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                スタート

河野夕陽

 私の人生の転機となった出来事をお話したいと思います。私自身、まだよく整理できていないので、感覚的にしか話せないことを許してください。

 それは私の手に残った生々しい感触から始まりました。
 私の従兄の高史兄ちゃんは十九歳で死にました。飛び降り自殺でした。第一志望の国立大学教育学部に合格し、新しい生活を始めた矢先のことでした。大学の屋上から飛び降り、その後、三日間意識不明で生死の境をさまよっていましたが、意識を取り戻すことなく十九歳の誕生日を迎えたその日、ついに死んでしまいました。
 遺書もなく、結局自殺の理由は分からずじまいでした。高史兄ちゃんの家族も友達も首を傾げるばかりで、公には事故死ということにしてあります。フェンスが二メートルもある屋上からの転落で、自殺以外ではあり得ないのに。
 それから三年、私はずっと、自分は高史兄ちゃんと同じ十九歳で死ぬんだ、と思っていました。
 高史兄ちゃんの歳になれば、きっとその自殺の理由も分かる気がしたのです。そして、そうであったなら、私も死ぬことによって救われると思っていたのです。
 高史兄ちゃんは、自殺してなお、私の中に生きていました。高史兄ちゃんの死んだあの日、最後に握った手の感触が、はっきりと残っていたのです。冷たくてだらんと力の抜けた、生気のない手です。一本一本の指の跡さえ、くっきりと刻印のように見える気がしました。
 怖くて、怖くて、私はずっと手を洗い続けているのです。強迫神経症、という言葉を知ったのは、必修の心理学の授業の中でした。私の症状は――それが症状と呼べるのなら――、それに当てはまるように思えました。
 十九歳が近づいてくるにつれて、私は次第に恐怖を感じ始めました。
 初めは、高史兄ちゃんと同じ年齢で死のう、と積極的に自殺を考えていたのです。けれど、次第にそれが変わってきました。自分が死ぬということは、もう決定事項なのだ、と思えてきたのです。自分が死にたいと思おうが思うまいが、私は自殺するようにプログラミングされているのだ、と思うようになったのです。
 そう思い始めたころから、手に残る高史兄ちゃんの手の感触が、私の生活を脅かし始めました。手を切り落としたい、という思いに駆られていきました。高史兄ちゃんの感触は決して消えることがありませんでした。冷たくて、かさかさして、次第に重くなっていくその感触は、高史兄ちゃんが何かを伝えようとしているようでした。
 そして、私がその何かを受け取らない限りは、私は高史兄ちゃんの呪縛から逃れられないのでした。
 初めは大学の保健管理センターにカウンセリングを受けに行きました。保健管理センターの数回のカウンセリングを受けると、やはり高史兄ちゃんの死がトラウマになっている、という診断でした。それで、秋人先生のカウンセリングルームを紹介されたのです。
 そこでEMDRという、聞きなれない名前の治療を受けることになりました。
 正直に言うと、この治療にそこまで期待を持ってはいなかったのです。いかにも怪しげな治療でしたし、自分が強迫神経症に本当に当てはまるかどうかも疑問だったのです。というのは、カウンセリングを数回受けた中で、これは心理学的な問題ではないのではないか、と思ったのです。カウンセリングよりも、むしろ霊能者にでも頼った方がよいのではないか、というかすかな思いが消えなかったのです。
 その一方で、これがだめなら死んでしまう、という切羽詰った心境もあったのです。それに、秋人先生が若いお兄さん風のカウンセラーだということもあり、私はどこか秋人先生に高史兄ちゃんの影を見ていたのだと思います。
 EMDRという治療は、トラウマとなった記憶を思い起こしたり、その記憶の映像にプラスのメッセージを入れたりしてから、カウンセラーの手の動きに合わせて眼球を左右に動かす、という簡単なものでした。詳しいメカニズムも説明されましたが、私はそのとき、どちらかと言えば、先生の話の内容よりも、その声やしゃべり方の調子だけを聞いていました。生理的現象がどうとか、記憶の再処理とか、そういう話をしていたように思います。胸に染み入ってくる柔らかな声は、やはりどこか高史兄ちゃんの面影があるようでした。
