田舎の小鼠

−遊ばざる者、働くべからず。自分さえ良ければ全て良し−

 

優れた画家が、美を描いた事はない。  優れた詩人が、美を歌つたことはない。

それは描くものではなく、歌ひ得るものでもない。

美とは、それを観た者の発見である。創作である。

−青山 次郎−

 

 

日本人といふこと−山本七平といふ人−

 

「山本七平とはどのような人であったか」

 氏の業績は幅広く、かつまた一種謎めいたところさえあります。まとめるのが困難ですが、最近出版された氏に関する本にわかりやすい説明がありました。

 以下に引用させていただきます。

 

「(前略)山本七平氏は,(中略)日本を第3者,それもキリスト者の目からできるかぎり客観的に把握しようとする立場を磐石の基盤として,深く広く日本思想の理解に当たって来られた希有なる学者である。

 二代にわたる熱烈な新教信者の家に生まれ,その深い宗教的雰囲気に包まれて成長,自分自身も全く自然にその三代目として深い信仰をもつに至ったという日本人としては数すくない経歴の持ち主である。(中略)

 従来多くの人々が見すごすか,その独自な価値を認めていなかった鈴木正三をはじめ多くの学者文人を発掘,照明を与え,その人たちが,日本の思想を代表するものであることを見事に証明。(中略)

 対象に対する分析は微に入り細をうがって,そしてあくまで論理性を失わない。日本の思想史学界に金字塔を打ち立てるとともに,その明快さによって広く一般の人々にも日本思想の何たるかを教えた功績は他に比類がないと断言できよう。」

 

   会田雄次・佐伯彰一著「山本七平と日本人」 まえがきから

 

「宗教について」

 故山本七平氏ののこされた仕事は,「山本学」としかいいようのない独特のものでした。主に「日本とはなにか」という問題に,独自の視点から探究を続け,かつて想像できなかったほど意外な──,それでいて指摘されれば反論が困難なほど的確に「日本の素顔」を描きだしました。

 しかし,著作は,広く一般には知られましたが,既存の学界からは充分な評価は得られたとはいえず,最後まで在野の人として生涯を過ごされました。

 その理由としては,小室直樹さんが「日本教の社会学」の中で指摘されたように,「学者としての方法論を正式に勉強する機会がなく,独学で自らの思想を形成されたからでしょう。よって、学問としてのスタイルを充分にととのえられなかったのです。」さらにいうなら,その業績が,画期的であるがゆえにこそ,注目されず,本質が理解されにくかったともいえましょう。現在でも,その評価は充分にされているとはいえず,今後,氏ののこされた「学問」の研究が待たれるところと期待しています。

「山本学」は「日本学」と言っても良いと思います。

その中核は「日本教」の発見と,その構造と機能の解明で,これが山本氏の最大の業績といえます。

 では「日本教」とはなにか?

 その紹介の前に一つの前提を準備しましょう。

 「宗教」とはなんでしょう?「広辞苑」によると

 

宗教──神または何らかの超越的絶対者,或いは卑俗なものから分離された神聖なものに関する信仰・行事。また,それらの連関的体系。帰依者は精神的共同社会(教団)を営む。

 

とあります。ごく普通の解説です。

しかし山本氏は「あたりまえの研究」の中で,まったく別な見方を紹介しています。

宗教。それは「「こころのうしろ側」にあって,その人を支えている原理と,その原理に基づくその人の絶対的な規範を意味する言葉である」と,いうものです。

 キリスト教の世界ではキリスト教の教義と概念が「こころのうしろ側」にあります。

 氏は「あたりまえの研究」のなかで,菊地誠さんのこんな例をひいておられます。

 

──「ホノルルの空港を発って少しした頃であった。右の(アメリカ人の)お婆さんが,

 『あなたの宗教は何?』と尋ねた。

 私は正直に,

 『父は浄土宗という宗教を持っていたけれど,私はどんな宗教も,それほど深くかかわらない』と答えた。その途端,二人は猛然として私に喰いついた。

 『貴方,宗教が無くて,いったいどうやって子供を育てますか?』

 私も反撃せざるを得なくなった。

 『子供は,宗教が無くてもりっぱに育てられると思いますよ。ただ間違いをしないでください。まごころ誠実さといったものは宗教だけにしか無いとは,私は思っていないのです』

 これはしかし,全くの平行線であった……」(以下略)

 お互いがお互いに理解できない状況がよくわかります。

 日本ではなにが「こころのうしろ側」にあるのでしょう?

