃ、そうと決まれば話は早い。こんな世界、クソくらえだ」
やつはフォークを使って変な模様を描いた。描き終わると僕を中に導いて、フォークを右斜め上から下へ振り下ろした。そして、僕は、暗い暗い世界へ着いた。
これが事の顛末。だけど、僕はやつらの仲間になりようやく水晶を使えるようになった今になって、初めて知った。あの日、マザーや他の修道女たちが必死になって僕を探してくれていたこと。今でも僕の写真に向かい、涙を流す日があること。
あの水晶でやつが見せたのは、あの日より前のひまわり園の姿。よくよくその映像を思い出してみれば、あの中には僕もいたのだ。楽しそうな笑顔を浮かべて。
マザーが言ったようにどんな罪も過ちも、悔い改めることができるなら、僕だけのマザーじゃなくても構わない、僕はひまわり園に帰りたい。でももう無理なことなんだ。今じゃ僕は日に日に全身が黒くなり、頭の上にきれいに曲がった二本の角と、お尻には先のとがった尻尾が生えかけているところだもの。
(完)
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