「手にお兄さんの感触を感じるとき、体はどんな感じかな?」
 この質問を、これからの治療の中で何度もされることになるのですが、初めは正直面食らいました。この人は本当にカウンセラーなのか。私の問題は精神的なものか霊的なものであって、体は関係ないと思っていたのです。
 戸惑っている私に先生は、体と心はつながっているんだよ、と言い、こんな話をしてくれました。ある女の子が母親の口紅を勝手に使って折ってしまったのです。母親に叱られると思った女の子は内科的には異常もないのに、一週間目を覚まさなかったのです。
 改めて体に意識を向けてみると、肩の辺りが重い感じがしたので、そう伝えました。
「その感触は君に何を言っているんだろう。君はその感触を感じて、何て言われている気がする?」
 ――お前は俺を助けてくれなかった。
「じゃあ、どう思えるようになったら、どういうメッセージをもらったら君は楽になれるかな」
 私はしばらく考えて首を振りました。どうしても答えはは出てきませんでした。
「お兄さんに何て言ってほしい?」
 ――俺は怒ってない。
 そういう願望も、私は聞かれるまでずっと気づいてはいなかったのです。ただ無気力に自分の不幸を嘆いていたのです。
「今、お兄さんの手の感触を感じてる? ……オーケー。人生最悪が十点。一点から十点で今の気持ちに点数をつけるなら何点?」
 この治療を繰り返す間、この質問も何度もされました。多分、そのときいる位置を確かにしておくために。ダイエットのときに毎日体重を量るように。八点、と私はしぼり出すように答えました。もっと高くてもいいような気もしていました。けれど、秋人先生に(ということはつまり高史兄ちゃんに)弱い人間と思われたくない、という些細なプライドが、いくらか低めの点数をつけさせたのです。
「じゃあ、その感覚を持ったまま、目で僕の手を追いかけて」
 秋人先生が私の顔の前でゆっくりと手を左右に振り始めました。ちょうどバイバイ、と手を振るときのような感じです。その動きを、私は目で追います。
 目が離れそうになると、先生は、追いかけて、と静かな声で促しました。数十秒それを続けた後、先生は私の顔の正面で手を止め、目を閉じるように合図をしました。
「何か、変化があったら話してくれるかな?」
 再び体に意識を向けます。手の感触は生々しく残っていますが、ほんの少し、手が温まってきたように感じました。見落としてしまいそうな些細な変化ですけれど。
 あるいは、私は変化のないことを恐れたのかもしれない、と疑心暗鬼になります。つまり、つまりこの治療で効果がないことが分かれば辛いから、効果のあるふりをしているのかもしれない。
 それを正直に秋人先生に話すには、私は臆病すぎました。目を閉じたまま、手の温感だけを告げました。
「じゃあ、もう一度聞くよ。人生最悪が十点。今は何点?」
 気持ちを振り返ると、不思議でした。はっきりと気持ちに少し余裕ができたのが分かったのです。点数は下がり、七点になりました。
「今の感覚を持ったまま、そこにメッセージを入れます。お兄さんに何て言ってほしかったんだっけ? ……そう、『俺は怒ってない』だったね。まだ目はつぶったままだよ。君の後ろにお兄さんがいます。後ろから肩に手を置いて、『俺は怒ってない』と言ってくれます。さあ、お兄さんの声で五回聞いたら目を開けて。……オーケー。じゃ、振ります」
 先生の手を目で追います。しばらく振った後でまた目を閉じました。
 こんな具合に第一回のEMDRは進んでいきました。五点、四点と点数はその度に下がっていきます。久しぶりに聞いた高史兄ちゃんの声でした。ああ、高史兄ちゃんはそばにいる。
 そして、本当に私は高史兄ちゃんを感じていました。肩の後ろから、高史兄ちゃんの視線と気配を感じたのです。
 ――高史兄ちゃんがいる。
 秋人先生は驚きませんでした。お兄さんの声が聞こえる? 怒ってない、って言ってくれてる? 優しい声で、そう尋ねました。
 眉唾だと思った治療は、そんな風に私に変化をもたらし始めたのです。
 二回目の治療で、秋人先生は一番重要なトラウマをターゲットにしよう、と言いました。