なんとなく、不思議に思えてきませんか?   

 

「宗教について2」

 「宗教とは──「こころのうしろ側」にあって,その人を支えている原理と,その原理に基づくその人の絶対的な規範を意味する言葉」である。と山本氏は定義しています。これは,一般に日本人が考える「宗教」の意味付けから微妙にズレていると思います。

 たいていの日本人にとっては,宗教とはなにやら神秘的,奇跡的,超越的,非現実的要素が強いように思うのではないでしょうか。しかしこれらの要素のない宗教はあると山本氏は言います。儒教です。

 山本氏は中国古典にも非常な博学で,いくつもの著作があります。その中の一冊,「論語の読み方」で指摘されている「君子は怪力,乱神をかたらず」とか「我いまだ生をしらず,いずくんぞ死をしらんや」などの孔子の言葉は奇跡や,神秘──つまり神の実在証明や,死後の世界を議論の対象としないという儒教の立場をあらわしています。

 では、儒教はなにを扱うのかというと行動の規範そのものなのです。

 キリスト教の世界ではキリストが価値判断の基準になり,イスラム教の世界ではイスラム,他の宗教世界ではまたそれぞれです。特定のイデオロギーや,哲学、生きざまであることもあります。乱暴すぎる印象があるかもしれませんが、これが最広義の宗教の定義です。

 「日本教の社会学」で山本氏は、このようにも説明しています。

 「何か教義のようなものを拘束的に勤行的に継続して、再読、再確認する。そして、その書かれてる対象と自分との間柄を考える行為が行われたら、非常に広くいえば全部レリジオ(宗教)」 ですから、たとえ無神論者であっても、その人は広義の宗教はもっているのです。

 わかりやすいように単純に考えてみます。

 善悪の区別のない人はいません。どこの社会の人間でも,殺人,暴行,窃盗,偽証などは程度の差はあれ,否定されます。「人間」という肉体は誰にでもあるのですから,どんな悪行でも,やろうと思えば可能なのに、しかし精神が肉体を制御して,平和や秩序が保たれる。じつにあたりまえです。つまり精神上の一定の基準によって行動を拘束するのです。

 ユダヤ教やイスラム教の厳格な戒律や、食物規定などをみると日本人は驚いてしまいます。「普通の宗教」は日常生活の食事,冠婚葬祭,さらには司法,政治にまで,すべてに影響をおよぼしうるものです。宗教は時として法律であり,または伝統,文化,習慣などと渾然一体となった複合体なのです。

 では,日本ではなにが精神の基準点であるのか?

 善悪の区別がある以上、なんらかの基準、思想──つまり広義の宗教はあります。日本の治安の良さは定評があります。なにがこの治安をささえているのでしょう。

 日本の「宗教」とはなにか? 「仏教」はありますし,「キリスト教」もあります,いろいろな新興宗教もいくらでもあります。でも,それらすべてをいらないと宣言した人は,「宗教」がないと表現していいものでしょうか?

