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朝吹泰造と母・幾能の子として生まれる。家は寛永年間に苗字帯刀を許可され、兄・謙 三の15代まで大庄屋として続いた。8歳のときに痘瘡にかかり、重症となる。幸運にも 痘瘡は回復したが、顔に痘瘡の後が残り、これが後に様々なエピソードを作ったとい う。 になると実家に復帰する。この頃から、朝吹は養子時代の経験を活かして米穀などの売 買投機を試みるようになる。
時講師をしていた林外の下で勉強する。しばらくすると中津の渡邊重春(渡邊重名の孫) の営む渡邊塾で勉強する。この頃、朝吹は鐵之助から改名して英二と名乗るようにな る。その後、朝吹は白石照山の漢学塾で勉強する。中津に来た頃、朝吹は福沢の親戚増 田宗太郎と知り合い、仲良くなる。これをきっかけに朝吹は増田の影響を受けるように なる。 1869年の春、中津藩主奥平氏の姫君が、四條隆謌という公卿に嫁ぐことになった。こ のとき、藤本箭山が御附役として上阪することになるが、供の者が病気になり帰国す る。朝吹は代わりに自分が行くと家出覚悟で頼み込んで上阪し、藤本箭山の下で働きな がら勉強を続ける。11月に、福沢諭吉が中津にいる母を迎える途中に甥の中上川彦次郎 等を連れて大阪に寄る。そして、船の出るまでの数日間を藤本の家で過ごす。このとき 初めて朝吹は福沢達と対面する。 まだ保守主義であった朝吹は牛肉を食べるなど西洋式の生活習慣をしたり、自分の1 ヵ月半分の給金(1分2朱)で駕籠に乗る福沢や年下にもかかわらず自分を田舎者扱いする 中上川にも嫌悪感を抱く。そんな時、増田宗太朗が大阪の朝吹を訪ねてくる。福沢の様 子を聞いた増田は頭にきて朝吹に福沢暗殺の以来をする。朝吹はその時の様子を1908年 2月の大阪三田会で演説している。(紹介したいが、長文であるので割愛します。長くて も読みたいとリクエストがあれば『朝吹英二君傳』に掲載されている部分を紹介しま す。)朝吹は福澤が緒方洪庵夫人を訪ねた帰りに実行に移そうとするが、太鼓の音がし て気が抜けてしまう。その後は福澤諭吉に説教され思想転換する。増田が慶応義塾に入 るまで、増田は朝吹に絶交状をたたきつけていたという。
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