「思い出すのも辛いかもしれない。辛かったら辛いと言っていいし、泣いてもいい。ここで終わりにしたいと思えば終わりにする権利が君にはある。僕も君を守るし、お兄さんも君を守っている」
 ターゲットは高史兄ちゃんが亡くなったときの記憶でした。
「お兄さんが亡くなって、君は何を思ったのかな」
 ――私も十九歳になったら自殺するんだ、と思いました。
 それは? と聞かれ、自分の気持ちに踏み込む感じがしました。肌がぴりぴりとしびれたようになりました。
 ――高史兄ちゃんは私の憧れでした。ずっとずっと高史兄ちゃんの後を追いかけていました。でも十九歳から先の高史兄ちゃんはいないから、追いかけるものがありません。
「なるほど。お兄さんよりも年上になる自分が想像できない、ってことかな? お兄さんを追い越してはいけないと思うのかな?」
 はい、と口の中でつぶやきました。秋人先生に聞こえたかどうか。
「それに近い感覚――つまり、追い越してはいけないとブレーキをかけたようなことがお兄さんの亡くなる前にはあった?」
 すぐに思い出したのは中学受験の直後の出来事でした。
 ――私が私立中学に合格したとき、高史兄ちゃんは高校受験だったんです。でも第一志望の高校に落ちて。高史兄ちゃんの家に遊びに行ったとき、おばさんが高史兄ちゃんを叱っていました私を見て、夕ちゃんは受かったのにどうしてあんたはだめなのかしら、って。何か悪いことをしているみたいで怖くて。高史兄ちゃんは何も言いませんでした。
「そう……お兄さんより自分が立派じゃいけない、と思ったのかな。辛かったね」
 こわばった首をむりやり折るようにうなずきました。秋人先生は最初の治療でそうしたように、私にそれを思い出したときの体の様子を尋ねました。体に意識を向けた途端、足が震え始めました。手が冷たく固まっています。点数は九点。
 追いかけて、秋人先生が手を降り始めます。
 体の震えに注意が行って、追いかける目がなおざりになりました。その度に先生の、追いかけて、という声が温かく耳に入ってきました。振り終えて、変化があれば、と先生がいいます。
 ――おばさんの声がはっきりしてきました。
「オーケー。点数は変わらない?」
 秋人先生が手を動かし、私はまた目で追いかけます。
 変化なし。
「よし、じゃあまたメッセージを入れるよ」
 メッセージは先生と話し合って一番しっくり来るものを選びました。『俺が怒られるのはお前とは関係ない』。もちろん高史兄ちゃんの声で。
 そしてまた数十秒、先生の手の動きに合わせて目を左右に振りました。すると今度は声が遠く離れていって点数は八点に下がりました。そこに赤い光を差し込みます。秋人先生の手を追いかけます。
 順調に点数が下がって、五点になったとき、もうおばさんの声は聞こえませんでした。
 不思議だよね、と秋人先生は目を半月にして微笑みました。
 高史兄ちゃんの亡くなった場面に戻りました。人生最悪の十点満点。喉が不快に渇いていました。
 メッセージ。『お前は俺の後を追いかけなくていい』。高史兄ちゃんの声でじっくり味わいました。その後、何度も秋人先生の手を追いかけて、点数は七点まで下がりました。病室の映像がもやをかぶったように曖昧になっていきます。
 四点に下がったところで、この日の治療は終わり、となりました。
 その日から夢を見ました。こういう副作用があるかもしれない、という説明は秋人先生から聞いていました。つまり、自分にとって嫌な過去を思い出してしまったり、過去に関係する辛い夢を見てしまったりすることがあると。それでも頑張っていこう、と先生が言ってくれたから、先生が一緒に頑張ってくれるから、とその話を聞いたときは納得していたのです。けれど……。
 夢の中の高史兄ちゃんは、治療中に優しくメッセージを入れてくれるあの温かい高史兄ちゃんではなかったのです。冷たく乾いた手で足をつかみ、足元から顔のほうへ体を引きずるように這い上がってくるのです。私は体が動かなくなりました。恐怖で振り払おうとするのですが、全く動かないのです。目を閉じることもできないのです。高史兄ちゃんはものすごい形相で私を睨んでいます。そして、死者の低いくぐもった声で、行くな、と言うのです。行くな、俺を忘れるな、と。