 多くの日本人の主観として,自らは「宗教」に拘束されていない、つまり宗教は「ない」のですが,客観的にみたら、ないどころではありません。宗教と同じ働きをするものがあって,それが徹底的に浸透しきっているのです。「これ」を宗教とよぶなら,小室直樹さんが言われているように,とんでもなく特殊でおかしな宗教ではありますが,とにかく、あるのです。「これ」は,なんと表現すべきでしょうか。

 あえて宗教と分類して呼ぶなら「日本教」としか表現できないのです。

 

「日本的資本主義1」

 山本七平氏は、時に「日本のウェーバー」と呼ばれることがあります。

 「ウェーバー」とは,今世紀初頭のドイツ社会学を代表するマックス・ウェーバーのことで、キリスト教プロテスタントが近代資本主義の母体であったと解明する偉大な業績を残した人です。

 そして,キリスト教圏ではない日本で、どうして資本主義が成立しえたのかは、山本氏があきらかにするまで社会学上の大問題だったのです。

 プロテスタントが資本主義を育んだように,日本の資本主義の誕生には「日本教」が決定的な役割をはたしています。

 「日本の資本主義は資本主義ではない」といったら,皆さんはどのようにお感じになるでしょうか?

 そもそも現代の会社組織は,イエズス会や,フランチェスコ会の設立がモデルとなっています。これは「あらゆる地縁,血縁,階級,共同体から離れて,契約によって機能集団を形成するための組織」ということです。

 最近まで日本の商法で規定されていた株式会社の設立に必要な「7人」の出資者の「7」の根拠は,イエズス会の発足当初のメンバー数なのです。

 労働者は賃金の支払いをもとめ、経営者側は労働力の提供をもとめます。つまり交換条件を対等に交渉して,相互契約するのです。そして合法的な手段で利益を追求するための社会的な機能集団として、企業を形成します。近代資本主義は,自由な労働力市場があって初めて成立しました。

 会社の業績と,末端の社員の受取賃金に関係があってはならないし,労働力市場ができているなら,あるはずないのです。労働者にはどこの業界のどの企業であっても,同一仕事内容だったら同じ賃金が支払われる「権利」があります。

 ところが、日本ではまるで違います。

 企業の業績の好調不調、規模の大小で賃金の格差があります。日本では「いい会社」は給料が高いのが「あたりまえ」ですが,これは「普通の資本主義」にとって異常な状況なのです。

 この異常という表現は、善悪をあらわしているのではありません。前提となる論理が違えば、結果が違って当然です。

 そして失業率の問題があります。日本では失業率が実に低いのです。現在で5%が目前で,近年最高とさわがれてますが──こんなに低いはずはないのです! 欧米諸国では失業率5%以上があたりまえで,不況なら十数パーセントぐらいにまですぐなります。不況と言われながらこの失業率の低さは,日本で「普通の資本主義」が動いていないことを雄弁に語っているのです。

 なぜなのか? それを山本氏は以下のように指摘しています。

 「(日本ではあらゆる)機能集団が,共同体に転化してはじめて機能しうるのであり、このことはまた、集団がなんらかの必要に応じて機能すれば、それはすぐさま共同体に転化することを意味している。」

 これだけではわかりにくいかもしれません。しかしこの言葉は、まったく、「コロンブスの卵」のようなのです。誰もが日本の社会に「妙な」点があると気がついていながら,指摘できないでいた部分をかるがると取りだして見せてくれました。

 これが「日本的経営」の本質であり,「日本異質論」の正体といって過言ではないと思います。

 日本の資本主義はいまのところ世界でもっともパワフルで、かつ成功しているのを疑う人はいないでしょう。しかしその素晴らしさの影に、多くの「異常」な部分があるのです。

 

