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   唄う水晶
                                 橙 オレンジ
 僕にはとっても仲良くしていた女の子がいた。彼女とは呼べなかったけれど。チイっていう、ちょっとあだ名みたいな名前の、小さくてかわいらしい女の子だ。
 チイは歌を唄っていた。いわゆるストリートミュージシャン。寒い夜に路上で唄って、聞いてくれる人もいなかったら、「いったい何が楽しいの?」と思ってしまう。でも僕はそんなチイに惹かれた数少ないファンの一人だ。
 チイの唄う歌はとっても優しくて愛に満ちていた。けれど、チイ自身は決して愛に包まれて育った子ではないことを、僕は知った。
 俗に言うお受験で、チイがまだ幼稚園に入ったばっかりのころから、彼女の周りは殺気立っていた。表面的なことだけを気にする両親とどこまでも古風な祖父母との対立で、家の中はいつも冷えきっていた。小学校2年の夏、チイの母親は二人になった。チイには詳しい事情は分かっていなかったけれど、父親が家に愛人まで住まわせたということらしい。本当の母親をお母さん、愛人のほうをママ、と呼び分ける、どこからどう見ても尋常じゃない人生を、彼女は送った。
 チイはそんなことをカラッとした声で話す。時には笑いながら。僕は、そのたびにチイの言葉が痛くて、のどをごくりと鳴らした。チイに気づかれないことを願いながら。
 チイはとっても気の利く女の子だ。もっとも、チイのような家庭環境に置かれれば、どんなに生まれつき図太い女の子だって、彼女のようになってしまうものなのかもしれない。
 僕はできる限りのことをチイにしてあげたくて、彼女を遊びに誘った。僕の遊びっていうのは世間一般から見れば、結構悪いことで、たとえば、改造したスーパーカブに二人乗りで、ジグザグ走行をしたり、反対車線を走ったりっていう、そういうばかげたことだった。けれど、それが度を過ぎてしまい、僕は「アンパン」を彼女に吸わせてしまったのだ。
チイははじめ明らかに引いていた。僕は「何てことないんだ。ちょっとハイになるだけだよ。一回二回でどうってことないんだ」一回二回で辞められるのなら、本当にどうでもないことだと、僕は思っていた。ただ、そういう僕は辞められなくて、気がついたら歯までぼろぼろになっていた人間なのだけれど。
 とんでもなかった。チイはハイになるどころか赤ん坊のように泣き出した。ママ、ごめんなさい、ごめんなさい。うわごとのように小さな声で言いながらしゃくりあげた。
 そんなことがあった後で、チイはまったく人が変わったようになった。
彼女は路上で唄うことをしなくなった。毎週水曜日には新宿駅で唄っていたのに、「アンパン」を吸ったあの日以来、僕が何度新宿駅に覗きに行っても、彼女の姿はなかった。僕は自分がひどいことをしたのだと心の隅で自覚した。少なくとも僕は、ストリートミュージシャンとしての彼女を完璧に壊してしまったのだ。
 何週間か経って思いがけず、チイから連絡が入った。歌が唄いたい、電話越しに彼女は消え入りそうな声で言った。「唄えばいいじゃないか」僕は励ましたつもりだった。「新宿で待ってるファンだっているんだぜ」もちろん僕のことだった。今思えば、あの時すでにチイの声はもう彼女のものじゃなかった。
 もう唄えない、唄えない、そう言って彼女はしゃくりあげた。「アンパン」を吸ったあのときのように。僕の声が聞こえないみたいに、チイは激しく泣いていた。
「分かった。公園で待ってろ。すぐ行くから」
 正直言って、泣かれるのはすごく重かった。だから僕は「家で待ってろ」とは言えなかったのだ。とっても卑怯な話だけれど。
 夜の公園でギィギィとブランコに乗っている女の子を見るって言うのも、あんまり気分がいいものではない。何とか元気付けなければ、と変なプレッシャーがかかる。僕は極力おどけて、隣のブランコに座った。途中で買ったコーヒーを投げてやる。
