ノアの子孫はかくの如く
橙 オレンジ
「ノアって、どんな人物だったと思います?」
変な男に声をかけられた。
背が低くて、喪服みたいなスーツを着た男だった。唇がまるで若い女みたいに鮮やかだった。
は? と聞き返す俺に、ほら、聖書の、ノアの箱舟の、と答えた。
頭がいかれたみたいな奴だった。不ぞろいな歯が鮮やかな唇から覗いた。ときどき自分の言葉を確認するみたいに、首を上下に振った。民芸品の赤ベコみたいだ。俺が無視を決め込んでいると、俺がその話を知らないと思ったのか、男はノアの箱舟のあらすじを話し出した。聖書を棒読みしているみたいに。
妻との喧嘩の後のやりきれない気分で静かなホテルのバーを選んだ俺に、男はうるさすぎた。神がもう帰れと言っているのかもしれない。そう思ってその場を去ろうと思ったとき、男は俺のグラスが空なのを見て、彼に同じものを、と注文した。それで俺は帰りそびれてしまった。
「ノアは残すに値する、善人だったんでしょうか?」
男は再び聞いた。それからビールを注文して、背広をいすの背にかけると、俺の隣に座った。(厄介な奴に捕まった)俺はため息をついた。マスターがコンと置いたソルティドッグをちびちびとなめた。深い深いため息。
昔から変な奴に付きまとわれる。学生時分にはいじめられっ子の世話をよく押し付けられたものだ。
(運が悪いよ、まったく。どうしていつも俺なんだ。俺が一度だって罪を犯したか? 神の面前に立っても恥じない人生を送ったはずだぜ)
男は俺の顔を覗き込んだ。気持ち悪い上目遣いで。(媚びられている?)いい気はしなかった。しかしそれを見て、逃れられない、とも思った。男から目をそらし、天井と壁の境目に視線を移した。
ああ、いい奴だったんじゃないですか、俺は面倒くさい胸のうちを隠さずに答えた。男はしつこかった。
「本当に? あの話に疑問を持ったことはないですか?」
俺は少し男の勢いに押され気味になって、無愛想に頷いた。
男は話し始めた。粘っこい声で。相変わらず上目遣いの目が俺を見つめている。
ノアの箱舟。自分勝手な人間どもに腹を立てた神が、ノアという男と動物たちだけを残し、洪水で全ての人間を洗い流してしまった話。幼いころから疑問に思っていました。
何故ノアは周りの人間たちを見殺しにしたのでしょう? 洪水に飲み込まれ、人々は苦しんだはずです。助けを求めたはずです。小さな子どもだっていたでしょう。出産を控えた妊婦だっていたでしょう。恐怖と不安でおののいたはずです。泣き叫んだはずです。それでもノアは誰も救いませんでした。必死になって泳いでいる人々が力尽きて沈んでいったのを、ノアは見ていなかったはずがありません。子どもだけでも助けようとした母親が沈み、それからその子どもまでがとうとう沈んでいこうとする瞬間を、ノアは見ていたでしょう。箱舟にすがりついた人だっていたかもしれません。もしかしたらノアは彼を、箱舟にすがりついたその手を、その指の一本一本を無理矢理引き剥がしたのかもしれない。
神の言いつけを守ったとは言え、あまりに残酷です。神の前に正しいとは、人の情けとは別なのでしょうか? 神は隣人愛を説いたのではないのですか?
もちろん、ノアだって悩んだのかもしれない。胸が痛んだのかもしれない。しかし、ノアは生き残ったのです。たった一人。たくさんの命を見殺しにして……。
男は深くうつむいた。泣いているのかと疑うような沈黙が続いた。それから、ふと顔を上げると、こう続けた。
「私たちはノアの子孫です。
そして、ノアの子孫はかくの如く……かくの如く……ノアの子孫は……」
男は銀色のとがったものを握っていた。鈍く光るその先端が俺に向けられていた。
男はまだ何やらもごもご言っていた。
アイスピックだと気づいたときには、体は硬直したように動かなかった。アイスピックと自分の距離が残り一ミリになる瞬間までを、まるでカウントダウンのように俺は見つめていた。死ぬ直前には景色がスローモーションになると言うが、本当だったのだなぁとのんきに思った。
腹部に激しい痛みを感じた。鮮血が飛び散った。途端に男のワイシャツが真っ赤に染まった。俺は男の肩をつかんだ。血のにおいがした。体から一気に力が抜け、いすから崩れ落ちた。頭の中が暗闇に侵されていく。口の中にソルティドッグの塩味が残っていた。
次第に遠くなっていく意識の中で、のどに張り付くような男の声を聞いた。
「……かくの如く、残虐なものなのです」
男は笑っていた。
アイスピックをもった男が笑いながら迫ってくる。男の顔は見えない。桃色の唇だけがなぜかくっきりと浮かび上がっている。必死で走る。男はゆっくりと歩いているようなのに、どういうわけか、俺と男との距離は近づいていた。振り向かなくてもアイスピックが不気味に光っているのが見える。息が苦しい。足がもつれる。男の唇の隙間から白い歯が覗く。十メートル……五メートル……男の声がぐるぐると響く。ノアの子孫はかくの如く……。アイスピックが高々と振り上げられる。
男がアイスピックを振り下ろそうとしたところで、目が覚めた。首の辺りに流れるほどの寝汗をかいている。すぐ目の前に、心配そうに見つめる妻の顔があった。
彼女からタオルを受け取ると、首筋を丁寧に拭いた。天井と壁の境目を見ながら、包帯の巻いてある腹をさすった。麻酔がまだ半分残っていて、痛み、というより重いような感覚が支配していた。
汗を拭いた首には十字架が下がっている。
「ノアの子孫はかくの如く……」
妻が怪訝な顔で覗きこんだ。
「いや、ノアの子孫はかくの如く、悪運強く生き延びる、なんてな」
十字架に手をやりながら、俺はもう少し神様を信じる気分になっていた。
(完)
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