「日本的資本主義2」

「(日本では)組織としての機能集団が共同体に転化し、同時にこれが共同体に転化しないと機能集団として機能しない。」──山本七平著「日本的発想と政治文化」より 

 機能集団とは、つまりは目的をもった集団であり、その目的を実現するための方法として組織をもちます。

 それでは共同体とはなんでしょう。一言でいうと「われわれ感情」のある集団です。

 英語では「コミュニティ」です。これは組合組織「アソシエーション」の対立概念なのです。欧米では機能集団と共同体は、別の概念として分けられているのです。

山本氏はこのようにふれています。

「共同体はそれ自体に存在理由があるのであり、それは何らかの目的に対応して機能する必要はない」

 またも単純化するなら、「家族」または「夫婦」を考えればいいでしょう。そして以前の(たぶんいまも)日本の「村社会」もおなじでした。

 「夫婦」は何かを目的としてあるのではありません。子どもがなくても、夫婦は「その死が二人をわけるまで」続くのであり、もちろん終身です。

 世界的に知られるようになった「日本的経営」「日本異質論」。それは日本の企業にだけ見られる現象を表現しょうとした結果でしょう。

 つまり──能力主義とかけはなれた年功序列と終身雇用、会社内部の「和」の強調,過労死,サービス残業の発生など諸外国と比べての労働時間短縮の遅れ,株式の法人持ち合いに典型的に見られる取引先の系列化,窓際族という企業内失業,高い品質なのに消費者に対する肝心なところがときに粗雑である点,生産組織を維持するためのダンピング生産と輸出……などなど。

 これら「普通」の資本主義では考えられないのに、日本でおこっている不思議な現象が,山本氏の考え方を使えば、きれいに説明できます。

 じつに画期的な「山本学」の成果ではないでしょうか。

 誤解をまねきやすく、学問的には正確ではないがあえて言えば,社員は「個人」としての独立した存在ではなく,会社という大きな「家」の子供なのです。

 だから,貧乏なら賃金が低くてもあきらめるし,さっさと「よそ」の会社にうつるわけにもいきません。公害などの不祥事をおこした企業の社員の子供が学校でいじめられるのもそうですし,また、役にたたない社員を簡単にクビにするわけにもいかず、いろいろと下世話もみてやらねばなりません。

 日本人は異質なのではなく,自らの論理によって倫理的に動いた結果が現状であり,合理的なだけの、あたりまえの人間なのです。異常でも奇妙でもありません。

 日本の工業製品の品質はじつにすばらしいものがあります。欧米の工業製品を手にするとしばしばその仕上げの悪さに「幻滅」して,「根性」や「魂」がこもっていないと感じることでしょう。

 それはそうでしょう。なにしろ、欧米の会社は「あくまで組織であって、「血が通っていない」。通っているのは「契約」だけである。」と山本氏は指摘しています。

 そして、あたかもキリスト教徒が神につかえるごとく,日本人は会社に忠誠を誓い,本当にまじめな人は殉教までしてしまう……。と、いったらいいすぎでしょうか?

 

「日本的資本主義3」

 山本七平氏は「日本教」の様々な側面を、広い範囲で探求されました。

 この仕事が、キリスト教と日本という現実への興味から始まったことは間違いないところでしょう。それが「日本の資本主義」という経済学、社会学的な部分にまで、発展していったのです。山本氏ご本人にとっても意外な展開となったはずで、これが不思議なことに実に多くの発見につながりました。

 これは、山本氏の日本資本主義の探求の成果のほんの一部でしかありません。

 氏の業績からいえば、資本主義がどうやって日本で独自に誕生しえたかを江戸時代の禅僧鈴木正三や石田梅岩の思想を発掘し、検討することで明らかにしたことのほうが「機能集団が共同体になる」という部分よりも大きいでしょう。

 しかし、この日本独自の利点と欠点を生み出す構造が、日本と欧米の資本主義の間に摩擦を生み出すのであり、日本と諸外国との関係が今後どうなるかを考えるための大きな支点となるのです。

 欠点とは「機能集団が同時に共同体であるという状態は、一歩誤ればそれが、共同体を維持するためにのみ、機能するということである。かつての軍部、国鉄、みなこの顕著な一例である。」山本七平著「日本資本主義の精神」から引用。──と、いうことです。

 機能集団は、はたすべき目的があります。共同体は存続することに目的があります。この共同体の目的が、機能集団のそもそもの目的を上回ってしまったら組織は自らの存続のためだけの存在となります。つまり自らの組織の内部だけの「和」を尊重し、そのためのコスト、負担を組織の「外」に強要して恥じない存在。はっきり言えば、反社会的存在になりかねないというのです。