「どうしたんだよ? 俺、毎週新宿行ったんだぜ?」
 もう唄えないの、と彼女は小さな声で言った。「唄ってみろよ」僕はチイの歌の中で、一番よく覚えている曲のイントロを唄って促した。でも彼女はうつむくばかりで、僕がいることさえ、気づいていないように、唄えない、唄えないと繰り返した。
 僕はだんだん腹が立ってきた。せっかくここまで中央線で20分もかけて励ましに来てやったのに、何を言っても通じない。ここまで来た自分がバカみたいだった。どうせどう慰めても同じことなら、電話で済ませりゃよかったよ、まったく。
 でも一方で、自分が彼女を壊したという罪悪感もあったし、ここまで来てしまったら、置いて帰るわけにもいかなくて、僕は結局一晩中チイの唄えない、に付き合った。「気晴らしにどっか行こ」とカラオケや遊園地やゲーセンや、考え付く限りの楽しいところを数え上げてみたけれど、彼女はどれにも乗ってこなかった。僕は完全に困り果てた。万策尽きたというところだ。
 空が朝焼けに染まったとき、チイは、小さな胸の中で勇気を振り絞って(今になって分かることだけれど、それは彼女にとって自分の存在をかけるくらいの本当に大変なことだったのだ)、聞いて、と唐突に唄い始めた。唄いなれた曲だったはずなのに、一つ一つ、確かめながら音を乗せていくように、確認しながら。
 結局のところ、彼女は唄えなかった。Bメロに入ったところで、高音部の声がかすれ、彼女はひどく絶望した顔をして、唄うのをやめてしまった。分かったでしょ、もう唄えないの。
 それは僕にあの日を思い出させた。ママ、ごめんなさい、ごめんなさい。あのときの顔。おびえきって、背中を丸めたチイ。「アンパン」のせいかどうかは僕には分からない。でも、彼女の中で何かが変わってしまった。笑顔もすっかり消え、何かをとても恐れるように泣きながら目をきょろきょろと動かした。それはあの日の姿そのものだった。
どんな過去だって、笑い飛ばしてしまうくらい、自分をしっかりと持った子だったのに。
 興味なくなったでしょう? クックッ、と彼女は声を立てた。泣いていたのか、笑っていたのか、僕には確かめることができなかった。唄えない私なんて、私じゃない。
 そんなチイを見て、僕は悲しかった。とても醜いものを見ているようだった。昨日まできれいだった水晶にある日突然入ったひび割れのようだった。「そんなことない」僕はそう言ったけれど、その言葉はむなしく宙ぶらりんになっていた。もちろん僕が我慢できなかったのは、チイが唄えなくなったことではない。彼女が自分を見失ったことだ。そして、僕が何もしてやれないことだ。
 来てくれてありがとう、チイは言った。もうこれが最後でいいから。最後に一つだけ、お願いを聞いて。
 そして、僕はチイが家まで戻って持ってきた彼女のアコースティックギターに、ライターで火をつけた。パチパチッという、乾いた音を立てて、それは燃え続けた。カランとネックが焼け落ち、そして、ボディも元の形が分からなくなるまで崩れ落ちた。
 あの日以来、僕はチイに会っていない。しばらくの間、携帯は留守電になっていたが、そのうちに、解約されてしまったらしく、つながらなくなった。家まで行ってみる気にはならなかったが、水曜の新宿には今でもふらりと行ってしまう。
 ときどき、彼女の歌が聞こえるような気がする。ママが二人いた女の子の、とっても優しくて、とっても温かくて、聞いているだけで愛されているような気になってしまうような、そんな歌。でももう二度と聞くことはできないのだ。僕はきっと、あの時ひびが入った水晶玉を忘れることはないだろう。
                                     (完)







2004.1.28