 その度にぐっしょりと汗でパジャマを濡らして目を覚ますのです。最初の治療のときに使ったメッセージを、先生に言われ、安全基地に使っていました。目を覚まして気持ちが落ち着くまで、赤い光を差し込みながら、そのメッセージを高史兄ちゃんの声で繰り返すのです。
 私はそれでも、もうEMDRはやめよう、と思いました。それは恐怖からだけではありませんでした。高史兄ちゃんを忘れることはできないし、それ以前に忘れてもいいとは思えなかったのです。
 だから、三回目の治療にカウンセリングルームを訪ねたとき、私は治療を終わりにするよう、お願いするつもりでいたのです。けれど、秋人先生は優しく諭すようにこう言いました。
「忘れるんじゃないんだ。お兄さんを失った悲しみ、怒り、寂しさ、無力感。そういう気持ちを君は抑圧している。心の奥の方にしまって鍵をかけている。でもそれらはなくなったわけじゃないから、ときどき表に出てこようとする。けど、心がそれを拒否している。だから辛い。
 今しているのはね、そういう気持ちに、出てきても大丈夫だよ、と言ってあげることなんだよ。忘れるためじゃない。むしろ、思い出していいよ、心のブレーキを外しても大丈夫だよ、って、そういうことなんだ。
 でも、君が決めていいんだ。続けるのか、やめるのか、あるいは他の方法を選ぶのか。ゆっくり考えて決めなさい」
 そして、私は結局、続けることを決意したのです。安心して高史兄ちゃんを思い出せるように。
 EMDRに入る前に、先生は今の状況を聞きました
 高史兄ちゃんの夢を見てから、私は以前より激しく自分を責めていました。秋人先生の言い方を借りるならば、心の奥に抑圧していた思いが一気に噴出したのでしょう。まだコントロールされない思いはあふれ出すしかなかったのです。
 ――私のせいで高史兄ちゃんは死んだんです。
 淡々とあふれ出る言葉は、自分で聞いても痛々しい感じがしました。そう思ったんだね、と秋人先生は小さく息を吐きました。
「もう少し詳しく聞かせて」
 ――私は遊んでたんです。学校をサボって、あの日。高史兄ちゃんは私を叱ってくれる唯一の人だった。でも私が言うことを聞かなかったから、だからあの日高史兄ちゃんは飛び降りたんです。
 ふ、と大きく息を吐きました。冷たい空気が肺の中に入り込んできます。体中に冷機が行きわたる感じがして、いくらか冷静になったのです。
 ――本当はそんなことないって分かってるんです。私が遊び歩いたことと高史兄ちゃんが自殺したことは関係ない。それでも自分を責めてしまうから苦しいんです。
「そうやって自分を責めてしまう場面で、お兄さんが亡くなるより前に思い出せることはある?」
 ――高史兄ちゃんの病室に行ったとき、体のあちこちにチューブを通されて、包帯をぐるぐるに巻かれた高史兄ちゃんの姿がすごく汚いものに見えたんです。手を握っているうちに自分まで汚くなっていくような気がして怖かった。でも、そんなことを考えてしまう自分がもっと恐ろしくて。許せなかった。
 思い出すと涙が頬を伝います。
「じゃあ、今回はそれをターゲットにしようか。どう思えるようになりたいのかな」
 ――高史兄ちゃんを好きでいたい。
 涙の奥から声が溢れました。涙で秋人先生がぼやけ、高史兄ちゃんの姿に見えてきました。
「好きなだけ泣いていい。大丈夫だよ」
 いろいろな思いがごちゃ混ぜになって、後から後から涙がこぼれました。自分の中のどこにこんなにも涙が残っているのかと不思議に思うほど。お通夜でもお葬式でも一滴の涙も流さなかったのです。ただ意識が凍りついたまま、骨になるまで高史兄ちゃんの姿を呆けて眺めていたのです。
「ずっと泣かなかったんだね。辛すぎて涙も出なかったんだね。今は思い切り泣いていいんだよ。
 辛い気持ちは感じていけないものじゃない。ほら、お金を払ってわざわざ悲しい映画を見に行ったりするでしょう。悲しくなっていけない、って言うことはないんだ。大丈夫だよ。泣いてもお兄さんはゆっくり待ってくれるよ」
 秋人先生は私の隣に座り、そっと肩をだいて涙が流れるままにさせてくれました。

                   





テーマオリジナル小説
2005.3.3