 戦前の日本軍は組織内部の「自転」によって、「国を守る」本来の使命をないがしろにして日本全体をひきずり、いったんは破滅させてしまいました。これは極端な例でしょうが、ふたたび同じことがおこらない保証はありません。自衛隊が日本全体を牛耳って戦争への道をひらくことは、たぶんないでしょう。しかし別の分野で、おなじメカニズムが働く可能性はあります。日本軍や国鉄の教訓が活かされなければ、歯止めがないのですから、おこって当然でしょうし、事実、小規模な社会問題は、ほぼ無限に発生しています。

 なぜこんなことがおこるのか?。

「山本学」はこの謎を解明するため、まだまだ多くのことを教えてくれるのです。

 山本氏は日本陸軍の少尉としてフィリピンでアメリカ軍と戦っています。氏は自らが所属していた小隊、二十数名のなかの唯一の生存者だそうです。

 どうしても肯定できない日本の一面を体験されたのです。

 日本人は日本人で、もっている伝統は独自のもので、これを無視することはできません。またその伝統が現代の繁栄をささえているのだとすれば、無視する必要はありません。どんな文化も長所と短所があって当然でしょうし、欠点を克服する努力をするのも、これまたあたりまえとしか言いようがありません。

「日本民族が平和に呼吸し、各会社が平和に存続し、各人が平和に生活できることが、当然に「善」と考えている。ということは、本書がその点で、何らかの役に立ってくれない限り、その存在理由もなく、また読む価値もない」と言っています。

 

「日本教の社会学」

 「日本教の社会学」というふしぎな本があります。

 山本七平氏単独の著作ではなく,社会学者の小室直樹さんとの対談の形をとった共著です。

 おもしろいことに「日本教」について,山本氏の本名での著作ではほとんどふれられていません。単独の著作で書名に「日本教」の文字が見えるのは、「日本教について」「日本教徒」の2冊です(多分)。その他には共著でこの「日本教の社会学」があり、ほかに「日本教」に直接まとまって言及しているのは,「日本人とユダヤ人」だけです。

 氏ご自身は、「日本教」について、どんな考え方をもっていたのでしょう?。

 本名での著作に登場しないからには,単なる言葉のアヤのようでもあり、本来の主張ではなかったという推測もできます。一般的にはそのように解釈されているようで、「日本教」という表現は「たとえ話」と受け取られているフシがあります。

ご子息の山本良樹さんとの対話の形式の共著「父と息子の往復書簡」に,良樹さんの筆で氏のこんな発言が収録されています。

「『日本人』は,特定の宗教はないって言われてるけれども,非常に厳格な”受容と排除”の基準があると発見したんだ。非常に強力な根本主義”ファンダメンタリズム”。それが「日本教」という発想の原点だな。」

 「日本教の社会学」。この本の主役というかエンジンは,小室直樹さんです。

 山本氏は助言者の立場にとどまっています。小室さんの手法で,山本氏の思想を体系づけようと試みたのです。山本学「日本教」論の事実上の総括にあたる本なのです。

 その手法とは、キリスト教の構造──つまり神学を逆用して,キリスト教と日本教を対比することで,日本教を分析,体系化,相対化しょうとされたのです。

 キリスト教の教義に対応するのが,『空気』。救済儀礼(洗礼等)にあたるのが「人間,自然,本心」などの概念の再認識。神義論に対応するのが人義論。聖書絶対の原理主義に対応するのが「話し合い」絶対に象徴できる空気絶対主義。という,ちょっと凄すぎて,慣れないと理解しにくいほどの議論が展開されています。

 実際、ここにあげた例は,普通の日本の常識人には,なにがなにやらわからないはずです。

 この本は,欧米の,つまり本場のキリスト教を良く知っている人にはわかりやすい本かもしれません。しかし,日本人のほとんどは「日本教徒」です。日本教の各部分をキリスト教と対比されても,日本教の特徴がつかみにくいのです。「普通の宗教」をよく知らないからです。

 それが,この本がたいして注目されなかった理由ではないかと推測できるのです。

 この本には山本氏のこんな発言があります。

「日本教の神学を論理的に構築する作業に挑んできたわけですが、いまそれを終えた印象を一言でいえば、まことに日本教とは恐るべき呪縛の宗教であると思います。」

実をいうと、このような一片の発言だけを取り上げるのは「空気」の醸成につながって、日本教では非常に危険な手法なのです。これがなぜ危険なのか?

なぜだと思いますか?

 

「レッテル張り」

 朝日新聞は、氏を「新保守主義の論客」と紹介しています。

 氏は『日本教について』の中で、日本の戦争犯罪について、一部が戦前の日本側のジャーナリストによる戦意高揚を目的としたことを主張し、論争を行いました。そしてこの日本側の新聞報道を証拠として、戦後に戦犯処刑された日本軍人の一部は無実ではなかったか、もしそうなら無実の人間を死においやった責任はいったいどうなったのかと批判したのです。その後、氏に不思議な「レッテル」がつきまとうようになります。

 もっとも多いのは「右翼」という表現です。つまり「左翼」から、にらまれたわけです。

 さまざまなメディアにこの非難は登場し、はっきりと「ファシスト」とか「体制側の御用評論家」とまで言われたことがあります。

 朝日新聞は左翼的論調の紙面が多いと言われます。社会主義的とみなされるものは、戦後の長いあいだ多くの新聞では革新とか進歩的と表現されてきました。社会主義について批判を試みることは不可能な「空気」がありました。批判を試みたなら、「平和の敵」とか「右翼」とかのマイナスのレッテルをはられて社会的に抹殺されかねなかったのです。なぜでしょうか?

 さまざまな理由づけができるでしょうが、「山本学」による分析でいうなら、「日本の中心論調であった」という「状況」「空気」が存在したためなのです。

 反対意見はウムをいわさずに封じるため、非難のための非難をしたのです。

 新聞が氏を紹介した新保守主義とはなんでしょうか?辞書に定義はありません。推測で筆をすすめるのは気がひけますが、おそらく新聞記者は「日本の伝統的な文化を新しい立場から擁護する言論人」の意味でこのような造語を作ったのでしょう。ある意味、左翼にとって煙たい存在というニュアンスがある氏が「右翼」と非難されたなごりなのです。

 氏ははっきりと左翼ではありません。では、右翼でしょうか?作家の井沢元彦さんは、『言霊の国 解体新書』という本の中で、右翼というレッテルをはられた山本氏に対する擁護を試みています。井沢さんは山本七平の『現人神の創造者たち』を「尊皇思想克服を目的として、なぜこの思想が生まれたか論理的に分析した本」という趣旨で解説し、これは「右翼」などではなかった証拠である。むしろ天皇絶対主義、つまり右翼の持つ隠された主張にとって、その完全否定につながる、もっとも都合の悪いものであると言っています。

 けっきょく、山本氏は右翼でも左翼でもなかったのです。

 その思想は、山本七平自身の思想だったのです。ではなぜ「右翼」という決めつけが行われて不必要な苦痛が氏にもたらされたのか。

 これは戦前の「軍国主義」絶対の「空気」の中で、言論の自由が圧殺されたのと同じ現象で、「日本教」の弱点の一つです。戦時中ひろく使われた「非国民」という言葉と、山本氏への「右翼」との言葉は、まったく同じ仕組みで作られたのです。

 批判の目的が真実の解明の始まりではなく、ただの悪口でしかないのに効果が絶大……と、いうことが「日本教」の世界では、実によく起きます。

 「誤解」をまねく「言葉」は、それが真実であるかどうかを論理的に評価されないまま、「状況」に直結しやすいのです。 山本学の中心のひとつに、この構造を解明した「空気論」があります。

 「空気」を生み出すもの、それは何だろうか?